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太陽の姫と黄金の魔女  作者: 桶屋惣八
第8章 ムスリカ編
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挟撃 その6

 ニルファルが目を覚ました時、朦朧とする頭は視界の焦点を合わせるのに軽く10呼吸はかかった。自分がベッドに寝かされていることに気づくのに更に10呼吸、そして自分が縛られていることに気づくのにも10呼吸ほどかかった。鎧こそ脱がされていたが服は脱がされていなかった。正確には胸元が少し開けられていたが、胸を押さえるためにきつく巻いていた布は無事だった。

――いったい何が……? この縛り方はエフメトのやり方じゃないし……

彼女は記憶が混乱していて自分の置かれた状況がなかなか分からなかった。頭が混乱しているのにエフメト流の縛り方でないと判断出来たのは、きっと体が覚えていたからだろう。

「気付いたヨウだナ?」

少々怪しい発音のハサール語を聞いてそちらに顔を向けると、一人の壮年の男が立っていた。シロタクである。もちろんニルファルは初めて会ったのだが、彼の草原の民の物だが明らかにハサール人のものではない装いから彼がモンゴーラ人であることが分かった。まあ、他の民族にはなかなか分かり辛い違いなんだけど。

「そうか、私は落馬して気を失っているうちに囚われたのか……」

網に引っかかって落馬したことを彼女はようやく思い出した。

「じゃあ……戦いは?」

「戦いハ、すぐ終ワル。今夜ノ内に回廊ヲ抜けルダろう」

勝ち誇った男の言葉に、しかしニルファルは安堵の溜息を吐いた。

「良かった……」

既に天幕の外は暗くなっているようだったが、夜にまで攻撃を仕掛けるということは相当に強硬な攻勢と見ていいだろう。そして回廊を突破して盆地に入れば数が多い方が圧倒的に有利になる。また回廊に押し戻されないためには、相当数の後詰が回廊南部にまで到着しているということだろう。明け方までに突破できる見込みなら、恐らくは既に全軍が回廊内に入っていると見て良いはずだ。ノボロウシスクに残しておく意味が無いのだから。

 だがそれがニルファルの思惑通りだったとしても、モンゴーラ軍からしてみれば彼女が喜ぶ理由が分からなかった。

「……ドウして喜ブ?」

「え? ええっと……まだ、負けてなくて良かったナー。きっと兄さまなら守り切るハズだシー」

慌てて誤魔化したため声音が怪しかったが、シロタクの方も微妙な機微を発音から読み取れるほどハサール語を聞き慣れていなかった。

 パトーの基本方針が全ての草原の民を恭順させてモンゴーラに取り込むことであるため、シロタクもこれまでに草原諸族の姫たちを妻にしていた。その中にはハサール語に近い言葉を話す者も多く、自然と彼もその言葉を覚えていたのだ。つまり彼が話しているのは厳密にはハサール語ではなくて、ハサール語に近い別の言葉、モンゴーラが攻めて来る前に東から逃げてきた周辺諸族の言葉なのである。(注1) そしてそれを流暢に話す彼にとっては、ハサール語の方がヘンテコな方言のように聞こえていたのだ。いまさら多少のおかしさなど注目するほどのことではなかった。

 それに彼には勝利を手にする自信があったから、今更彼女が何を考えていようと関係はなかった。昼過ぎには前線に到着したシロタクはそのまま追撃の指揮を執り回廊出口の防衛線までハサール軍を押し戻すことに成功していたのだ。そこで再び膠着状態に陥ったのだが、夕暮れに到着した増援に力攻めを命じて休息を取りに5ミルムほど後方のこの場所に下がってきたのだ。

 本来なら明日に備えてぐっすり休んでおくべきなのだが、昼間の戦いの興奮の余熱と明日の決戦に対する期待で彼は大人しく眠れなかった。だからこうしてニルファルを見物に来たのだが、彼女が思ったよりも美人だったので声を掛けたのである。別に子作りなど急ぐ必要などなかったのだが、戦いの興奮を冷ますには良い女を抱くのが一番でもあった。


