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太陽の姫と黄金の魔女  作者: 桶屋惣八
第8章 ムスリカ編
238/354

平安の都 その1

 ドルク帝国の都バブルンはペルセポリスに並ぶ100万都市と言われていた。テ・ワに言わせればツーカ帝国ソウ王朝の都リンアンも(注1)これに匹敵したとのことである。……今ではどうなっているか分からないが。この堂々たる大都市がこの3ヶ月あまりの間に二度目の落城を迎えていた。4つの大門は既にスエーズ軍によって制圧され、皇帝の宮殿を初めとして主要な施設も手中に収められていた。

「城内の主要箇所は制圧致しました。プレセンティナ軍の方々も御入城下さって結構です」

バールから遣わされた若い奴隷軍人(マムルーク)の報告を受けて、イゾルテは目深にフードをかぶったまま丁重に頭を下げた。

「ご丁寧にありがとうございます。ですが我々は商人です。そこのところをお間違えにならないで下さい」

 今のイゾルテは皇帝イゾルテの侍女にして腹心でもある黒髪の美少女トリスであり、更にはプレセンティナ商人の娘だという設定になっていた。同行しているプレセンティナ人たちとスエーズ軍を率いる(スルタン)バールだけは全てを承知していたが、他の奴隷軍人(マムルーク)たちは彼女をイゾルテとは別人の侍女トリスだと認識していた。そしてこれからバブルンに入城するにあたっては、市民たちにはあくまでただの商人の娘トリスとして振る舞うことになっているのだ。ややこしいことである。

「そっ、そうでした。失礼しました、と、とと、トリス、さん!」

慌ててペコペコと頭を下げる奴隷軍人(マムルーク)に、イゾルテはにっこりと微笑んだ。

「うふふ、商人の娘にそんなに恐縮していては不自然ですわ。もっと自然に接して頂けます?」

「せっ、接して? し、自然に?」

何を勘違いしたのか顔を真赤にして手の平をワキワキさせ始めた奴隷軍人(マムルーク)の肩をがしりと掴む者がいた。近衛中隊長にして隊商(キャラバン)の隊長という設定のロンギヌスである。

「話があるなら隊商(キャラバン)の隊長である私にして頂けますか?」

 彼は鎧と制服を脱いでドルクの商人風の(なり)をしていた。わざわざプレセンティナ人であることを宣伝する必要もないし、どこの商人も郷に入っては郷に従う者が多い。移動中に悪目立ちしても良いことは何もないのだ。まあ、ヘルハレムのドルク商人から調達した衣装だからでもあるんだけど。

「それと、私の娘に何をしようとしておいでかな?」

ついでに彼はトリスの父親という設定だった。彼の額に血管が浮いていたのは暑さで血管が広がっているせいだろうか、それともイゾルテの姿が本当の娘に重なって見えたのであろうか。

「そ、そうですね! 隊長さんにお話するのが自然なことでした!」

「分かったなら、行ってよし!」

「はっ、失礼します!」

再びバブルンの城内に去っていく使者を見送りながら、イゾルテはふふふっと笑った。

「やはりこういうことには慣れていないようだな」

「生真面目な軍人気質(かたぎ)ですからね」

「しかし、いい加減慣れてもらわないと困るぞ。今後もいろいろと細工をしなくてはいかんのだ」

「とはいえ、別に陛下に忠誠を誓っている訳じゃないんですし、文句は言えんでしょう」

イゾルテは驚愕に目を大きく見開いた。

「ええっ!? ……誓ってなかったっけ?」

しかしロンギヌスは呆れ顔だった。

「何言ってるんですか? 忠誠の対象はバール殿と指導者殿(ハリーファ)でしょう?」

「……そうか、それは残念だ」

イゾルテはがっくりと肩を落とすとその場で振り返った。

「近衛兵! 中隊長に謀反の言動があった。即刻捕縛せよ!」

「「「はっ!」」」

「ええ~っ!?」

近衛兵たちも制服を着ていなかったが、即座に上司に飛びかかるとあっという間にロンギヌスを地面にねじ伏せた。イゾルテの命令とあれば上司だろうと即座に殴りかかる、近衛らしい篤い忠誠心(?)である。

