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太陽の姫と黄金の魔女  作者: 桶屋惣八
第8章 ムスリカ編
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挟撃 その4

 タイトン軍がケッチ海峡を渡る準備を整えていた頃、それに呼応するためソッチのハサール軍も行動を起こしていた。それはモンゴーラ軍を南へと誘導するための偽装撤退だった……訳ではない。もともと偽装撤退するつもりだったのは確かだが、話はもっとややこしいことになっていた。

 彼らは最初、普通に偽装撤退を行なった。だがモンゴーラ軍は以前のように積極的な追撃はせず、あっさりと元の位置に戻ってしまったのである。二度三度試してみても同じで、彼らは突出しようとはしなかった。それはシロタクの意向を反映して防御主体に切り替えられたからであり、つまりは僅かな兵力だけを残して北の本隊に合流しようとしているということはニルファルやタネルにも容易に想像が出来た。

「攻めて来る気配がありませんね……」

「これは、本格的に撤退しそうだな……」

 タイミングとしては最悪である。タイトン軍の渡河がモンゴーラ軍が撤退した後だったら、最悪でもタイトン軍とともに回廊に立て篭もることも出来ただろう。だが敵が未だにノボロウシスク周辺にいる間に渡河をすれば、タイトン軍は単独で彼らを相手にしなくてはいけないのだ。せめてニルファルの兵と合流できればいい戦いが出来るかもしれないが、それは彼女の目の前に居る僅かな敵兵が阻んでいた。

「早急に中止の連絡を送るべきではないか?」

「無理です。決行は明日の夜ですが、船を仕立てても2日かかります。今からでは渡河に間に合いません……」

簡単に誘い出せると思って了解の返事を送ってしまった事が悔やまれた。もちろんタイトン軍も渡河前に偵察くらいすると期待したいところだが、プレセンティナ軍がいないのに草原の民を十分に偵察できるとは思えなかった。

「どうする? このままではタイトンの奴らはみすみすモンゴーラ軍の懐に飛び込むことになるぞ!」

「…………」

ニルファルは押し黙った。彼女だってそんなことは分かっているのだ。この作戦が、この戦争全体の分水嶺となるだろうということも。

――こんな時、エフメトだったら……

彼女は愛しい夫を思い浮かべた。だが……彼は何も答えなかった。よく考えると彼の戦術は常識的なものでしかない。彼は戦略家かもしれないが、戦場において奇跡を生み出したことは一度もなかった。人選ミスである。

――こんな時、イゾルテだったら……

彼女は愛しい親友を思い浮かべた。親友である、決してそれ以上でもそれ以下でもない。彼女を思い出すとなぜか顔が赤くなった気がするのは、文字通り気のせいである。そんな親友は彼女にささやきかけた。「エフメトなんて殺しちゃおうよ」と。

――そうか! その手があった!

ニルファルはにやりと笑うと自信ありげに言った。

「まだです、まだ方法が1つだけあります」

「……どうする気だ?」


「私が死ねば良いのです」


衝撃の言葉を聞いて、お茶を煎れていたイヴァンナが熱湯を手にこぼして「あっちぃーー!」と叫びながらのたうち回った。

「ふぁ、ファル様! 嫌です、死なないでください!」

「いや、お前の方が死にそうだぞ。私は死なないから安心して冷やしてこい」

「……約束ですよ?」

ニルファルが鬱陶しそうにシッシと手を払うと、イヴァンナはなにか言いたげな顔をしたまま天幕を出て行った。

「死んだふり、ということか? 確かに総大将が死んだことにすれば攻勢をさそえるかもしれん。だが、敵がそれを信じるか?」

当然の疑問である。もしこれが平時であっても、まだ若いニルファルが突然死んだと聞かされたら耳を疑うだろう。敵がそれを信じてその日の内に大攻勢に転じるとは、あまりにも安易な願望である。だがニルファルには勝算があった。

「イゾルテは言いました。ビルジを騙すにはエフメトが戦場の真ん中で怪我をしてみせる必要があると。今頃エフメトは手足に矢を受けて痣が出来ていることでしょう」

(あざ)? それどころではないだろう?」

「いえ、(やじり)のない矢ですから」

「……なるほど」

確かにそれなら、一見本当に重症を負ったように見せられるだろう。まあ、エフメトは実際に重症を負っちゃったのだけど。とりあえず当分の間は浮気の心配が必要ない程度には。

「それでお前も前線に出て、流れ矢を受けるつもりなのだな?」

「ええ、ついでに落馬でもしてみせれば十分でしょう。そのまま私をかついで盆地の手前まで撤退して、敵の攻勢を誘います」

「うむ、それは確かに面白いな」

こうしてタネルの同意を得られたことで、この作戦は決行されることとなったのである。


 ニルファルは回廊の出口に防衛線を築くと、翌朝にはタネルと共に前線に来ていた。ノボロウシスクの敵を誘い出すには何より時間が惜しいのだ。

「ものどもぉぉ、かかれぇぇぇえ!」

「「「ふぅぅぅらぁぁぁぁあ!」」」

怒涛のように攻めかかったハサール軍に対し、モンゴーラ軍も前進して迎え撃った。戦略的な方針が防御に変わったと言っても、軽騎兵同士の弓の射ち合いでは足を止めた方が圧倒的に不利である。戦術レベルではセオリー通りにあくまで攻撃的だった。