「オ前はニルファルだナ?」

一瞬ニルファルは身分を偽ろうかと考えた。ただの一兵士だと思われれば人質として利用されることはないからだ。……殺されるかもしれないけど。だが既に名前まで知られているのは戦闘中の名乗りを覚えている者がいたからだろう。いまさら誤魔化しようがなかった。

「ドうしタ?」

「そうだ、私がニルファルだ。だがモンゴーラの男は自分の名を名乗りもしないで人の名を尋ねるのか?」

ニルファルは減らず口を叩いて挑発してみたが、シロタクは怒るどころか面白そうに口の端を吊り上げた。

「そうダ。相手が捕虜ノ場合ハな」

「…………」

正論である。ニルファルだって投降してきた者を名も聞かずにサクサク殺してきたのだし、その時にいちいち名乗ったりはしなかった。

「だガ、お前ニは答エよウ。俺はシロタク、大モンゴーラの始祖キルギス大汗(カアン)曾孫(ソウソン)にシてジョシ・ウルスのパトー(カン)ノ長子、そしテコの軍の長ダ」

「お前が……」


「更ニお前ノ子の父親デもある」


ニヤリと好色そうな笑いを浮かべたシロタクを、ニルファルは信じられない物を見るようにマジマジと見た。

「……エフメトなのか? 凄い変装だな! 別人にしか見えなかったぞ!」

ニルファルの意外な反応にシロタクは首を傾げた。

「……ナニ?」

「あれ? だって、セリヌの父親はエフメトだぞ?」

「そウではナい、コれかラ作る子供のこトだ!」

「そ、そんな……」

ニルファルは顔を真赤にして、縛られたままクネクネと身を(よじ)った。

「それはもちろん、ドルクに帰ったらまた子作りするつもりだったけど……他人に言われると恥ずかしいではないかぁ……」

「違ぁーウっ! コれから、今スぐ、俺ガ、子作りヲするのダ!」

ニルファルは衝撃を受けたように呆然とした。

「そうか、話には聞いていたが……他人に見せるのが趣味なのだな? そんな変態行為には全くこれっぽっちも興味は無いのだが、捕虜の身では仕方ない。さあ、お前たちの子作りを私に見せてみろ! さあさあ、相手は誰だ?」

ニルファルの最大限の譲歩である。きょろきょろと周りを見回す彼女の目が、何故だか期待に満ちているような気がするのは、文字通り気のせいである。他人の性行為を覗き見ることに興奮している訳では断じて無いのである!

「……オ前だ」

「へ?」

「安心シろ、俺達の子供ハいズれハサールの(カン)ニしてヤる。元気ナ男児を産ムが良い……」

シロタクが覆いかぶさってきて初めて、ようやく彼女は自分が犯されそうになっているのだと気付いた。貞操の危機である! 彼女は慌てて身を起こそうとしたが、がっちりと縛られていて身を(よじ)ることしか出来なかった。往生際悪くジタバタと暴れながら彼女は喚き散らした。

「くそっ! お前のようなロクデナシに抱かれる私ではないぞ! 私を抱いていいのはエフメトだけだ! ……いや、私を抱いていい男はエフメトだけだ!」

「……何デ言い直しタ?」

シロタクは素朴な疑問に首を傾げた。

「う、うるさい! とにかくお前なんて金輪際(こんりんざい)ごめんだ! 女の抵抗が怖くて寝ている間に縛り付けるような、卑怯者の弱虫なんかな!」

「何だとっ……!」

痛いところを突かれたシロタクはさすがに足を止めた。敵から女を奪うことはモンゴーラではむしろ名誉なことである。本人が戦士であるニルファルの場合、彼女自身を屈服させれば良いだろう。彼がここに来た時には既にニルファルは縛られていたのである。このまま彼女を犯せば他人の力を借りたことになってしまう。後々ニルファルがこの事を触れ回れば、「一人では女一人屈服させられない情けない男だ」と言われることになる。ひょっとすると将来(カン)の座に付く際にも障害となるかもしれない。それにニルファルはなかなか良い女だったし、最低でも子供が出来るまで何度も相手をする女なのだ。

