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太陽の姫と黄金の魔女  作者: 桶屋惣八
第8章 ムスリカ編
232/354

挟撃

 ソッチでニルファルとシロタクが戦っていたころ、ペレコーポ地峡の沖合にドルク船が現れていた。プレセンティナ帝国とエフメトの同盟によってドルク船のアムゾン海航行権は保証されていたが、そもそもその条件として軍船は解体されていたし民間船の数もそれほど多くはなかった。ましてここまでやって来るのは珍しいことだ。そして何より、その船が交易に適さない小型の快速船であったことは異例中の異例だった。大陸側の浜にカッターで上陸したドルク人は、何事かと寄ってきたハサールの子供たちに叫んだ。

「ニルファル様からの伝言だ。至急クリルタイに連れて行ってくれ!」

「&’$%S(F&?」

「え、えーと……ニルファルサマ、デンゴン。クリルタイ、ドコ?」

彼は馬の背に乗せられて落ちないように縛り付けられると、東に向かって連れ去られた。ドルクでは珍しい船乗りの彼も、疾走する馬の背に乗るのは初めてだったようで、走りだしてすぐに気持ち悪くなった。


 この時ハサール軍本隊はハサール・カン国北部を東西に分断するドニプロ川のほとりに置かれていた。ドルクからの使者がここに連れて来られたのは上陸の翌々日9月7日のことだった。

「ドルクからの使者が到着しました」

 大天幕に通されたその男は既にボロボロだった。大天幕に入った途端立っていられずに膝をついたが、椅子を勧められても彼は固辞した。貴人の前で礼節を守った……訳ではなく、お尻が大変なことになっていたのである。

「さ、去る8月20日、ニルファル様がハサール軍を率いてハサール国内に向かわれました。今頃はソッチの街を拠点として北上を開始しているはずです。と、言っています」

 思わぬ朗報に族長たちは膝を打って喜んだ。

「これで勝ったも同然だ!」

「さすがはニルファル嬢ちゃんじゃ」

「然り然り、子を産んでもお転婆は治らぬようじゃのう」

だが盛り上がる彼らとは正反対に眉間に皺を寄せた男がいた。ルキウスである。

「何ということをっ!」

思わず叫んでしまってからはっとした彼は、慌てて誤魔化した。

「いや、ペルセポリスに伝えて貰えれば、そこから2日で連絡が届いたのになぁ。と、言っています」

 確かに光通信であれば、天候さえ良ければ1日か2日ほどで情報を伝えることが出来たはずだ。だというのに何故ニルファルがそれを用いなかったのかと言うと……存在を知らなかったからである。知ってれば使っただろうけど、イゾルテが言っていたのはペルセポリス~ドルク~スエーズ間のことだけであり、しかもこれから設置したいから協力して欲しいという話だった。まさか既にペルセポリス~ハサール間に設置し終わっているとは思いもよらなかったのだ。だがもちろん、彼が心配しているのはそんな事ではなかった。

「と、ところで、イゾルテはこの事を承知しているのかな?」

「さあ……(しか)とは。しかし出発される少し前にサナポリで会談をされたと聞いております。その場で何らかの話し合いがあったのではないでしょうか」

「そうか……」

――イゾルテが承知しているのなら良いか。いや、あの娘は何かと抱え込むタチだからな。ブラヌ殿が亡くなられたことに責任を感じて無理を引き受けているのかもしれん。しかしこちらに援軍を出す余裕がある訳でもない。さっさと片付けてあちらに向かわねばならんか……

普段は割りといい加減なルキウスが、彼は彼で娘のことに関してだけは心配性なのだった。まあ、現状でその娘が死んじゃうようなことがあれば、たぶんドルク戦線も崩壊して遠からず国自体も滅びちゃうだろうけど。


