草原の戦い その5
タイトル詐欺です
どうみても草原の戦いじゃない……
再び山脈を越えてハサールに戻って来たニルファルだったが、のっけから想定外の危機に陥っていた。ソッチの街を目前にして、街から黒煙が上がったのである。
「まさか……匈奴軍はこんなところまで迫って来ていたのか!? なんて事だ! 決してソッチを落とされてはならない!」
激しく動揺するニルファルを見てタネルは笑った。
「おいおい、どうしたんだ? スラム人がどうなろうと知った事じゃないだろ?」
「何を言ってるんですか、兄上!」
ニルファルはキッと厳しい瞳でタネルを睨みつけた。
「あそこで補給物資を受け取る予定なんです! 受け取れなければ餓死してしまいますよっ!?」
「……それは大変だぁ」
本当に大変である。
急遽軍を整えたハサール軍だったが、そもそも彼らは独自の補給路を持っていなかった。というか、本来はハサール国内から補給を受けるべき身なのだが、山脈を担いで越えるのは馬鹿らしいので兵站はドルク軍に頼り切りだったのだ。援軍に来てるんだからそれくらい出せということである。しかし今回は逆にハサールに向かう訳だが、本隊(と言うと語弊があるが、ハサールの残存勢力のこと)とは陸路を遮断されているので補給も受けられず、やっぱりドルクが頼りである。そしてそのドルクも山脈を越えるのは大変だと言うので、海路で補給することになったのだ。しかし大型船が着岸できるのは港町に限られる。だからニルファルたちの進路はアムゾン海沿岸の諸都市を順に辿るルートに限定されていたのだ。おまけとして、本国との連絡も海路を通せば容易だという利点もあった。だがいきなりソッチを奪われてしまっては、ニルファル達は初っ端から何も出来なくなってしまう。そう、食べることすら!
「急げ! 何としてでもソッチを守り通すぞ!」
俄然やる気になった――というかならざるを得ないタネルと共に、ニルファルは先頭を切って山を駆け下った。
このどちらにとっても不幸な遭遇戦は、戦力の上でも陣形の上でも明らかにモンゴーラ軍が有利だった。モンゴーラ軍は街に突入した兵を別にしても15,000の騎兵が隊列を整えていたのに比べ、ハサール軍はおよそ12,000であり、しかも細い山道を行軍していたため縦列のままであった。縦列での突撃というのは重騎兵が歩兵集団に行えばそれなりに効果のある戦術だ。敵の隊列を分断し、混乱させ、各個撃破を可能とする。しかし両者が軽騎兵だと話は逆転する。機動力も射程も、突撃衝力も真逆となるため、先頭から順番に大勢の敵から集中攻撃を受けるだけという最悪の結果となるのだ。しかしハサール側には補給線の確保という止むに止まれぬ事情があったから、ニルファルは無理を承知で突撃せざるを得なかった。
しかしシロタクにしてみれば、ハサール軍が最悪の戦術を選択したことこそが不気味だった。ハサール軍は山道からぞろぞろと出てくるから全部でどれだけ居るのかも分からなかったし、それどころか南の山にいるだけとは限らなかったのだ。ドルクから戻って来たのだと知らなければ山に隠れていたのだと思うのは当然であり、そして伏兵を置いていたのであればモンゴーラ軍の唯一の退路である北へ続く海岸沿いの道を塞ぐのはもはや必然だった。
先の決戦では謀を何も用いず古式ゆかしい戦いを挑んだハサール軍だったが、途中から参戦したスラム人騎兵――だとモンゴーラ軍は考えていたが、実際はスノミ騎兵――は奇妙な武器を用いてモンゴーラの重騎兵を一蹴してのけた。況してこの街の守備兵は網で騎兵の足を止める奇策まで用いている。目の前に迫るハサール騎兵も、一貫した戦略の一部であると考えるのが自然だった。では何故南の伏兵が自分から姿を現したのだろうか?
――恐らく敵の作戦では、我々は守備兵の囮に引っかかって街の中で戦闘と略奪に明け暮れているはずだったのだ。その間に海岸沿いの道を徹底的に閉鎖してしまうつもりだったのだろう。先ほどのような網を敷き詰めた上で馬防柵でも張り巡らせているのかもしれない。だが我々が全軍でなく一部しか街に突入させなかったから、われらを拘束して時間を稼ぐために追加の囮として出てきたのだ!
