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太陽の姫と黄金の魔女  作者: 桶屋惣八
第8章 ムスリカ編
257/354

ボス川の戦い その3

うーん、終わらない

 地理を知り尽くしたハサール軍は全ての渡河点に広く兵力を分散して配置していたが、夜半にはその大半が篝火や天幕を置いたまま密かに河口付近へと移動していた。最も狭いところでも100mはある川挟んでいるのだからモンゴーラ軍には知る由もない。だが灯りをつけることも許されずに暗闇の中でただただ待ち続けるのはなかなか辛いものだ。しかも戦いを前にしているのだから尚更だった。明け方近くになって敵陣の中に巨大な火柱を見た時には、畏れとも安堵ともつかない溜息が一斉に洩れた。

「あれはパエターンの炎……! 上陸は無事に終わったようだな。

 伝令、あれはプレセンティナ軍の攻撃だと兵たちに教えてやれ」

「は、はあ」

 そんな事を伝えれば当然どんな兵器なのかと聞かれるところだが、それに対する解説はなく、伝令は困り顔で走っていった。だが仕方のないことだ。バイラムもよく知らなかったから。

 やがて海の方に一つの小さな灯りが浮かんだ。浮き橋を作るプレセンティナ海軍の船である。バイラムは敵に見つかるのではないかとヒヤヒヤしたが、プレセンティナの連絡員が川岸に駆け寄ると船にだけ見えるように目隠しをしたランタンで合図を送り始めた。船の方も同じようにしているのだろう。

 敵陣では更に何度も火柱が上がり火事も起きているようで、薄ぼんやりと明るくなった。悲鳴や雄叫びまでは聞こえなかったが、何やら騒ぎになっていることは明らかである。ひょっとしてルキウスが自分たちだけでモンゴーラ軍を倒すつもりなのではないかとバイラムがやきもきし始めた時、ガガガガッと意外に大きな音を立てて平たい箱が川岸に乗り上げた。

「これが……船?」

 船に詳しくないバイラムにもそれが尋常の船でないことは分かった。平たいこともそうだが、異様に細長い。さらにはバタンと箱の一面が倒れてぞろぞろと水兵たちが降りてくるとハサール人達は唖然とした。

「しばらくお待ち下さい。予想では連結に20~30分かかりますから」(タイトン語)

「うむ、まあ、なんだ。よろし、く、頼む」(タイトン語)

水兵たちは錨を下ろしたり杭を打って船を固定すると後続の船と次々に連結していった。(あかつき)の中で浮き橋が完成すると、対岸まで連なる橋の全貌が明らかになった。壮観である。でもチャプチャプと水に揺れているのがどうにも不安を誘った。

「完成です。どうぞ渡っちゃって下さい」(タイトン語)

「……大、丈夫、なのか?」(タイトン語)

「さっきはキメイラが渡りましたよ。キメイラより軽いんだから大丈夫じゃないですか?」(タイトン語)

尤もな話だ。ディオニソスの重装騎兵もこれに乗って海を渡ったのに、ハサール騎兵が渡れないはずがない。バイラムは大きく頷くとハサール兵たちに大声で呼びかけた。

「遂に時は来た! ブラヌ可汗(かがん)の無念を晴らし、これまでに死んでいった者達の仇を討つのだ! 行け、ハサールの勇者たちよ!」

「「「ふぅぅうぅるあぁぁぁぁ!」」」

 ハサール軍が猛然と川を渡り始めると、騒ぎを聞きつけて浮き橋に気付いたモンゴーラ兵が上流から三々五々に慌てて駆けて来た。だがわずか200mあまりの橋を渡り切るのには間に合わず、ハサール軍は怒涛の勢いで彼らをあっという間に飲み込んだ。そして止める間もなく支流を遡るように次の獲物に向けて駆け出して行った。

「……大丈夫だったでしょ?」(タイトン語)

「ち、ちがう! 橋が、不安、で、先、行かせた、ちがう!」(タイトン語)

バイラムは慌てて言い訳したが、周りのハサール人たちはタイトン語が分からなかったのでそのやり取りの内容はバレずに済んだ。

 そこにカッター(小舟)に乗って作業していたはずの第二方舟艦隊指揮官もやって来た。

「すいません、デキムス将軍の方は渡河に失敗したそうです。こういう場合敵の退路を塞ぐ手はずになっていますが、正面はハサール軍が頼りです」(タイトン語)

「そう、か! ワシ、も、頑ば、ら、ない、とな! うん!」(タイトン語)

バイラムはどこか言い訳がましくそう言うと、側周りの者達を連れて橋を渡る行列に割り込んだ。

――あれ? そういえばさっきの士官はどうやってデキムスと連絡を取ったんだ?