「しかし、補給はどうしているのじゃ? 家畜も連れていないのだから食料にも事欠くじゃろうて」

「船でドルクから運んでおります。そのため順次港町を解放していくことになります。と、言っています」

「この時期に牧草は要らぬじゃろうが、10万人分の食料というだけでも大変じゃろう」

「いえ、ニルファル様が率いておられるのは1万2千です。と、言っています」

「……なに? 残りはどうした!」

「ニルファル様の命でドルクに残られました。

 『ハサールの地が奪われてもドルクの地が奪われても我らの負けである。200万の敵が迫るドルクの地を守ってほしい』と仰られて。と、言っています」

 族長たちはニルファルの正論に押し黙った。我が身可愛さが先に立って喜んでしまったが、もともとドルクは内乱の最中(さなか)にあるのだ。そのうえドルクに迫るモンゴーラ軍は100万を越えると言う。ハサールが勝ってもドルクが敗れれば、その100万がハサールに押し寄せてくるのは明らかだった。そしてその次の獲物はタイトン諸国であり、だからこそタイトン諸国も援軍を出して来たのである。

「とはいえ、たったそれだけではモンゴーラの分遣隊すらも討てまい」

「下手をすれば各個撃破じゃ」

「下手をすれば? 間違いなくモンゴーラはニルファル嬢ちゃんの援軍を先に叩くじゃろうて」


 このころモンゴーラ軍は一向に決戦の素振りを見せていなかった。ハサール軍は頻繁に威力偵察を行っていたが、頻繁に移動するので本隊を発見することすら困難だった。だがハサール軍本隊を前進させて敵と入れ違いになれば、後方の民間人を守るものは僅かな兵力に過ぎない。ハサール軍としては間違ってもそれだけは避けねばならず、かと言って敵の正確な所在を把握することも出来ないため攻めあぐねていたのである。

 そしてモンゴーラがそこまでしてあからさまに時間を稼いでいたのは、明らかに東部地域を制圧して後方の安全を確保するためだった。ならばニルファル軍を放置するとは考えにくい。むしろ本隊が時間を稼いでいる間に各個撃破を試みるのは当然であろう。


 ルキウスはドルクの使者に向かって敢えてタイトン語で声をかけた。彼はドルク語も話せたが、通訳にハサール語に訳させるためだった。

「いっその事、船でこちらに合流はできないだろうか? と、言っています」

だがルキウスの提案を聞いたハサール人たちは一斉に凍りついた。ドルクの使者も顔を顰めた。

「ドルクには絶っっっ対に不可能ですね! いったい何往復すればいいんでしょう? プレセンティナなら一度に運べるのかもしれませんけどね! と、言っています」

 さんざんドルク商船を拿捕しまくってドルクの交易商や船乗りをジリ貧に追い込んだだけでなく、細々と維持されてきたドルク帝国海軍アムゾン海艦隊を解体させたのは他ならぬプレセンティナである。つまり、今現在アムゾン海にほとんどドルクの船が存在しないのはプレセンティナのせいなのだ。自分たちの方が遥かに船を持っていると知ってるだろうに、いったい何の嫌味だろうか。それに彼個人としても、ようやくガレー船の艦長になった途端に乗艦が解体させられて、今や中古木材として十把一絡げに売られる身の上だった。逆恨みだと分かっていてもプレセンティナには思うところがあったのだ。

 しかしルキウスの方も嫌味で言った訳ではなかった。

「……そうか。しかし我が国も馬を運んだことはあまり無いからなぁ。 と、言っています」

そもそも騎兵が少ない上に海外派兵の実績がほとんどなかったプレセンティナでは、軍馬を海上輸送した経験がほとんどなかったのだ。例外は方舟{LCVP上陸用舟艇}でキメイラごと運んだ時だけである。しかし普段使う予定のないあんなものは、既に解体してただの樽になっていた。今から作ってもとても間に合わないだろう。

 その点、ドルクは何度も海峡を渡ってプレセンティナに攻め入ったり、メダストラ海を渡ってローダスに攻め入ったりしている。当然そこには多くの軍馬も含まれていたから、その点だけはドルクの方がノウハウがあるはずだった。しかしドルクにそれだけの海運力が無いのなら、ノウハウだけがあってもどうにもならないだろう。

――せっかくアドラーを連れてきたのだ。ズスタスの拳人形(ゴトゲルトの先端)を作るのも飽きただろうし、方舟を作らせてみるか? いや、やはりそれでは時間がかかりすぎるか……

