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太陽の姫と黄金の魔女  作者: 桶屋惣八
第8章 ムスリカ編
233/354

アイン・ジャーノレートの戦い

バールは「上様」と呼ばれてたはずなのに、いつの間にか「陛下」になってました。

ちょこちょこっと直します。

『イゾルテ陛下、イゾルテ陛下、こちらムルクス、聞こえますか? ドウゾ』

『こちらイゾルテ、よく聞こえているぞ、爺。わざわざ済まないな。ドウゾ』

『いえいえ、目標地点はサナポリからは遠くありません。明日発ちますのでに到着するのは5日後でしょう。陛下の方はいつごろになりそうですか? ドウゾ』

『距離的には3日ほどかな。そっちに合わせて5日後に到着するように調整しよう。ところでそちらは大丈夫か? 怪しい動きはないか? ドウゾ』

『さてさて、我々以上に怪しい動きをしている者は見当たりませんな。大丈夫でしょう。ドウゾ』

『そ、そうか……。まあ、大丈夫ならそれで良い。手はず通りに頼むぞ。通信終了、ドウゾ』

『通信終了です』


 9月14日、スエーズ軍は聖地ヘルハレムに到達したがここにもドルク軍の姿は無かった。政庁にも官吏の姿はなく、無血のままこの街を奪還することに成功した。奴隷軍人(マムルーク)達の心境は喜びとともに不安と猜疑に満ちていたが、住民たちに喝采を以って迎えられると流石に悪い気はしなかった。その上バールの計らいで、交代で聖なるドーム(注1)で礼拝(サラート)を行うことが出来たのである。彼らの宗教的な情熱は否が応でも高まった。

預言者様(ナビー)はここから昇天なされたのか……!」

「実際に預言者様(ナビー)がここにお立ちになったのだな……!」

昇天した時は実際にはメッシーナに居て夢に見ただけなのだが、まあ確かにヘルハーレムを占領した時に直に見に来た可能性は高いだろう。


 スエーズ軍は翌々日には再び軍装を整えて北上を開始し、9月18日にはヘルハーレムから北北東50ミルムほどのところにあるアイン・ジャーノレートと呼ばれる小さな川のほとりに差し掛かった。渡るに渡れぬ川ではなかったが、その先には10万近いドルク軍がいた。対するスエーズ軍は5万ほどである。


「皆の者、下馬せよ!」

バールの指示に奴隷軍人(マムルーク)たちは戸惑った。ただの野戦でも馬に乗ることは有利に働くのに、水の流れに足を取られやすい渡河戦となれば有利不利を論ずるのも馬鹿らしいほどだ。だというのにバールは馬を降りろと言うのである。

「此度の戦いには聖別された特別な矢を用いる! それ以外の武器を使うことは断じてならない!

 イゾル……ゴホンっ! ペーター男爵、お願いするでござる!」

「わははは……しまった」

後方から響いた甲高い声に奴隷軍人(マムルーク)たちが一斉に振り返ると、白いラッパ{拡声器}を持った黒尽くめの黒い甲冑{ダース・●゛イダーのコスチュームセット}を纏った小さい人影が、なにやら覆面をゴソゴソと弄っていた。

「あ゛ーあ゛ー。私゛がトゥールーヅの゛ペーター男゛爵゛だ。ペーター卿゛ど呼゛ぶが良゛い゛! 決゛じでイ゛ゾル゛デぢゃん゛でばな゛い゛ぞ!」

 ペーター男爵は今度は不気味な低い声を響かせた。どうやって声を変えているのかは分からなかったが、最初の声とちっこい身長は明らかにイゾルテのものである。ひどい喉風邪にかかった時でも同じようなダミ声になるのだから、なにがしかの方法で変えているのだろう。

 そんなイゾルテならぬペーター男爵が右手を上げると、プレセンティナ人たちが作業用の一輪車{注2}に矢束を載せて運んできた。それを受け取った兵士たちは皆例外なく驚愕した。