そう考えれば守備兵の行動もハサール軍の行動も理解できる。そしてモンゴーラ軍がこの街に至るまで何の妨害もなかったことも納得できた。侵入させないように守りを固くするより、侵入させて袋のネズミにしてしまう方がより効率的だと考えた悪辣な策士が敵の中にいるのだ!
――こちらは敵の所在どころか数すら分からず、敵はこちらの数はおろか取り得る選択肢まで正確に見抜いている。当然だ、前に進むか戻るかしかないんだからな……
だがどちらに対しても備えがあるのだとしたら、当然戻る方を選択すべきだろう。友軍と合流して再戦を挑めばいいのだから。
「今は敵の存在が知れただけで十分だ、一旦後退して味方と合流するぞ!
街に突入した者たちを引き上げさせろ! 俺はそれまで時間を稼ぐ! 他の者は先に北へ逃げていろ!」
シロタクの言葉に千戸長の一人が驚きの声を上げた。
「何をおっしゃるのですか! 台吉を置いては行けません!」
「馬鹿者! 退路は細くその進路には恐らく敵がいるのだ。先に行ってくれないと道が混み合って身動きが取れなくなるだろう? 俺を生かせたいと思うのなら、さっさと行って敵を蹴散らしておけ!」
「……はっ!」
シロタクはまるで最初から威力偵察が目的だったのかのように取り繕っていたが、実際のところそんな事は考えたことも無かった。完全に意表を突かれていた。だが兵たちにそのように思われてはそれではパトーの後継者の地位が揺らいでしまう。せめて殿でも務めて頼もしいところをアピールしておかねばならないのだ。……それに先頭に立って逃げたら、罠に引っかかってズッコケルかもしれないし。
彼は逃げる時に街が邪魔にならないように街を包囲していた兵を街の北側に戻して隊列を整えると、隊列の前に出て叫んだ。
「良いか! 指呼の距離まで近づいたら、弓を捨てて斬り掛かれ! だが敵を倒そうと思うな! 引っ掻き回せ!
敵が怯んだところで馬首を返して北に去る! 決して遅れるなよ!」
撤退をする前にこうして「ちゃんと殿を務めていたぞ」という記憶を兵士たちに刷り込んでおく必要があるのだ。また大将がちゃんと残って指揮を執っていると知れば、安心して最後まで戦うことも出来るものだ。
「合図を出すまで突撃するなよ! 突撃も一太刀浴びせるまでだ! まだだ、まだだぞーーー!」
歩兵と違って騎兵の場合は突撃してこそ侮れない攻撃力を持ち、それによって敵の攻撃力を削ぐことが出来る。例え弓を持つ軽騎兵でも立ち止まっていては良い的にしかならないのだ。だから突撃してくるハサール軍に対してカウンターで突撃する必要があるのだが、あまりに早く駆け出してしまえば交戦地点が退路から遠くなるのだ。しかしあまりに粘りすぎると馬の速度が上がり切らないうちに交戦することになり不利になる。特に問題なのは、その相反する要求の間で個々の兵士がバラバラに突撃してしまうことだ。だからシロタクは刀を振り上げ突撃のタイミングを測っていた。
ソッチの街からは撤退の合図を聞いたモンゴーラ兵がパラパラと駆け戻って来ていた。そしてそのソッチの更に向こうからハサール軍が猛然と迫って来ていた。草原の民であるシロタクには彼らの武器が自分たちと同様に弓矢であることが見て取れた。
――間違いなくハサール人だ。ということは、スラム人の重騎兵は退路の遮断に向かっているのだな……
スラム人の都市にスラム人騎兵がいないはずは無く、その都市を守り切れずにこの街に集結していたであろうスラム人騎兵が、狭い街の中で戦っているだけとは思えなかった。
――あと1200m……1100……1000……
縦列だったハサール軍が次第に団子状になりながら迫ってくると、シロタクの心にわずかな迷いが生じた。
――こちらから進んで縦列のまま叩いておけば良かったか? いや、そうしたところで山の中に逃げ込まれれば意味は無い! むしろ先頭集団をまとめて叩くことで撤退の契機となるではないか!
