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太陽の姫と黄金の魔女  作者: 桶屋惣八
第8章 ムスリカ編
239/354

平安の都 その2

遅くなりました。

今月開催中のアルファポリスのファンタジー小説大賞に応募しております

 ハシム(の使者だと名乗るハシム自身)と別れたイゾルテ一行はそのままバブルンの中央に(そび)える宮殿に向かっていた。プレセンティナの皇宮と同様、それは皇帝の住まいであると同時に国を治める政府の中枢でもある。いや、元老院もなく全ての権限が皇帝の一身に集中するドルクにあってはプレセンティナよりも遥かに重要といえるだろう。

 当然今はスエーズ軍が制圧し、バールが司令部を開設しているはずだった。イゾルテの主要な目的の1つもそこにあるはずだったが、イゾルテの目は街行く人々に注がれていた。正確には、彼らの足に。こうして注意して観察してみると、彼らのおよそ3人に1人が足を引きずったり松葉杖(注1)を使っていた。ハシムの話では「悉く」ということだったが、残りは普通に歩いていた。これでは言われるまで気づかなくても不思議はないだろう。

――だが、男の2/3が無事だという訳ではないだろう。そもそも足が不自由な者がこんな時にわざわざ出かけたりするはずないからな……

恐らくは極々僅かな健常者と何らかの理由があって出かけざるを得ない者だけが外を出歩いているのだ。無事な者というのも、その当時バブルンに居なかったのかビルジ派から身を隠すことに成功したのか、あるいは兵士に賄賂でも渡して見逃して貰った者なのだろう。

――いや、そんな目にあったのなら街を出て行きそうなものだな。まさか、ビルジ派の兵士……か?

イゾルテは目のついた健常者にじっと目を凝らした。イゾルテのように目深にフードをかぶり、小柄な体できょろきょろと周囲に視線を配るその姿はいかにも何か疚しいところがあるように思えた。そしてその視線がイゾルテのそれと正面からぶつかった時、その人物は慌てて脇道へと姿を隠してしまった。

――なんということだ、この私がこんなことに気づかなかったとは!

全てを悟ったイゾルテは愕然としていた。この街は今、恐ろしい状態に陥っていたのだ。何故なら彼女が見たその顔は……女性のものだったから!

――無事なのは男装してる女性なのか!

慌てて見回せば女性の姿をした者は全くいなかった。まあ不穏な情勢下で女性が好んで出歩く訳も無いのだが、逆に言えばそのような情勢下でも男の代わりに出歩かなくてはいけない場合、女性たちは男装する必要があったのだ。それに気づかないとは彼女らしからぬ失敗だった。

――まさか、この街でも女性たちが顔を隠しているとは……期待していたのに!

イゾルテはギギギと歯をくいしばった。だが例え彼女の想像が正しかったとしても、まだ彼女には希望が残されていた。彼女はようやく、行く先に聳える宮殿へと目を向けた。


 皇帝の宮殿は絢爛なものだった。もともとこの地に建てられていたムスリカ帝国指導者(ハリーファ)の宮殿は隣にある巨大な礼拝堂(モスク)よりも簡素なものだったのだが、ドルクに占領された際に破壊されてしまった。現存するのはドルク歴代の皇帝たちによって建造され増改築を繰り返されてきたものであり、それ故に宗教色は薄く、むしろ神の威勢をも凌ぐことを宣言するかのようにより絢爛で豪華だった。全てが純白の大理石で構成され、いたるところが鮮やかなタイルや金箔で飾り付けられていた。特に四方に立つ尖塔はとっても高そうだった……建築費が!

――しょ、所詮は歴史の浅い成金国家だからな。こう、なんというか、歴史の重みというか、哀愁というか、侘び寂びのようなものが足りないんだよ、うん!

イゾルテは頬をヒクヒクさせながらそう思った。そう、思うことにした。本当に足りてないのは(さび)とか汚れとか、無くても全然困らないものなんだけど。


 門前にいた奴隷軍人(マムルーク)たちに会釈しながら中に入ると、イゾルテは案内に従ってバールのもとへと向かった。在りし日には多くの貴顕が色鮮やかな衣装に身を包んで行き交っていただろう白亜の廻廊も、今は僅かばかりの奴隷軍人(マムルーク)たちがその無骨な姿を見せているだけだった。真っ白な壁を彩る様々な幾何学模様が返って不思議な哀愁を漂わせ、イゾルテはその物悲しさに目を伏せて静かに慨嘆した。

――きっと高価な調度品もいっぱいあっただろうに、さすがに金目な物は持ちだされていたか……! くそっ、エフメトめ!

