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太陽の姫と黄金の魔女  作者: 桶屋惣八
第8章 ムスリカ編
234/354

挟撃 その2

時系列的には前話『アイン・ジャーノレートの戦い』の前に置くべき話でした

推敲したら入れ替えようと思ってる内に前話が予約投稿されてしまいまして……

そのうち入れ替えるかもしれません

 草原でのアドラーは暇だった。だがそれは船を作ることなどあり得ないのだから当然だし、最初から予想されていたことだった。……ズスタスに見つかるまでは。

「あーっ! お前は爺を殴ったやつだったな。なかなか骨のあるやつだ!」

「……どうも」

ノッセンの戦いの後アドラーがケトレア伯を殴った時にはズスタスは昏倒していたはずだった。後で誰かに聞いたのだろうか。

――いや、ひょっとして18年前のことか? まさかなぁ

困惑するアドラーを余所に、ズスタスは図々しく頼み事を始めた。

「そういやおまえ、大工だったよな? こういうの作ってくんない?」

そう言って彼が見せたのは木製の拳だった。

「……何です、これ」

「これは神の拳(ゴトゲルト)という武器だ。女神のようなゲルトルート叔母上から授かった戦神(いくさがみ)の神像から啓示を受けて、この余が作ったのだ!」

「…………!」

――ひょ、ひょっとして、あの呪いの人形のことか!?

それはイゾルテが生まれた直後、彼が娘のローザリントの出産に立ち会うために帰国した際に、ゲルトルートにお土産として託された鉄で出来た不気味な少年像{超合金一休さん}のことであった。まさしくアクセルを殴って再びプレセンティナに逃げ帰ってきた時のことだ。人形はゲルトルートに言われた通りアクセルに渡したはずなのだが、アクセルは生まれたばかりの孫のズスタスに渡してしまったようだ。

「今や我軍の主力武装である! でも、一回しか使えない上に負け戦では回収できないのだ。ずっと勝ちっぱなしだったからあんまり予備も用意していなくって、補充が必要なのだ」

「…………」

 本当なら断りたいところであった。拳の模型なんて作りたくないし、ズスタスにも関わりたくない。だが、彼はこのゴトゲルトに最初から関わっていたのだ。

――ましてゲルトルート様(ゆかり)の武器だというのなら……

「……分かりました。不祥アドラー、微力を尽くしましょう」

「じゃあ、見本としてこれを渡しておこう。後で兵に本体も届けさせる。これと同じのを1200個ほど頼むな」

「え? せ、せんにひゃく?」

暇つぶし程度に考えていたので、アドラーは要求された数に愕然とした。拳を彫るのは彫刻家の仕事であって大工の仕事ではない。まして1200個とか冗談ではなかった。

「いや、予備も欲しいから10000個くらい頼むわ。じゃーなー」

「…………」

思いっきり手抜きをして角材のままになっちゃったのは、決してアドラーのせいでは無かった。


 ようやくズスタスたちが出て行って、仕事から解放されたアドラーは再び暇となる……はずだった。仮眠を取ろうと自分のカメルスに戻ったところで新たな依頼が彼を待っていたのだ。

「アドラー、お前にふさわしい仕事がある。船を大至急作って欲しい。頼めるか?」

そう言ったのはもちろんルキウスであり、アドラーをここに連れてきたのもルキウスである。アドラーに断る理由は無かった。

「ワシは船大工です。船を作れと言われて断れましょうか!」

「そう言ってくれると思っていた。では大至急方舟(はこぶね){LCVP上陸用舟艇}を作ってくれ」

「え……?」

――あれは実質、船じゃなくて樽なんだけどなぁ……

 キメイラを運ぶためのその船は、船とは言っても(はしけ)の類であり、竜骨(キール)もなければ帆柱(マスト)もない。船作りのノウハウなんぞまるで必要なく、ひたすら樽を作って四角い箱に詰めただけの物なのだ。ぶっちゃけ樽作りのノウハウこそが必要となるのだ。

