決意 その1
カスペ海の東、ジョチ・ウルスの都サラエ(注1)ではパトーの葬儀が行われていた。腐敗の進行のため遺体は既に内々に葬られていたが、葬儀には傘下の各部族から大勢が集まっていた。
彼らはもちろんパトーの死を悼んでいたのだが、それ以上の関心事もあった。後継者である。だれが次の汗になるかは部族の浮沈に直結する問題だから、パトーを悼む個人的な感情よりもむしろそちらの方が重要かもしれない。そして誰がこの葬儀の喪主になるのかということは、後継者を占う上で重要な目安となるはずであった。
だが喪主を務めたのは最有力候補と目されていたパトーの長男シロタクではなく、末子相続の慣例に倣って対抗候補と目されているウラグチでもなく、彼らの母でパトーの正妻であるハトゥンだった。それどころか、シロタクに至っては参列すらしていなかったのである。
「これよりジョシ・ウルスは私が監国(注2)となって国難に対処して参ります。どうかお心を安んじて天にお帰り下さい」
追悼の言葉を借りたその発表は、誰一人として予想すらしないものであった。
帰国したシロタクに対する視線は余所余所しいものだった。誰もが彼に敗戦の責任があると思いつつも、多くの者は表立って口にするのは控えていたのだ。それはシロタクが汗に最も近い存在だからであり、ハサールの逆侵攻が予想されるのにまだ幼いウラグチを推戴することが危険だったからである。しかし中には彼を非難する者もいた。次の汗を決める王家の会議でも、公然と彼を批判する者たちがいた。
「何故降伏などしたのです! パトー様が無残に殺されたというのに、あなたはおめおめと生き延びたのか!」
「せめて戦うべきだった! 名誉のためにも復讐戦を挑まれるべきだったとは思いませんか!?」
しかしシロタクは反論しなかった。彼らの主張は尤もだったし、シロタク自身誰よりもその責任を感じていたのだ。だが本人が反論しなくても、彼を支持する者達が黙っていなかった。
「愚か者! 兄上は父上の遺命に従ったのだ! 主命に背いて己の名誉を守ることが忠義なのか? そんな腐った忠義などこのジョシ・ウルスには不要だ。すぐにこの場を立ち去れ!」
最も強く彼を庇ったのは、他ならぬウラグチだった。まだ12歳だが聡明で心根の真っ直ぐな少年である。彼は野心も駆け引きもなく、純粋に兄であるシロタクを思って庇っているのだ。だが、その弟の純真さこそがシロタクの心を最も強く責め立てた。
――違うんだ。父上は俺の失敗のせいで亡くなったのだ。そして父上のおかげで俺だけがおめおめと生き残った。俺には汗を継ぐ資格がない。何より俺が汗では、父上のように国を一つにまとめられないのだ!
パトーの死があと10年、いや5年遅ければ、このままウラグチに汗の地位を譲っても良かったかもしれない。だが今はハサールの逆侵攻を防がねばならない。ウラグチでは経験が足りず、シロタクでは国をまとめられない。シロタクは今すぐにでも汚名を雪ぐ必要があった。
「俺は……今の俺は、まだ汗の地位に就くことが出来ない」
「兄上っ!?」
声を上げたのはウラグチだったが、他の者達も皆驚いてシロタクを見た。
「私にも、他の兄上たちにも無理です! シロタク兄上でなくては!」
「俺も即位を諦めた訳ではない。だが、今のままではその地位に就けないと言っているのだ。俺がそれに相応しい男になるまで、国は……母上にお預けしたい」
シロタクの意外な提案に誰もが唖然とした。
「わ、わたしに?」
良く言えば身を弁えていた、悪く言えば正妻の座にあぐらを掻いていたハトゥンは、突然自分の名が上がったことに慌てていた。シロタクもウラグチも彼女の可愛い息子だから、両者から一歩身を引いて会議の成り行きを見守っていたのだ。
「はい。監国として国政を取り仕切って下さい」
監国というのはジョチ・ウルスにとっては鬼門であった。先代大汗の即位の際にも当代大汗の即位の際にも皇后が監国となって国政を壟断し、パトーと対立してきたのである。
「でも、監国というのは……」
「母上なら大丈夫です。そもそも私にせよウラグチにせよ母上の子なのですから」
「それは……そうですけど……」
シロタクの主張には確かに筋が通っていた。かつて問題が起こったのは、監国となった皇后が自分の息子を無理やり大汗にしようとしたのが原因なのだ。
「でも、私にはあの人のように政を行うことは出来ません」
「それは誰にも出来ません。今の私にも無理です。ですから王家が一丸となって母上を支えるのです! ウラグチ、お前も母上をお支えするんだ」
「わ、私もですかっ!?」
「これはお前にとっても良い機会だ。お前が経験を積み、功績を上げ、人望を得れば、お前が汗になれば良い」