その物憂げな表情は通りすがりの奴隷軍人(マムルーク)たちが溜息を吐くほど美しかったが、心の中は欲にまみれて汚れきっていた。金に換えられるような物など二の次である。イゾルテにはまだ希望が残されていた。


 バールは謁見の間に司令部を置き、主だった部下たちと何やら話し合っていた。

「上様、ここは……」

「いや、やはり……」

「ですが……」

しかしイゾルテの注意は彼らの足元に敷かれた大きな地図に奪われていた。その地図にはドルクの諸都市や街道、河川や山地、そして砂漠などが事細かく記されていたのだ。本来なら当然処分されるべき最重要な軍事機密であるが、この情報が無ければ避難民の誘導も匈奴軍の誘出も困難になるから、気を利かせて地図を残してくれたのだろう。エフメトらしからぬ気の遣いようだった。

 ただしエフメトの勢力圏内である北部一帯のあたりは綺麗に焼け落ちていて、いかにも「焼却しようとしたけど偶々(たまたま)燃え残っちゃった」という(てい)でだった。

――うっわー、偽装が細かいなぁ。どうせなら北部もくれれば良かったのに……。くそっ、エフメトめ!

不自然さをカモフラージュするのと同時に、スエーズ軍に委ねない北部の情報を自然な形で秘匿したのであろう。

――この分じゃあ北部も含まれる統計情報は残ってないだろうな。南部から上がってきた一次資料くらいは残されてそうだけど……

一次資料というのは書式もバラバラでヘタをしたら書簡のようなものだったりするだろうから、その中から使える情報を引っ張りだすのは大変なことである。イゾルテは事務屋を連れて来なかったことを後悔した。こんな時にアントニオがいてくれたら……とは、残念ながら思わなかったけど。

――あいつがここにいてもサラの事が気になって仕事に手がつかないだろうからなぁ

もっともそのアントニオを相思相愛(◆◆◆◆)のサラの元に置いてきたのだから、今頃は別の理由で仕事が手につかなくなってる可能性はあったけど。

 それに資料を整理させるなら現地の人間を雇うのが一番である。ビルジ派のスパイが入り込むのは困るが、幸い明日はエフメト派のインテリ層が群れをなして会合にやって来るのだ。その中からスカウトするのが手っ取り早いだろう。

――問題は、その会合のための理論武装は全部自分でやらなければいけないことだな……。くそっ、エフメトめ!

とりあえずイゾルテはその地図の前に膝をつくと、その隅々までつぶさに目に焼き付け始めた。


 ドルクは大まかに4つの地域に分けることが出来る。中央にあるのが東のテゲレス川と西のユーロフラテンス川を擁する肥沃な平原、いわゆる川の間(メソポタミア)と呼ばれる地域である。(注2) 古代から文明を育んできた穀倉地帯で、このバブルンも2つの大河に挟まれた場所にあった。これにメダストラ海沿岸を加えた中部平原地帯がドルクの中枢と言えるだろう。

 その北にあるのがドルク発祥の地アマトリア半島を含む北部高原地帯である。中部の平原とは打って変わってほとんどが高原地帯であり、ペルセパネ海峡周辺を含む沿岸部にのみ狭隘な平地が広がっている。

 一方南部に広がるのは広大で平らな半島――アルビア半島である。他の地域を圧する巨大な面積があるのだが、その大部分は人を寄せ付けない砂漠で、耕作に適しているのは僅かに南部~南東部の沿岸地域だけであった。

――砂漠か……話には聞いていたがここまで広大なのか……

縮尺が正しいとは限らないが、砂漠地帯はアムゾン海がスッポリと入るサイズである。海なら幾らでも商売のタネに出来るのだが、さすがのイゾルテもこの砂漠に手を出すつもりにはなれなかった。だがこのアルビア半島こそがムスリカ帝国発祥の地であり、同時にムスリカ教発祥の地でもあった。聖地であるマラッカやメッシーナもこの半島の西岸にある。

