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太陽の姫と黄金の魔女  作者: 桶屋惣八
第8章 ムスリカ編
242/354

平安の都 その5

 翌日の正午、三々五々に皇宮にやってきた有力者たちは、無骨な奴隷軍人(マムルーク)に案内されて大広間に案内された。有力者といっても町内の代表というくらいの者たちだから、多くの者にとって皇宮の中に入ることは初めてのことである。まして皇帝との謁見が行われるような場所に入ったことのある者などギャザリンくらいだ。まあ、彼の場合は謁見で入ったんじゃなくて時計やらトイレやらを設置する下見に行っただけなんだけど。

 白大理石の床と白亜の壁に繊細な幾何学模様が彩られた壮大な回廊を抜けて辿り着いた先は、目が霞むほどの広い空間に天にも届かんばかりに高い天井があった。まあそれは完全に言い過ぎなのだが、彼らはそう思うほどに気後れしていたのだ。(まさ)しく設計者の意図した通りである。


 代表者たちが集まってきてあちこちで団子になってヒソヒソと噂話を始めてもバールはなかなか顔を出さなかった。()らせることでどちらの立場が上なのか分からせるため……ではない。代表者達はそんなことなど(はな)から思い知らされているのだ。バールたちの目的は彼らを焦らせて仲間内で本音の噂話をさせるためだった。


「案内の兵士はドルク兵じゃなかったな」

「そりゃあそうだろ、スエーズ軍が占領してるんだし」

「しかしコルクト・パシャからの呼び出しだったからな。俺はてっきりパシャがエフメト皇子を見限ったのかと思ったぞ」

「馬鹿、パシャはエフメト皇子の乳兄弟だぞ?」

「しかしエフメト皇子はスエーズ軍との戦いで瀕死の重態だという話だぞ」

「ああ、その話は俺も聞いた。何でもスエーズ兵は一人も死ななかったってさ」

「嘘くさっ! 流石にありえないだろ」

「だがエフメト皇子が敗れたことは確かだ。だからスエーズ軍がここにいるのだろう? 一人も犠牲者がいないというのは信じられないが、エフメト皇子派があっさり北部に引き下がったのは、やはり完敗はしたのではないか?」

「つい先日まではエフメト皇子がドルクを再統一して下さると信じていたのにな……」

ようやく平和が訪れたと思った途端に外国からの侵略である。彼らは深く溜息をついた。


 だがこのうわさ話をバールもイゾルテも聞くことが出来なかった。なぜなら……大広間がでかすぎたから! 玉座の後ろの舞台袖で聞き耳をたてていても、広間の中央近くでこそこそと話し合っている声などとても聞こえなかったのである。

「やっぱりこういうのは良くないでござる。さっさと話し合いを始めるでござるよ」

「ふふふっ、こんなこともあろうかと飲み物を用意させましたわ!」

イゾルテ……ならぬトリスが薄い胸を張って指差したのは、様々な飲み物が載せられたワゴンだった。すかっり長丁場を覚悟している様子の彼女にバールは呆れた。

「だったら他の者にやらせれば良いでござろう? 我らは戦略を練らねばなり申さぬ」

「だって私しか居ないでしょう? そっちは男ばっかりですし、こっちの唯一の本職のメイドはズッコケてワゴンごと横転させるか自分で全部飲み干しかねませんもの。賭けてもいいですが、話はろくに聞いて来ませんよ」

何やら訳の分からないことを言い出したトリスにバールは首を傾げた。

「何のことでござるか?」

「あら? このドルク風の衣装を見て気づきませんか?」

トリスが着ていたのは後宮に残っていた女官の衣装だった。あくまで女官のものなのであんまりエロくないのがポイントである。あんまりエロいと愛妾達に「キィィィー、私達を差し置いて陛下を誘惑するつもりなのネッ!」とか言われちゃうからだろう。あるいは中年のおばさんの物かもしれないけど。