「放てぇ!」

「うぐっ! まだまだぁ!」

双方入り乱れての混戦は幾分ハサール軍が押している様に見えた。彼らはこれが作戦の序盤に過ぎないとは知っていたが、ニルファル達が直に前線に出てきたことでいつもより士気が高まっていたのだ。


「では兄さま、後の指揮は任せます」

「え? ああ、そうか。怪我したフリをしなくてはいけないからな。よし任せろ。矢もちゃんと当ててやるよ」

タネルが鏃のない矢を見せると、ニルファルは微妙に困った顔を見せた。

「……兄さまが射るのですか?」

「あれ? 俺って結構上手いんだぞ。ほら、狙った女は必ず仕留めるし」

「…………」

女の方は随分と射ち漏らしている気もしたが、タネルの弓の腕はなかなかのものだ。ニルファルはこの際それも彼に任せることにした。

「分かりました。(やじり)を外した矢を10本くらい用意しておいて下さいね」

「……信頼してもらえて嬉しいよ」

 ニルファルは振り返ると、選抜された100騎あまりの小隊に声をかけた。彼女の護衛兼盛り上げ要員である。

「では行くぞ、付いて来い!」

「「「ふぅぅぅらぁぁぁぁあ!」」」

彼女たちはそのまま混戦の中へと割って入った。

「喰らえぇ!」

精鋭たちの放つ矢は吸い込まれるようにモンゴーラ兵に突き刺さり、

「死ねぇ!」

精鋭たちの振るう刀はモンゴーラ兵の喉を切り裂いた。

「父上の仇だ!」

他ならぬニルファルまでもが、その熱狂の中で多くの敵を殺し、踏みにじり、その体を血に染めた。その獅子奮迅ぶりに他のハサール兵たちも大いに元気付けられた。もともと1000騎対1000騎の小競り合いである。たかだか100騎とはいえ、精鋭が加勢したことでもとからハサール寄りだった趨勢(すうせい)は一気に彼らに傾いた。

「@*>*}~=($%#”’!」

モンゴーラ軍士官の命令が響きわたると、この攻勢に耐えかねたモンゴーラ軍は引き潮のように一斉に後退を開始した。それを見たハサール軍は歓声を上げたが、ニルファルはようやく冷静になることが出来た。

――まずい、すっかり普通に戦ってしまった!

彼女は慌てて大声を上げた。まずは彼女が総大将であることを認知して貰わないと演技を始めることすら出来ないのだ。

「やあやあ、我こそはハサール・カン国可汗(カガン)ブラヌの娘にしてドルク帝国皇帝エフメトの(きさき)、そしてこのハサール軍の総大将ニルファル・オルスマンなるぞ! 遠からんものは音に聞け、近からんものは目にも見よ!」(注1)

女の声を聞いてモンゴーラ兵の多くが何事かと振り向いたが、馬首を返す者はいなかった。というか、騎手が後ろを振り向いても馬足は微塵も落とさなかったのだ。さすがは騎馬民族である。

――いかーん! これでは普通に勝ってしまう!

小さく勝った所でいつものことだ。モンゴーラ軍が大規模な援軍を出す見込みは少ないだろう。ニルファルは再び刀を振り上げると、敵に向けてぶんっと振り下ろした。

「逃がすな! 我に続けぇぇぇえ!」

「「「ふぅぅぅらぁぁぁぁあ!」」」

ハサール軍は後退するモンゴーラ兵を追って突撃を開始した。


 後方で弓を引き絞っていたタネルは、ニルファルがなかなか動きを止めてくれないので狙いを付けられずに困っていた。いくら彼でも、混戦の中で動き回る特定個人を狙撃することは難しいのだ。女に関してもあまり一人に絞り込むタイプじゃないし。

「おいおい、いったいいつまで戦ってるつもりだよ……」

彼がぼやいている間に大勢は決し、ハサール軍は勝ってしまった。最悪である。せめて敵に()されていれば自然な形で負傷することが出来たというのに。

 だが最悪は言いすぎだった。彼女はそのまま先頭を切って突撃を開始してしまったのである。こっちの方が最悪だった。

「おいおいおいおい! それじゃあ矢が届かないぞ!」

タネルも慌てて彼女を追ったが、彼と彼女の間は多くのハサール騎兵で埋まってしまった。

「おい、どけ! これじゃあニルファルを狙えないだろうが!」

タネルの近くにいた者達はその言葉にぎょっとして一斉に振り向いた。ニルファルが矢で射られるフリ(◆◆)をすることまでは伝えられていなかったのである。多くの殺気走った視線を向けられて、彼は慌てて矢を見せた。