「ここでの戦いを早期に終わらせねばイゾルテが危ない。そのためには方舟(はこぶね){LCVP上陸用舟艇}が必要なのだ」

「イゾルテ陛下が!?」

イゾルテのためと言われれば否も応もない。アドラーは大きく頷いた。

「任せて下さい! それで、数はいかほど?」

「そうだな……一往復で一個大隊は運びたい。最低でも10隻だな」

「じゅう……最低……」

標準サイズの方舟(はこぶね){LCVP上陸用舟艇}はキメイラを10両も乗っけるような大きさなのだ。一隻作るのに200個以上の樽が必要になるということをルキウスは承知しているのだろうか?

「陛下、ゴトゲルトと違って樽は手抜きが出来ません。繊細な作業が必要ですから、兵士に手伝わせることも出来ません。ワシとワシの弟子たちではとても手が足りませんぞ」

「むう……」


 2人がしかめっ面を突き合わせて唸っていると、仮眠を取っていたはずのムスタファが起き出してきた。

「ふぁああぁ。樽なら運んでこれば良いんじゃないですか?」

2人は虚を突かれて目を丸くした。

「だって方舟というからにはアムゾン海で使うんでしょう? ペルセポリスから運んだ方が早いですよ。空樽くらい1万でも2万でも転がってるでしょう?」

 空樽だからって転がってはいないだろうが、確かに探せば1万や2万は見つかりそうである。

「……確かに良いアイデアだが、使いたいのはアソブ海なのだ。大型船が入港できる港もない」

「でも、どのみちその方舟はカッター(小舟)とかで引っ張るんでしょう? だったら桶だって縄で縛って引っ張って来れば良いじゃないですか」

 大型船が接岸出来ない時には、荷物を1つ1つ(はしけ)やカッター(小舟)に載せて浜までピストン輸送するのが通常の陸揚げ方法である。だが空樽なら自身の浮力で浮いていられるのだから縛って海に放り出せば済むことだった。

「……そうか、たしかにそうだな。アドラー、樽をこちらで用意するとしたら、どれくらいで方舟を作れる?」

「丸太を切り出すのを別として……寸法に合わせてカットするのに2日、組み立てに1日でしょうね。船体の組み立ては兵士にも出来ますから。でも、そういう話なら、木材もペルセポリスから運んでは?」

「何?」

「こちらの製材用カメルスでも似たようなことは出来ますけど、当然あちらの製材所には敵いません。海軍には設計図も残ってますから、木材の寸法も分かるはずです。揃えろって言えば1日で揃えられますよ」

 つまり材料の状態でペルセポリスから発送し、現地では組み立てるだけということだ。もう一歩進んで組み立てまでペルセポリスで出来ないのかというと、回送に時間がかかるのがネックだった。筏状の物は水の抵抗が半端無いのだ。

「そうか、どのみちケッチに船を廻さなければならないのだから、ついでに木材と樽も積み込ませるか……。いや、それならむしろ、ケッチで組み立てて使った方が……」

 腕を組んでぶつぶつと呟いたルキウスはアドラーに向き直った。

「アドラー、方舟の材料はこちらで手配させる。ケッチに行って方舟を組み立てて来てくれ」

「はあ、でも、ケッチって?」

「アソブ海の入り口にあるクレミアの街だ。我々プレセンティナ軍はこれよりアソブ海沿岸まで移動する。近隣に漁村があるらしいからそこで船を仕立ててクレミアに渡ってくれ」

「ケッチで材料を受け取って、組み立ててから運んで来れば良いんですか?」

「ああ。組み立てと移送に必要な人員は用意するように伝えておく。だがその前にタイトン軍の渡河に使う。無事にノボロウシスクの港を確保したら方舟を我々の元に運んで欲しい」

万一撤退ということになった時のために最初は方舟を残しておく必要があるが、ノボロウシスクの港を確保できれば大型船が接岸できる。馬を諦めさえすれば十分に全員を収容できるだろう。そうなれば方舟は用済みである。