「ドルク人を安心させるためではなかったのでござるか?」

「ふふふ、この格好ならコレを押してあの中に入り込めるでしょう?」

ようやく彼女が考えていることが分かり、バールは愕然とした。

「……給仕する気でござるのか? 其許(そこもと)が?」

「だって、噂話を聴き込んでくるなら給仕が一番でしょう?」

軽口を叩きながらワゴンを押していくトリスの姿に、バールは眉根を寄せて首を傾げた。

「やっぱり(それがし)は必要なかったのでは……?」

結局彼にはこの場ですることが無かったのである。


 イゾルテは一人で堂々とワゴンを押しながら大広間の中央に割って入って行った。ガラガラとワゴンを押していたので、案の定誰も彼女を警戒(◆◆)することはなかった。

「お飲み物はいかがですか?」

「あ、ああ、ありがとう」

「そちらの方もいかがですか?」

「ど、どどど、どうも」

彼らは顔を赤らめながら飲み物を受け取ると、イゾルテの思惑通り再び噂話を始めた。

「あんな可愛い娘は初めて見たよ」(ヒソヒソ)

「さすがに皇宮の侍女ともなると別嬪だねぇ」(ヒソヒソ)

彼女はそんな噂話に耳を傾けながら、作戦の失敗を悟った。彼女自身が話題を作ってしまったのだ!

――ああ、何と罪作りな美貌だろう。私の噂で持ち切りではないか!

そう思いながらもイゾルテの鼻の穴は自慢気に膨らみ、ピクピクとしていた。

「それだけじゃない、彼女には侵しがたい気品もある」(ヒソヒソ)

「さぞや高貴な生まれなんだろうなぁ」(ヒソヒソ)

――ふふふ、私はそんな噂を聞きたい訳じゃないんだけどなー。でも仕方ないよなー、私が美し過ぎるせいなんだから!

「でも、上品に見えるのは胸が無いからじゃないか?」(ヒソヒソ)

――なに?

聞き捨てならない一言に、イゾルテの頬が引き攣った。

「そうだな、あまり色っぽいのは給仕には向かないよな」(ヒソヒソ)

「食欲が出ない不細工も困るが、食事の途中で別の欲求が催しては困るからな」(ヒソヒソ)

「そう考えるととっても給仕向けの娘だな」(ヒソヒソ)

――おい、どういう意味だっ!?

イゾルテは額に血管を浮かべながらも笑顔を続け、そのまま大広間から外に出た。


 戻って来たイゾルテの暗い顔を見てバールは思わず声をかけた。

「イゾ……じゃなかったトリス殿、どんな様子でござった?」

だがイゾルテは糸が切れたようにがくりと膝をついた。

「私は……給仕に向いてるそうですわ……」

そう言って自分の胸(の部分の服)をモミモミするものだから、バールには訳が分からなかった。

「……褒められたのなら、良かったではござらぬか」

「良くはありません! 『ちひさきものはみなうつくし』(注1)ですわ!」

「はあ?」

バールには全く訳が分からなかったが、とにかく作戦が失敗だったことだけははっきりと分かった。いや、"本音"を聞き出すことには成功したのかもしれないけど。

「では、そろそろ始めるでござるよ」

「……着替えて来ますわ」

小さく答えるとイゾルテはトボトボと何処かへと歩き出した。

「早くして下され! トリスどのが主役なのでござるからな!」


 ギャザリンは大広間に集まった代表者達の端に一人ポツンと突っ立ていた。彼だけは他の者達とは立場が違うし、性格も異なる。他の者達は街区なり組合の中で仲間内のまとめ役として立ち回ってきた者達であり、如才ない立ち振舞や心配りの出来る者達だった。だがギャザリンは本質的にはただの職人である。ベルカントの政策で大勢の弟子たちを押し付けられてしまい、さらにはその弟子が弟子を取って彼の預かり知らぬところで大きな組合のような物が出来ていたのだ。もっとも彼は実務は何もしていなくて、弟子たちが勝手に遣り繰りしているだけなんだけど。そんな訳で呼ばれたギャザリンだったが、そんな訳で弟子の一人がお伴に付いて来ていた。