「ちょ、ちょっと、陛下! わ、私が何かしましたかっ!?」

「何を言っている? 近衛士官たるものが皇帝に忠誠を誓わないでどうするか!」

地面に押さえつけられたまま、ロンギヌスはきょとんとした。

「……ひょっとして、慣れてもらわないと困るって仰ったのは私の事だったんですか?」

「他の誰だと思ってたんだよ。隊商(キャラバン)の隊長が今まさに都市を占領した軍の兵士に向かって『行ってよし』とは何事だ? お前だって衛士隊にいたんだろ? 外国の商人にそんな風に命じられたことなんてあるのか?」

彼はとっさに返事ができなかった。外国人で偉そうなのは主に外交使節や観光に来た貴族であって、商人はそれがどれほど金持ちだろうと大抵は礼節をわきまえていたのだ。……少なくとも本人は。

「……ありません。で、でも、さっきの若い兵士がへこへこしてた事だと思うじゃないですか!」

「兵士の方がへこへこするのは言い訳できるだろ? 要するに我々は借金取りみたいなものだからな」

「……?」

ロンギヌスだけでなく、彼を取り押さえている近衛兵たちも首を傾げた。

「分からんか? 明らかにスエーズの兵站能力を越えるこの遠征の裏に、経済的に支援している者がいると考えるのは当然のことだ。そしてその者達がバブルンを手中にしたスエーズにこれまでの見返りを要求するのも当然の成り行きだ。そんな相手に高圧的に振る舞うことが誰に出来る? 私だって離宮の出入りの業者が掛取りに来るのが怖くて怖くて仕方がないんだぞ!」

「「「…………」」」

そんな事は誰も聞いてはいなかった。近衛兵たちは困惑して顔を見合わせた。

「ゴホンっ! とにかく、スエーズを支援している何者かは価値のある物を担保として要求するだろう。つまりそのためには、バブルン市内をくまなく見まわって担保の査定を行う必要があるわけだ」

「……つまり、我々が市内を見まわる口実にもなると?」

「そういうことだ。だが相対的に強い立場にいても、大商人というのは笑顔を崩さないものだ。偉そうにしても1デナリウスの得にならないが、にこにこしてれば1000万デナリウスの取引が転がり込むかもしれないからな。

 いいか、人を人と思うな、財布と思え! 金貨がびっしり詰まった財布だ! そう思えば自然と笑顔になる!」

「「「…………」」」

イゾルテの演説に近衛兵たちは微妙な顔をした。納得出来ない訳でもないのだが、間違っても主君の口から聞きたい言葉で無かった。

「い、いや、これはあくまで商人の心得であって、私がそう考えている訳ではないぞ、うん。

 それとなんだ、中隊長を離してやれ。不幸な誤解だったみたいだしな」


 気を取り直したプレセンティナの一行は北西のシリア門へと向かった。緊急事態に対処できるようにカメルスは全て城外に残し、また素性のバレそうなキメイラも残して、移動指揮車と近衛兵だけの少人数である。忠誠心に篤い近衛兵たちは早くも精一杯商人のフリをしようとしていた。先ほど自分たちの上司をねじ伏せて地面に押し倒して上に乗ってぐいぐいと膝を押し付けていたことも、もはや全くこれっぽっちも気にしていなかった。……上司の方は知らないけど。

 移動指揮車の窓から城門の様子を見ていたイゾルテは、ペルセポリスに匹敵する壮大な城構えに感慨深げだった。

「さすがはバブルン、城壁は高く城門も分厚く丈夫そうですわ」

窓の外に馬を寄せていたロンギヌスも彼女の言葉に深く頷いた。

「そうですね。普通に攻めることになっていたら、果たしてスエーズ軍に落とすことが出来たでしょうか」

だがそれを聞いたイゾルテはふふふとからかうように笑った。

「いやですわ、お父様。婿養子だからって娘にまで敬語を使うのはやり過ぎですわ」

「そうで……いや、そうだな」

放っておくとどんどん設定が追加されていきそうで、ようやくロンギヌスも腹をくくったようだった。

 バブルンの街並みは人影もまばらで元気もなく、どこか寂れた印象だった。外国の軍隊に制圧されているところなのだから当然とも言えるが、逆にまばら(◆◆◆)には出歩いているというのが驚きである。