 しかしこうなるともう、アドラーが行く必要も無いのではないかという疑問すら湧いてきた。ペルセポリスから他の船大工を呼んで来れば良いじゃないかと。だがまあ、方舟を作った経験者が居るのと居ないのでは仕上がりの質も作業速度も変わってくるだろうし、ここに残っていても船を作る機会はないだろう。

「分かりました、ケッチに行きましょう!」

 こうしてアドラーはケッチに向かうこととなった。だが彼はこの時、その街で不幸な再会が待っていることも知らずにいたのだ。っていうか、ちょっと考えれば渡河するのがズスタスたちだと気づきそうなものだったんだけど……



 タイトン軍が援軍に向かったという知らせは光通信{反射鏡と望遠鏡を使ったモールス通信もどき}でペルセポリスへと送られ、更に建設途中のサナポリ方面にも伝えられて、駅伝、快速船を介してソッチにいるニルファルの元に届けられた。

「バイラム様からの連絡です。タイトン諸国軍がクリミアを経由してケッチ海峡を渡るとのことです。その際に敵をソッチに引きつけて、彼らがノボロウシスクを確保するのを助けよとの御指示です」

「タイトンの軍が……」

プレセンティナ軍はエフメトに協力してしてはいたが、それは海軍だけだったし戦闘には一切参加していなかった。だが今度は陸軍が直にニルファルとともに戦ってくれるというのだ。

――イゾルテがいないのが残念だけどなぁ。って、あれ? タイトンの連合軍ということは、もしやイゾルテの父上殿が率いておられるのか!? しまった、戦装束しか持ってきていないぞ! ああ、イゾルテに相応しくないとか言われたらどうしよう……

プレセンティナ軍はケッチには向かっていないのだが、タイトン諸国軍と言われれば当然タイトンの盟主たるプレセンティナが主体となっているのだと勘違いするのは仕方のない事だった。

 場違いな心配をして頭を抱えるニルファルを余所に、タネルが不思議そうに首を傾げた。

「しかし、何でドルクの船がバイラム殿の言伝(ことづて)を伝えてくるんだ? お前の船はハサールから来たのか?」

「いえ、プレセンティナの狼煙で伝わって参りました。狼煙が発せられたのは4日前です」

「狼煙!? 狼煙でここまで細かい情報を?」

狼煙はその本数や色合いの組み合わせ、更には皮を被せたり外したりして点線のような簡単な模様を作ることで、問題の種類や数などを伝えることが出来た。しかし使者が言ったような細かい情報を伝えることはとても不可能である。

「はあ、私は駅伝で受け取った情報をお伝えしただけですので、狼煙は見ていないのですが……」

使者が困っているのを見て、ニルファルが助け舟を出した。

「それならきっとイゾルテの言っていたやつですね。手旗信号がどうとか言ってました。文章を送れるそうですよ」

「マジでか! しかもざっと5000ミルムはあろうというのにわずか4日で……」

「いえ、最後の500ミルムは駅伝と海路で2日かかっています」

「「…………」」

凄まじいまでの速さに2人は呆然とした。ただの狼煙と違って昼も夜も使える上に煙が立ち上るのを待たなくていいし、しかも専任の者が常に通信を待って監視しているから、誰かが気付くのを待つだけの狼煙より遥かに速く伝えることが出来るのである。