「技師長、飲み物貰ってきました。なんか凄く可愛い娘が配ってましたよ!」

ガチャガチャとうるさい音を立てながら戻ってきた弟子をギャザリンはギロリと睨んだ。

「ふんっ、小娘なんぞに興味はないわい!」

だがそう憎まれ口を叩きながらも、弟子が引きずる右足をチラリと見て彼は素直に飲み物を受け取った。この場に集った者の中では、この弟子だけが足を引きずっていたが、彼の弟子たちは軒並み足の腱を切られていた。もちろんビルジの仕業である。

 彼を含めた代表者たちが無事なのは、盛りを過ぎた年寄りばかりだから兵士としては役に立たないと思われたからである。しかしギャザリンの弟子たちは肉体労働者である上に兵器の製造にも欠かせない技術者でもある。中にはギャザリンの手を離れて鳶の仕事をしていた者も多かったのだが、足をやられてはどうにもならない。彼らは家具職人にでも転職するしかないだろう。ギャザリンが水時計――というかからくり作りに拘るのも、実のところ細かい作業なら座って出来るという理由もあったのだ。

「それよりまだ始まらんのか? ハシム坊はどこにおるんじゃ」

「分かりません。でも皆さんの話では、コルクト・パシャ本人は居ないようですよ。エフメト皇子が北部で死にそうになってるそうですから」

「なにっ!?」

ギャザリンは血相を変えた。

「エフメトってーのが誰だかは知らんが、ハシム坊が居ないのならこんな所に用などあるか! 帰るぞ!」

彼の大声は周りの者達をぎょっとさせた。エフメト皇子の事を知らないとは世間知らずにも程があるし、ここまで来ておいて話も聞かずに帰ったらスエーズ人を怒らせかねないのだ。だがギャザリンの顔を見ると「なんだ、技師長か」とすんなり納得されて見なかったことにされてしまった。彼は良くも悪くも有名人で、世情に疎い変人であることも皆に知られていたのだ。

「まあまあ、来ちゃった以上は話くらい聞いていきましょうよ。スエーズ人がこの国を征服したのなら、将来仕事をくれるかもしれませんよ? 水時計ばっかり作ってるのも嫌でしょう?」

「ぐぬぬぬ……チッ、仕方ねーな!」

彼が弟子の説得に応じて足を止めると、見計らったように上手袖にいたスエーズ兵が大声を上げた。

「バール陛下のおなーりー!」


 代表者たちが何事かと玉座の前に集まると、舞台袖からいかつい男が出てきた。彼は玉座の傍らまで歩み出ると、玉座に着くこと無く仁王立ちしたまま代表達に向かって厳かに(のたま)った。

「余がムスリカ帝国国王(スルタン)にして偉大なるムスリカの神と指導者様(ハリーファ)にお仕えするバール・アッディーンである」

彼から溢れ出る威厳に打たれ、代表たちはお互いに顔を寄せ合った。

「おい、ムスリカ帝国って何だ?」(ヒソヒソ)

「スエーズ王国じゃなかったのか?」(ヒソヒソ)

「ムスリカ帝国つったら、何百年か前にドルクに滅ぼされた国だろ?」(ヒソヒソ)

意外と遠慮のない言葉がバールにグサグサと突き刺さった。

「滅びとらーん! ムスリカ帝国はスエーズで指導者様(ハリーファ)を守ってきたのだ!」

バールの絶叫は代表者達の胸を打った。

指導者様(ハリーファ)を? いったい何百歳なんだ……」(ヒソヒソ)

「さすがは指導者様(ハリーファ)だな。人間とは思えないぞ」(ヒソヒソ)

「代替わりしてる! ちゃんと世代交代しておる!」

そんなバールの絶叫に答えたのは、今度は涼やかな少女の声だった。

「まあまあ、そんなのどうでもいい事じゃないですか」

玉座を挟んで反対の下手袖から出てきたのは黒髪の少女だった。

「さっき給仕していた美少女だ……」(ヒソヒソ)

「いや、違う。顔はそっくりだが明らかに違うぞ。姉妹じゃないのか?」(ヒソヒソ)

「ああ、確かに違う。今度の娘は胸のサイズまで完璧だな!」(ヒソヒソ)