まるでそれを望んでいるかのような口ぶりに、シロタクを支持する者もウラグチを支持する者も一斉に息を呑んだ。シロタクを支持する者は、彼の翻意を促そうと反論を試みた。
「し、しかし、監国はクリルタイで選出する必要のある大汗の地位を代行するものです。我らジョシ・ウルスの汗は当代の大汗であるモンキ様に認めて頂けば済むもの。今こうして話し合っているのも、我々の意志としてモンキ大汗にどなたを推薦するのかという意味しかございません」
「なればこそ、そのようにモンキ大汗に申し上げれば良い。そこは大汗が判断されよう」
シロタクはそう言ったが、おそらくモンキ大汗はジョシ・ウルスの意志を尊重するだろう。それは誰の目にも明らかだった。彼が大汗に即位できたのは、何よりもパトーの尽力によるものが大きかったのだから。(注3)
「なるほど、お話は分かりました。しかし御自分が汗に相応しくないとお考えなら、ウラグチ様に継いで頂いてはいかがですか? その上でシロタク様が補佐なさればよろしいでしょう」
今度はウラグチの支持者がさり気なく辞退を求めたが、シロタクは首を振った。
「先程も言ったが、俺は汗になることを諦めた訳じゃない。俺は汗に相応しい男になって戻って来る」
「戻って……? まさかモンキ大汗の元に行かれるのですか? あなたは先程、王家が一丸となると仰ったではないですか!」
シロタクは皮肉げに口の端を吊り上げた。
「何を勘違いしている? 俺が赴く先はフレグ汗の元だ。叔父上に働きかけてドルクへの侵攻を早めるのだよ!」
「……何ですと?」
「ドルクはハサールの縁続き、ドルク皇帝の妻はハサール人だ。ドルクが襲われればハサール軍はそちらに掛かり切りとなるだろう。我らの国は安泰だ」
「「「…………!」」」
シロタクの言葉に皆は驚愕した。国の安全を確保するために敢えて攻勢に出ようと言うのだ。しかも他王家の戦いを利用して! だが、彼の思惑はそれだけに留まらなかった。
「それに、あわよくばドルクでハサール軍を壊滅させることも出来るかもしれん。そうなれば今度こそハサールを征服できる。易々とな!」
不敵に微笑む兄の姿にウラグチは目をキラキラと輝かせ、他の者達は黙って頭を垂れた。誰も気づかぬままにシロタクは別人になっていたのだ。出征前の彼は、いや、父の死を知る前の彼はこれほど大局的な見地など持っていなかったというのに。苦難が彼を成長させたというのなら、ドルクを滅ぼした後にはどれほどの英雄となっていることだろうか? ……まあ、彼にはニルファルに復讐したいというものすご~く個人的で卑小な目的もあったのだけど。
「さすがは兄上、深いお考えに感服しました! 留守は私と母上にお任せ下さい! 本当は私もお伴したいところですが、初陣も済まぬ私は足手まといになるでしょう。せめて歴戦の精鋭たちをお連れ下さい!」
「いや、国を守るには軍が必要だ。末子相続の慣例に習い、父上の軍はお前が相続するべきだろう」
「え? でも、兄上はどうなさるのですか? プラグ叔父様の軍勢は今や100万に届く勢いだそうです。援軍を出すなら10万は連れて行かないと」
「俺直轄の5つの千戸だけでいい。多くの兵を持つからこそ、プラグ叔父は援軍など必要とはすまい。あまり多くを連れて行けば、恩賞を惜しんで喜ぶまいよ。
だから俺は放逐されたことにしてくれ。ジョシ・ウルスの代表ではなく、返り咲きを狙って手柄を欲しがっている若造だということにな。そうすれば便利に使えると思って前線に出して下さるだろう。……まあ、それも強ち嘘ではないのだがな」
自嘲する兄とそんな彼を憧れるように見上げる弟を見て、ハトゥンは満足気に目を細めた。
――あなた、私たちはきっと大丈夫ですわ。この子たちがいるのですから
シロタクはパトーの葬儀を待たずに南へと去った。彼が出席しないことで参列者の誰もがシロタクは後継者候補から外されたのだと思うことだろう。そうなれば十中八九次の汗はウラグチとなる。だがそのウラグチ当人を含めた王族たちの心の中には、既にシロタクが君臨しつつあった。
注1 サラエ=サライです。サライはジョチ・ウルスの都としてバトゥが作った街で、最盛期には人口60万にまで増えます。キプチャク平原のド真ん中ですから、これは大した規模です。
ただしホントのサライはカスピ海の北西にあって、作中だともろにハサール領です。
しかしバトゥはヨーロッパ遠征の帰りに作った訳ですから、ハサール征服に失敗したパトーならカスピ海の東に都を作っても不思議ではないはず。
あれ? でもパトーは死んでるし、そもそも前からあったことになってるし……
深く考えないでおきましょう!