彼は今更ながらに疑問を抱いたが、橋の途中で止まる訳にもいかずそのまま戦いの渦の中へと身を投じていった。



 一方デキムスの渡河を防いだパトー達は浮かれていた。まさしくギリギリの所で窮地を脱したのだ。まだ10台の鉄馬車が残っていたが、それくらいなら先ほどのようにその懐に飛び込むことも不可能ではないだろう。

(カン)! あの馬車は後ろに馬がいます!」

「何? 後ろからは馬が見えるのか?」

「はい、丸見えです! 馬さえやってしまえば!」

だが鉄馬車の方も撤退するつもりなのか、残った方舟に乗り込もうとしていた。

――力攻めをするか? しかしたった10台の鉄馬車に対してあまりにも多くの兵を失ってしまった。弱点が分かってもあの攻撃力は侮れん。それに……船に載せてしまえば、こちらにあの矢を放つことは出来なさそうだ

四方の板が邪魔になってこちらの攻撃も防がれてしまうが、鉄馬車も反撃できなくなる。もともと鉄馬車に矢は効かないのだから悪いことではない。ここまで方舟に近づいているのだから、松明を投げ込んでやるというという手もあった。

「後は少数の鉄馬車だ! だが方舟に乗り込むまで手を出すな! 船に乗ればあちらからの反撃も無い! 松明を投げ込んでやれ!」

松明は火矢よりも遥かに消しにくいから、鉄馬車の方に延焼してくれる可能性もある。筏なら丸太を束ねる縄を焼き切るかもしれない。まあ、筏じゃないから縄どころか丸太も使ってないんだけど、それはパトーには知る由もないことだった。

 鉄馬車が方舟に乗り込む間は遠巻きに水兵たちと緩慢な矢戦(やいくさ)を続け、いざ渡り板がパタンと閉じられると猛然と近寄って次々に松明を投げ込み始めた。

「投げ込め! どんどん投げ込め!」

 あたりは既に対岸が十分に見える程に明るくなっていたから遠慮はなかった。方舟の方は水兵だけでなくキメイラの搭乗員まで総出で松明を消し、あるいは外に投げ返したが、あまりに数が多くて手が足りなかった。船外に対する攻撃が完全に止むと、モンゴーラ兵たちは方舟にとりついてその側面の板を破壊しようとガツンガツンと刀を打ち付け始めた。

「まずい! 牽制しないと破られる!」

「しかし、このままでは焼けてしまうぞ!」

「まったく! ハサール軍は何をしてるんだ!」

だがその時、水兵達の差し迫った悲鳴が聞こえたかのように、北の空に「うーあー」というくぐもった雄叫びが轟き渡った。


 パトーはその雄叫びを聞いてはっと北を振り向いた。ハサール軍の渡河は想定していたことだが、鉄馬車を葬る好機を目前にしてすっかり頭から抜け落ちていた。明るくなったということは渡河もしやすくなったということでもある。発見も容易だから渡河についてはあまり望ましいことではないが、その後の戦闘では明るい方が数の差がはっきりと出やすい。この地の地理に詳しいことで渡河自体に自信を持っているのなら、夜明けとともに攻撃に移る可能性は十分にあった。

――惜しい! あと少しではあるが……この10台を屠っても大勢に影響はない。それどころか中の島には鉄馬車に占拠されているのだ。ハサール軍に渡河されてしまえば、上流側から川を越えて撤退しなくてはならん! それに、こいつらはこのまま