トリスは先程のドルク風の衣装から打って変わってタイトン風のドレスを身に着けていた。言わずと知れた胸甲付きドレスである。彼女の鼻は再びピクピクしていたが、同時に額の血管もピクピクしていた。

「トリス殿! しかしここは大事な所でござる!」

「そう、大事なのはスエーズ王国がムスリカ帝国を自称していることです」

イゾルテはバールの言葉尻を捉えたまま彼を無視して代表達に向き直った。

「彼らは侵略者でも征服者でもありません。少なくとも彼らはそう思っていませんわ。彼らにとってここは自国の一部であり、あなた方は長く敵の手に囚われていた自国の民なのです。ええ、彼らの頭の中では!」

どこかトゲのある言い方にバールは憮然とした顔を見せたが、口に出しては何も言わなかった。その内容自体は正しいし、彼らの誠意を示す上でもなかなか説得力のある言葉だったからだ。

「……なるほど」(ヒソヒソ)

「つまり俺達はずっと前からスエーズ王国の国民だったのか?」(ヒソヒソ)

「分かる、分かるわー。妻に連れられて出て行った子供たちのようなものだな」(ヒソヒソ)

「子供からは他人だと思われてるけど、俺達にとってはいつまでも子供なんだよな」(ヒソヒソ)

どうやら代表者たちの中には、家庭に問題のある男たちも大勢いるようである。


「えーと、ところで……お嬢さんは?」

「私はトリスと申します。見ての通りタイトンの商人ですわ」

「商人……?」

異国風なドレスは確かにタイトン人と言われても納得出来たが、年若い美少女が商人だとか、商人がこのような席で大きな顔をしていることは激しく違和感があった。

「商人がこんな所にいてはおかしいですか? でも今回のスエーズ軍の遠征は私どもが手配した物資で行われているのですよ?」

「「「…………!」」」

代表者たちは驚きのあまり息を呑んだ。

 イゾルテの言うとおりスエーズ軍が遠征できる余裕ができたのはアントニオがナイールからの無償援助を引き出してきたからであり、プレセンティナから運河開削のための大規模投資が行われているからである。そういう意味では嘘ではない。だが代表者たちは彼女のことを物凄い金持ちだと思い込んで息を呑んだのだ。特に驚いたのはそれまで何の興味もなさそうにあくびをしていたアル=ギャザリン技師長である。スエーズ王も気を使うほどの金持ちでしかも外国人なら、物珍しさから新たなパトロンとしていろんな物を発注してくれそうに思えたから。だが他の代表者たちはあまり良い方向には捉えなかった。商人とは投資の見返りを求めるものだからである。

「なぜタイトン人が? ドルクの内戦に介入して漁夫の利を得ようというのか?」

「投資した分を我々から取り戻そうと言うのだな!」

先程まではオドオドしていたくせに、相手が商人だと分かると随分とはっきり物を言うようだ。だがイゾルテは余裕の笑みを浮かべた。

「いえいえ、私はドルクから1デナリウスも……いえ、1ディナールも手に入れるつもりはありません」

実際に彼女はドルク人に恨まれてまで微々たるものを略奪する気は無かった。何と言ってもルブルム海に繋がるスエーズの運河が手に入るのだ。これからはナイールやドルクを通さずに暗黒大陸やヒンドゥラ方面と直接交易が出来るのである。それはこの壮大な宮殿の何百倍も価値のあるものだ。……まあ、後宮に大勢の美女が残っていたら、また話が変わってきたのだろうけど。

 しかしそんな主張は代表者たちには信じ難いものであった。スエーズ軍が略奪をしないことは、皇帝になろうとしているエフメトが略奪をしなかったのと同じ理由だと納得出来ないこともない。しかし、商人が見返りを求めないとはどういうことだろうか? 彼らの不審げな顔を見てイゾルテは説明を続けた。

「私は指導者様(ハリーファ)の気高い御心に触れ、せめてあの方のお力になりたいと思ったのです。あの方は小さなスエーズに押し寄せた300万のドルク難民たちを、自分の食事を削ってまで助けようとなされたのです。自分と自分が選んだ(スルタン)が頼りないばかりにムスリカの民を困窮させてしまったと……」