「……それは、ハサールにしか送れないのか?」

「イゾルテはサナポリやスエーズにも繋げると言ってました。ここに届いたんですから、その途中でも大丈夫なんじゃないですか?」

「ふーむ、じゃあ試しにサナポリに頼めるか? 東街区にある愛の泉っていう店に伝言を頼みたいんだが」

「愛の泉って……」

明らかに仮初(かりそ)めの愛しか湧いて無さそうなお店だった。

「……兄さま、名前が残ることはやめて頂けませんか? 戦が終わったら本当に追放されちゃいますよ?」

「ふっ、抜かりはないさ。俺は名を残しても子は残さない!」

「汚名も残さないでください!」

ニルファルが怒鳴ってもタネルはどこ吹く風と飄々(ひょうひょう)としていた。

「お前が保護しているその娘を開放してくれたら、俺もこんなことは言わないんだけどなぁ」

 ニルファルの側に控えていた金髪の娘にタネルが目を向けると、彼女は小動物のようにささっとニルファルの後ろに隠れた。岸壁でモンゴーラ兵に襲われているところをニルファルが助けたスラム人の(美?)少女イヴァンナである。タネルが彼女を付け狙っていたので、ニルファルがメイド代わりに近くにおいて保護しているのだ。……兄の方を。さすがに軍中でスラム人と密通されては、総司令官として処罰せざるを得なくなるから。イヴァンナの方も最初は大喜びしていたのだが、二日前に湯浴みの手伝いをさせた時から何故だか口数がめっきり少なくなっていた。

「兄上が諦めたら解放しますよ。まったく、なんでこの娘に熱を上げるんですか?」

「おや? ひょっとして嫉妬か? はっはっは、俺は兄妹でも構わないと何度も言ってるじゃないか!」

全然懲りない兄の妄言にニルファルは頭を抱えた。

「……冗談でもそういう事は口にしないでください。そうじゃなくて、何で追放の危険を犯すのか分からないのです。まあ、相手がイゾルテだというのなら分からなくもないこともないですけど……」

 イゾルテの名を出したのはイヴァンナが(遠目には)イゾルテにそっくりだったからだ。鮮やかでサラサラな金髪といい、身長といい、まさにイゾルテそっくりの後ろ姿(◆◆◆)なのだ! ニルファルもうっかりイゾルテだと思って助けてしまったほどである。前から見た今となっては、もう本当にどうでもいい存在だったけど。そのがっかり感たるや、昨晩のシチューに入っていた肉の塊が実は小麦の団子だったことと匹敵するだろう。

 だがタネルの方はその言葉に興味津々だった。

「魔女ってそんなに可愛いのか?」

「そりゃあもう! 私もあんな娘が欲しいです! あっ、む、むすめというのは、侍女とかじゃなくてエフメトとの間の娘という意味でして、け、けっしてその、ドルク的ないやらしい間柄ではなくてですね……」

しどろもどろになるニルファルを見て、タネルは何かを悟った。ニルファルは昔から誤魔化すのが下手なのだ。

「まあどっちにせよ、女が女を侍らせてても子供は出来ないしな。誰も文句を付けないんじゃないか?」

「そ、そうですよね! 女同士で仲良くしても良いですよね!」

ニルファルは我が意を得たりと頷いたが、その後ろでイヴァンナが顔を真赤にしていることには気づかなかった。


「しかし、戦線が膠着したこの状況に援軍は有難いな」

「そうですね。戦場が狭いですから、どちらも前線に大軍を展開できません。戦力に劣る我々にとっては有利とも言えますが、そもそも敵を拘束するために出てきたというのにせいぜい2000か3000程度しか戦わせていません」

 このころ戦場は北のノボロウシスクと南のソッチをつなぐ細い回廊地帯に限られており、両軍ともに全軍を展開できずに一進一退を続けていた。どちらも軽騎兵を主体としているので戦術上の選択肢も少なく、打開策が見つからずにいたのだ。

「このままでは敵はいずれ、ここの攻略を後回しにして3000くらいだけ残して北に向かう可能性が高いな」

そうなれば彼らがその3000に拘束されている間にハサール軍本隊と決戦を迎えることになるかもしれない。何としても避けたいところだ。

「しかし逆に、敵の本隊がノボロウシスク周辺に残っている状態では、タイトン軍が苦戦するかもしれません」

ニルファルの悲観的な言葉にタネルは訝しそうに眉を寄せた。

「鉄馬車がか? 父上は一台も倒せなかったのだろう?」

「キメイラはどう見ても街の中の戦闘が不得手です。それに父上達は、気付いた時には上陸されていたそうですよ。キメイラも敵前で上陸するのはさすがに大変だと思います」

 どうやって上陸するのか分からないが、接岸しているところを船ごと燃やされたりするかもしれないし、上陸するには生身の兵士が外に出て作業をする必要もあるかもしれない。陣形を組んで疾走している時に比べれば遥かに脆弱であることは間違いないだろう。