 そして最後に残るのが東部地方だ。南北に伸びる長大な山脈により中部・北部とは完全に分かたれるため、この地域はエフメトも未だに制圧できないでいた。ビルジにとっては最後の砦であるが、この地域は山岳であったり草原であったりとあまり肥沃とは言えない土地である。ビルジ派が天嶮(てんけん)を盾にして立て籠もったと言うよりは、エフメトが重要性が低いと見て後回しにしただけなのだろう。なぜならこの地域は、山脈を越えなくてもペルージャ湾を渡ればその中枢であるペルージャ地方を攻め落とすことが出来るからである。

――しかし、このペルージャ地方からは強大な帝国が幾つも勃っている。地味(ちみ)に乏しくとも精強な兵を養うには適した土地だということだろうか。

実際に、ムスリカ帝国の前にアルーア大陸西部を席捲したサザン朝もこの東部地方から勃った国だった。つまり古代に文明を育んだこのメソポタミアは、東のペルージャ人に征服され、南のアルビア人に征服され、北のドルク人にも征服され、今は西のスエーズ人にまで征服されようとしているのだ。何とも皮肉なことである。


 こうして詳細な地図で四方を見比べてみると、ドルクにおいて中部平原がいかに重要かが良くわかった。

――やはり私の戦略は正しかった。バブルンを手に入れた以上、我らの勝ちは決まったも同然だ。

匈奴の大軍を養わねばならないビルジにとって、この穀倉地帯を手に入れることは死活問題である。そしてテゲレス・ユーロフラテンス両川に繋がるこのバラクダットは正に中部平原の中枢であり、地理的にも東にあるからここを放置して先に進むことはあまりにも危険だ。そしてエフメト派に対する政治的な影響も考えれば、ビルジは何を置いてもバラクダットの攻略を優先させるだろう。つまり、もしビルジが運河の完成前に攻めてきても、バラクダットで時間稼ぎが出来るのだ。そしてその間にこの平原の人々を根こそぎ四方に避難させるか、最悪でも来年の耕作が出来ないようにするのだ。そうすればビルジはバラクダットを攻略した後、ナイールの大穀倉地帯に目を向けるだろう。もし匈奴軍が飢えれば自分の地位すら怪しくなるのだから。

――大軍故にこそ選択肢はない。私なら確実にスエーズに向かうだろう。しかし、ビルジならどうだろうか……

 イゾルテは自分を非情な人間だと思っていた。少なくとも非情になれる人間だと。今回の彼女の戦略も、中部平原に住まう人々を故郷から追い出して難民にし、最悪の場合スエーズ軍をバラクダットに籠城させて見殺しにするというものなのだ。そして全ては彼女の思惑通り順調に進展していた。

 しかし、ビルジの非情さは想像以上だった。歯向かう国民を虐殺することや奴隷に落とす可能性は彼女も予測していた。ドルクの歴史を振り返れば、むしろ当然のことである。しかし、ビルジの治世下でバブルンに留まっていた者達は、果たしてビルジに反抗したのだろうか? いや、もし反抗していたならアイヤールのヤークーバ老人たちのようにさっさと都落ちしていたことだろう。つまりビルジは、これまで何の反抗もしてこなかった市民をエフメトの足かせとするためだけに不具者にしたのだ。

――ヤツは私とは違う。ヤツは……汚名を蒙ることを恐れていない!

イゾルテは非情ではあっても世論の非難がプレセンティナに向くことを心より恐れていた。彼女の根底にある目的は、極端な話プレセンティナのためでもなければタイトンのためでもなく、ルキウスと彼に連なる人々の名誉と幸福のためなのだ。そのために彼女はさまざまな策謀を巡らせ、上辺を取り繕い、皆を騙してきたのである。だがビルジにはその枷がない。彼女の想像を越えた卑劣で卑怯で邪悪な振る舞いを行いかねなかった。

――中部平原に人を残していけば……口減らしされるかもしれない……

 100万の軍と言えば空前絶後の大軍勢だが、人口としてはプレセンティナ一国と変わらない。ドルクにとってはバブルン1つだ。恐らく中部平原の人口は1000万を遥かに越えるだろうから、その一割を間引くだけで100万の軍を養い得る。もちろんそんなことをすれば大きな禍根を将来に残すことになるから、奪うだけの盗賊には出来ても、国を治める皇帝に出来ることではない。だが、治める気の無いビルジにならどんなことでも出来るのかもしれないのだ。