つまりこのままここに留まれば、パトー達の方が包囲殲滅されかねない状況なのだ。それにこの方舟は、放っておいても中の島へと撤退するだろう。

「くっ、止むを得ん! 前線に戻れ! ハサール軍への対処を優先するぞ!」

パトーは再びハサール軍と対峙する支流に向かって移動を始めた。


 当初5千騎いたはずの彼らは、内1千騎が筏を破壊するため中の島へと渡り、さらに残りの半数が死傷していた。一時間に満たない局地戦ではあり得ない損害である。もっとも意外に死者は少なく、軽傷者が多かった。最も被害を受けたのが浮き橋の完成を阻止しようと川に浸かっていた時だったから、多くの矢が川の水を通して当たっていたのだ。もともと矢羽もなくて鏃の重みだけで向きを安定させている残念な矢だから、水面に当たった時に弾かれたり、水をくぐり抜ける時にその速度を大きく損じていた。そのため矢が深く刺さらずに軽傷で済んだのである。まあ、その傷を不衛生な水に付けることになったので後々感染症にかかる可能性はあるけど。だがいずれにしても鉄馬車がまた戻ってこないとも限らないので、パトーは軽傷者をその場において敵を監視・牽制しつつ重傷者の後送と再編成を命じたのだった。

――わずか2千か……。半分以下に減ってしまったではないか。だが渡河中の敵に対しては一方的に攻撃できるから2千でも5千の価値があるはずだ!

しかし前線に近づくにつれおかしなことに気付いた。やたらと人数が多いのだ。

――まさか……もう橋頭堡を確保されたのかっ!?

橋頭堡を確保されてしまったら、敵は安全にこちら岸に渡ってこれる。時が経てば経つほど敵の勢力が増し、こちらはジリ貧になるのだ。

――どうする? 撤退して次の支流で防衛線を張るか? しかし今なら再び橋頭堡を奪い返せるかもしれん……

パトーは束の間迷ったが、それを判断するのに重要な知らせが行手から飛び込んできた。

(カン)、大変です! ハサール軍に川を渡られました!」

「分かっている! 既に渡り終えたのはどれくらいだ? 500か? 1000か?」

「5千は下りません!」

「何だとっ!?」

 魚でもない人間や馬にとって川の中を進むのは大変なことだ。たかだか200mの事でも10分以上かかるし、大勢で隊列を組めるほど幅もなければ平坦でもない。そこを僅かな時間で5千騎が渡るなど一箇所では不可能だ。複数箇所で同時並行的に渡河しないことにはあり得ない。

「何箇所だ! 渡河点は何箇所破られたんだっ!?」

「渡河点は破られていません! 浮き橋を架けられたんです!」

「…………!」

パトーは衝撃のあまり一瞬息を忘れた。なるほど浮き橋を作ったのならそれくらい効率的でも不思議ではない。しかも誰も守備に付いていなかった所なのだから尚更だ。

――初めからか? やつらは初めからこのつもりで、我らの注意を中の島へと引きつけていたのかっ!? 10台の鉄馬車も初めから撤退するつもりでその準備をしていたというのかっ!

 敵将の思惑通りに動かされていたと悟ってパトーは唇を噛み締めた。浮かれていたつい先程の自分自身を殴りつけたい気分だ。まあ本当のところは、デキムスも渡る気まんまんだったのに失敗しちゃったんだけど。

「どうなさいますか……?」

パトーは一瞬迷った。敵はまだ5千と少ないが、時が経てば4万全てが渡り切るだろう。しかし渡河点の守備についているモンゴーラ軍は2万5千ほどだ。更に最悪なことに各渡河点に分散配置していた。

「止むを得ん、撤退だ! 次の支流に下がって防衛線を張るぞ! ただし中の島は既に敵に奪われた。上流部分を通って南東の島に移れと伝えろ!」

「はっ!」

「軽傷者の方にも同様の使いを送れ。今更鉄馬車に渡られた所で意味は無い!」

「はっ! それで、(カン)は?」

「ワシは……」

 パトーは付き従う兵士たちを振り返った。近くにいて報告を聞いてしまった者は衝撃を受けていたが、戦意を喪失した訳でも疲れ果てて動けないということもなかった。

――敵はまだ5000。問題はこちらの兵が分散していることだが、ここには2000の兵がいる。僅か2000に過ぎないが、今なら侮れない数だ。横合いから攻撃を加えれば味方への追撃を弱めることが出来るはず……!