――占領された経験が無いから、略奪がどんなものか知らないのだろうか? あるいはエフメトに無血占領された経験から酷いことはされないと油断しているのだろうか? 警戒されていないのは良いことだが、脅しが効かないということでもあるな……

この後都を捨てるように人々を説得しなくてはいけないことを考えると、彼女には素直に喜んでばかりもいられなかった。


 彼らが門を越えてしばらく大通りを進んでいると、隊列の脇から裕福そうな若い男が声をかけてきた。

「もし、隊商(キャラバン)の方とお見受けします」

「…………?」

話しかけられたロンギヌスは一瞥もしないで通り過ぎた。

「ちょっ、ちょっと待った!」

思わず大声を上げてからイゾルテは笑って取り繕った。

「おほほほ、いやですわお父様、いくら疲れているからってお耳まで遠くなってしまいましたの?

 そちらのお方が声をかけて下さいましたのよ」

「え? あ、そうか。失礼しました。何でしたかな?」

「いえいえ、こちらこそ。手前はこの地の商人でございますが、商売上のご相談がありまして失礼ながらお声を掛けさせていただきました」

そういって男は頭を下げた。この情勢でいきなり商談を持ちかけるとは随分と腹の座った男である。そもそも裕福そうな身なりで出歩いていることが、スエーズ軍に対して並々ならない信頼があることを示していた。普通なら略奪を恐れて身を隠すかあるいは身を(やつ)しているところだ。

――やはりエフメトが情報を漏らしていたのか? そうでなければこれほど粛々と占領が進むはずがないからな……

「あー、トリス、何事も経験だ、この商談はお前に任せよう」

ものすごく棒読みなロンギヌスの言葉は、対処できそうにないから丸投げしますという合言葉だった。イゾルテは頷くと予め用意してあった目録を商人に手渡した。処分しても大丈夫な品物のリストである。

「こちらが積み荷ですわ、御覧ください」

「いえ、買いたい訳ではないのです。この度この地を離れることに致しましたが、在庫の処分に困っておりまして……」

イゾルテは内心舌打ちしたい気分だった。帰りの荷は貴重なものが山ほど乗る予定なのである。金で手に入る物などわざわざ買う必要などないのだ。美女の奴隷は別腹だけど!

「いえ、既に買い入れる物は決まっておりまして……」

「そう言わず御覧ください。お安くしておきますので!」

そう言って押し付けられた目録にイゾルテは頬を引き攣らせたが、ついさっき近衛兵たちに笑顔でいろと偉そうに言ったばかりだった。

「……見るだけですよ」

 渋々目録を受け取ったイゾルテはパラパラと捲ったが、そこに載っていたのは人名だった。だが商品としての奴隷ではない。そもそも氏名を列挙されても奴隷の商品目録にはならないし、氏名の脇にはどこの街区の長だとか何の組合の代表だと書かれていたのだ。そして決定的なのは裏表紙に書かれていた一文だった。


 『プレセンティナ帝国皇帝イゾルテ陛下へ』


――なるほど、こういう形で接触してきたか。確かにこれなら長々と話していても目立たずにすむ。エフメトのくせに気の利いたことをするな。

イゾルテは内心で舌を巻きつつも表面上は穏やかに頷いただけだった。

「……これは興味深いですわ。どうぞこちらの馬車へ、じっくり値段を詰めましょう。いいですわね、お父様?」

「あ、ああ、頼んだぞ、我が娘よ」

――『我が娘よ』なんて父上でもめったに言わないぞ……

ロンギヌスの演技はまだまだぎこちなかったが、もともとこの商人にはバレているようなのでどうでも良かった。彼の目配せを受けて2人の近衛兵が商人の前後を囲むと、3人は移動指揮車へと乗り込んで来た。


 使者は異様な形の箱馬車に戸惑いもなく乗り込んだ。彼はイゾルテからニルファルに送られたカメルスに乗ったことがあったのだ。中には目深にフードをかぶったままの娘の他には獅子(アスラン)が寝ているだけだった。正確にはメイドが1人ぐーすか寝ていたが、それは誰にとっても心底どうでも良かった。獅子(アスラン)が彼を見てグルルルと低い唸り声を上げたが、娘が頭を撫でるとすぐに黙ってその場に伏せた。

――一行の代表はこの娘のようだな。魔女の遣いはやはり魔女か……。いや、殿下の話では美少女にしか見えない男もいたという話だし、男かもしれないか……?