ジワリと汗が浮いた右手で刀を握りしめ直すと、彼はキッとハサール軍を睨んだ。先頭で馬を駆る2人は指揮官だろうか? 片方は小柄だったが、遊牧民族では小柄な勇者も多いものだ。
――900……800……700……
「よーし、もう少しで……! って、あれ?」
怒涛のように突進して来ていたハサール軍は、その勢いのまま突撃へと移行していた……ソッチの街に。
「「「「「うぅぅぅぅらぁぁぁぁぁ」」」」」
次々とソッチの街に突入していくハサール軍の間延びした雄叫びを聞きながら、シロタクは刀を振り上げたまま目を瞬かせた。
「今のうちに逃げた方が良い……のかな?」
それでは街に残っている兵士たちを見捨てることになるが、これだけ待ってても出てこない方が悪いだろう。しかも彼らを助けに行けば街の中は更なる混乱に陥り、決着が着くのは夜になるかもしれない。仮にその戦闘に勝利できたところで、補給路は完全に遮断されてしまうだろう。
――そして弟の誰かに救出されるのか……? ダメだダメだ! 自分で傷を広げるようなそんな愚策を採ることは出来ない!
彼は渋い顔をしながらも全面撤退の指令を下した。
「速やかに撤収する! 遅れるな!」
一方ソッチの街の中の戦いはゲリラ戦の体をなしていた。もともと碌に統制のとれていない義勇兵が、死を覚悟した上で思い思いの方法で我武者羅に抵抗していたのだ。細い街路を回りこんで側面から襲いかかったり、突然民家の二階から飛び降りてきたりと、実に厄介な戦い方である。街の暮らしに不慣れなモンゴーラ兵には尚更だ。
しかしソッチの義勇兵も戦い自体に慣れていなかった。モンゴーラ兵の意表こそ突くものの、人の殺し方を知らないから一撃では致命傷を与えられない。その逆に百戦錬磨のモンゴーラ兵は、負傷しても即座に容赦無い反撃を加えていった。その損害の比率は10人の義勇兵が倒されるうちにようやく一人のモンゴーラ兵を倒せるかどうかといったところであった。不毛である。不毛であるが、それでも義勇兵達は抵抗を止めなかった。
その上奇妙なことに、街を守るスラム人の方が放火をしてモンゴーラ兵の方がその火を消して回るという本末転倒な状況が現出していた。当然モンゴーラ軍の足はますます鈍っていた。その上戦いと消火活動に奔走していたため、撤退の太鼓すら聞き逃す始末だった。もっとも、人とは聞きたくない音や言葉を空耳だと思いたがるものではあるが。
そしてようやく最後のバリケードを破り、そこを守っていた最後の義勇兵を殺戮した後、彼らは岸壁や桟橋の上にひしめく女達を見つけた。彼らはそれまでの鬱憤を晴らすように歓喜の雄叫びを上げた。
「ようやくだ! ようやく追い詰めたぞ!」
「もう我慢できん! 建物も焼けちまいそうだし、いい女を見つけたらその場で押し倒してやる!」
「どけどけぇ! あの娘は俺のモノだぁ!」
血走った目で口々に野卑な叫び声を上げながら彼らは女達に襲いかかった。自分達が上げる雄叫びと女達の悲鳴が重なり、その場は大変な喧騒に包まれた。だから彼らは遥か後方で上がった「うーらー」という雄叫びも仲間たちの上げたものだと誤解してしまったのだ。人とは何か分からない音や言葉を、都合の良いものとして理解したがるものではあるが。
二ルファルは雄叫びを上げながらソッチの街に突入すると、手当たりしだいに矢を放ちながら奥へ奥へと突き進んでいった。破壊されたバリケードの残骸が邪魔ではあったが、守る者さえいなければ人馬一体のハサール騎兵を阻むには足りない。しかも彼女は怒っていた。
「匈奴め! 街に火をかけるとは何事か! 許せん!」
彼女は家屋に火をつけようとしていたモンゴーラ兵を優先して射殺していた。……ホントはスラム人なんだけど。人とは自分に都合の悪いことをする存在を敵だと思うものなのだ。まあ、もともと味方だとも思ってなかったけど。
やがて岸壁の手前にまで到達すると、彼女はそこに想像を絶する悍ましい光景を見た。無数の女や子供の亡骸が海に浮かんでいた……くらいなら想像の内なのだが、更に恐ろしいことが起こっていたのだ。なんと彼女たちは……生きていたのである!
