草原の戦い その4
ソッチを攻略せんとしていたシロタクの前に現れたハサール軍は、ドルクに遠征していたおよそ10万の騎兵……の内のごく一部だった。戻ってきたのが全軍ではなかった理由も、彼らがソッチの街に現れた理由も、当然ながらそれなりに訳のあることだった。
ニルファルは父の訃報に触れてサナポリを飛び出した後、ハサール軍の本営に駆け込んで諸将を招集していた。ハサール軍は機動力を活かして広範囲に展開していたが、緊急呼び出しを受けて5日の後には主だった将が集まって来た。彼らの大半は可汗の後継者候補であり、ハサールではニルファルよりも目上の人物ばかりである。ニルファルは固い顔で彼らに向かい合った。
「報告しなくてはいけないことがあります。先日本国から連絡があったのですが……東方の草原の民匈奴が侵入し、壮絶な戦いの末に……破れました。父上も、可汗も亡くなられたそうです……」
「なにっ!?」
「敗れたとはどういうことだ! 全部族が降伏したというのか!?」
サナポリで受けた報告では戦いの後のことは何も分からなかったが、諸将を待つ間にも続報が届いていたので幾らかその後の事情も分かっていた。と言ってもたかだか5日の事であり、しかもこの時既に陸路は遮断されていた。
「そうではありません! 全ての部族は予め北西部に退避していました。その後も北西部は維持していますし、タイトンの援軍も到着したとのことです」
最悪の事態には至っていないと知って諸将はほっと落ち着きを取り戻したが、そうなると今度は怒りと哀しみが湧いてきた。
「クソっ、匈奴め!」
「可汗の恨みは俺が晴らすぞ!」
だが激高する者や涙を流す者の中でニルファルだけは冷静だった。彼女はなぜかあまり悲しめないでいた。訃報に触れた瞬間に半狂乱になっていても不思議ではなかったのに、彼女の代わりにイゾルテがひっくり返ったことで何だか気勢が削がれてしまったのかもしれない。あるいは子供を産んだことが彼女の心をあり様を変えたのかもしれなかった。いつまでも父を頼りに思うのではなく、我が子が頼りにするような親にならなければならないと。そのおかげで彼女は冷静に考えることが出来ていた。
「復讐の軍は興します」
「おおっ!」
「今すぐ帰国の準備を!」
すぐに勇ましい反応が帰ってきたが、彼女は首を横に振った。
「しかし、皆にはここに残って貰います」
「なに……?」
彼女の意外な発言に皆訝しげに押し黙った。
「匈奴はドルクにも向かってきています。東のヒン……ひんにゅうら? とかいう大国を倒し、ビルジと手を組んだとのことです。遠からずこの地にも攻めこんで来ます」
「だから我々は、あくまでドルクで戦えということか? こっちの敵も匈奴だからと? ふざけるな! 妹の分際で!」
そう叫んだのは彼女の長兄オルハンだった。末の妹である彼女とは優に20歳は離れた40がらみのオッサンである。当然それなりの経験も積んでいるし、ブラヌの後継者争いでも本命の一人だと目されていた。彼としては父の仇を討つことでその地位を盤石のものとしたいところなのに、小娘に過ぎない妹がそうはするなと言っているのだ。それにそもそも、その匈奴だってドルク国内にはまだやって来ていない。実際に手を下した仇を放っておいて、その仲間がやって来るのを悠長に待ち続けていろとは何事だろうか! だがニルファルは退かなかった。
「ニルファル・アイ・キリチュは確かにあなたの妹です。ですが今ここにあるこの身はニルファル・オルスマン! ドルク帝国皇帝の室であり、同盟者ブラヌ可汗からあなた方の兵権を預かった者です! あなたはそれを知った上でここにやって来たのではないのですか!?」
「…………!」
エフメトは未だに皇帝を名乗っていなかったが、ブラヌとは対等な同盟者同士だった。いくら妹だと言っても、その正妻にして唯一の妻を侮ることはハサール人の道徳からしても礼に欠けることである。そしてブラヌが遠征軍の指揮権をニルファルに預けていたのも厳然たる事実であった。それは「ハサール軍が勝手をしたりしませんよ」というドルクに対するアピールであり、「で、でも、ドルクに全権を委ねる訳じゃないんだからねっ」という挟持でもあり、「放っておいたら後継者争いにかまけて迷惑かけるかもしれんなぁ。ニルファル、ついでに後継者争いのジャッジも頼んだぞ」という内部事情も兼ねていた。誰かが公平に候補者達の評価をしなくてはいけないのだが、それには軍事的な知識が必要だったし当然外国人もダメで、かといって特定の誰かを贔屓するようでも困る。その点ニルファルは男勝りに戦争に参加していたし、外に嫁いでいるので誰を選んでも後腐れないし将来の栄達を餌にした賄賂も効かない。候補者の大半が兄なのでそれ以外に対して厳しいかもしれないが、ブラヌとしてはその方向への偏向はむしろ望ましかった。まあ、それでも所詮は参考意見に過ぎなかったのだ。……ブラヌが生きていれば。
――待てよ、親父が死んだということは次の可汗はクリルタイの族長たちだけで決めることになるな。そしてクリルタイにこの遠征軍の報告をするのは……ニルファルではないか!