使者は娘の胸元を見つめたが、室内なのに日除けの外套をかぶった彼女のバストサイズは計り知れなかった。……文字通りの意味で。


「……イゾルテ陛下は?」

不審げな使者の言葉にイゾルテは片眉を上げた。

――おや? 私の正体までは気付いていなかったのか。ふふふ、私の演技は完璧だな!

「私はトリス、陛下の目となり耳となるべくこの地にやって参りました」

嘘ではない。イゾルテの目はイゾルテの目だし、イゾルテの耳がイゾルテの耳であることは確かなことである。

「そうですか……」

「陛下ご本人にしか話せないような事なのですか?」

「いえ、そういう訳ではありません。ただ、このようなことを頼めるのはイゾルテ陛下だけであろうと、私が……いえ、私の主が言っておられまして……」

「エフメト皇子が? パンツをよこせとかそういうセクハラでしたら、その2人のパンツを持って帰ってもらいますよ?」

指差された2人の近衛兵は無言のまま内股になって頬を赤らめた。

「いえ、私の主はエフメト殿下の側近、コルクト・パシャです。ですのでパンツは要りません」

聞き様によっては、エフメトならパンツを要求しても不思議じゃないかのような口ぶりだった。

――コルクト・パシャと言えば、スエーズに使いに来たテュレイさんの夫だったな。どういうことだ? エフメトの意を受けてのことなのか?

しかし使者の口ぶりではそうとも思えなかった。もっともエフメトは怪我で寝たきりだろうから、コルクト・パシャとやらが全権を委任されているのかもしれないのだが。

――何にしても話を聞いてみるか

「では、聞きましょう。先ほどの名簿は何ですか?」

「先ほどお渡しした者達は、民政に携わる者たちです。彼らにはスエーズ軍に抵抗せず占領を受け入れるようにと予め指示を与えてあります」

「……八百長だということをリークしたのですか?」

それは最もビルジには知られたくない情報である。それに多数の人間にバラしてしまったのだとしたら、何のための変装なのだろうか。

「いえ、そうではありません。仔細を告げず、ただスエーズ軍に従えとだけ伝えてあります。スエーズ軍は解放を目的としているのだから、決して無体な真似はしないと」

イゾルテは内心で呆れた。少なくともプレセンティナ人ならそんな説明で納得するとはとても思えなかった。

「それでこの方たちは何の疑問も抱かずにいると? 少々甘いのではございませんか?」

「……確かに不審に思っている者はいるでしょう。しかし黙っていて反乱でも起これば元も子もありません。それに彼らは元民政長官だった父の……パシャの父君と親交のあった者たちです。彼の言葉として伝えていますから素直に従ってくれています」

 自信ありげな使者の態度にイゾルテは不審げな視線を向けた。為政者の側が「自分は人気がある」と思い込んでいるのは大抵の場合幻想である。近くに居る者が皆支持者ばかりだからそういう錯覚に囚われるのだ。だがそれは、支持者しか近寄って来ないというだけのことかもしれない。だから彼女はよくお忍びで(ちまた)に出かけたり公衆浴場に行ったりするのである。決して(やま)しい目的ではないのである!

――この名簿に載っているのも名士ばかりだ、我が国なら元老院議員になっていても不思議じゃない。体制側と親しくても不思議はないな……

だがそうなると、今度は彼らが一般市民の支持を得ているのかどうかが問題になってくる。元民政長官とやらの支持を背景に名簿の男たちを動かすことが出来たとしても、彼らが一般市民を説得できなければ意味は無いのだ。

――待てよ? 民政長官だと?