――な、なんということだ! 海を泳いでいる!
金槌にとっては恐ろしい光景であった。自分があの中の一人だったらと思うと想像するだけで目も眩みそうだ。だが金槌なのは彼女だけではなく、ハサール人たちだけでもなく、彼女らを追い詰めたモンゴーラ人たち自身も金槌だったのである。彼らは折角の獲物を目前にしながら手を出すことが出来ず、彼女らが疲れて岸辺に寄ってくるのを指を咥えて待っていた。だが全ての女が無事に飛び込んだ訳ではなく、混乱の中でモンゴーラ兵に捕まってしまった不幸な者もわずかにいた。ソッチで一番の……とまではいかないけど、ご町内でなら5本の指には入るんじゃないかと自負する美(?)少女イヴァンナもその一人だった。
イヴァンナを捕まえたモンゴーラ兵たちは、彼女を取り囲んで何やら怪しげな行動をとっていた。口々に「シュッ」「シュッ」と言いながら何度も何度も何度も一斉に拳を突き出していたのである。
「うおっしゃー! 勝ったーっ!」
「クソっ! 好みだったのに! 好みだったのにぃ!」
「まさかここで中指を出すとは……苦労して薬指を出したのに!」
なんだかよく分からないゲーム(注1)で平和裏に所有権を決定されたイヴァンナは、勝者らしきモンゴーラ兵にぐいっと引き寄せられた。しかし彼女は恐怖のあまり声も上げることも出来ず、彼女の引きつった顔を見た男はニヤリと笑いながら仲間達に声をかけた。
「ふっふっふ、お前たちはそこで指を咥えて見ていろ」
「「えっ?」」
「今から良い物を見せてやると言っているんだよ!」
すると男はイヴァンナの胸元を両手で掴むと、あろうことかビリビリと左右に引き裂いたのである!
「いゃああぁぁあぁぁっ!」
「「「「「おぉぉぉおおおお!」」」」」
関係のない兵たちまでが歓声を上げて彼女の小ぶりな胸に食らいついた。というか、食らいつかんばかりに身を乗り出して彼女の胸をガン見したのだ。彼らは別に(若干名を除いて)貧乳が好きな訳ではなかったのだが、何より女に飢えていた。さらにそれなりの美少女のそれなりのおっぱいなのだから文句などあろうはずもない。皆よだれを垂らさんばかりに興奮していたが、このような状況でも輪姦したりしないのはある意味理性的ですらあった。
「おいおい慌てるな! まだまだこれからだぞ!」
そう言いながら男の手がスカートに伸ばされると、彼女は再び悲鳴を上げてその場にしゃがみこんだ。そのせいでスカートがまくれ上がってしまい、男たちは再び歓声を上げた。彼女にはモンゴーラ語は分からなかったが、自分がこれからどんな目に遭うのか想像するのは容易だった。
「座ってたら皆が見れないだろ。ホラ、いい加減に……」
何事か言いながら彼女の手首を掴んだ男が、不意に彼女に伸し掛かってきた。
「いやっ! いゃああぁぁあぁぁっ!」
彼女は泣きわめきながら精一杯の抵抗を試みたが、いくら彼女が暴れても叩いても男は気にする素振りも見せなかった。そのまま仰向けに押し倒された彼女は、自分の倍もあろうかという男の重みに押しつぶされそうになりながら、自分の涙を拭うこともできずにいた。こんなに目に沁みる涙は生まれて初めてのことだ。まるで鉄のような匂いがし、視界が赤く染まったことで自分が血涙を流しているのだと悟った。
――こんなことになるのなら、デブのイワンのプロポーズを受けた方がマシだったわ。そしたら今頃クレミアに移住していて、ここでこんな風に血の雨を浴びることも無かったのに……
彼女は目を瞑ってクレミアでの生活を想像してみた。あり得た未来を夢想することで辛い現実から逃れようとしたのかもしれない。彼女の前ではモンゴーラ兵たちが奇声を上げながらバタバタと血の海に沈んでいたのだ。
「……って、ええっ!? な、なに? 何が起こってるの? っていうか、この人も死んでるぅ~っ!?」
