挟撃 その5
ニルファルがらしくもない策を練り、芸術的なまでのドジでその策を完成させた時、回廊出口のノボロウシスクではシロタクがすっかり撤退の準備を整えていた。
「台吉、今しばらく猶予を! 兵力は我らの方が圧倒しているのです!」
側近の千戸長が撤退に反対していたが、シロタク自身はすっかりこの戦場に見切りをつけていた。
「くどいぞ。その折角の兵力も戦場が狭すぎて役に立っていないではないか。ずっと膠着したままだ」
「しかし、ここで逃げれば弟君に出し抜かれるかもしれません」
千戸長の言葉にシロタクは眉を顰めた。彼は今のところパトーの跡継ぎと目されているが、そのパトーはまだまだ元気だ。実際に彼が後を継ぐのは10年20年は先の話であり、その時にはまだ若い弟達も候補に上がってくるだろう。彼の母は初婚だったから彼自身に出生の疑惑は無いにせよ、やはりモンゴーラでは末子相続の風潮が強い。誰かに大きな功績が無ければ、今はまだ幼い末の弟のウラグチ(注1)に家督を持っていかれる可能性は十分にあった。つまり千戸長は将来の家督争いのために、シロタク自身の手柄を確保しておけと言っているのだ。
「お前の言いたいことは分かる。だがモンゴーラ軍全体の戦略を考えれば、些末な敵を追い続けるより敵本隊を叩くことが重要だ。幸いこの回廊を封鎖しておけば後方の安全は確保できる。そして敵本隊を屈服させれば、ソッチの敵も自然と降伏することになるのだ」
シロタクの案はモンゴーラ軍全体の戦略としては正しいものである。だがそんなことは千戸長も分かっているのだ。そして実際問題、シロタクがこの策を選んだ理由は、これ以上時間を浪費して彼の名誉に傷が付くのを恐れていたからでもあった。こうしている間にも本隊の方では「シロタクはまだ帰って来ないのか!」「父上、是非私を兄上の代わりに!」「いえ父上、是非是非私こそ!」「いーや、私ですよね、父上!」と弟達が喚いていることだろう。ここでこうしてすることもなくぼーっとしているよりは、敵本隊との戦いで手柄を上げたほうがマシだと考えているのだ。
「…………」
「ここにこうしていたところで、誰の手柄にもならん。網も仕掛けたし、あれがあれば1万も残しておけば十分だ」
網というのはもちろん、何かの比喩ではなくて本当の網である。周辺の漁村から取り上げた漁網を、小競り合いの続く回廊内に設置したのだ。攻めるには邪魔でも防御や時間稼ぎにはなかなか便利である。
「明日には出発するぞ」
「はい……」
千戸長がようやく矛を収めた時、だが誰にとっても意外な伝令が唐突に駆け込んできた。
「申し上げます! 回廊にて御味方大勝利にございます!」
「「は?」」
「敵の先方を打ち破り、今にも回廊を抜けんとしています。今すぐに後詰をお出し下さい!」
シロタクも千戸長もあっけに取られて顔を見合わせた。正面に展開しているのはお互いに1000騎程である。仮に大勝ちしてハサール軍の半分を討ち取っても、たったの500騎などあっという間に穴を埋められてしまうだろう。毎日ちょっと勝ったりちょっと負けたりするだけで、決して大勝ちも大負けも出来ない構造なのだ。
「いったい、何があったんだ……?」
「敵の大将を生け捕りにしました。台吉の設置された網のお陰です!」
「「おおっ!」」
思いもかけない朗報にシロタクも千戸長も沸き立った。
「台吉、やりましたな! このまま一気に攻め入るべきです!」
「そうだな、回廊を突破できれば勝ったも同然だ。今すぐ後詰を派遣しよう」
「え? 台吉ご自身は行かれないのですか?」
「回廊を突破してからで十分だろう? また膠着されたら敵わん。それより敵将の尋問でもしていた方が良い。……そうは思わないか?」
千戸長ははっと息を呑んだ。いずれ屈服させて味方にするのだから、いまのうちに敵将を厚遇して恩を売っておこうというのだ。小戦の指揮など誰にでも任せられるが、確かにそれはシロタク本人が行う必要があるだろう。
「しかし、その敵将は意識を失っております。今動かされるのは得策ではないと思います」