ルキウスが腕を組んで黙り込むと、それを見た族長たちが息を吹き返した。

「それはいかん。馬を置いて行くなんてとても出来ない相談じゃ!」

「うむ、船なんか全然まったく怖くないが、馬を置いて行くことはできないな!」

「まったくじゃ! むしろ折角船に乗れる好機だったのに、惜しいことしたのぅ!」

そう言いながらも、彼らは馬を消耗品と割り切っている上に、普段から馬肉料理を食いまくっていた。最悪なことに、固い馬肉を鞍の下に敷いて、クッションにしつつお肉を叩いて柔らかくするという生活の知恵(注1)まで持っていた。馬にしてみればいい面の皮である。

 しかしルキウスは真剣に地図を睨んでいたので、彼らの真意を読めなかった。あるいは読まなかった。

「ケッチ海峡ならどうだ? ここなら10ミルムほどだから一日に5往復くらい出来るだろう。と、言っています」

族長たちは再び凍りついた。

 ケッチ海峡はクレミア半島の東端と大陸の間の海峡である。南のアムゾン海と北のアソブ海をつなぐ海運の要衝……と言いたいところだが、アソブ海は水深が浅いので喫水の深い船は事実上通行ができない。真ん中はともかくとしても、海岸線は泥土(でいど)堆積(たいせき)が激しく、水深の深い港を作ることが出来ないのだ。大型船にとっては事実上ケッチ海峡がどん詰まりなのである。いっそ地続きなら良かったのかもしれない。(注2)

「ケッチ海峡なら馬を運ぶことも出来るかもしれない。兵を先に運んで、余裕があれば馬を運ぶのだ。もちろんプレセンティナの船も最大限融通しよう。ケッチ周辺に停泊している民間船を徴用すれば軍船と合わせて20や30は用意できるだろうし、本国に通信を送れば10日以内に何十隻でも用意できるだろう。もっとも、船の数より港湾施設の方が問題になるだろうが。と、言っています」

ルキウスの説明にドルク兵は納得したように頷いたが、ハサール人たちの顔はますます顰められた。しかし今度は、単に船が怖いという話ではない。

「……ルキウス殿、我々にとってクレミアは敵地なのだ。ケッチの港に渡ればそこが戦場になるだろう。 と、言っています」

可汗代理となったバイラムは立場上ルキウスに対して対等な口ぶりを用いるようになっていたが、その表情からは申し訳無さそうな気持ちが(うかが)えた。せっかくのアイデアを自分たちの都合で潰さざるを得ないことに気が咎めているのだろう。もっとも、クレミアを独立させちゃったのはそもそもプレセンティナなんだけど。

――そうか、我々はともかくハサール軍が上陸することなどクレミアが認めるはずがないのか……

 ルキウスはイゾルテと違ってスラム人とハサール人の軋轢を実感していなかった。クレミアのスラム人は昔から商売相手だし、今となってはハサール人もこうして(くつわ)を並べる仲である。だから話には聞いていても、モンゴーラの脅威を前にしては彼らの諍いなど瑣末なことだと思ってしまったのだ。だが、彼だからこそ発想の転換も可能だった。

「ならば……タイトン人ならどうだろう? と、言っています」

ルキウスの提案にバイラムは眉根を寄せた。確かにタイトンの兵士ならクレミア半島のスラム人も通行を許すかもしれない。プレセンティナ軍なら尚更だ。しかしニルファルが率いるハサール軍をどうやって合流させるかという相談をしているのに、そんなことがどう関係するのだろうか?