何処からか飛んでくる矢を受けてモンゴーラ兵たちは次々と倒されていた。義勇兵を排除し終えたと思って弓も持たずに馬を降りた結果。彼らは腰の刀しか武器がなかった。しかしそれは弓を射掛けてくる軽騎兵を相手にするには分が悪すぎたのだ。
押し掛かる男の体を押しのけてその下からズリズリと這い出したイヴァンナは、目の前の別のモンゴーラ兵の死体の上に馬蹄がドスッと強く踏み降ろされるのを見た。
「ひっ!」
小さく悲鳴を上げながら恐る恐る彼女が顔を上げた先には……一人の美青年がじっと彼女を見下ろしていた。彼は彼女を犯そうとしていた男たちとは何もかもが異なっていた。
――ハ、ハサール人……? えっ? この男たちはハサール語を話してなかったけど、ハサールとも敵対してたの? でも、この人は他のハサール人とも全然違う……
それはそうだろう、だってそれはニルファルだったのだから。だがイヴァンナは彼女を男と思って疑わず、その凛々しい顔にぼーっと見惚れてしまった。ニルファルの方は手に持った弓の端でイヴァンナの破れた胸元を閉じさせた。
「そんなに似てなかったな。特に胸はこんなに大きくないし」(ボソっ)
「えっ?」
「あー、いや、胸も怪我が無いようで何よりだ」
「きゃっ!」
はっとしたイヴァンナは可愛らしい悲鳴を上げて慌てて胸元を隠した。さっきとはえらい違いである。もちろんその悲鳴は美青年を警戒しての事ではなく、コンプレックスになっている小さな胸を見せるのが恥ずかしかったからである。まあ、別にニルファルも見たくて見た訳じゃないんだけど。
「た、助けて頂いてありがとうございます!」
イヴァンナが真っ赤な顔でそう叫ぶと、美青年も照れたように頬を赤らめてそっぽを向いた。
「し、知り合いに似ていたから助けただけだっ! 勘違いするな! それによく見るとそんなに似てないしな!」
もちろん知り合いとはイゾルテのことだ。小柄な金髪の少女が男たちに嬲られているのが遠目に見えて、とっさに助けてしまったのだ。しかしなかなか起き上がってこないので「あ、あれ? 殺しちゃった?」と心配になって駆けつけたのである。あまりにも馬鹿な行動だった。そして恥ずかしい行動だった。こんなところにイゾルテが居る訳が無いのに! だがイゾルテと喧嘩別れのようになってしまったことが心残りとなり、身長と髪の色と髪型以外はどこをどう見てもイゾルテには到底及ばないこの少女に彼女の幻影を重ねてしまったのだ。後ろ姿だけはそっくりだったから。
――金髪碧眼のどこからどうみてもスラム人の私に似てる人なんて……スラム人よね? ハサール人が思わず助けようとするスラム人の知り合い? どんな関係かしら? もしかして……
恋に恋する乙女の直感で、イヴァンナはそこに禁じられた恋の香りを嗅ぎ当てた。ハサール人社会では異民族と交わったものは追放処分だと聞いていたが、それでもスラム人の娘に恋い焦がれてしまうなんてなんと素敵なのだろうか!
「そのお知り合いはこの街に?」
「いや……居ない。居る訳がない。彼女ははるか遠いところにいるのだから……」
青年の遠い目を見て、彼女が既にこの世にいないのだとイヴァンナは悟った。この戦乱の中では不思議なことではない。……まあ、青年の身内に殺された可能性もあったんだけど。
――って、それどころじゃないわ! お父さんやお兄ちゃんたちは無事なのかしら?
この岸壁にまで敵が押し寄せたことを考えれば、男たちがどうなったのかは想像に難くなかった。家も焼けてしまったかもしれない。自分の命と貞操は助かったとはいえ、絶望的な状況である。せめて途中ではぐれた母が生きていることを願うばかりだ。
――でも、これからどうやって生きていけばいいの? 誰に頼ればいいの?