普通であれば食えない族長たちが若い女の言葉に耳を貸すとは思えないところだ。だがニルファルには誰もが想像もしなかったプレセンティナとの講和をクリルタイに認めさせた実績があった。族長たちはニルファルの言葉を無視できないだろうし、ニルファル自身の弁舌も決して侮れない。今、オルハン自身が押されているように……!
「この戦いは我らだけのものではありません。ハサールを失っても、ドルクを失っても我らは負けるのです!
ハサールに現れた匈奴はたかだか10万程度と言うことですが、ドルクに襲いかかる匈奴軍は100万を越えるそうです。その上さらに東にも100万を超える軍勢がいます!
その気になれば200万もの軍勢を動員できる相手ですよ? 今我らがハサールを取り戻しても、ドルクが敗れてしまえば我らに未来はありません!」
「に、にひゃくまん……」
それはハサールの総人口の4倍である。想像を絶する数にオルハンは色を失った。
「か、仮にその数字が誇張でないとして、最初に攻めて来るのが100万だったとして、それを、我らに倒せというのか? 一撃で倒さねば更に100万の増援があるのだろう? 無理だ! 明らかに不可能だ!」
相手が歩兵だけなら広大な戦場を撤退しながら一撃離脱を繰り返せば、あるいは勝てるかもしれない。しかし核となるのが同じ遊牧民族であり、しかも長引けば敵が倍増するというのだ。これほど無謀な戦争があるだろうか?
「その必要はありません。我々はドルクの北半分を守れば良いのです。敵を南へと誘導できれば我々の勝ちです」
「南? 南に何があるというのだ?」
その当然の疑問に、ニルファルは神妙な顔で厳かに|宣った。
「地獄です。煮えたぎる鍋の蓋を開いて彼女が待ち構えています。……黄金の魔女が」
「「「「…………!」」」」
ハサール人にとってイゾルテの名は災厄の代名詞だ。殊に昨年のペレコーポの戦いを経験した者には。ニルファルやデミル部族のように彼女を直接知る者も例外ではない。ただし天災ではなくて怒らせると大変なことになる人災だと思っていたけど。
「……魔女が、南に引き付けさえすれば始末すると言っているのか?」
「はい。イゾルテが言うには、100万が200万でも変わらないと」
これがイゾルテの言葉でなければ「大言壮語も極まれり」と一笑に付したことだろう。あるいは彼女の言葉を伝えたのがニルファル以外の女性であれば、ぽんぽんと肩を叩いて「騙されているぞ」と忠告したかもしれない。確かにニルファルは騙されやすい性格かも知れなかったが、実際に兵を率いて戦ってきた女傑でもあった。こと戦略や戦術に関して彼女を納得させるにはそれなりの現実性を必要とする。だが嘘でもいいから彼女を納得させるだけの戦略を練れと言われても、オルハンにはそれだけのアイデアを思いつくことさえ出来なかった。
「魔女はいったい……どうするつもりなんだ?」
俄にニルファルの顔がこわばった。そして暫く黙り込んだままひくひくと頬をひきつらせた後、彼女は言った。
「それは……知る必要のないことです」
「何だとっ!? 我らを信じられないから教えられないと言ったのか!?」
「あー、いや、私は聞いたんですけど……」
ニルファルが両手の人差し指をツンツンと突き合わせながらモジモジとするのを見て、オルハンははっと悟った。ニルファルが口を濁すのは聞いていないからではなく、知っていても言いたくないからなのだ!