「なるほどねぇー、だからソッチに引きつけろというのか。もう一度この盆地まで引きつけて敵の前進を誘うか?」

「いえ、盆地に入れれば兵の少ない我らが不利になります。回廊地帯の端で止めるべきです。この細い回廊に家畜や替え馬を連れてくるとは思えませんし、前後の出口を塞げば干殺しに出来ます」

「なるほど! ということは、できるだけ回廊内に敵を侵入させるべきだな。

 しかし回廊を突破していないまま敵本隊が回廊内に入ってくるだろうか?」

当然の疑問である。回廊を突破してからなら確実に全軍を出撃させるだろうが、突破できないなら回廊に入る必要はない。モンゴーラの機動力なら多く見積もっても2日で移動できる距離なのだから。

「確実に突破できると思わせねばなりません。でも、良い手があります」

ニヤリと笑ったニルファルの脳裏には、サナポリの会談でイゾルテが提案したアイデアが浮かんでいた。

「何をする気だ?」

「私が前線に出て負傷します」

「何っ!?」

驚いたのはタネルだけではなく、イヴァンナまでもが驚愕して口を抑えていた。

「もちろんそのフリですよ。総大将が意識不明になって後方に運ばれて行ったとなれば、敵はここぞとばかりに全力で攻勢に出るでしょう」

それはイゾルテの考えを真似た物だったが、イゾルテの方はモンゴーラ軍の矛先が向かないように(◆◆◆◆◆◆◆)エフメトを負傷させる計画だった。だがニルファルの計画は敵の攻勢を誘うためのものである。その違いは、対立するのが二者であるか三者であるか、モンゴーラ軍が戦いの当事者であるか傍観者であるかの違いだった。

「なるほど、それならば確かに……。少なくとも、失敗したところでお前がたんこぶを作るだけだ」

「エフメトは実際に四肢を折るところまでやると言っていました。たんこぶくらい、いかほどのことがありましょう!」

別にエフメトも折るとまでは言ってなかった。彼女は「損壊」とまで言ったのはイゾルテの言葉と間をとって記憶していたのだ。

「しかし、干殺しにする時間はないだろう。そんなことをしている間にあちら側の出口がさらに北側から攻撃されるだろう。つまり挟撃だ。拙くないか?」

「兄さま、そのためのキメイラでしょう? 敵がわざわざ攻めて来てくれるんです。こんなに有難いことがありますか?」

 キメイラの弱点は騎兵ほど速くないことだ。だからこそイゾルテはペレコーポ地峡にハサール軍を閉じ込めて草刈り場としたのである。モンゴーラ軍と草原で戦っても逃げ散ってしまうだけだが、彼らが味方を助ける(◆◆◆◆◆◆)ために突撃してきてくれるのなら、プレセンティナ軍にとってこれほど楽な戦いはないだろう。タネルも納得せざるを得なかった。

「……なるほどねぇ」

だが何故か、素直に感心は出来なかった。

「とはいえ、前後を塞げば横に逃げるのは必定だ。海はともかく山は越えられない程ではないぞ?」

「しかし起伏に富み、木々で見通しも利きません。戦闘は勿論、集団として行動するのも難しいでしょう」

 遊牧の民は方向感覚も優れているし単独行も慣れているが、それは草原での話だ。見通しも利かず、猛獣や毒蛇の類がうろうろしている森の中では安心して眠ることも出来ないだろう。ドルクから山道を越えてきた彼らだからこそ実感のある話だった。

「そりゃあそうだな。万一盆地にまで入り込んでも、まとまってなければいい鴨だし。しかし北東に逃げれば草原に辿り着くぞ? そうなれば再編成も時間の問題だ」

 確かに逃げるだけなら山中を突破することも可能だろう。決して無傷とはいかないだろうしバラバラになってしまうことだろうが、それでも兵の大半は平原に戻ることが出来るだろう。そうなれば時を置かずして再編成も可能だろう。