彼女が見上げた先には、馬首を返そうとする青年の姿があった。
「ま、待って!」
彼女は慌てて青年の足にすがりついていた。はだけた胸を押し付けたのは意図してのことではない。だが青年は鬱陶しそうに冷たい声を返した。
「何だ?」
「あ、あの……あなたの、貴方様のお名前は?」
縋るようなイヴァンナの視線を浴びてニルファルも彼女を無視することは出来なかった。だって邪魔だったから。
「私か? 私の名は……どうでもいいわ! さっさと逃げぬか!」
「はっ、はいーっ!」
イヴァンナは桟橋に走って行くと思い切り良く海に飛び込んだ。海面に浮上して振り返ってみれば、青年は心配そうに彼女を見つめていた。
――口では邪険にしながらも、本当は私の事が心配なのね!
彼女は片手を突き出すと泳ぎながら大きく手を振った。それを見た青年は安心したかのように顔を背けた。
――うわー、苦しそうにもがいてる。溺れてるのか? 私が言ったから泳げないのに飛び込んだのか? 知らない! 私は何も知らないぞー!
ニルファルは青い顔で何度も小さく首を振った。
「ファル、どうした。顔色が悪いぞ?」
タネルが馬を寄せながらそう言ったが、その表情は心配しているようには見えなかった。なぜか楽しげですらある。
「兄様には街の外の敵の警戒を任せたはずですが?」
「もういないよ。なんか知らんがさっさと北に撤退して行った。まさか追撃しろとまでは言わんだろ? 明らかにこちらの全軍より多い相手に」
「斥候は?」
「もちろん放った。しかしこんな辺鄙な場所など遊牧にも来ないからな。誰も地理が分からん。敵の後ろを付いて行ってるだけだ」
ソッチは山地に囲まれた盆地に等しい土地だから当然草地も少なく、ハサール人にとっては限りなく価値の無い土地だったのだ。
「ここまでの山道も、行きで通ったから知ってただけですからね」
「きっと二度と来ないだろうな」
随分な評価である。
「だが土地には価値がないが女はなかなかだ。さっきのも可愛かったじゃないか。勿体ないことをするなぁ」
タネルの言い種にニルファルは嫌そうな顔をした。彼女だってさっきのまさか少女が自殺するとは思っていなかったのだ。不幸な事故である。彼女に過失は(あんまり)ない。
「所詮はスラム人です。些か罪悪感はありますが、気に病む程ではありません」
「罪悪感? ……おっぱいを見たことか? それともお前のおっぱいの方が大きいこと?」
「何でおっぱいなんですか。私が逃げろと言ったら海に飛び込んでしまったことですよ」
「別にそんなのどうってこと……」
タネルは笑い飛ばそうとしてはっと息を呑んだ。
「待て、よく考えるとこの女達は全員びしょ濡れではないか! 肌に貼り付く服と髪! 泳ぎ疲れて気だるげな表情! それにもちろん、さっきの可愛い娘も!」
もはや掃討戦に移っているとはいえ、まだ戦闘中の部下達を差し置いてえらく不謹慎な男である。というか、スラム人の女に興奮していて大丈夫なのだろうか。ハサール人は異民族と交われば追放の身である。この危険な兄を放っておいたら別の理由で軍が崩壊しかねなかった。ニルファルの指揮する軍の4割程はタネルの配下なのだから。
「あ、兄上? いつからそんなに無節操になったのですか? あれはスラム人なんですよ!」
だがタネルは静かに妹を諭した。
「ファル、世界にはハサール人もスラム人もないんだ。ドルク人もアルビア人もな」
突然神妙に語りだしたタネルの言葉に、ニルファルもゴクリと唾を飲み込んだ。彼女はスラム人にこそ隔意を抱いてはいるが、ドルク人やタイトン人に対してはとうの昔に心を開いていた。出来ることなら他のハサール人にもそうなって欲しいと願っていたのだ。そして彼女とともにドルクに渡ったタネルが、その境地に達していたというのだ! タネルは真面目くさった顔でずずいと彼女に迫った。
「この世界にあるのはただ2つ、男と女だ!」
「…………はい?」
「私はドルクで学んだのだよ、女はハサール人だけではないと!」
ニルファルはあんぐりと顎を落とした。
「ま、まさか……やっちゃったんですか!? ドルク人とやっちゃったんですか!? 追放ですよ! それに余所の国の民に何てことを!」
ハサール人がドルクで強姦していたという噂が広まれば、これまでの風評と相まってその評判は地に落ちるだろう。