パトーには自ら危地に飛び込む趣味など毛頭なかったが、ここで追撃を防げるかどうかは大きな違いがあった。追撃を受け、敵味方が一緒くたになって支流を渡ることになれば、次の防衛線が機能しなくなる。そのままぐずぐずと敗退することになって、この侵攻自体も大失敗に終わることとなるだろう。シロタクの遠征部隊も異郷の地に無為に屍を晒すことになる。

――いや、認めよう。この侵攻計画は失敗だ。だがジョシ・ウルスの命脈まで断たせる訳にはいかん! 敗退ではなく講和という形で幕を閉じなくてはならんのだ!

そのために彼自身が危険に身を晒す必要があるのなら、それを拒む理由はなかった。

「ハサール軍が渡河した! 我らはこれより敵に横槍を入れる! 殿(しんがり)となって味方が次の防衛線を築く時間を稼ぐのだ!」

「「「ふぅぅうぅらぁあぁぁ!」」」

パトーたちは勢いに乗るハサール軍に向かってずぶ濡れのまま一斉に駆け出した。



 その頃キメイラ第二大隊は戦場の端っこで地味ぃ~に活動していた。別に目立たないようにしようなどと思っていた訳ではなく、敵が斥候くらいしかいなかったのだ。何しろ彼らが上陸したのは三角州の南、つまり戦場である河口地帯の外である。モンゴーラ軍にとっては次の次の防衛線であって、最初から予備兵力を置いておくほどの価値はなかったのだ。

「誰もいませんねぇ」

「斥候がいたろ?」

「……構ってくれる者は誰もいませんねぇ」

「そうだなぁ」

 プレセンティナ人的な感覚では、次の次の防衛線というよりも最終防衛線と捉えるところだ。当然強固な防衛線を築くためにえんやこらと土木作業に勤しんでいるところだろう。しかしモンゴーラ人は土塁すら築くことなく、ただ川という要害を利用するつもりだったようだ。この場所を占拠してモンゴーラ軍の退路を塞ぐことが彼らの役目だったが、今のところその戦力は明らかに過剰である。彼らを見かけた斥候たちは慌てて支流を渡って中の島――つまりはデキムスたちの居る方へ行っちゃったり、あるいは火柱が上がっているのを見てぐるっと大回りしてパトーの所――パトーがいるはずの本陣へと向かって馬を駆けさせていた。追った所で追いつけないので彼らはただただ見逃すばかりだった。バレたらバレたで足止めになるし、彼らは積極的にすることが何も無かったのである。


『第二大隊、第二大隊、こちらデキムス。そちらの様子はどうだ? ドウゾ』

「こちら第二大隊。敵がいません。そっちばっかり派手にやらかして、いったいどういうことですか? ドウゾ」

『敵が少ないなんて文句を垂れるな! それ以外に問題はないか? ドウゾ』

「敵も足りませんが予備調査も足りません。ご親切にもモンゴーラ軍は渡河点に目印を付けてくれていましたよ、我々も知らない所にすら! こりゃ奢りのお酒も足りませんね、ドウゾ」

『俺が知るか! ハサール人も把握してなかった渡河点を俺が知ってる訳無いだろ! ドウゾ!』

 ここはもちろんハサールの土地ではあるが、彼らは別にここで戦いをしようなんて考えたことはなかった。彼らが渡河点を把握していたのは、遊牧などの移動の際に渡る(◆◆)からである。敵を渡らせない(◆◆◆◆◆)ために調べたことなどなかったのだ。自分が渡る場合「1ミルム上流に行けばもっと浅い場所がある」と知っていれば無理して深いところを渡る必要もない。だから深い方は渡河点とは認識しないのだ。だが敵の裏をかいて渡河するのなら、そういう場所も有効だった。どちらが正確に調査したかと言う問題ではなく、その調査の目的によって渡河点と認識される基準そのものが違っていたのだ。

「しかし戦力を置かない訳にはいきませんし、そうなれば小隊の数も足りません。2両と3両に分ける必要がありますよ、ドウゾ」

本来この役割は2個大隊を使って行うはずだったのだが、ルキウスが1個大隊連れて行ったことで手薄になっていたのだ。更に想定よりも渡河点が多いとなると、もはやそうせざるを得なかった。だがデキムスは思いがけない強さで否定した。