――いや、自ら手を下す必要もない。匈奴軍は報酬としての略奪を要求するだろうから、それを受け入れればいいのだ。ヤツはただ、国民を"守らない"だけで良い。国民の恨みは主として匈奴に向かい、ビルジはそれを根拠として、この地を治められるのはドルク人である自分だけだと主張するのだ。

悪夢のような想像にイゾルテは目が眩む思いだった。

――兎に角、中部平原の生産性を落とさなくてはならないのは大前提だ。ならば避難させるしかない。西の方はスエーズに向かわせればいいし、北の東部と南部、そしてこのバブルンだな……

一千万人規模の大移動である。ただでさえ難行だというのに、足の悪い男たちが何十万もいるのだ。しかも彼らを大黒柱としてきた家族もいる。本来なら彼らが荷車を牽いて避難すべき所を、彼らが荷車に乗ることになるのだ。しかもスエーズまでは直線でも1000ミルム、とても辿り着けるとは思えなかった。

「ト××殿、××××で××るか?」

――それくらいなら北部に逃した方がマシだが、それでも500ミルムか。

北部に向かうにもテゲレス川は使えないだろう。古代の歴史家ヘロドとトトスが「急峻なため普通の木造船では遡上できない」と書き残したほどである。(注3) 平原をぐるりと西の方まで迂回しているユーロフラテンス川は渡中で見る限り穏やかだったが、それでも北部の山岳地帯に入るあたりはどうなるか分からない。

――いっそ南に下るか? しかし南部で大きな人口を養えるのは半島の南端だけだ。

 イゾルテがバブルンの南に目を向けると、そこには細長いペルージャ湾があった。三方を陸に囲まれ、アルビア半島から突き出たツノによってその出口もキュッと狭くなっている。どう見ても穏やかな内海である。沿岸に沿って進むなら、簡単な帆船でもずっと南まで行けるかもしれない。

「ト××殿? ××ス殿!」

――意外と……簡単に行けるんじゃないか?

 改めてアルビア半島の砂漠に目を向けると、半島は広大な砂漠によって完全に分断されていた。陸路ではほとんど通行不可能に近いのだが、海路ならテゲレス側を下る分を考えても非常に容易な旅であるように思われた。

 だが、それはビルジにとっても同じことである。東部のベルージャ地方からはペルージャ湾を渡るだけでアルビア半島に渡ることが出来る。最も接近する海峡付近では100ミルム程だ。荷揚げの時間を含めても2日で往復できる距離である。

――南部に避難しようとしまいと、ペルージャ湾の制海権を握らない限り、アルビア半島は落ちたも同然だ。逆に言えば、制海権さえ握ればアルビア半島は維持できる!

匈奴がいかに大軍でも海上戦力は限られる。まして匈奴に無理やり戦わされている者達が、匈奴人の目の届かないところで真面目に戦うだろうか? イゾルテは知らず口の端を吊り上げていた。


「トリス殿、トリス殿!」

突然肩をガクガクと揺さぶられて、イゾルテはようやく自分が話しかけられていることに気づいた。

「えっ?」

「ですから、中央平原を征服した後のことでござる。やはり聖地を抱えるアルビア半島の開放でござろう?」

バールがイゾルテに同意を求めると、彼の部下たちが口々に反対意見を唱えた。

「しかしエフメトが死亡した可能性もある今、一気にドルクの息の根を止めるべきではありませんか?」

「そうです! エフメトさえいなければドルクに旗印となる者はいません。仮に死んでいないとしても、瀕死であることは明らかです!」

「だ、だが、これは神の命じられた聖戦(ジハード)なのだぞ? 優先すべきはアルビア半島である! トリス殿、そうでござろう?」

 どうやらバールは部下たちの主戦論に()されているようだった。それで部下を説得するために彼女に支援を頼みたいようだ。まあ、イゾルテにも主戦論を唱える者達の気持ちも分からないではないのだが、この八百長を仕組んだのはイゾルテ自身である。説得に協力するのは当然の義務だろう。