バールは更に憮然とした顔を見せたが、やっぱり口に出しては何も言わなかった。その内容自体は――いくらか誇張が有るとはいえ――だいたい正しいので文句を言えなかったのだ。

 だがイゾルテの言葉は代表者達の胸を打った。歴代ドルク皇帝の悪行に比べてなんと心優しいことだろうか、と。ベルカントの仁政も一定の評価は得ていたし、正にそのシンパたちがここにいる男たちだったのだが、所詮は首都バブルンの民政長官だったに過ぎない。税額を決めるのも取り立てるのも徴兵するのですら、ベルカントの預かり知らない所で行われていたのだ。その点国の最上位にいる人物がそんなに心優しき人物であれば、どんなに良い国が出来るのだろうか? 彼らが感動を覚えるのは当然のことであった。まあ本当のところは、指導者(ハリーファ)のアリーは現実世界から切り離されていて、無垢な代わりに世界の現実とかスエーズ王国の財政を理解していないだけなんだけど。

指導者様(ハリーファ)が……」

「なんと、そんなにお優しい方なのか……」

「それで、その指導者様(ハリーファ)何処(いずこ)に?」

「スエーズに留まっておられます。いずれ再びこの地にお迎えできれば良いのですけど……」

そう言ってイゾルテは目を伏せ、憂いを帯びた視線を玉座へと移した。それを見た代表者たちは、何故国王(スルタン)であるバールが玉座に座らなかったのかを理解した。この美少女(とついでにバール)の中では、そこに座るべきは指導者様(ハリーファ)を置いて他には居ないのだと……

「それなら早く指導者様(ハリーファ)をお迎えすべきでしょう!」

「そうです、指導者様(ハリーファ)の御威光でもってドルク……いえ、ムスリカ帝国を再興していただきたい!」

だがイゾルテは首を振った。

「ですがそうもいかないのです。この地は大変大きな危険に晒されています」

「そりゃあそうでしょう。エフメト皇子もビルジ陛下も狙っているでしょうからね」

何を今更と言うようにツッコミが入ったが、イゾルテは再び首を振った。

「あなた方を呼んだのがエフメト皇子の側近、コルクト・パシャだということをお忘れですか? エフメト派は少なくとも当面の間我々との間に不戦協定を結ぶことに同意しました」

「不戦協定……!」

衝撃的な言葉に代表たちは目を見張った。

「そんな約束守られるのか?」(ヒソヒソ)

「言葉だけだろうなぁ」(ヒソヒソ)

「俺はエフメト皇子が破る方に100ディナール賭けるぞ」(ヒソヒソ)

エフメトはビルジに比べれば遥かにイメージが良いはずだったが、それでも随分と信用がない模様である。

「大丈夫です。この協定にはプレセンティナのイゾルテ陛下が裏書されています。あの若く、美しく、気高く、寛大なイゾルテ陛下が、敵であったドルクの平和を願われたのです!」

イゾルテの言葉にバールは頭を抱えた。トリスの正体を知ってる彼にとっては自分をヨイショするイゾルテがとっても痛々しかったのだ。だがトリスの正体を知らない代表者たちは、彼女の言葉を聞いて納得せざるを得なかった。

「なんと、黄金の魔女が……」

「まあ、そういうことなら……」

「誰だって呪われたくないからなぁ……」

黄金の魔女の異名がドルクで畏れられていることを知らないバールは代表たちが何故あっさり納得したのか理解できなかったが、イゾルテが訳もなく自分を讃えた訳ではないのだと言うことだけは理解でき、密かに感心していた。だが当のイゾルテは微妙な気持ちだった。これまではドルク人を敵としていたからこそ黄金の魔女の悪名を高めて利用してきた訳だが、いざ味方にしてみるとこんなに名前が知れ渡っていることに少なからずショックを感じていたのだ。これでは……正体を明かしてナンパすることが出来ないではないか!