「ふっ、抜かりはない。ドルクには便利な物があるのだよ!」
便利な物と聞いてニルファルが思い浮かべたのは1つだった。
「分かります、娼館ですね」
娼婦を抱いていただけなら強姦よりはマシだろう。ついでに愛人を作られるよりもマシである。だが愛人が出来ればそれとなく察知することも出来るだろうが、お忍びで娼館に出入りするとなると監視することは難しい。ニルファルにも悩みの種なのだ。もちろんエフメトに関して。
「ちが~う! いや、違わないけど、それとは別に便利なものがあるんだよ!」
「……何です?」
「コレだ」
タネルがそう言ってなぜか財布から取り出したのは、ペラペラで薄茶色の紙みたいな物だった。どうやら細長い袋状になっているようである。
「何です、ソレ?」
「これは動物の盲腸で出来ている。そしてこうやって使うのだ」
そう言って彼は右手の人差し指を袋の中に入れた。
「……?」
全く用途が分からずニルファルが首をかしげると、タネルは更に左手の指で輪っかを作りそこに袋を付けた指を出し入れさせて見せた。
「????」
やっぱりニルファルには意味が分からなかった。
「おいおい、お前ももうおぼこじゃないんだから分かるだろう?」
「いえ、全然これっぽっちも分かりませんが……」
「じゃあ、ちょっとその辺の民家のベッドを借りて実演してみよう。なに、兄妹だって子供さえ作らなければ問題ないさ!」
「…………!」
ようやく意味を悟ったニルファルは怒りと恥ずかしさに真っ赤になった。要するにソレは本当は指ではなくナニに付けて、アレを飛び散らせないための道具{コンドーム}(注2)なのだ!
「なっ……ななななっ……!」
「はっはっは、冗談だ、冗談。でも興味があるなら試してみるか?」
「…………!」
ニルファルが矢筒に手を延ばすのを見て、タネルは大笑いしながら逃げていった。あるいは街の中に可愛いスラム女が残っていないか探しい行ったのかもしれない。だがニルファルはそれを制止することが出来ずその場に立ち竦んでいた。彼の言葉に衝撃を受けていたのである。
――こ、子供さえ作らなければ、相手が誰でも構わないのか……?
そんなことはこれまで一度たりとも考えたことすら無かった。そもそも子供を作るための行為ではないのか! いやまあ、その割にはエフメトが提案してくるやり方は非常に多岐に渡っていたし、その中にはどう考えても子供が出来ないやり方もあったのだが。彼女はお尻をモジモジさせると鞍に座り直した。
――思えばイゾルテとは喧嘩別れのように出てきてしまったな……
だが本当は、イゾルテが自分の父の無事を喜ぶ気持ちは痛いほど分かっていたのだ。それどころか、敵としてしか顔を合わせたことのないブラヌを悼んでくれたことを知って彼女は嬉しかった。
「はっ! な、何で今イゾルテの事を思い出しているのだっ!? 違うことを考えていたはずなのに!」
それはもちろん、ブラヌの死を知った時の経緯からイゾルテを連想したからである。……そのはずである!
「そうだ、父上の仇だ。今は匈奴を倒すことに集中するぞ!」
もはや勝敗は決しているというのに、彼女は敵の姿を求めて再び街の中に駆け込んでいった。
注1 モンゴルのじゃんけん(もどき)です。グーチョキパーの代わりに五指のどれか一本を突き出します。
親指は人差し指に勝ち、人差し指は中指に、中指は薬指、薬指は小指に勝って、小指は親指に勝つそうです。
三竦みではなく五竦みですね。むちゃむちゃ相子が多そうです。
いっそのこと五行相克とかをモデルにすれば良かったんじゃないでしょうか。
日本のじゃんけんの遠い先祖は中国の物だと言われていますが、少なくとも漢王朝のころにはこの類のものがあったようです。
モンゴルのじゃんけん(?)もおそらく中国から来たんじゃないかなーと思います。根拠はありませんけど。
注2 コンドームの起源は意外と古いそうです。紀元前3000年のエジプトには既にあったんだとか。
いやー、必要は発明の母ですねぇ。
ブタやヤギの盲腸や膀胱を使って作られていたそうです。腸だといっぱい作れそうですが、縫い目が甘いと大変なことになっちゃいますからね。
確かに避妊のためには有効なんでしょうけど、感染症予防に有効だったのかどうかは微妙ですね。
性病じゃなくて何か違う感染症にかかりそうです。