「確かにエフメトの嫡嗣(ちゃくし)はまだ幼く、またその母親はドルク国内に血縁のないハサール人です。ドルク人の心を掴むことは出来ないでしょう」

イゾルテの言葉に奴隷軍人(マムルーク)たちは顔を綻ばせたが、当然バールは慌てた。

「イゾっ……トリス殿! 今更何を!?」

食ってかかろうとするバールを制しながら立ち上がると、彼女は奴隷軍人(マムルーク)たちに向き直った。

「ですが、だからこそ放っておくべきです。彼女の手元には精強なハサール騎兵10万があるのに、何故か(◆◆◆)攻めて来ていません。それはおそらくエフメト派内部での主導権争いが原因でしょう。ですがこちらから攻めかかれば、彼らも内輪揉めを止めて団結せざるを得ません。彼女が幼い息子を皇帝に据え、後見の名目で全権を握るかもしれませんわ。北部に撤退させたとはいえ、兵力そのものはほとんど減っていません。団結すれば5万や10万では相手になりませんわ」

言いながらイゾルテは、「あれ? それって最高のシナリオじゃね?」と思い始めていた。まあ正確には、ニルファルが実権を握ることが素晴らしいだけであって、ビルジや匈奴に対しては何の対策にもなってないんだけど。だが彼女の主張自体は誰もが納得せざるを得ず、バールも我が意を得たりと膝を打った。

「うむ、そういうことでござるな。分かったか? そういうことだ!」

彼は何も説明していなかったが、とっても偉そうだった。

「……確かに、今北部を攻めるのは間違いかも知れません。しかしアルビア半島は大半が砂漠です。それにそもそも、聖地はアルビア半島の西岸ですよ? スエーズから直接聖地に行けば良かったではありませんか?」

「…………」

全く以て正論である。バールはギギギギっと首だけイゾルテの方に振り向いた。

「確かに聖地を掌握することは容易かったことでしょう。しかし目的が聖地の安寧を保つことであれば、それだけでは足りません。

 アルビア半島の大半が砂漠であることは確かです。故に大軍で攻め入ることは不可能に近い。……ですが、海の道を使えば容易(たやす)いのです」

「海の……道?」

イゾルテは地図の上のペルージャ湾を指差した。

「御覧ください。ペルージャ湾の幅はおよそ200ミルム、海峡部では100ミルムほどに過ぎません。そしてその対岸は東部の中心ペルージャ地方です。 ビルジはいつでもこの湾を渡れるのです。そしてペルージャ湾からテゲレス川を遡れば、このバラクダットにもたどり着けます。

 逆に言えば、このペルージャ湾の制海権を握るということは、いつでも好きな時にバラクダット、アルビア半島、ペルージャ地方の何れにも行けるということです。山脈も砂漠も越えること無く」

 海洋民族であるプレセンティナ人らしい考え方であろう。船に乗ったこともない奴隷軍人(マムルーク)たちにとっては目から鱗が落ちるような思いだった。だが制海権と言われても彼らにはどうしようもない。バールも困惑したように眉根を寄せた。彼らは海上での戦いなどまるで知らないのだ。

「我々に船に乗れと仰るのでござるか?」

「場合によっては。ですが操れとは申しません。エフメトと戦うのならともかく、ビルジと戦うことをドルクの住人が拒むとは思えません」

「つまり、彼らを味方にしろと?」

「ええ、特にアルビア半島の人々は、古いアルビアの文化を今に伝えるスエーズに好意的なのではないですか? 少なくとも、聖地に暮らす人々が信心深くないとは思えませんし、指導者(ハリーファ)の影響力はあると思います」

「……確かに」

 スエーズ人の中には、ルブルム海を渡って聖地マラッカへ巡礼する者も多い。彼らの話を聞く限りでは、ムスリカ帝国を名乗ってドルクに反抗し続けるスエーズに対して、人々は好意的であるという話だった。その理由の多くはドルクへの反感からかもしれなかったが、内乱におけるビルジの悪行を知らないはずもなく、彼らが味方につく可能性は大いにあった。

「それに、西の運河が開通すればプレセンティナ海軍もルブルム海に出ることが出来ます。メダストラ海も平和になって軍船が余っている程です。100隻単位で応援を呼べますよ」

「応援……。いったい、何ミルムくらいの距離でござろう?」

「ペルセポリスからなら……8000ミルムくらい?」

あまりにも壮大過ぎる話にバールも部下の奴隷軍人(マムルーク)たちも二の句が告げなかった。ポカンと口を開て呆れ顔を見せる彼らに、何故かイゾルテは慌てた。

「いえいえ、ドサクサに紛れてアルビア半島航路を教えて貰おうとか、渡中の島に補給基地を作って将来の交易に備えようなんて、そんなことは全然まるっきり考えていませんわ!」