「こっ、これが、聖なる矢……」

「こっ、こんな矢、今まで見たこと無いぞっ!」

そりゃあそうである。彼らが手にしたのはただの四角い棒だったのだから。(注1) 当然彼らは困惑した。

「これで敵を殺せるのか?」

「こんなんまっすぐも飛ばないぞ」

「練習用の矢だってもうちょっとマシだ。少なくとも的には刺さる」

「無理です! 普通の矢でいいじゃないですか!」

ざわつく兵士たちをバールが一喝した。

「馬鹿者、この戦いをただの(いくさ)だと思うな! これは聖戦(ジハード)なのだぞ! 今こそ我らの信仰が試されているのだ!」

「「「…………!」」」

奴隷軍人(マムルーク)たちは雷に打たれたように身を震わせた。

「これが試練だというのか……」

「この矢で勝つからこそ、我らの信仰の正しさが認められるということか……」


 イゾルテには全く理解不能な事に、彼らはこれで納得してしまった。なんで納得したのか納得できなかったのだ。まあ、もともとこの方針を考えたのはイゾルテなんだけど。

 奴隷軍人(マムルーク)たちに八百長のことをバラしてしまうことも考えたのだが、それでは士気が下がるし、ひょっとすると彼らからビルジ側の密偵の耳に入るかもしれなかった。今後の過酷な作戦を考えるとそれは避けたいところだ。だから彼らには本当の戦だと信じこませることにしたのである。

 イゾルテがペーター男爵に変装しているのも、彼女の存在をビルジに知られないためだった。エフメトがプレセンティナと同盟を結んでいることは周知の事実だ。ましてエフメトと戦っているビルジが知らないわけがない。そしてこの戦いは、むしろビルジに見せるために行われるのだ。直接ビルジの密偵が見ている可能性は低かったが、この戦いを目撃した人々からの噂がビルジに伝わることは間違いない。だからこそ実際に矢を射てエフメトに怪我をしてもらうのである。決してイゾルテの個人的な復讐心(八つ当たり)を満たすためではないのだ。あくまで偶然(◆◆)満たされちゃうだけなのである。

 だがスエーズ軍の陣営にイゾルテの姿があったということまでビルジが知れば、策謀家である彼はこの戦が八百長であると気付くかもしれなかった。そこまで行かなくても、プレセンティナがエフメトと決裂してスエーズ側に付いたと思うかもしれない。そうなれば「エフメトが弱っているのか? じゃあ、今のうちに叩き潰せ!」と思うかもしれない。その考えには心の底から同意したいイゾルテだったが、それでは匈奴軍の進路をスエーズに向けるという大目的を達成できない。あくまで「スエーズ軍がドルク軍とガチで戦って勝った。ドルク軍は健在だが、エフメトが負傷したのでしばらくの間積極的に動けなくなった」と思わせるのが今回の作戦の肝なのである。


 そんな訳でここにはイゾルテは居なかった。居るのは謎の漢ペーター卿なのである。

――クマよりはマシだけど、やっぱ暑いわー

ペーター卿は矢束を運び終わった兵士の一人を呼びつけると、彼の一輪車の上に飛び乗った。

「通゛信゛用゛ガメ゛ル゛ズま゛で頼む゛」

「はぁ……」

 彼が熱中症予防のために兜の隙間から塩砂糖水をちゅーちゅーと飲んでいると、程なくして高台に停められていた異様なカメルスの前に到着した。屋根から物見台と煙突が付き出した安定性の悪そうなカメルスである。光通信{反射鏡と望遠鏡を使ったモールス通信もどき}用の機材をワンセットにしてあるのだ。ただしそのまま使うと車輪のバネ{サスペンション}でガタガタ揺れてしまうので、木製の土台で車体を持ち上げて固定していた。

遠くと話す箱は夜中にこそこそ使うだけならいいのだが、大ぴらには使えない。少なくとも「ほら、こうやって通信してるんだよ」という言い訳が出来なければ不審がられてしまうのだ。もちろんドルク側にも同じものがあった。