注2 監国とは摂政みたいなものです。モンゴル帝国では大汗が死んで次の大汗が選出されるまで皇族の誰かが監国になって政務を代行しました。
例えばチンギスハンが死んだ時は(正妻の子としては)末っ子のトルイが監国になりました。
末子相続が基本だったので、彼は父から101の千戸と財産を相続します。チンギスハンが言い残した政治上の跡継ぎは次男のオゴタイ兄ちゃんでしたが、彼が分家した時に貰ったのは千戸はたったの4つ……
そのころトルイもとっくに成人していて、しかも武功を上げていました。富と軍と権力を握ったのです! しかも功績もあり、人望もありました! そしてまだ若い! 完璧です!
でも彼は自分を推薦する意見を固辞し、オゴタイ兄ちゃんを支持します。そして即位したオゴタイに軍勢の大部分も譲ってしまうのです。
しかしオゴタイが死んだ時は最悪でした。息子ではなく皇后のドレゲネが監国になったのです。
しかもこのドレゲネさん、実は第6夫人に過ぎません。上位の夫人たちがポクポク死んじゃったので棚ぼた式に監国になちゃったのです。
脇役のおばちゃんがいきなり世界帝国(になりかけ)の最高権力者! おばちゃん、野心に目覚めます。
オゴタイ自身は生前、第一夫人との孫にあたるシレムンを推していたのですが、おばちゃんはもちろん自分の子供であるグユクを推しました。
なんたってグユク君はオゴタイの長男だったのです。まあ、長男を産んだのに第6夫人ってところが、彼女のバックボーンの弱さを物語ってますが……
ちなみにこのグユク、ヨーロッパ遠征中に総司令官のバトゥを面罵してオゴタイ父ちゃんに呼び戻されて怒られています。ボンクラっすね。
彼女は5年間にも渡って監国として国政を壟断し、様々な工作や依怙贔屓をして、なんとかグユクをオゴタイ家の当主に祭り上げ、さらには第3代大汗にも据えます。グユクと因縁のあるバトゥは仮病(?)でクリルタイを欠席しましたが。まあ、そのグユクもたったの1年半で死んじゃうんですけどね。
しかし前回のグダグダのせいでオゴタイ家の信望は失墜しちゃっていて、グユクの皇后が監国になっても誰もクリルタイに来てくれませんでした。
そこでバトゥが従兄弟に当たるトルイ家のモンケを推薦して勝手にクリルタイを招集すると、ワラワラとみんなが集まってきてなし崩し的にモンケが即位します。
まあ、オゴタイ家の自業自得ってところでしょうか。大人しくシレムンが継いでいれば良かったのに。
こういうゴタゴタに懲りたのか、それとも中国式に染まったのか、元朝では皇太子制度が確立して監国制度は廃れていきます。
注3 注2をお読み下さい
注4 フレグの中東遠征にはジョチ・ウルスからも大勢の王族を援軍として送ってます。一応大モンゴルの統一事業として行われてましたしね。
バトゥのヨーロッパ遠征にオゴタイ家のグユク(第3代大汗)やトルイ家のモンケ(第4代大汗)が参加していたのと同じです。
ただし中東遠征場合、末期には互いの対立が深まって戦争(というか内戦?)にまで発展してしまいますが……