――くっ! 仕方ない、ナンパは大金持ちの商人であるトリスとしてやることにしよう

見当違いな決心をしながらもイゾルテは気を取り直した。本題も小細工もここからである。代表者たちを避難するように説得しながらも、彼らを通してビルジに漏洩させる情報を都合よくコントロールする必要があるのだ。つまり、本当は不戦協定どころではなくて実質的な攻守同盟だということを隠し、スエーズとエフメト派はあくまで個別の勢力であると思わせた上で、暫くの間はエフメト派を放置していても大丈夫であるとビルジに思い込ませるのだ。


「何故コルクト・パシャが不戦協定に同意したのかと言うと、2つの理由があります。1つは皆さんも御存知の通り、エフメト皇子が重態だからです。アイン・ジャーノレートの戦いでスエーズ軍の矢を無数に受けるところを、多くの者が目撃しています。一応生きているとコルクト・パシャは言っていますが、ベッドの上から動けないのは確実です。恐らく年若い上に強力な後ろ盾のないがエフメト皇子の信任の篤いコルクト・パシャと、強力なハサール軍を率いエフメト皇子の嫡男を抱えるニルファル妃の間で軍の支持が割れているのでしょう。

 もし外敵(◆◆)に攻められれば自衛のためにも一致団結せざるを得ないでしょうが、現状で彼らの方から攻めて来ることはあり得ません。この協定は彼らエフメト派内部での争いについても不戦を誓うための物なのです。協定を破ってスエーズ軍(◆◆◆◆◆)を攻めることは、両者の危ういバランスを崩しかねません」

 回りくどい話ではあったがドルクの政権争いは今に始まったことではない。ハサール軍の評判もこの1年で格段に良くなってはいたが、それは「意外と話せるじゃないか」とか「味方にすると頼もしい」という感じであって、いつでも無償で助けてくれる聖人君子だと思われている訳では絶対になかった。だから幼い皇子を抱えたハサール人妻が夫の腹心と対立していると聞いても納得できる話なのだ。


「そしてより重要なのはもう一つの理由です。ビルジ皇帝が、いえ、売国奴のビルジが東の蛮族と手を組んだからです」

「「「…………」」」

彼女が神聖にして不可侵である皇帝を悪しざまに罵ったことについて、代表者たちから反論の声は上がらなかった。ビルジは罵られて当然なことをしていたし、既にこのバブルンから追われているのだ。しかし外国人の口から「売国奴」呼ばわりされるというのは違和感があった。

「蛮族……ですか?」

「ええ、匈奴と呼ばれる騎馬民族です。彼らは東のツーカ帝国を滅ぼし、ヒンドゥラ王国をも滅ぼしました。その際、ヒンドゥラ王国に味方していたはず(◆◆)のビルジが、勝利を目前にしていたヒンドゥラ国王を裏切り、殺したのです!」

「「「…………!」」」

彼らは衝撃の展開に驚きつつも、ビルジの行状については「あー、やりそうだよね、ホント」と誰も違和感を感じなかった。

「匈奴は征服した国の兵を最前線で戦わせ、更に別の国へと侵攻するのが常です。ツーカ帝国やヒンドゥラ王国の軍を加えれば、彼らの総勢は200万を下らないでしょう。そして次の標的はここです。ビルジはそのためにヒンドゥラと手を結び、そのためにヒンドゥラを売ったのですから」

「「「…………」」」

目も眩むような数字に彼らはお互いの顔を見合わせた。200万という数字が自分の聞き間違えではないかと耳を疑ったのである。しかしそれを口に出さずとも、他の者達が同じ思いに捕らわれているということが顔色で分かり、誰も口には出さなかった。そして信じたくない話ではあったが、彼女の予想を否定できる根拠は何もなかった。さらにビルジの行動が事実だとすれば、彼らの進路がこのバブルンだという彼女の予測は誰も異論を挟むことが出来なかった。

「コルクト・パシャはおっしゃいました。人々を、あなた方をビルジの手から守って欲しいと。不戦協定はそのための物です」

状況を説明し終えたイゾルテは一旦口を閉じたが、そのあまりにショッキングな内容にしばらく誰も口を挟めないでいた。空気を読まないギャザリンだけは何か言おうとしていたが、空気を読んだ弟子がポカポカと殴られながらも必死に彼の口を押さえて黙らせていた。