バールは口を半開きにしたままジト目になっていたが、結局文句は言わなかった。

「ゴホンっ! いずれにしても、アルビア半島を味方に引き入れるのが一番だ。まずはこのバラクダットがムスリカ帝国の手に戻ったことを宣言し、指導者様(ハリーファ)の名の下に服するように使者を立てる。至急準備せよ」

今度は部下たちも大人しく頭を下げた。

「「「はっ、かしこまりました」」」


 部下たちが四方に散ってあれやこれやと作業を始めると、イゾルテも次の行動に進むことにした。地図以外の情報に目を通すことである。

「バール様、他の資料はどこにあるのですか?」

「……特にないでござるよ?」

「えっ? このあたりとか、ペルージャ地方の資料も?」

「ああ、空っぽでござった」

「…………」

何の気なしに答えるバールに愕然としながら、イゾルテは崩れ落ちそうになった。

――これじゃあ各地の人口とか主要産品が分からないじゃん! くそっ、エフメトめ!

だがふっと思い出した。そもそも地図を焼け残ったように偽装するほどだ、一次資料とはいえ残しておくのも不自然だろう。

――明日やって来る連中に持たせているのか? 民間の資料ということなら裏取引には見えないからな。

納得できる考えである。だが彼女はその会合の前に目を通したかったのだ。

――くそっ、エフメトめ! もう知らん、明日のことは明日悩めばいいんだ!

半ば自棄っぱちになりながらイゾルテは最も重要な案件を切り出した。


「バール様……後宮(◆◆)はどちらですか?」

「……なぜ後宮に?」

「それはもちろん、女である私が美女たちを……じゃなくて、後宮を管理すべきだからです!」

それは個人的には大変重要な問題である。イゾルテは非の打ち所のない主張を唱えて胸を張ったが、バールは彼女のぺたんこな胸を見つめながら頬を引き攣らせた。

――イゾルテ殿は男でござろうが! 女装しているだけでござる!

だがイゾルテがトリスのフリをしている限り、彼も人前では女として扱わなくてはいけなかった。しかしそうなると、イゾルテの言うことに表立って反対する理由もないのである。

「……分かったでござる。案内させるでござるよ」

注1 松葉杖に類する物は古代エジプトにもあったそうです。

というか、エジプト以外に記録が残ってないだけでたぶんそれ以前にもあったんでしょうね。


注2 テゲレス川=チグリス川、ユーロフラテンス川=ユーフラテス川です。

どちらもトルコ東部を水源としていてバスラ付近で合流してシャットゥルアラブ川になりペルシャ湾に注ぎ込みます。

まあ、古代は合流しないまま別々にペルシャ湾に注いでいたそうですが。

この双子のような2つの川に挟まれた川の間(メソポタミア)に花開いたのがメソポタミア文明です。

バグダットはアッバース朝時代にカリフがふらっと作っちゃったほぼ完全な人工都市ですが、地理的にはチグリス・ユーフラテス川がぐぐぐっと近づいた位置にあります。その距離はおよそ40km。しかもササン朝ペルシャ時代の運河が網の目のように結ばれていたので水上交通の要だった訳です。


注3 ちなみにチグリス川は河口までの全長がおよそ1900km、ユーフラテス川は3000kmで、バグダットは(チグリス川基準で)河口から560kmです。地図上で見る限りユーフラテス川基準でも大差なさそうです。

そしてこのバグダット、なんと標高は34mです。

つまりここから河口までは1kmあたり6cmしか高低差が無いのです! ナイル川も河口から200kmくらいのところにあるカイロが標高11mくらいなので同レベルですね。

しかしここから上流が問題です。ヘロドトスによるとチグリス川やユーフラテス川は急峻で木の船が遡上できないからグーファ(クッファ)と呼ばれる木の骨組みに皮革を張った軽い船を使っていたそうです。

といっても、"ナイル川と比べて"なので日本人的な感覚では全然大したことはありません。

GoogleMapで計算してみると、チグリス川のバグダット~シリア国境までの平均勾配は34cm/km、ユーフラテス川は26cm/kmです。

更にユーフラテス川はシリア国内も710kmに渡って平均勾配は23cm/kmでゆったり流れています。

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