――最初に上下関係をしっかりと叩き込んでおいた方が良いかもしれないな

彼は頷くとナイフを取り出した。

「……良かロウ、縄ヲ解いテヤる」

そう言って彼が縄を(ことごと)く切り落とすと、解放されたニルファルは無言のまま腕や足をさすって怪我のないことを確かめた。

「フっフっフっ、そんナ事は、服を脱いデカらすルガ良いゾ」

シロタクは好色な笑みを浮かべて両手をワキワキとさせながら再び彼女ににじり寄った。

「さアどうダ、好きナだケ抵抗すルが……グへぇッ!」

セリフの途中で彼の鳩尾に突き刺さったのは、ベッドに寝転んだまま放たれたニルファルの爪先だった。堪らず彼が膝を付きそうになると、今度は起き上がりざまの右アッパーが捉えた。

「ぐがっ!」

彼は強制的に立ち上がらされ、そしてそのままバタンと仰向けにひっくり返った。ゴツンと嫌な音が響いたところを見ると、恐らく床で後頭部を強打しているだろう。いったいどれが原因かは定かではなかったが、彼の意識は既に無かった。

「ふんっ! 認めてやろう、お前は卑怯者でも弱虫でもない。身の程知らずで実際に弱いだけだ!」

もちろんシロタクは彼女の罵倒を聞いてはいなかった。もし聞いていたら「違う! 油断しただけだ!」と全力で抗議したところだろう。だがその余計な大声はシロタクではなく余計な人間に聞かれてしまった。


台吉(タイジ)? どうかなさいましたか?」(モンゴーラ語)

天幕の外から掛けられた声にニルファルはビクリと飛び上がった。モンゴーラ語だったので意味は分からなかったが、遠慮がちな声音からすると恐らくは衛兵のものだろう。

――声が聴こえるようなところに衛兵を置いておくとは……この臆病者が! いや、ひょっとしてそういう趣味だったのか? やっぱり変態だな!

他人に声を聞かせようとは変態にもほどがある。その点エフメトは、「声が聞かれそうなときにはちゃんと声を押し殺すんだぞ」と指導していた。本当にエフメトの指導はためになるものだ。

 だがシロタクが変態であろうとなかろうと、そこに衛兵が居るという事態に対処しなくてはいけない。最初から天幕に入れていなかった所を見ると、シロタクは他人に見せるところまではする気が無かったのだろう。ならばここでまっとうな(◆◆◆◆◆)性行為が行われていると認識させられれば踏み込んでは来ないはずだ。

 ニルファルはとっさにナイフを拾うと、そのナイフでビリビリと音を立てて服を引き裂いた。……シロタクの。そして精一杯可愛らしい声で悲鳴を上げた。

「きっ、きゃーーーー。わたしには愛する夫がいるのですぅー、許してくださぁーい」(棒)

普段の彼女を知る者なら自分か彼女の正気を疑うような声音とセリフだった。だがこれだけでは安心できない。次に彼女はパシン、パシンと平手で頬を殴った。……シロタクの。

「ひっ、ひどいー。父上にもぶたれたことないのにぃー」(棒)

ついでにニルファルは、先ほどまで自分を拘束していた縄をぐるぐると巻きつけた。……シロタクに。

「ああ、きついですー。そんなにきつく縛らないでー」(棒)

そしてニルファルは念には念を入れて、置いてあった燭台(しょくだい)をシロタクの上で傾け……

――あっ、蝋燭は専用のじゃないと火傷をするとエフメトが言ってたな。あんまり熱いと起きるかもしれないし、蝋を垂らすのはやめておこう……

代わりに彼女はふっと火を消すと、燭台から蝋燭(ろうそく)を取り外した。そしてズボンを下ろした。……もちろんシロタクの。そしてパンツも。

「ああ、そこは違うところです。や、やめてぇー」(棒)

「ア゛ッーーーーーー!!」

突然目を覚まして絶叫したシロタクを、ニルファルは渾身の力で殴りつけた。

 ボカッ!