イゾルテはアイヤールの天幕で耳に挟んだ話を思い出した。

「ひょっとして……その民政長官とは、ならず者(アイヤール)に手伝ってもらって夜逃げ同然に都落ちしたとかいう方ですか?」

「…………!」

イゾルテの言葉に使者は絶句し、驚愕に目を見開いていた。

「……よく、ご存知ですね」

「たまたまですわ。スエーズにいたアイヤールにその方を酒樽に詰めて逃がしたという話を聞きましたの」

「そうですか、彼らも無事でしたか……」

彼らを直接知っているかのようにほっと安堵の色を見せた使者に、イゾルテは不思議な共感を覚えた。

――なるほど、反体制的なアイヤールたちまで心酔していたほどだ。余程の善人か、あるいは……最低の悪人なのだろうな

イマイチ完全に信用出来ないのは、裏金でアイヤールを買収し、その力で以って統治していた可能性もあったからだ。まあ、それならそれで脅しとして使えるのかもしれないのだが。

「なるほど、その方の言葉なら重いかもしれません。では彼らを通じて市民にスエーズに逃げるよう伝えてあるのですね?」

「いえ、それはまだ伝えておりません。実際の避難計画もあるでしょうから、そこはイゾルテ陛下に説明して頂きたかったのです」

――一番嫌な仕事を押し付けてきたか……。しかも何で私なんだ?

「そういうことでしたらバール陛下にお願いするのが筋ではないですか? 占領しているのはスエーズ軍なのですよ?」

「しかし、匈奴軍の誘出はイゾルテ陛下の計画です。それに軍人気質の強いバール陛下が、民間人の安全に気を遣って頂けるかどうか分かりませんし……」

 スエーズにとっては同じムスリカ教徒であるという理由で保護の対象になるのだが、それは外部からは理解し難い動機であった。特に信仰心の薄いドルク人にとっては。だがイゾルテは、この使者が市民の身の安全を心から心配していることが分かって更に強い共感を覚えた。

――密偵もどきの仕事をしている割に甘い男だ。だが、嫌いではない。

「その点イゾルテ陛下はタイトン人だけでなくスラム人やハサール人の保護にも気を配る博愛主義者です。そして200万以上のアルテムスの民を避難させた実績とノウハウもあります。それを前面に押し出せば、彼らの説得も容易いと思ったのです」

イゾルテはフードの陰で大きく目を見開いた。博愛主義者だなんて言われたのは初めてのことだったのだ。実際には似非フェミニストなんだけど!

――さすが密偵だ! なんと鋭く正確な分析だろう! 嫌いじゃないぞ!

イゾルテは鼻の穴をピクピクとさせた。

「も、もちろん我々も自分たちの手で説得する心積りでした。この名簿にある代表者を集めていただけるだけでも助かりますわ」

「そうですか、では明日にでも集めさせましょう。どこか場所を用意して頂けますか?」

「でしたら皇宮が良いですわ。大広間を借りておきましょう」

「大広間……」

大広間は最も大きな謁見用の部屋である。当然ながら玉座もある。選び抜かれた大貴族と顕官のみが入ることを許されたその大広間に、名士とはいえあくまで平民に過ぎない者達を集めようと言うのだ。それはドルク皇帝の権威を否定し、帝政との決別を促す象徴的な行為である。そしてその片棒を彼に担げというのは、なかなかに辛辣な要求だった。だが彼は断らなかった。

「……分かりました。明日正午、皇宮に参内するよう触れを出しておきます。では、今日のところは失礼致します」

 そう言って使者が去ろうとするのを見て、イゾルテは彼が片足を引きずっていることに違和感を覚えた。わざわざ足が悪い者を使者に立てたとは思えないし、ここに来る途中で怪我でもしたのであろうか、と。

「足の怪我は医者に見せたのですか? 私どもの中には医学の心得のある者もいます。治療して差し上げましょう」

だが使者は軽く笑って首を振った。

「お気遣いなく、これは演技です。こうしないと目立つものですから」

イゾルテは首を傾げた。どうみても足を引きずっていた方が目立つではないか、と。


 不思議そうな娘の様子を見て、使者は皮肉げに口の端を吊り上げた。兵を従え獅子(アスラン)を侍らせていても所詮は小娘である。ドルクの深い闇を知ってどんな反応をするのか、少々意地の悪い興味が湧いたのだ。