「待て待て、ほら、鏃のない矢だよ? 作戦の一環だよ?」

納得した兵士たちは左右に開いて避けてくれたが、ようやくニルファルを再び視界に収めた時には彼女はモンゴーラ軍の新手の中に飛び込まんとしているところだった。

「当たれぇ!」

タネルの放った矢は一直線にニルファルに向かって飛んだ。彼女の真後ろから放たれたとはいえ、双方が疾走する馬上にあることを考えれば会心の一射である。その矢が狙いあまたず彼女の後頭部を打つ、その寸前、まるで後ろに目が付いているかのように彼女はさっと矢を避けた。

「ええっ!?」

そして彼女は空中を舞った。彼女とともに先頭を駆けていた多くのハサール兵とともに。

「えええええっ!?」

だがそれは一斉に馬たちがつんのめっただけだった。馬たちの悲鳴と兵士たちが地面に叩きつけられる音が響き渡った時、タネルはその理由を悟った。

「止まれぇぇ! 網だ! 網が仕掛けてあるぞ!」

ハサール兵は慌てて馬を止めたが、まるでそれを合図にしたかのようにモンゴーラ軍は矢の雨を浴びせかけてきた。そんな中でもタネルはニルファルから目を離さなかったが、打ちどころが悪かったのかニルファルはピクリとも動かなかった。

「くそっ! まさか死んでないだろうな? 急いでファルを助けないと!」

タネルはニルファルの元に駆け寄ろうとしたが、兵士たちはそれを許さなかった。

「タネル様、あなたまで倒れては誰が指揮を執るのです! 御指示を!」

「離せ! ファルはまだ死んでない!」

「だとしても指揮を執れる状態じゃありません! あなたしかいないのです! あなたはただ命じれば良いのです、ニルファル様をお助けしろと!」

はっと冷静さを取り戻したタネルは、口を閉じて頷いた。

「よし、お前たちに命じる。ファルを必ず助け出せ!」

「「「はっ!」」」

その場にいた20名ほどの兵士たちが馬を降りてニルファルのもとに駆け寄ったが、そこはまさしく殺傷区域キルゾーンである。一人、二人と次々に矢を受けて(たお)れ、最後の一人もニルファルまでたどり着いたところで頭を射抜かれた。ニルファル自身は一緒に落馬した者たちが彼女に覆いかぶさりその身を盾にしていたが、必ずしも無事とは限らなかった。

「タネル様、このままでは全軍が崩壊します!」

差し迫った悲鳴に周りを見渡せば、敵の重騎兵と思しき者たちが縦列になって敵の隊列から駆け出してくるところだった。恐らくそこに網が仕掛けられていない通路があるのだろう。

――くそっ! このままではやられるのは時間の問題だ

「クソっ、一旦退くぞ! 後続の軍と合流して押し返す!」

「しかし!」

「退け! 退くんだ!」

例えニルファルを引っ張り出すことが出来たとしても、意識のない彼女を担いで逃げるのは現状では至難の業だ。だがニルファルが兵士たちの死体の下敷きになっているのなら、後ろに待機している新手を率いて再び敵を敗走させた方が返って安全に回収できるかもしれない。

――頼むぞ、それまで遺体をどかそうなんて考えるなよ……

タネルは撤退しながらそう祈りつつ後ろを振り返ったが、彼の希望は儚くも砕かれた。モンゴーラ兵がニルファルの倒れているあたりを確かめ始めていたのである。

――クソっ! もう取り返しがつかない!

多くのハサール兵が死を賭して救おうとした事で、そこに重要人物が倒れていることも、生存している可能性があることもバレていたのだ。彼女の名乗りを覚えている者もいるだろうから、身分を誤魔化すことも出来ないだろう。何もかもが呪われたように裏目に出ていた。

「策士策に溺れるとはこのことだ! 魔女の策など用いるのでは無かった!」

イゾルテにしてみれば言いがかりに等しい物言いである。だがタネルにとっては正に呪われた魔女の仕業だとしか思えなかった。これほどの犠牲(ぎせい)を払いながらも、ニルファルの望んだ通りモンゴーラ軍の遊出に成功しようとしているのだから……


願いを叶えながら相手を地獄に叩き落す、それが魔女との契約である。

注1 この名乗りの元ネタはもちろん鎌倉武士的な侍の名乗りですが、そもそもモンゴルには名乗りに相当する儀礼が存在しなかったようです。

元寇の時にも「侍が名乗りを上げたら無視して弓を射てきた」なんて記録があることも有名です。まあ、あれは朝鮮と中国の兵士がほとんどのはずなんですけど。

とはいえモンゴル人は、相手が声の届かないはるか彼方にいる時点で「ああ、あれはXX氏族のXX一家だな」とか分かっちゃう人たちなのだから、やっぱり名乗りに意味が無いのかもしれません。

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