伝令の言葉にシロタクは眉を顰めた。生け捕りにしても死んでしまっては意味が無い。戦場で殺した方がお互いに後腐れがなくて良かっただろう。
「重態なのか?」
「いえ、落馬した際に脳震盪を起こしたようでして……」
伝令の歯切れの悪い言葉にシロタクと千戸長は思わず吹き出した。
「ぷっ! なんだ、マヌケな男だな!」
「まったくですな! しかもそれで戦線を崩壊させるとは……!」
だが伝令は思いもかけない言葉でそれを否定した。
「いえ、マヌケな男ではありません。マヌケですが妙齢の美女です」
「「…………」」
2人はぽかんとして押し黙ると、ゆっくりと伝令に確認した。
「敵の大将が、女だと?」
「しかも、妙齢の美女だって?」
伝令は大きく頷いた。
「戦闘中の名乗りではハサールの汗の娘であり、南の大国ドルクの汗の嫁だそうです」
「汗の娘か……」
「ドルクと言えば、プラグ汗が攻める予定の国ですな……」
別のところに注目した2人だが、その思考は同じ所に流れていった。
「ハサールを屈服させた上でその主に誰かを据えるなら、我が曽祖父キルギス汗とともにハサールの汗の血を引く者がふさわしいとは思わないか?」
そしてそれは、その父である人物がジョシ・ウルスを継ぐ後押しともなるだろう。
「ドルクが攻めかかって来てくれれば、我々が攻める大義名分が出来ます。プラグ汗も文句は言えません」
そしてそれは、大モンゴーラ宗家や他のウルスに比べて割を食っているジョシ・ウルスが、他と肩を並べる大勢力となるための布石でもあった。
2人は顔を見合わせて同じ結論を口にした。
「俺の子を生ませるべきだな」
「台吉が妻となされるべきです」
彼らに恥じるところはなかった。高貴で美人な人妻を無理やり自分の嫁にすることは、モンゴーラ人にとって一種のステータスですらあるのだ。シロタクは頷くと千戸長に命じた。
「俺は先に出る。全軍を率いて追ってこい!」
「はっ!」
こうして俄にモンゴーラ軍は動き始めた。
そのころ回廊出口の防衛線まで下がったタネルは、予め用意されていた本陣で指揮を執っていた。ニルファルが怪我をしたことになっている、ということになっていたので、ニルファルが不在であることも「へー、姿も見せないようにしているのか。念の入った作戦だなぁ」と思われて兵たちに動揺は広がっていなかった。前線にいた兵士たちには口止めをしていたし、うっかり彼らが漏らしたとしても「そういう設定なのか」という勘違いで納得してしまうのだ。どこまでも皮肉だが、タネルはその状況に乗っかるしかなかった。とにかく1日持ちこたえればタイトン軍の渡河は終わるのだ。そうすれば人質解放を要求することも出来るだろう。だがそんな曖昧な状況を由としない者がいた。イヴァンナである。
「タ、タネルさま! ファル様はどうされたのですかっ!?」
普段はニルファルの背に隠れてばかりのイヴァンナだが、そのニルファルの姿がないことを誰よりも案じているのは彼女だった。なぜなら彼女は……お医者さんごっこを楽しみにしていたから! けが人のフリをするニルファルはベッドから出られず、24時間四六時中、彼女がニルファルの全ての面倒を見るはずだったのである! ……彼女の中では。
「ファルは……怪我をしている」
「だから、なぜ私が看病できないんですかっ!?」
「……ここにはいないのだ」
「ではどこにいるんです? ソッチの街に運んだんですか? 街のどこですかっ!?」
「…………」
どこまでも噛み付いてくるイヴァンナにタネルはほとほと困り果てた。せっかくニルファルもいないのだから、この際その辺で押し倒して黙らせようかとも思ったが、戦闘中にそんな暇は無かった。
「ま、まさか、邪魔になったファル様を殺したんじゃ……」
「するかっ!」
「そ、そうですよね。きっとファル様の魅力に勝てなくてムラムラと……」
「してないっ!」
――あー、くそっ! このまま放っておいたらどんなデマを流されることか……