「……まだお気付きではありませんでしたか。この街の男はビルジによって悉く足の腱を切られております。老人と子供を除いて、ですけどね」

そう言いながら振り向いた彼は、娘の顔を見て息を呑んだ。


「なるほど、合理的だな」


 娘の感想らしい感想はそれだけだった。使者の方も拍子抜けしそうな言葉である。だが彼女の顔には当然あるべ怒りも悲しみも憐れみすらもなく、全ての感情という感情が剥がれ落ちたその顔にはただガラスのように透明で無機質で非人間的な美貌だけがあった。だがそれを見た彼の心に沸き立ったのは歓喜ではなく、畏怖だった。触れる全ての物を拒絶する孤高の美しさに、彼は全身から脂汗を流しながらゴクリと喉を鳴らした。だが畏れを抱いたのは彼だけでなく、先ほどまで彼を警戒していた獅子(アスラン)までもがいつの間にか彼女から離れて小さくなっていた。その小さな体から溢れだす荘厳なまでの威厳に彼はようやく彼女の正体を悟った。

――まさか……黄金の魔女? 本人だったのか!

だがそれが分かっても彼には何も言えなかった。言うつもりもなかった。そもそも彼が気づくことが出来たのは、彼自身も彼女と同じこと(◆◆◆◆)をしていたからなのだ。

――海峡を埋め尽くすドルク兵を生きながら焼いたのはこの人だ。それを甲板に立って悠然と眺めていたのがこの人なのだ!

それを目の当たりにした時の恐怖が蘇り、彼は人知れず震えた。今にも彼女が満面の笑みを浮かべてけたたましく笑い出すのではないかとすら思った。

――だがアルテムス人を避難させたのも、クレミアのハサール人を助け出したのも、この人なんだ! そして今、仇敵であったドルクの人々を避難させるために、御自らバブルンにまで足を運んでいる……。いったいどちらがこの人の本当の姿なんだ……?

彼の疑問は尽きなかったが、それと同時に彼には彼女に頼るしか他に手立てがなかった。彼は開きかけた口を閉じると小さく頭を下げ、とぼとぼと箱馬車から降りた。


 使者を降ろしたプレセンティナの一行がその場を去ると脇道に隠れていた部下が駆けつけて来た。

「閣下、どうされたのですか? お顔の色が優れませんが……」

「いや、何でもありません。それより名簿の者達に明日の正午皇宮の大広間に集まるよう触れを出して下さい」

閣下と呼ばれる身でありながら密偵に過ぎない部下に対して丁寧な言葉を使う彼は、ドルクにおいては明らかに異色の存在であった。それは美徳というよりも弱さと受け取られかねない行為である。だが彼はそれを改める気はなかったし、だからこそ彼は今ここにこうして来ているのだった。

「大広間……! 宜しいのですか?」

「良いも悪いもありません。魔女が……いえ、魔女の遣いがそう言ったのです。

 さすがに私が皇宮に行く訳にもいかないでしょうし、私は即刻殿下の元に戻ります。防衛線の構築と難民の受け入れ準備をしなくてはいけませんから。

 バブルンはこれが見納めでしょうね……」

 生まれ育った故郷を捨てざるを得ないことを彼は自嘲した。その罪の意識の半分は、傷ついた市民を置き去りにしなければいけないことに対するものだった。だが部下の方は、その昏い笑みの中にこそ明るい希望を見出していた。薄汚い人の闇を覗いてきた彼には、このような優しい若者が作り上げるであろう新しい国こそが栄光に満ちた過去の大帝国よりも遥かに貴重に思えたのだ。

「分かりました。後は我々にお任せ下さい、ハシム様」

注1 南宋の都臨安(杭州)は最大で人口が124万人に及んだそうです。

北宋の都の開封府は60~70万人だったそうですから、華北から逃げてきた人たちが流入したんでしょうか。

面積的に半減しても巨大な国力を持ち続けていたということが分かります。

戦争は下手でしたけど……

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