「陛下、通信用カメルスに到着しましたよ」

「陛゛下゛でばな゛い゛、男゛爵゛だ」

「……着きましたよ、男爵様」

「ご苦労だっだな゛。どう゛っ!」

ペーター男爵は作業用の一輪車から掛け声とともに颯爽と飛び降りた。その華麗な軌跡は新たなスポーツを生み出しそうな斬新さであった。特に着地した時の「ビリビリッ」という音が。彼は着地した姿勢のままピタリと静止し、そのままの姿勢でマントの上からお尻を押さえた。

「男爵様、どうしました?」

「……何゛でも゛無い゛」

彼はそのままちょこまかと後ずさりして、再び作業用一輪車に腰を下ろした。

「急゛用゛が出゛来゛だ。移゛動゛指゛揮゛車゛へ゛行っでぐれ゛、大゛至゛急゛だっ!」

「はぁ……」


 ペーター卿が一輪車で運ばれて行ってしばらくすると、今度は大きなクマが一輪車に乗せられてやってきた。バール達は半ば唖然とした顔つきで彼(彼女?)を迎え入れた。

「えーと、ペーター卿はどうなさったのでござるか?」

「彼は急性の切れ痔にかかったのである。今メイドが治療しているのである」

声を変えようという気もないのか、もはや明らかにイゾルテの声だった。

「切れ痔でござるか……」

バールはなんとも複雑な顔をした。ひょっとすると彼は切れ痔の苦しみを知っていたのかもしれない。あるいはそれをメイドに治療されるという、嬉し恥ずかしいなんとも倒錯した状況にちょっとゾクゾクしちゃったのかもしれなかった。

「それでイゾル……ゴホン! そこもとのことは何と呼べば?」

「私か? 私の名は……えーと、魔人プーである」

「は?」

プーとはふざけた名前である。その上どう見ても人ではなくクマだった。

「……魔獣ではないのでござるか?」

「失敬な! これは服である! 私は魔人プーなのである!」

 魔人プーはぷんすかと怒って手足をバタバタさせたが、一輪車に座ったままだし笑顔のままだったから、まるで子供がダダを捏ねているかのようだった。……大きさがハンパないけど。バールはイゾルテのこだわりがどこにあるのか計りかねたが、本人が気に入っているのなら魔人と言っても問題ないのだろう。たぶんプーの方も。

「失礼(つかまつ)った、魔人ぷーどの。それで連絡は出来たのでござるか?」

「ああ、問題ない。エフメトの方もちゃんと特別な(◆◆◆)矢を配ったそうだ」

「では、いよいよでござるな」

「ああ、いよいよである」



 両軍は互いに距離を測り合うようにゆっくりゆっくりと前進すると川のすぐ手前で止まった。もはやお互いの顔が見えるほどの距離である。

「我らはムスリカ帝国軍である。謀反人ども、今すぐ降伏するが良い。さもなくば地獄に落ちることになるだろう!」

弱小国に落ちぶれた今でも、スエーズ側の正式見解ではドルクはムスリカ帝国内の一反乱勢力に過ぎない。別に目新しいことではないのでスエーズ方面で戦ったことのあるドルク人なら知っていることだったが、別に目新しいことでもないので彼らはエフメトに教えていなかった。

「何を言ってるんだオッサン! 時代錯誤もいいかげんにしろ! それとイゾルテ! おまえは何でそんな……」

叫んでいたエフメトの肩をハシムが慌てて叩くと、彼の耳元で囁いた。

「ダメですって! イゾルテ陛下はここにはいないことになってるんですよ!」(コソッ)