「200万の大軍に……勝てるのですか?」


代表者の一人から発せられた率直な疑問に、イゾルテも率直に答えた。


「勝てません」


 彼女の堂々とした態度とあまりにも正直過ぎる言葉に、代表たちは清々(すがすが)しさすら感じてしまった。

「……って、結局負けるんかい!」

「では、降伏するということですか?」

「だったら今までの話は何だったんですかっ!?」

これもまた当然の疑問だった。

「いえ、降伏はしません。勝てはしませんが、負けない戦いは可能なのです。ただしこのバブルンや川の間(メソポタミア)ではなく、スエーズ地峡での話ですが」

「スエーズ地峡……?」

「スエーズ軍には、彼の地にて長年ドルクの大軍を相手に指導者様(ハリーファ)をお守りしてきた実績があります。スエーズ地峡で膠着状態に持ち込み、エフメト皇子の傷が癒えるまで耐えることが出来れば、自ずと状況は変わってくるでしょう」

それは確かに合理的な話だった。北部のエフメト派と協調できるのならビルジ派に二正面作戦を強いることが出来る。それが有利に働くことは素人である彼らにも良く分かった。だが彼らにとって更に良く分かったことは、その間この中部平原は野蛮な蛮族と彼らに支配される雑多な200万の軍勢に占領されるということだった。果たしてあのビルジが、彼らから市民を守ってくれるだろうか?


「それじゃあ……我々はどうすればいいのですかっ!?」

「我々を置いて逃げるというのか!」

真っ赤な顔でイゾルテに詰め寄った代表者たちに対して、彼女はあくまで率直だった。

「そうですわ」

あまりにもそっけない一言に代表者たちは凍りついた。この場合それは彼らにとって死の宣告に等しいものだった。だがもちろん、イゾルテの話はそれで終わりではない。一方的に要求を突きつける相手に対して、一旦突き放してから歩み寄ることで好意を獲得しつつ相手にも譲歩を迫ることが出来るのだ。

「ですが、避難する方々を受け入れる用意は致します。

 歩ける方は西に向かって下さい。スエーズには難民を受け入れる用意があります。

 足の悪い方はユーロフラテンス川を遡って北部に向かって下さい。エフメト派が歓迎するでしょう。

 そして戦う意志のある方は南に向かって下さい。ペルージャ湾を制圧し、砂漠の南のアルビア半島南部を確保します」

 彼女が示した選択肢に代表者たちは押し黙った。示された選択肢は3つだけだったが、彼女の真剣な眼差しは最後の選択肢の存在を(ほのめ)めかしていた。彼女は無言の内にこう言っているのだ。「私に従え、でなければ死ぬだけだ」と。

「し、しかし、それほどの馬車や船などありません」

「まだ時はあります、作りましょう。最悪筏でもユーロフラテンス川なら遡上できます」

「ですが……材料は? 筏を作るのだって山から木を伐り出さなくてはいけないのですよ?」

「不思議な事をおっしゃいますね。ビルジや匈奴に奪わせるために、この街を残していくつもりなんですの?」

いっそ獰猛とも言える不敵な笑みに、彼らは自分が取引しているのが悪魔だと悟った。当然である、彼女は商人なのだから。膝を折って華麗に一礼し、再び下手袖に消えていく彼女の後ろ姿を呆然と見送りながら、彼らは何も言えなかった。そして……バールも。

――あれ? イゾルテどの? ここで(それがし)に振るのは無茶ではござらぬか……!?

代表達の視線が自分に集まると、バールは内心の動揺を押し隠して威厳たっぷりにこう宣った。

「聞いての通りである! 各々配下の者達に今の話を伝え、よくよく身の振り方を考えよ!」

そして彼もまた舞台袖へと去っていった。


 代表たちを置き去りにして逃げてきたバールは、ワゴンを反しに行こうとしていたイゾルテを見つけて詰め寄った。

「何という無茶ブリでござるかっ! 某が言うことなど残ってなかったでござるよっ!」

「あら、でも最初と最後はバール様に挨拶していただくのが筋でしょう?」

可愛らしく小首を傾げるイゾルテに、バールは返ってイラッとした。だって中身が男なのだから!