「モンゴーラ軍がニルファル殿を叩くために分遣隊を派遣するのは目に見えている。ならば逆に、これを叩いてはどうだ? と、言っています」

「何を言っている? ニルファル殿の軍はわずか1万数千に過ぎない。こちらから援軍を出そうにも、クレミアを通れな……あっ!」

バイラムはルキウスの真意に気づいて息を呑んだ。

「援軍か……!」

「そうだ、ケッチ海峡を渡り対岸のノボロウシスク(注3)を抑えてしまえば、ソッチに攻め入るモンゴーラ軍を前後から挟撃できる。と、言っています」

「なるほど、しかもあそこは海岸沿いの一本道だ。出口を抑えてしまえば袋のネズミだ!」

「海岸沿いということなら軍船も役に立つかもしれないな。援軍の渡河を終えた軍船を使って攻撃させよう。距離が遠くて攻撃が届かなくても、敵に対するプレッシャーにはなるだろう。と、言っています」

軍船という言葉を聞いても、今度は族長たちも怖がらなかった。乗るのも攻撃を受けるのもハサール人ではないからだ。だが同じくどちらでもないはずのドルク人が明らかに怯えていた。彼が思い浮かべていたのは、黄金の魔女が乗るという火を吐く双子の怪船だった。

――やっぱりガレー船が解体されて良かったかも……

「鉄馬車に加えて軍船までか! これはモンゴーラに同情するわい。まともな戦にならんじゃろうて」

「然り、然り。ただでさえ細い道に鉄馬車が突っ込んで来たら山に逃げ込むか波打ち際まで下るしか無い。だがその海には軍船が居るのだからな!」

俄然盛り上がるハサール人たちの前で、ルキウスは申し訳無さそうに頭をかいた。

「あー、もちろん我々も援軍に行きたいのは山々なのだが、我軍のキメイラはどう頑張っても普通の船には乗らぬ。専用の小舟を用意する必要があるのだが、それには時間がかかるのだ。と、言っています」

族長たちがピタリと押し黙ったのに慌てて、ルキウスはぼーっとしていたズスタスの肩を掴んだ。

「そんな訳で、代わりに我が甥に行って貰おうと思っている。 と、言っています」

「……え? 余のこと?」

きょとんとしたズスタスの耳元に、すかさずルキウスが囁きかけた。

「ニルファル殿とイゾルテは大の仲良しだ。ニルファル殿の窮地を救ったとなれば、イゾルテは喜ぶだろーなー」(ボソっ)

もちろんズスタスは俄然(がぜん)やる気になった。

「やる! 余はやりますよ、叔父上! と、言っています」

「ということで、援軍に行くそうだ。 と、言っています」

 だがバイラムは素直に喜べなかった。

「スノミ騎兵の実力は、助けられた私が一番良く知っている。だが所詮は重騎兵だ。しかもあのナントカと言う槍は初撃にしか使えぬと言うではないか。自軍の何倍もの軽騎兵を相手にするなど自殺行為だ」


 スノミ騎兵は先の戦いで2割近い損害を受けていた。失ってしまった(というか回収できなかった)ゴトゲルトの先端は、アドラーたちプレセンティナの職人や兵士の手で(ものすごく適当に)補充されていたが、兵馬の方はいかんともしがたい。そして8000人のスノミ騎兵が8000本のゴトゲルトを放ち、8000人のモンゴーラ兵を屠ったとしても、まだモンゴーラ軍の分遣隊の方が圧倒的に多いだろう。ゴトゲルトを失った彼らに勝ち目はない。


「……ならば、我々にも行かせて頂けませんか? と、言っています」

 のっそりと立ち上がったのは重そうな鎧を着たファーレンシュタインだった。ディオニソス王国の虎の子重装騎兵隊を率いてきた都合上、彼も同じ鎧を着せられていたのだ。だが慣れていないから重くて仕方がなかった。外に繋がれている軍馬も騎乗用というより輓馬(ばんば)みたいにガタイの良いものになっていた。これも丈夫なのはいいが足が遅いことに閉口していた。もっとも、昨年までの愛馬は雪山で美味しく食べちゃったんだけど。

「直線に並んだ敵を蹴散らすなら我ら以上に適任はありません。それに草原では我らの足の遅さは致命的です。我らが役に立てるのはここをおいて他には無いでしょう。と、言っています」

 彼らが槍を使うというだけの重騎兵ではなく、騎手はおろか馬にまで鎧を着せる重騎兵、いわば真重装騎兵とでも言うべき存在であると知っていたのは、ハサール人の中ではバイラムだけだった。そのバイラムも直接見た訳ではなく、パエターンの戦いの折に斥候からの報告を受けただけだったが。

――イゾルテ殿の鉄馬車の前に一蹴されたとは聞いたが、それはあの巨大な火柱によるものだという話だ。デキムス殿は敵の普通の(◆◆◆)重騎兵には矢束を用いていたし、イゾルテ殿があの火柱を上げたのも一回だけだった。逆に言えばイゾルテ殿は、彼ら(◆◆)には矢が効かぬと判断されたということではないか?