「しかし、山中で勝手がわからないのは我らも同じです。手立てはありませんよ。逃げられたら逃げられたで仕方ありません。前線をノボロウシスクにまで進められるのですから良しとしましょう」

「そうだな、折角の好機をもったいない話だがな」


 2人が満足して話を切り上げようとした時、遠慮がちな声がかけられた。

「あ、あのぅ……」

ニルファルは振り向くと、ぶっきらぼうに返事をした。

「何だ、娘」

「はっ、はいっ!」

ニルファルに詰問(?)されてテンパったイヴァンナは、半ば叫ぶように答えた。

「わ、わたしのおじさんが、山中の村で木こりをやってます! 村には猟師の人たちもいます! 山のことには詳しいと思います!」

「だがスラム人なんだろ?」

そっけないニルファルの一言にイヴァンナは悄然とした。

「そ、そうですけど……」

小さくなったイヴァンナを見てタネルは彼女を取りなした。

「何を言っているんだ、ファル! せっかくこの娘が協力してくれると言っているんだぞ?」

そう言って彼はイヴァンナの肩を抱こうとしたが、やっぱりささっと逃げられてしまった。

「しかし所詮はスラム人です。まして猟師や木こりなんぞ数が足りないでしょう。50や100で何が出来るというのです?」

「で、でも、山道や獣道を知っています! 湧き水が湧いてる泉も知ってるし、山菜やきのこの生えてる場所も知ってるんですよ!」

イヴァンナは必死にそう主張したが、後半はあんまり関係がなかった。……はずだった。タネルが余計な事を言わなければ。

「ほら、道がわかれば罠を仕掛けられる。湧き水に毒を仕掛けておけば労せずに仕留められるし、きのこに詳しいならその毒も容易に調達できるぞ。頼もしいじゃないか!」

「…………」

きっとタネルはフォローのつもりだったのだろうが、肝心のイヴァンナはドン引きしていた。

「……なるほど」

「ええっ!?」

何故か納得したニルファルにもイヴァンナは驚愕した。

「よし、えーと、ほら……娘よ。そのおじさんとやらを説得してきてくれ」

「イヴァンナですぅ……」

未だに名前を覚えられていないことにイヴァンナはがっくりとした。だがその様子を見たニルファルは、彼女の肩を叩いて励ました。

「そう、(いわ)んやよ、お前が頼りなんだ。頼んだぞ!」

イヴァンナがぱっと顔をほころばせた。

「わ、わたしが……頼り? わたしだけが!?」

「いや、確か長老が生き残ってただろ? あいつからも頼んでもらえば……」

彼女の気持ちも知らずに別のアテを探し始めたニルファルに、イヴァンナは慌てて叫んだ。

「わ、私が! 私が行きます! 長老は村長さんと仲が悪いんです! 若いころ村長さんが持ってきたきのこに当たったせいで結婚しなくちゃならなくなったとかでっ!」

なんだか良く分からない理由だったが、スラム人が(ハサール人から見て)変だというのは今に始まったことではない。だいいち目をグルグル回しながらハァハァと荒い息をつくイヴァンナ自身がとっても変だった。

「そうか? じゃあ、お前に頼んだぞ」

「はっ、はい!」

イヴァンナは引きつった笑みを浮かべながら冷や汗を垂らした。

――勢いとはいえ、無茶な約束しちゃったなぁ

なんせ彼女は、ハサール人のために人間を大量虐殺しろと頼みに行かなくてはいけないのだから……



 無茶といえば、山中に分け入るどころか別の敵に襲われている真っ最中の敵地に潜入し、さらに別の敵の内情を探ろうとしている男がいた。……ややこしい話だ。敵だらけすぎて返って味方かもしれないと思えるその街は、ヒンドゥラ王国の北西の……いや、ドルク皇帝を名乗るビルジに占領された今ではドルク領のカラチン(注1)である。ビルジはヒンドゥラ軍敗退の後ドサクサに紛れてこの地を占領し、捲土重来を期してこの街に居を据えていた。ハシムの兄セルカンは、そのビルジの内情を探るべくこの街に忍び込んでいたのである。