「そうか……! 口にするのも悍ましい、あまりにも悪辣で残酷で醜悪で非人間的な想像を絶する恐ろしい罠なのだな? だからこそ、そんな不名誉な悪行に関わるなと言うのだな!」
オルハンの気勢に押されニルファルはあらぬ方向に視線を逸らした。
「……そんなところです」
本当は彼女は覚えていないだけだった。正確には運河を作って包囲するというところまでは理解していたのだが、どうやって運河を作るのかという説明を忘れてしまったのだ。戦略や戦術ならともかく、土木工事なんて全く知らないから! しかも治水なんてハサール人とは最も縁遠いものである。だがそれを説明できなければ、せっかくの壮大な戦略も絵に描いた餅のように全く現実味を伴わなかった。そもそも彼女が納得しているのは、エフメトが納得していたからに過ぎないのだ。
「なるほど、お前の言にも一理ある。だが、お前の言った『復讐の軍』とやらはどうするのだ?」
「私が向かいます」
「何だと!? お前こそ既にハサールの人間では無いのだぞ!」
「そうですね。言い方が間違っていました。
正しくは、私を含めた後継者候補ではない者だけで向かいます」
候補達がハサールに向かえば「可汗の仇を討つ」という殊勲を狙って統制が乱れることは想像に難くない。また同様に一部だけをハサールに送れば残った者が不満を抱くだろう。だったら全候補者をドルクに残し、それ以外の僅かな者達だけでハサールに戻ろうというのだ。
――夫に惚気けてるだけかと思っていたが、なるほど、クリルタイのジジイたちが説得される訳だ。
オルハンは優しげな目で妹を見つめた。ニルファルが妹で良かったと心底思った。彼女が弟だったら大変強力なライバルになっていたことだろうから。
「分かった、俺は残ろう。他の者達も良いな?」
オルハンが残ると言えば他の者が出しゃばることはできない。これで自分だけハサールに行くと言い出せば、ハサール全体のことより自分の野心を優先させると宣言するようなものなのだ。だが、空気を読まない者が一人だけいた。
「いや、俺は良くないね。俺はニルファルに付いて行くよ」
飄々とそう嘯いたのは次兄のタネルだった。彼はオルハンより5つほど年下だったが、ハサールでは家督相続において長男であることは必ずしも有利に働かない。それどころか長男であることが不利に働くことも多かった。そういう意味ではタネルも有力な候補である。
「タネル兄さま! 話を聞いてなかったんですか? あなたはドルクに残って下さい! でないと命令違反者としてクリルタイに報告しますよ!」
年齢も経験も申し分のないタネルだったが、彼には性格上の問題があった。彼は憎まれたり嫌われるようなことこそ少ないものの、どうにも軽薄に思われがちなのだ。というか、実際に軽薄なんだけど。
「それは勘弁して欲しいな。だから命令違反にならないようにするよ」
「……はい?」
兄の真意が分からずニルファルは首を傾げた。
「俺は候補から降りる。それなら付いて行って良いんだろう?」
「「「「…………!」」」」
思わぬ言葉にニルファルを含めて全ての者が息を呑んだ。
「俺の5千騎が加われば1万を超える。匈奴とやらもちょっと無視できない数字だろ? 挟撃であることを考えれば敵の2万や3万は拘束できるだろう」
タネルは僅かな兵力だけでハサールに戻ろうとするニルファルのため、
「に、兄さま……!」
感激して抱きついてきたニルファルの頭を優しく撫でながら、タネルは彼女が妹で良かったと心底思った。彼女が弟だったら……この柔らかい胸の感触を楽しむことも出来なかっただろうから。
「うーん、子供を産んで大きくなったようだ。ついでに妹でもなかったら良かったんだけどなぁ」(ボソっ)
「何か言いましたか?」
「何でも無い。兄妹力を合わせて親父の仇を討とうな」
「はいっ!」
こうしてニルファルはおよそ12000の騎兵を率いて再び山脈を越えたのだった。