 イゾルテがパエターンの炎(火炎壺の一斉掃射)を使ったのは、本当は心理的な効果を狙っての事だった。いきなり炎に包まれれば馬が恐慌状態に陥って突撃どころじゃなくなるだろうと考えたのだ。まあ、それ以外の直接的な効果が大きすぎたんだけど。もちろん余程引きつけないと矢が効かないと思っていたからこそ、崖の上からは攻撃しなかったのだが。

 キメイラが登場するまで彼らは戦場の花型だった。歩兵を蹂躙し、騎兵を一蹴し、弓兵を虐殺するのが彼らの戦場での役柄だったのだ。彼らが唯一苦手としたのは槍衾(やりぶすま)を構えてハリネズミとなった槍兵だけであり、それだって正面から攻撃を仕掛けると危ないというだけだった。

 だがこの地ではモンゴーラ軍本隊が広大な草原で機動戦に終始している以上、彼らに出番はなかった。斥候の連絡を受けて出かけて行っても、到着する頃に敵はいないのだ。そして仮に接敵に成功したとしてもモンゴーラ軍はさっさと逃げ散ってしまうことだろう。しかし敵が一本道に寄り集まってくれるというのなら、これほど有難いことがあるだろうか?


「なるほど、至極尤もな話だ。是非ともお願い致す」

そう言ってバイラムが頷くと、今度はベルマー子爵が立ち上がった。

「ならば我々辺境諸侯連合軍も一緒に行きましょう。敵の後ろから仕掛けるのは良いが、こちらの後ろもがら空きには出来ない。ハサール騎兵の索敵能力には遠く及ばないが、タイトン人の誰かがやらねばならぬと言うのなら我らがやるしかないだろう。と、言っています」


 辺境諸侯の軍は基本的に歩兵主体であり、騎兵に限定して地の果てまで遠征するとなるとそれぞれ10人とか20人とかが限界だった。だから全部をまとめて辺境諸侯連合軍としてベルマー子爵が率いていた。あべこべな話だが、ボーヘミア大公領からも50名ほどの騎兵が参加しており、彼らは事実上の主君に内定しているファーレンシュタインではなくベルマー子爵に従っていた。そして彼ら辺境諸侯連合軍とファーレンシュタイン率いるディオニソス軍には無視しがたい反目があったのである。クマデブルクの虐殺からまだ1年と経っていないのだから当然ではあったが。