彼は再び意識を失った。

――やばい、バレたか……?

ニルファルが外の様子に耳を済ませると、衛兵たちはモンゴーラ語で何やら話し込んでいた。

「今日は一段と飛ばしてるなぁ」(モンゴーラ語)

「ここんとこスラム人ばっかりだったからな。ハサール人とはいえ草原の民、しかもあんな美人だから興奮してるんだろ」(モンゴーラ語)

「しかしうっかり殺しちまわないか心配だよ。戦闘ならともかく、こんなことでハサールの姫さんを殺しちまったら(カン)に大目玉を食らうだろうな」(モンゴーラ語)

「大丈夫だろ、そん時は戦闘の後遺症で死んだことにするさ。実際に意識を取り戻したことを知ってるのは俺たちだけだしな」(モンゴーラ語)

「はっはっは、確かにそうだな。……って、おい。それって、俺達の口も封じるって事じゃないか?」(モンゴーラ語)

「…………」

「…………」

「……あ、あっちの方で物音がしたような? だから俺はあっちを見まわってくるぞ。念入りに調べてこないとなぁ」(モンゴーラ語)

「お、俺はあっちだ。あっちの見回りをしていたから、俺はここに居なかったぞー」(モンゴーラ語)

彼らの会話の内容は全く分からなかったが、衛兵たちは仲間を呼ぶ様子もなく遠ざかっていったようなので、ニルファルはほっと安堵の溜息を吐いた。とりあえずの窮地は脱したのである。

「これもエフメトのおかげだな、ありがとう。お前の教えが本当に役に立ったぞ。さすがは私の夫だ!」

てっきり彼の趣味でしか無いのではないかと疑ったあんなプレイやこんなプレイも、彼女がこんな目に遭った時に慌てないようにするための訓練だったのだろう。計画通り怪我をして寝込んでいるはずの愛する夫にニルファルは感謝を捧げた。そして昏倒しているシロタクをベッドに放り込んで毛布をかぶせると、彼の鎧を身につけて天幕を出た。空を見れば既に星空に覆われており、月の位置から夜半近い事が分かった。

「そろそろ上陸している頃か。ここにいつ知らせが届いても不思議じゃないな」

そんな知らせが届けばたとえ夜の営みの真っ最中でもシロタクに連絡が来るだろう。そして呼んでも起き出して来なければ中に乱入もするだろう。風雲急を告げる一大事に、総大将からにょっきり生えた蝋燭を見た兵士たちは、いったい何を思うだろうか。

――きっと恥をかいたシロタクは怒りに震えることだろう。だが奴は動くに動けないはずだ。

ニルファルには確信があった。なぜなら彼女もまた……経験者だったからだ。あれはきっと、敵にどれくらいのダメージを与えられるかを理解するための訓練だったのだろう。何度も何度も繰り返し訓練をしているうちに今では気持よくなってしまったが、それもこの手が使えるのは最初の一回だけだと彼女に教えるためだったのだ。……たぶん。その点シロタクが絶叫したことを考えれば、彼があの責めを受けたのは恐らく初めてのことだろう。

――ならば少なくとも数日は、満足に馬に乗れないだろうな。私の時と違って石鹸も付けなかったし。

ニルファルは愛する夫に感謝を捧げながら、兵士たちの注意を引かないようゆっくりと東の山に向かって歩き出した。

注1 いわゆるテュルク諸語です。なんせ遊牧民の言葉なので中央アジア~小アジアまでえらく広い範囲に分布しています。

この下にさらに5つの語群に分かれていますが、ぶっちゃけかなり共通点が多く、とりあえず意思の疎通はできるようです。

もともとテュルク祖語という言語があって、それが別れて訛って方言になったんじゃないかと言われています。

日本で言えば琉球弁や尾張弁を聞いてもなんとなく理解できるようなものでしょうか。

東北弁のきっついのは聞き取れないことが多いですけど……あれは滑舌の問題ですかね?

(ちなみに関西弁は第二標準語なので除外しました)

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