 ドルク国内の惨状とは裏腹に、ここでのビルジの統治は意外と穏健だった。常識的に考えれば、奪うだけだったドルクの頃とは違って、兵力を整えるために力を養おうとしているからだろう。富国強兵という訳だ。だがそんな当たり前の方針に今更切り替えたのはなぜだろうか。

――ドルクへの侵攻が遅くなりそうなのか? 今年中にでも侵攻するのなら住民を根こそぎ動員してでも兵力を揃えようとするのがビルジらしいやり方なのだが……

それは朗報だったが、確かでもないことをハシムに知らせて油断させてしまっては元も子もない。何とか中枢に忍び込んでビルジの考えを探り出したいところだった。

――やはり傭兵になるのが手っ取り早いか? しかし戦がなければ出世もできんし、出世した頃には手遅れだ。ビルジは屋敷から出てこないし、暗殺も容易ではない。まあ、あいつが刺客に対して無防備な訳がないがな。

 自ら暗殺者を用いる者は、その刃が自分に向くことを想像して恐れを抱くものだ。彼自身暗殺も手がけるから良く知っていた。それをしないのは自分を小物だと勘違いしてる彼の弟くらいだろう。

――俺がいない間に殺されなきゃいいけどなぁ

そんなことになったらエフメト皇子を誰も止められなくなるだろうし、何より彼らの姉が悲しむことになるだろう。セルカンにとって腹違いの姉テュレイは誰よりも大切な人だった。

――そのためにもさっさと仕事を済ませないとな……

彼は町中にある一軒の店に足を向けた。


「えーと、こちらに来れば仕事にありつけると聞いてきたんですが……」

「あー?」

セルカンに声をかけられた商人は、胡散臭そうに彼の頭のてっぺんから靴の先までを見て値踏みした。

――平民ヴァイシャって言うには違和感があるが、モンゴーラのせいで没落した僧侶(バラモン)貴族(クシャトリア)って訳でもなさそうだ。もちろん隷属民(シュードラ)ってほど礼儀を知らない訳でもない。(注2) こいつが知らないのは常識の方だな。

「あんた、外国人かい?」

「ええ、内乱でドルクから流れてきましてね」

――なるほど、ドルクのゲス野郎ならヒンドゥラの常識を知らねえのも仕方ねえか。野蛮なモンゴーラ人よりはなんぼかマシかもしれんが。

 もともとヒンドゥラにおけるドルクの評判は良くなかった。長年の敵国なのだから当然である。そしてビルジがヒンドゥラ王を裏切って殺したことでその評判は地に落ちていた。だがモンゴーラ人やそれにつき従う属国の兵に占領された地域はここよりも酷い有様だった。そういった地域から流れてきた難民たちは、仕事を求めて口入れ屋の彼の元にやって来る。自然とモンゴーラへの反感が募りどんどん評価が下がっていく中で「ドルクはまだマシ」だと相対的な評価が(いくらかは)上がっていたのだ。

「本来ならヴァルナ毎の列に並んで貰うんだがねぇ。外国人を雇う奴はドルクのこーてー様くらいしかいねーよ」

「……傭兵ですか?」

「ああ、募集が来てるぞ。国籍もカーストも年齢も関係なしで幾らでも受け入れてくれるってよ」

「…………」

――随分と兵隊に困っているようだ。あるいはすぐにでも攻勢に出る予定なのだろうか?