「やべ、そうだった……」

しかしイゾルテの名を出してしまった以上、なんとか誤魔化す必要があった。敵を野次りながら自然にイゾルテの名前を出さなくてはいけないのだ。

「えーと、お前たちなんてなぁ、そのぉ、貧弱なんだよ! イゾルテの胸みたいに!」

「はぁ?」

――ひょっとしてイゾルテ殿は胸板が薄いことを気にしていたのだろうか? そういえば先日もシーツで体を隠していたが……

バールはそんなことを考えて首を捻ったが、その隣では魔人プーが怒髪天を衝いていた。

「今何つったぁ!? もう一回言ってみろ! いや、やっぱり言うな! っていうか、二度と言えないように殺してやる! 全軍、撃ち方始めぇー!」

「ちょっ、ちょっと待つでござ……って、ああっ!」

バールの制止を無視してスエーズ軍は射撃を開始していた。

「ああ、くそっ! もういい! どんどん射てぇー!」

ぐだぐだである。スエーズ軍から放たれた聖なる矢は次々にドルク兵達に襲いかかった。

 しかし矢羽のついていない矢はまっすぐ飛ばず、したがって空気抵抗も常の何倍にもなる。その上鏃も無いため重心が矢のど真ん中にあり、落下時にも先端を敵に向けることもない。あっさり減速した棒きれがひょろひょろと落ちてきて、ドルク兵にその横腹を叩きつけたのである。

「痛っ!」

「何だ何だ? (やじり)がついていないぞ? どういうことだ?」

「俺らのも付いてないけどな!」

「ってことは、敵のも"呪われた矢"なのか! なんてこった!」

 スエーズ人と違って敬虔ではないドルク人は「聖別された矢」なんてありがたがってくれないので、「呪いの矢」として渡したのである。これを考えたのもイゾルテだったが、エフメトは勝手に余計な情報を付け加えていた。

「こっちも反撃だ! 黄金の魔女の(◆◆◆◆◆◆)呪いの矢を射ち返せー!」

彼女に何度もひどい目に遭わされているドルク軍の多くは、自らの武器に恐怖していた。


 今度はドルク軍から飛んできた"魔女の呪いの矢"がスエーズ軍に襲いかかった。

「痛っ!」

「何だ何だ? 鏃がついていないぞ? どういうことだ?」

「これはきっと……神の御加護だ!」

「そうだ、奇跡だ! 奇跡が起こったぞ!」

「神は偉大なり!」

同じ現象が起こっても、受け取る側次第で捉え方は180度変わるものである。


 お互いに歩兵が盾を構える中、その間から弓兵が矢をこれでもかと乱射しまくった。なんせ真っ直ぐ飛ばないのだから狙っても仕方ない。だから狙う必要がない。そして当たっても痛いだけなのだからおびえる必要もない……はずなのだが、ドルク軍だけは何故か必要以上に怖がっていた。

「うわっ! あぶねー!」

「ひぇー、くわばらくわばら……」

「お前ら、何を怖がっている!」

「だ、だって黄金の魔女の呪いが掛かっているんだぞ?」

「魔女の呪いだと? 下らん!」

そう叫んだ一際(ひときわ)(たくま)しい男が盾の後ろから飛び出すと、仁王立ちになって次々に矢を放った。

「食らいやがれぇー、痛てっ! 効かん、効かんぞー、痛てっ! まだまだぁ~、痛てっ!」

矢が当たっても当たっても、彼は仁王立ちのまま矢を射続けた。

「おおっ、凄いぞ!」

「そうか、魔女の呪いなんて虚仮(こけ)(おど)しだったのか!」

仲間たちの声援を受けた男は調子に乗っていた。ただでさえ戦いで興奮しているというのに、普段なら当たったら致命傷になるような矢玉が痛いだけで済んでいるのだ。というか適度な傷みが彼の性癖……ではなく、アドレナリンを分泌させていたのかもしれない。今彼は全能感を感じていて、なんだか伝説上の戦士になったかのよう気分になっていた。