「宴会ではござらぬ! それに、それならそうと言っておいて欲しいでござるよ!」

「えー? でも、やっぱり私が勝手に締めちゃったらおかしいですわ」

「だ・か・ら、『バール様、私からは以上ですわ』とでも言ってくれれば良いのでござるっ!」

バールが血相を変えて詰め寄るとイゾルテはぽんっと手を打った。

「ああ、なるほど! さすがはバール様ですわ」

「…………」

飄々と、というより脳天気な様子に毒気を抜かれ、バールはどっと疲れが押し寄せてきた。ついでに喉の渇きも。

「あー、もういいでござる。次から気をつけて下されよー」

そう言いながら彼は、ワゴンにあったジュースを手に取った。

「あっ、それは……」

イゾルテが止めようとするのも間に合わず、彼はそれを一気に飲み干した。そしてくわッと大きく目を見開いた。

「……っ……!」

声にならない悲鳴を上げながら口を押さえ喉を掻き毟る彼の姿に、周りにいた奴隷軍人(マムルーク)たちが何事かと慌てて駆け寄って来て両脇から彼を支えた。

「上様、だ、大丈夫ですか?」

「だ……っ……ぶっ……!」

口をパクパクさせながらも声を出せない彼の様子に、彼らはイゾルテへ疑いの目を向けた。

「トリスさん、あなたは陛下に盛られましたね? ……お酒を」(注2)

「プンプン匂いますよ。どんだけ飲ませたんですか?」

「飲ませたんじゃありませんわ! バール様が勝手に飲まれただけです! カクテル用の高濃度酒精{アルコール}を……」

耳慣れない言葉に奴隷軍人(マムルーク)たちは眉根を寄せた。

「何ですって?」

「お酒を濃縮したものですわ。だいたいビールの15倍くらいかしら? たくさん水を飲ませてください。そうすれば薄まりますし、吐かせやすくなります」

「はあ……」

何故か的確な彼女の指示に奴隷軍人(マムルーク)たちも素直に頷いた。だが、一人納得のいかない物がいた。当のバールである。彼は既に怪しくなっていた呂律で彼女を詰問した。

「なーんで、くぉこに、さぁけなんかぐぁ、あるのれ、ひっく、おざるかぁ?」

「え? だってさっき言ったじゃないですか」

「…………?」

バールは先程の代表者たちのように真っ赤な顔で首を傾げた。

「言いましたよね? あの方たちの本音を聞き出して来るって」

「……なるほろ」

最初におどおどしていた代表者たちが途中から遠慮無くイゾルテに食いついていたのは、彼女に盛られた酒のせいでほろ酔いだったからでもあったのだ。そう納得しつつも、彼はもうどうでもいい気分になっていた。ついにかくんと首が垂れると彼は盛大にいびきまでかきはじめた。

「あー、寝ちゃいましたね。仰向けで寝かせないで下さい。嘔吐しても窒息しないように横向きにするんですのよ」

「はあ……」

何故かやっぱり的確な指示に従い、奴隷軍人(マムルーク)たちはいそいそとバールを寝室へと運んで行った。

注1 『なにもなにも、ちひさきものはみなうつくし』は枕草子の一節です

日本ネタですのでイゾルテと西洋・中東とは全く関係ありませんが

「ちっちゃい物って何でもカワイイわねー」という女子ネタです

きっと清少納言も貧乳だったのでしょう


注2 イスラム教では飲酒が禁じられています。が、サラディンの時代には真面目に禁酒してる人は少なかったそうです。

それでも禁酒してたからこそ、サラディンが高潔に見えるのかもしれません。

ちなみに同性愛も御法度ですが、サラディンの時代の君主たちは皆少年愛にハマっていたそうです。

それでも少年に手を出さなかった……としたら、更に高潔に見えたんでしょうかねぇ?

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