「子爵……」

「少なくとも我ら二人の間には争うべき何物もない。水の上を越えて味方を助けに行くのも初めてのことではないだろう?」

それは彼らが初めて共に戦ったメーテルラントでの思い出だった。二人の友情を間近に見て、バイラムがうんうんと頷いた。

「そうかそうか。ブラドは血に飢えているんだな。

 皆の者、このブラドこそが竜公(ドラクル)の子、竜の子(ドラキュラ)なのだ」

その紹介を聞いて族長たちは大いに驚いた。

「あの伝説の竜公(ドラクル)の!? あの生き血を啜るという!?」

「なんということじゃ! 知らずに戸締まりしないで寝ていたぞ!」

「ま、まさか、若い者達が痒そうに首を掻いていたのは……」

そう、それは間違いなく血を吸われたせいである。……蚊に。

「それは普通に蚊じゃろ? ちゃんと寝る前に燻した方がいいぞい」

「「「かっかっかっか!」」」

伝説と言ってもたかだか50年前の話だ。年寄りの族長たちはそれが与太話の類だということをちゃんと分かっていたのである。……最年少のバイラムを除いては。


「そういえばお前は、イゾルテ殿の生き血を啜って忠誠を誓ったのだったな」

「え? ち、ちが……」

蒼白になった子爵はルキウスに向かってブンブンと首を振った。生き血を啜ったのは蛇の毒を吸い出すためだったし、忠誠を誓ったのはそれよりも前の事だったのだ。

「何で否定する? お前がイゾルテ殿のスカートに頭を突っ込んで血を吸っていたのを見たものが居るんだぞ?」

今度はルキウスが愕然とした。確かに彼はイゾルテの性癖を心配していた。いいかげん男にも目を向けて欲しいと思っていた。しかしベルマー子爵はルキウスよりも10歳以上年上である。オッサンである。オッサンであるルキウスよりもさらにオッサンなのだ。そんな子爵が可愛い可愛い愛娘のイゾルテといかがわしいことをしていたなんて、彼には信じがたい事だった。耐え切れない衝撃だった。ケトレア伯に娘を(たぶら)かされたアドラーの気持ちが、今初めて分かった。

「しっ、子爵……殿、後ほど、話が、ある……っ!」

ブルブルと震える拳を握りしめながら、ルキウスは血の涙を流さんばかりにベルマー子爵を睨みつけた。

「は……、はい……」

悄然とする子爵を睨みつけていたのは、しかしルキウスだけではなかった。更に年上のエイレーナー王までがその瞳に嫉妬の炎を燃やして睨んでいたのである。

「我々も行くぞ! イゾルテちゃんはワシの嫁じゃからの! と、言っています」

ルィケー王は呆れて彼の耳元に囁いた。

「いい年して何言ってるんですか。娘が泣いてますよ」(コソっ)

「お前の嫁なんぞ知った事か!」(コソっ)

娘婿のルィケー王は溜息を吐きながら周りにペコペコと頭を下げた。

 こうしてホールイ3国の連合軍までもがケッチに向かうこととなった。つまりプレセンティナ軍を除くタイトンからの援軍全てがこの作戦に参加することになったのである。


 会議を終えてそれぞれの支度のために皆が天幕を出て行くと、一人小さくなっていたベルマー子爵にバイラムが近寄ってきた。

「ブラド、これを、ニルファル、殿に、渡して、くれ」

タイトン語でそう話しかけながら手渡したのは、小さな皮の袋だった。

「……何だ?」

「ブラヌ、陛下の、形見」

「……分かった。では私もこれを預かっていて欲しい。形見になるかもしれないからな」

縁起でもないことを言いながら彼が手渡したのは短刀だった。バイラムが神妙な顔でそれを受け取るのを見届けると、彼はまるで死を覚悟したかのように静かな微笑みをたたえて天幕を出て行った。すごい顔で彼を睨んでいるルキウスの元へと……

「……あの、ご、誤解……ですよ? 事情があったん……ですよ?」

注1 既出ですが、肉を鞍の下に敷いて潰したひき肉モドキが「タタール人(=モンゴル人を含む遊牧民族全般)のステーキ」という意味の「タルタルステーキ」になって、さらにこれがハンバーグになったと言われています。

肉を叩いて柔らかくするというのは棒々鶏(バンバンジー)に通じるところがありますね

しかし、このタルタルステーキ、実は……生なんです。うわぁー

ぶっちゃけユッケですね。というか、どっちもモンゴル料理が起源なんでしょう。

元寇が成功してたら、日本人も生肉を食ってたんでしょうか……


注2 ケッチ=ケルチです。

本文中にもある通り、クリミア半島と東側の大陸の間にある海峡であり、そこに面するクリミア側の都市の名前でもあります。


注3 ノボロウシスク=ノヴォロシースクです。

ノヴォロシースクはケルチ海峡の少し南にある大陸側の都市です。

ロシアの黒海艦隊の本拠地が置かれていました。

……っていうか、そのために作られたそうなので、本当はあんまり歴史はないようですが。

地図を見るとこの辺りから南は山岳地帯になっているので、ソチまでの道はほとんど一本に限られているようです。

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