相反する情報にセルカンは不安に駆られたが、たとえそうだとしても下っ端兵士では知ることが出来る情報が限られる。別の仕事の方が良いだろう。

「他にはありませんか? 人死(ひとじに)は……もう、見たくないので……」

セルカンの辛そうな顔に、口入れ屋もわずかに同情を感じた。

「……そうかい。他には……料理人に……洗濯夫に……奥方の世話係に……何だコレ? 暗殺者? うちに回すような依頼かねぇ」

「…………」

たぶん技能と職歴は完全に要求を満たしているセルカンは思わず応募したくなったが、どう考えても普通じゃないので冗談か事務的なミスだと考えることにした。

――本人に面接してもらえれば、その場で殺せるんだがな。まあ、面接があったとしてもせいぜいマフズンの馬鹿止まりだろうけど

「で、どうするね? 料理が出来るんなら料理人が良さそうだが、出来ないんなら洗濯夫だな。きっと兵士の洗濯とかさせられるんだろうが……って、あちゃー、すまないな。どっちも女限定だとさ」

しかし料理人に女がいない訳ではないが、宮殿の料理人といえば普通は男だ。

「料理人も女しかダメなんですか?」

「おや? ドルクではそういうものって訳じゃないのか?」

「たぶん……皇族だけだと思います」

それが嘘だと知りつつも、セルカンは適当に誤魔化した。少なくともエフメトやベルケルの宮殿では男が料理を作っていた。なぜ彼が知っているのかは秘密だが。

――暗殺者を警戒してのことか? だとしたらそもそも募集なんぞする訳もないか。きっと碌でもない理由だろうな……

「じゃあ、奥方の世話係ってのもダメですよね。他をあたることにします、お手数をおかけしました」

ペコペコと頭を下げて去ろうとしたセルカンを、口入れ屋が呼び止めた

「待て待て、世話係は男でもいいようだぞ」

「……ほんとに?」

さすがのセルカンも意表を突かれて困惑を隠せなかった。

「普通は男を近づけないもんだが、奥方ってのは年寄りなのかねぇ。まあ、どっちにしろあんたくらいの年なら大丈夫だろうけどさ。ああ、でもドルク語の他にモンゴーラ語かカンザスフタン語が出来ないとダメだってさ。残念だったな」

「いや……カンザスフタン語は話せますけど」

「おおっ、本当か?」

「ええ、亡くなった父がカンザスフタン人だったので、子供の頃に教わったんですよ。流暢とはいきませんが」

適当にでっち上げたカバーストーリー(注3)だったが、それはあながちウソでもなかった。今回の潜入行にあたってさすがにモンゴーラ語はいきなり習得できなかったが、多くの従属民が使うカンザスフタン語だけはハサール語にかなり近いため、なんとか話せるようになったのだ。まあ、実の父は彼が言葉を覚える遥か前に死んでしまっていたのだが。

 口入れ屋は納得すると書類に何か書き込んでセルカンに渡した。

「ならもう決まったも同然だろうね。そうそうそんな人間いないだろうし。

 じゃあ、これを持ってこーてー様の宮殿に行きな。ちゃんとこれを見せるんだぞ。そうしなきゃうちに金が入らないんだからな」

「はい、分かりました。ありがとうございます」

セルカンはそのシワだらけ(◆◆◆◆◆)の顔を更にしわくちゃにしながら微笑んだ。

「良かったな。あんたのような年寄り(◆◆◆)が仕事を見つけられることはそうそうないんだぞ」

注1 カラチン=カラチ

カラチは現パキスタンの大都市で、古代から交易港として存在していたようです。

アラブ人にはデバルと呼ばれていたそうです。


注2 ヴァルナ制(いわゆるカースト制)における大まかな身分階層です。

 僧侶(バラモン)

 貴族(クシャトリア)

 平民(ヴァイシャ)

 隷属民(シュードラ)

この更に下に不可触民(アチュート)と呼ばれる人も存在します。

詳しくは知りませんし、あんまり立ち入らない予定です。


注3 カバーストーリーとは偽の経歴のことです。スパイ用語ですね。

ただし一般社会では、文字通り雑誌の「表紙」に載った絵や写真に関連する(特集)記事のことなんだそうです。

でも映画や小説の中では、どっちかというとスパイ用語の方が一般的ですね。

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