「わははは、痛てっ! 今日の俺はゴリアンテ(注3)だ! 痛てっ! 魔女の呪いがナンボの……はうんっ!?」

ゴリアンテ(自称)が突然奇妙な悲鳴を上げて悶絶すると、周りの兵士たちは恐れ(おのの)いた。

「ああ、よりによってゴリアンテなんて言うから……」

「呪いだ! やっぱり呪いはあったんだ!」

彼らの見つめる中、ゴリアンテ(自称)は股間を押さえながらピクピクと痙攣していた。彼がどこか幸せそうな顔をしているように見えるのは気のせいである。……たぶん。


 一方、スエーズ軍の陣中にも矢の雨の中で仁王立ちする豪の者がいた。魔人プーである。

「ふはははは! 痛くない! 痛くないのである! 私は無敵なのである!」

これまで何度も矢を浴びてきた彼女も、今回ばかりは全く痛くなかった。なぜだか執拗なまでにおへそ――つまり中の人の胸のあたり――にばかり当たっていたが、何回あたっても分厚い皮と綿が矢を弾き返していた。だが魔人プーは両腕で胸――つまり中の人の顔のあたり――をガードしながら飛び跳ねていたので、正面から見ると「いやーん」と言って身を捩っているようだった。はっきり言ってカッコ悪い。しかし彼の後ろにいるスエーズ兵にはこの上なく頼もしい後ろ姿に見えた。

「さすがは魔獣……いや、聖獣だ!」

「そうだ、我々には神が遣わされた聖獣が付いている!」

せっかく作った設定が台無しだったが持ち上げられて悪い気もせず、イゾルテは魔人プーの腹の中で鼻をひくひくと膨らませた。だがそれは彼女の油断だった。

「ちょっと喉が渇いたな。どれ、水分補給でもするか」

魔人プーは足元の水筒を拾おうとしてその場にかがみ、そしてその場に凍りついた。その様子を見た一輪車係のプレセンティナ兵が、彼の背後に駆け寄ってこそっと耳打ちした。

「陛……じゃなくて、魔人様、ひょっとしてまた切れ痔ですか?」

「み……みず……」

「みみずがいたんですか?」

「水筒が壊れてるのであるぅー!」

 幾ら魔人が無敵であろうとも、水筒はただの水筒である。矢が当たれば壊れるのは当然であり、水筒が壊れれば魔人は無敵ではいられないのだ。……脱水症になっちゃうから! まあ、別に彼が居ても居なくても戦況に影響はないんだけど。

「あの……私のを飲みますか?」

「ストローが要るのである。見ろ、ポッキリ折られているのである!」

それはドルク軍の放った矢が細い真鍮管のストローに奇跡的に命中した結果……ではなく、矢が命中して水筒が転がった所を魔人が踏んづけてしまっていたのである。

「おのれエフメト! 許すまじである!」

八つ当たりなのである。

「決着を急がねばならんのである。通信用カメルスに伝令である!」

「はぁ、それで何と?」

「『アララトヤマノボレ、イマスグニ』であるっ!」(注4)

それは作戦の仕上げを命じる符丁だった。


 光通信によってムルクスのもとに符丁が伝えられると、彼は盾に守られながらエフメトのもとへとやって来た。

「殿下、そろそろ矢に当たれ、だそうです」

「くそっ、イゾルテめ……自分があんなの着てるからってむちゃくちゃ言いやがって」

「でも死にはしませんよ」

「でも結構痛そうだぞ? 確かに矢に鏃は付いてないが、普通より長くないか? (注5) あんなん当たったら怪我するだろうが!」

ムルクスが肩を竦めると、ハシムまでも深く溜息を吐いた。

「いい加減にしてください。殿下が怪我をするところまでが計画なんでしょう? このままではいつまで経っても終わりませんよ」

誰も死なないのだから終わりようが無いのだ。既にスエーズ軍は100万本の矢を射ち尽くしていたが、ドルク軍が射ち込んだ矢を拾って射ち返していた。まさしく終わりなき戦いである。……死闘ではないけど。