『それだけはダメだっ!』

 陸続きなら救援を向かわせることもできるが、せめて5両いないとそれまで持ち堪えることが出来ない。包囲下で互いの死角をカバーすることが出来ないのだ。その最小限界が5両一個小隊だった。逆に彼らは小隊単位での編隊行動を叩きこまれているから、小隊でまとめておけば10万の兵に囲まれても10や20分くらいは持ち堪えることが出来る。デキムスは彼らをそう鍛え上げていた。

『お前たちを失うくらいなら敵を逃したほうがまだマシだ! ドウゾ』

 彼は先ほど10両のキメイラが敵中に孤立したことで肝を冷やしていた。イゾルテの天使のような愛情と悪魔のような冷酷さを間近で見てきた彼は、むざむざ兵を失うことを心から恐れていた。もちろんそんなことになっても、天使のようなイゾルテはきっと彼の命は取らないだろう。でも悪魔のようなイゾルテは彼を殺すのだ。……経済的に。あるいは社会的に。

 上官の強い口ぶりに、大隊長は感激して顔を紅潮させた。

「光栄であります! ……しかし小官には既に決まった相手がおりまして、将軍の愛を受け入れることは出来ません。申し訳ありません! ドウゾ」

『……何の話だ? そうじゃなくて、決して小隊未満に分割してはならんと言ってるんだ!

 我々はこれより南東の島に渡り、上流方向へと進軍する。だからお前たちも上流の半分を固めるだけで構わん。分かったな? ドウゾ』

「小官のためにそこまで……。分かりました! 将軍の愛を受け入れ、ご命令に従います! 通信終わり、ドウゾ」

『だから! ……まあ、いい。兎に角上流部分を固めろ。通信終了。はぁ』

デキムスの疲れたような溜息を聞いて大隊長がニヤニヤとしていると、その一方で周りの者達はドン引きしていた。

「大隊長……そういう趣味が?」

「おいおい、よしてくれ。冗談だよ」

「そ、そうですよね! いやー、びっくりした!」

「はっはっは、当たり前だろ? 俺は1人の男には縛られないんだよ」

「はっはっは……え? じょ、冗談……ですよね?」

「ああ、冗談だぞ? それより伝令を出せ。下流の渡河点に置いてきた連中を上流まで移動させるんだ。こっちは冗談じゃないぞ?」

「え、ええ。分かりました……」

キメイラの中は俄に張り詰めた緊張感が漂い始めていた。百戦錬磨の彼らは戦闘が近いことを肌で感じているのだ。……たぶん。



 ハサール軍は浮き橋が架かると続々と渡河を終え、迎え撃とうとするモンゴーラ軍に襲いかかった。モンゴーラ軍の方もおっとり刀で慌てて飛び出してきただけだから、どちらも隊列がぐちゃぐちゃで数も揃っていなかった。だが続々と後続が到着するハサール軍に比べ、モンゴーラ軍のは500騎ほどで打ち止めだった。最寄りの渡河点を守っていたのがそれだけしかいなかったのだ。

 1:1だった比率はあっという間に2:1になり4:1になり8:1になった。もはや逃げることも叶わず全員の息の根が止められたが、ハサール軍はそれも待たずに更に上流へと駆け出していた。次に迫ってきたモンゴーラ軍はいくつかの渡河点の守備隊を糾合して2千ほどになっていたが、ハサール軍の方は既に6千騎あまりが渡河を終えていた。

 射程の長い矢戦(やいくさ)は数の多寡が技量の優劣をも上回る。モンゴーラ軍は混戦に持ち込んで斬り合うしか道がなかったが、接近するまでの数射であっさりと4割ほどを失っていた。それは対峙した時から分かっていたことだったが、それでも突入したのは味方のために時間を稼ぐためだった。