そう考えるとむしろ彼女に全てを話しておいた方が良いような気がしてきた。彼女がエア看病していれば誰もニルファルが不在だとは思わないだろう。もし彼女がそれでも喚き立てるようなら、殺すまでである。……もったいないけど。
彼は人払いをして本陣で二人っきりになると、イヴァンナに静かに語りかけた。
「お前だけでに明かすが、決して騒ぎ立てないでくれ。ニルファルの身の安全にも関わることだ」
「ファル様の……安全?」
そう言われれば大人しくせざるを得ないのがイヴァンナである。
「実はニルファルは……敵の捕虜になったのだ」
「ええっ! モンゴーラ軍に!?」
モンゴーラ兵にレイプ(未遂)されたことがトラウマとなっている彼女にとっては、モンゴーラ軍など凶悪な人殺しとレイプ魔の集団だという認識だった。まあ、あんまり間違いではないけど。その野蛮なモンゴーラ軍に、凛々しくも美しく彼女よりもおっぱいも大きいニルファルが囚われてしまったとなれば、どんな事が起こるのかは火を見るよりも明らかだった。
「そ、そんな……ファル様が……」
口を押さえてガクガクと震えだしたイヴァンナの両肩を、タネルはそっと抱きしめた。
「大丈夫、ファルは強い女だ! あの子が戻って来た時に優しく迎えられるよう、今は黙ってファルが居るフリをしてくれないか?」
それは今もここにニルファルが居たことにして、ニルファルが女としての屈辱を受けたことを秘密にしようということだった。彼女自身の記憶からは消えることは無いだろうが、せめて世間の記憶からは抹消しようと言うのである。イヴァンナ自身、山に住む叔母さんたちにはレイプ(完遂)されちゃったんだと誤解されて優しくされていたが、もし本当にレイプ(完遂)されていたとしたら、レイプ(完遂)に関することはその優しさですら辛かっただろうと容易に想像ができた。
「……分かりました。ファル様の天幕に戻ります」
静かに本陣を出て行こうとするイヴァンナにタネルはほっと安堵の溜息を吐いた。
実のところタネルとしてはあくまでニルファルの不在を誤魔化したいだけであって、ニルファルの貞操については心配していなかった。別に処女でもない上に既に子も産んでいて、しかも相手は異民族のエフメトである。ハサールの基準では、既にあらゆる意味で純血とはいえないのだ。だから「今更1発や2発くらい別にいいじゃないか」と思っていたのだ。そんな事がバレたらイヴァンナに毒を盛られるかもしれないので黙っていたけど。そして彼はその代わり、何としても彼女の命だけは守らなくてはいけないと思っていた。
イヴァンナは出口の前で振り向くと、はにかんだような笑顔を彼に見せた。
「すいません、今まで誤解していました。タネル様も本当は……お優しい方なんですね!」
逆光に煌めく黄金の髪が通常より50%増しでキラキラと輝き、それがタネルの胸の中の何かを激しく掻き立てた。彼女を利用しているという罪悪感からだろうか、それとも今までツンツンしていた彼女が急に笑顔を見せてくれた事に対する驚きからだろうか。もとから彼女を気に入ってはいたものの今も邪魔になれば殺そうと思っていた程度の娘だったのに、今この瞬間、彼の中で何かが大きく変わってしまった。ペコリと頭を下げて天幕を走り出ていくイヴァンナを、思わず引き止めようと手を伸ばしかけるほどに。
――まずい、遊びは良くても本気はまずいぞ……。相手はスラム人だし、まだ子供だし、まあ、あのくらいなら結婚していても不思議じゃないけど貧乳だし。いや、貧乳もその内大きくなるかもしれんか。いや、そうじゃなくて! 今はとにかく戦闘中だ!
彼は激しく頭を振って邪念を追い出すと大声を上げた。
「馬を引け! 督戦に行くぞ! 今日の戦いが正念場だ!」
注1 ウラグチ=ウラクチです。
バトゥの死後ジョチ・ウルスを継いだサルタクまでがサクッと死んじゃった後、家督を継いだのがウラクチです。
ウラクチはサルタクの子供だったと言う説とバトゥの末っ子(つまりサルタクの末弟)だったという説があります。
どちらにせよ彼はまだ幼くその上彼もサクッと死んじゃったので、何もしていません。