「し、しかしだな……」

まだエフメトが逡巡するのを見て、ハシムはパチンと指を鳴らした。

「近衛兵、殿下の鎧の手足を脱がせてください」

「は、ハシムぅ!?」

「そしてそのまま大の字に拘束するのです」

ずずいと迫るハシムと近衛兵達に、エフメトは頬を引き攣らせた。きっとクーデターを起こされた王や皇帝はこんな感じなんだろうなぁ、と彼は実感した。ムルクスが傍観しながらニヤニヤと笑っているのも癇に障ったが、かれがいつも笑い顔なのはエフメトも承知していることだった。

「ま、待て! お前は誰の命令でそんなことをするんだ! お前の主君はイゾルテじゃなくて俺だろ!」

「勿論ですよ。私は殿下に従っています。殿下が怪我をするというのは、殿下が交渉して殿下が決めてきたんですよね?」

「…………」

エフメトはぱくぱくと口を動かしたが、何も声に出すことは出来なかった。自業自得である。

「さあ、やっちゃってください。ああ、命に別状があっては大変です。胸当てと兜はそのままで」

「「「「はっ」」」」

無言のまま近衛兵に取り押さえられたエフメトは、両手両足を拘束されて盾の後ろから引きずり出された。


 対岸で目を凝らしていた魔人プーは、エフメトが姿を現したのを目ざとく見つけて叫び声を上げた。

「エフメトである! 敵の大将があそこにいるのである!」

すかさずバールも叫んだ。

「者ども、敵中央に攻撃を集中せよ! 敵の大将が旗印の下にいるぞー!」

「「「オオォォォ!」」」

数万の矢がエフメトに向けて一斉に放たれた。


 エフメトは空が黒くなるのを絶望的な気持ちで空を眺めた。空というか矢である。空が三分で矢が七分だった。狙って当たるものではなくても、万を超える矢が一斉に飛んで来れば10や20は当たるだろう。彼はとっさに頭を伏せて兜で顔を守ったが、手足を拘束されていたせいで体の方はどうにもならなかった。


 どどどっ どどどどどどどどどどっ  どすっ

「イテッ! テテテテテテテテテテッ! あふんッ!」


無数の矢がエフメトの全身を叩きのめし、最後の一本が彼に止めを刺した。人間としての一生はともかく、男としての一生は今本当に閉じてしまったかもしれない。慌ててエフメトを回収したハシムたちは、脂汗を浮かべて悶絶する主君を目前にして冷や汗を垂らしていた。

「えーと、良かったですね。既にセリヌ様が生まれていて……」

ハシムの乾いた声にエフメトは目を剥いて呻いた。

「いい……た……それ……ぁ……」

そして彼は事切れた。……もとい、意識を失った。

「ハシム様……大丈夫なんですか?」

同じく真っ青な顔をした近衛兵が、不安げに尋ねた。

「だ、大丈夫だ、脈はある! 全て殿下の計画通りだ! 殿下を信じよ!」

――いや、その殿下が嫌がってたじゃん

というツッコミを心のなかに封印しつつ、近衛兵たちは頷いた。そういうことにしておいたのだ。ハシムは立ち上がると主君に代わって命を下した。

「全軍聞けぇー! 撤収だ! 撤収する!」


 (にわか)に撤退を開始したドルク軍に対して、スエーズ軍の意気は否が応にも揚がった。

「敵が逃げるぞ!」

「我らの勝ちだ! ドルク軍に止めを刺せ!」

彼らが川を渡って追撃に移ろうとした時、魔人プーが両手を広げ、不気味な笑顔を見せて立ち塞がった。まあ、常に笑顔なんだけど。

「待つのである! この戦いは復讐ではないのである!」

彼は仁王立ちをしたままその感情の籠もらない目をチラッチラッとバールに向けた。バールはそれに気づくと、目を泳がせながら些か棒読み気味に反対した。

「えーと、ゴホンっ! しかし、折角の好機ではござらぬか。今のうちに一人でも多く討ち取るべきでござろう?」

「違う、あれは敵ではない! あれは今や証人なのである!」

「証人?」

「これが聖戦(ジハード)であることの証人である! 我らのもとに神のご加護があることと、我らが慈悲深き神のご意思に従っていることの証人なのである!」

「「「…………!」」」

魔人プーは俗なる復讐心を捨て、神の御心に沿えと言っているのだ。その信仰心の篤さに奴隷軍人(マムルーク)たちははっと息を呑んだ。

「それにお前たちには他にすべき事があるのである!」

「すべきこと? 魔人殿、それは何でござるか?