「食らいつけ! 一分、一秒でも長く敵を押し止めろ! パトー様がなんとかしてくださる!」

 とっさにそのような悲壮な覚悟を決めることが出来るのは、ここで死んでもパトーならきっと家族に報いてくれるという信頼と、ハサール軍を先に行かせた場合に起こる損害の大きさを想像するだけの戦術眼のおかげだ。広い草原の中で独立行動を迫られる彼らは、個でありながら衆であり、衆でありながら個として考える習性が自然に身についていた。だからこそ彼らは剽悍なのだ。だがハサール人もそうなのだから彼らの剽悍さは救いにならなかった。

 しかし矢戦(やいくさ)の被害を抑える方法はもう一つあった。相手が予期していない方向から攻めこむことだ。

「食らいつけぇぇえ!」

「「「ふぅぅうぅらぁあぁぁ!」」」

パトーの一隊が横合いから突入してくると、てっきりモンゴーラ軍は支流に沿って布陣していると思っていたハサール軍は完全な対応が出来なかった。既に混戦になっていたことで直接パトー達が見えない者達は矢を放つことが出来ず、その数が著しく少なかったのだ。しかし直接目視できた者達の矢だけでも100騎近い被害が出て、しかもパトーたちは同士討ちを嫌って矢を射ることが出来なかった。プラスマイナスで考えれば明らかにマイナスだ。しかし、残り1900の騎兵を白兵戦に投入出来たことで、先に戦っていた者達の生き残りも息を吹き返した。たったの100騎あまり、パトー達と合わせても2000騎ほどにしかならなかったのだが。

「接近してしまえば返って矢が射れるぞ! 山なりに適当に放てばいい! 誰かに当たるぞ!」

「そりゃあいい! 大将に当たったのは俺の矢ですよ!」

「馬鹿もん! お前はさっきから刀しか握っとらんだろうが!」

「「「ははははははっ!」」」

絶望的な状況でもパトーがいることで彼らの心は折れなかった。だが多勢に無勢、心の代わりに腕を折られ首を断ち切られて、モンゴーラ軍は次第に追いつめられていった。もはや逃げることは不可能に近い。

「もはやこれまでか……」

毅然としていたパトーが弱音を漏らすと、側にいた武将が涙を流した。彼は先に小勢で戦いを挑んていた部隊の指揮官だった。パトーを巻き込んだことに責任を感じていたのだ。

「元はといえば、我らの窮地を救うために駆けつけてくださったのです。パトー様は何としても逃れてください!」

「うん? そのつもりだが?」

(カン)のためならこの命など……え?」」

彼がきょとんとするのを尻目に、パトーは叫んだ。

「撤退だ! 最後に一発お見舞いしてやれ!」

するとそれが合図だったかのように戦場のあちこちからもくもくと白い煙が湧き上がった。煙幕である。混戦だから敵も味方も共に煙にまかれてゴホゴホと咳込んだ。咳き込みながらも走り去るモンゴーラ軍に対して、しかしてハサール軍は追撃を躊躇(とまど)った。トラウマのせいだ。

 最初の会戦では煙幕の中を追撃したせいで罠にハマって大損害を受けてしまった。ブラヌが死んだのもそのせいだ。その記憶が生々しく残っていたからこそ、彼らの心に湧いた疑問を拭うことが出来なかったのだ。本当にこの先に罠はないのか、と。迷いを抱いた兵ほど弱い者はない。

「ちっ! またしても煙幕か……!」

バイラムは唇を噛んだ。ブラヌの復讐戦だというのに、彼の死んだ戦いの幻影に惑わされるとは皮肉なことだ。しかし敵は3万近いはずで、浮き橋を渡ったハサール軍も3万あまりだった。煙の向こうに全軍が集結していたら返ってハサール軍が不利になる。

「渡河点に残った者達に川を渡らせよ! 我らは煙幕を迂回する!」

渡河点には分散して1万あまりの兵を残してあった。あべこべな話だがプレセンティナ軍に慌てたモンゴーラ軍が、川を渡って北西に逃げ出す可能性があったからだ。その時渡河点が空っぽだったら目も当てられないだろう。

 しかし彼らがぐるりと煙を回り込んだ時には、パトーたちの影も形も無かった。ハサール軍は渡河してきた部隊と合流し、上流部分から南東の島に向けて移動を始めた。急がず、ゆっくりと。既にモンゴーラ軍は籠の鳥なのだから。

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