「すべき事、それはゴミ拾い……じゃなくて、聖なる矢を一本残らず回収することである! そしてそれを焚いて神の御下(みもと)にお返しする事である!」

つまりは証拠隠滅である。誰かが鏃がついていない矢を拾ったら不審に思うかもしれないからだ。まあ、普通の人が四角い棒を拾ってもまさか矢だとは思わないだろうけど。

「なるほど、神の物は神に返せ、ということでござるな!」

魔人プーは微笑みながらうんうんと頷いたが、腹の中のイゾルテは「どうせなら皇帝(カエサル)のものも皇帝(カエサル)に返せよなー」(注6)呟いていた。

「皆の者、聞いての通りだ! 戦闘を中止し、これより全ての矢を拾い集めよ!」

「「「はっ!」」」

こうして戦闘の後にゴミ拾いをするというなんとも奇妙な情景が生まれた。まあ、この戦いのために1000本以上の木が伐採されていたので、あんまり自然にやさしいとは言えないんだけど。


 この戦いの顛末はドルク帝国の南部、つまりはスエーズ軍による占領予定地域に広く伝えられ、彼らの信仰心の篤さと規律の正しさを喧伝するのに一役買うこととなった。もちろんその背後にイゾルテの策謀があったことは言うまでもない。

注1 矢をまっすぐ飛ばすには、弓の構造や放ち方以上に矢羽の大きさと矢の重さと重心バランスが重要になります。

矢が軽いと初速は速くなりますが、運動エネルギーを蓄積出来ずに空気抵抗に負けてしまいます。

矢羽の方は逆に空気抵抗を受けることで後端になるように調整してくれます。

しかし矢羽がなくても重心が前の方にあれば、実のところまっすぐ飛んでくれます。

これは人間が高所から飛び降りると、比較的に重い頭を下にして落下するのと同じ理屈です。

重心については (((矢の先端~重心の距離)-矢の長さの半分)÷矢の長さ) を%で表したF.O.C.(Front Of Center balance point)という値があります。

つまり矢の先頭が重心なら50%、末端が重心なら-50%になります。

理想は+50%ですが物理的に不可能ですので、できるだけ値が大きくなるように調整されます。

25%以上なら矢羽がなくても(だいたい)まっすぐ飛ぶそうです。


注2 一般的に「一輪車」と言うと遊戯用の乗り物を指しますが、工事現場なんかで使う一輪の手押し車も「一輪車」と言います。

別名に「猫車」更に略して「猫」なんてのもありますので、土建バイトなんかをすると「おい、ちょっと猫持ってきてくれ!」なんて言われるかもしれませんが、間違えて(cat)の方を捕まえに行ったりしないでください。

ちなみに三味線みたいに猫皮を使ってる訳ではありません。それどころか起源は古代中国の「木牛」だったそうです。まあ、牛革も使ってないと思いますけど。

この木牛の発明者は諸葛孔明だそうですが、こういう機械っぽいアイテムは孔明のヨメが関わっている可能性が高いですね。

もっとも荷車自体はインダス文明が発祥らしいですし、手押し車が中国から伝わったのか自然発生的に西洋でも発明されたのかは分かりませんでした。


注3 ゴリアンテ=ゴリアテです。

既出ですが、ゴリアテはダビテ少年に石ころで殺されるという、ドン引きレベルのやられキャラです。

ちなみに地名のアイン・ジャールートがゴリアテの泉という意味だそうです。


注4 符丁方式の暗号電文で二番目くらいに有名な「ニイタカヤマノボレ1208」が元ネタです。

一番有名なのはその命令に対する結果報告「トラ・トラ・トラ」ですね。

アララト山はトルコ東部にある山で、ノアの方舟が引っかかったという伝承があります。まあ一応聖なる山、なのかな?

モーゼが岩肌に十戒を彫った……じゃなくて、神から授かったシナイ山と迷ったのですが、語呂の問題でアララト山にしました。

ちなみにシナイ山の方は、作中ではサラが修行のために捨ててこられた山だったりします。名前は出てないですけど。


注5 矢というのは基本的には質量兵器です。その威力は重量に比例し速度の2乗に比例します。たぶん。もちろん鏃の強度や構造によって貫通力は変わってきますけど。

ただし長距離を高速で移動するため空気抵抗は馬鹿になりません。

そのため速度の低下を抑えるためには、横向きにならないでまっすぐ飛ばす必要があるのは当然ですが、質量に比べて投射面積(真正面から見た面積)が小さいことも要求されます。

つまり重い木を使うか長くすることで威力を増すことが出来るのです。

しかし重量が増せば当然ながら初速の低下を招くので射程距離が短くなります。トレードオフですね。

しかし矢が長くなるということは、弓を深く引くこともできるということです。

こうして弓までもが大型化した典型の1つがイングランド軍の長弓です。百年戦争のころに大活躍しました。

当時は全身鎧を着た騎士たちが頑張ってた時代ですから、鉄板を貫通するための重くて長い矢と、それを500mもぶっ飛ばす強力な弓が必要だったのでしょう。

逆に言えば敵が鈍重だった訳で、長弓隊にとっては良い鴨だったことでしょうね。


注6 元ネタはキリストの名言『カエサルのものはカエサルに、神の物は神に返しなさい』(新約聖書マタイ福音書22章)です。

どっちかというと前半だけが有名ですね。これはユリウス・カエサル個人ではなく(名目上の子孫である)皇帝たちを表します。

ちなみにキリストは、イスラム教では預言者の一人イーサーとして認識されています。

キリストの生きていた当時、ローマ帝国内で生きていたユダヤ人達は他の民族と違って独自ルールをゴリ押ししまくっていました。ローマの神とか祭りとかを一切認めない上に自分たちは安息日だとか言って勝手に休むし、ゴネた結果兵役の義務も免除されていました。神ではないローマ皇帝に忠誠を誓うことなどできませんし、ローマにしても「安息日だから」といって戦わない兵士なんて邪魔なだけですから!

だというのに、教徒から莫大なお布施を集める寺院は属州税(10%固定の所得税)すら拒否っていたのです。

そのためローマ政府といざこざが起こるのですが、ユダヤ教指導者(のスパイ?)が宗教上の敵であるキリストに「税金って払うべきかな? だってこれって神の金でしょ?」と問いかけたのです。

「払うべき」と答えたら「こいつは棄教者だ! ローマの回し者だ!」と攻撃できるし、「払わなくてもいい」と言えば「へっへっへ、ローマさん、ローマさん、あいつこんなこと言ってますぜ」と告げ口することが出来ます。現代の国会とかでもよくあるやつですね。

で、それに対するキリストのトンチを利かせた答えが『カエサルのものはカエサルに、神の物は神に返しなさい』だった訳です。

ちなみに当時のコインは皇帝の横顔が彫られているのが通例でした。つまり言外に「お前ら神の金だって言ってるけどさぁ、コインには皇帝の横顔が彫ってあるじゃん? これってホントに神の物なん?」と言ってる訳ですね。

内容的にはローマの肩を持ちつつも言葉自体は中立なので、寺院側もぐうの音が出ませんでした。



三者会談で予告されていた偽装合戦でした。

自分で考えておいてなんですが、驚くほどグダグダな戦いになっちゃいました。

マムルークを出しておいてアイン・ジャールートでこんな戦いをしていいのかと文句を言われそうです。

でも大丈夫、もう一回ありますから。

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