草原の戦い その3
モンゴーラ軍は後続と合流を果たして総勢およそ12万騎となっていたが、ハサール・カン国北東部に置かれたパトー総本営にはその内3万しか置かず、1万をハサール軍への牽制として西部へ進出させ、残りの8万あまりを広く東部域全土に展開させていた。
両軍は総兵力では拮抗しているとパトーは考えていたが、どちらも騎馬軍団だけあって互いの思惑が合致しない限り決戦には持ち込めない。そして機動戦になれば長い消耗戦になることは明らかだった。ハサール軍は非戦闘員を抱えているという弱みもあったが、モンゴーラ軍は後背となる東部地域を制圧していないという弱みがあった。家畜や家族を連れて来ていないことはメリットでもあったのだが、後方からの補給に頼らざるを得ないデメリットもあったのだ。その補給線の安定のためにも、東部地域を完全に制圧しておく必要があったのだ。
だから今すぐ決戦を迎えることは出来ないのだが、異境の地で消耗戦に陥るのはモンゴーラ軍にとっても望ましいことではない。後方の安全を確保した後には速やかに戦力を集結させて決戦を挑む必要があった。そもそもパトーはハサール人を屈服させてモンゴーラの一部に取り込みたいのであって、泥沼の戦いによって彼らの恨みを買うことは望んでいないのだ。
「擾乱部隊はどうなっている?」
「はっ、御指示通り小隊に分かれてあちこちの宿営地を襲っております。これまでに受けている報告だけでも延べ500回に及びます」
もちろん500箇所の宿営地を襲ったと言う訳ではなく、重複も含めた延べ回数である。中には5回、6回と襲われている集落もあるかもしれない。だがそれでも構わないのだ。頻繁に、しかもランダムに攻撃を仕掛ける事でハサールが戦力を分散せざるを得なくなることを狙っているのだから。
「虐殺したりはしていないのだな?」
「はっ、そのような報告は受けておりません」
モンゴーラ人というのはするなと言っておいてもうっかり虐殺しちゃいそうだし、しちゃっても黙ってそうなのだが、各小隊は自由気ままに移動しては襲撃を繰り返しているので、ある小隊がやった虐殺は他の小隊にバレちゃうのだ。焼け跡に死体が転がっていたという告げ口、あるいは報告が届いていないのなら、今のところは言われた通りやっているのだろう。
「もうすぐ東部域の制圧が終わる。そうすれば全軍を集結させて決戦を挑むことが出来る」
「それまでは今のまま、ですね」
「そうだ。そしてその時には決戦に乗ってくるように、ハサール人をイライラさせねばならん。だが恨みを買ってもならん!」
キリッと厳しい顔で諸将を睨みつけると、パトーは厳命を下した。
「ただひたすらに嫌がらせを続けるのだ!」
諸将はただ黙って頷いた。反論は無かった。パトーの言うことは正しいと理解しているし納得もしていた。……ちょっとセコくてカッコ悪いけど。
その制圧部隊は内陸農村部の制圧を終えて沿岸の都市も次々と攻略していた。制圧部隊は4つに分けられてそれぞれ地域別に制圧を任されていたが、3万の軍勢を率いて最も南の地域を制圧していたのはパトゥの長子シロタク(注1)だった。彼はアムゾン海沿岸の都市を幾つか攻略し、最後に最も南にあるソッチ(注2)の街へと向かっていた。およそ1万あまりの兵を都市と農村部の押さえとして残していたため、直率するのは2万騎ほどであった。
ソッチはドルクとの国境の山脈の麓にある小さな平野にある街だ。山脈から流れ出た川の河口にあるのだが、三方を山に囲まれているのだからほとんど盆地である。陸からこの街に向かうには海岸沿いを南下するか険しい山脈を越えるしかないから、モンゴーラやハサール人のような遊牧民族にとっては決して攻めやすい土地ではない。実際ハサールに征服された時も大陸側の都市としては最後まで抵抗した難攻不落の街である。だがだからこそ、シロタクはこの街を放置することが出来なかった。地理的にも歴史的にも反モンゴーラ勢力が根拠地とする可能性が高かったからである。
この街はアムゾン海を挟んでわずか200ミルムのところにドルクの港町サムセンがあるため、プレセンティナよりもむしろドルクとの取引が多かった。とはいえアムゾン海全域がプレセンティナ海軍の制海権下にあるのでドルク船が入港することはほとんど無かった。一年前に結ばれた講和条約によってドルク船の往来は許可されていたが、その条件となっていた軍船の廃棄はエフメト派によってアムゾン海沿岸が占領された今年の初めになってようやく行われたばかりである。船の数も足りず、ドルク船が大手を振ってアムゾン海を往来するのはまだまだ先のことだろう。そんな訳で交易の担い手はこの街に住むスラム商人だった。彼らは農村から買い上げた小麦やハサール人が持ち込んだチーズなどの乳製品、さらには同じくハサール人から買い上げた皮革を加工して輸出し、その他の必需品を輸入していた。そのため革細工師を始めとして地域の必需品を作る職人たちも多く住んでいて、人口は2万人を超えていた。大陸側では指折りの大都市である。……いや、大都市であった。
昨年の後半から多くの市民がクレミア半島へ移住し始め、既に15000程にまで減少していたのだ。急激な人口減少に街は閑散としていた。移住者には比較的裕福な者達が多かったので消費も人口以上に落ち込んでいた。しかし交易ルートそのものは手付かずだったから、逆に一人あたりの収益は大きくなっていた。市民たちが次々に移住していく中で、逆に「状況が悪くなったら自分たちも移住しよう」「でも、ギリギリまで粘ればその分取り分が大きいぞ」「それどころかこのまま安定しちゃえば街の名士になれるかも?」とチキンレースのように街に居残る者達もいた。彼らを駆り立てたのは欲望だけではなく、クリミア独立軍のハサールに対する(誇張された)勝利がもたらした過剰な自信でもあった。
しかし何も彼らは無警戒だった訳ではない。農村からやって来る者が途絶えたことや、内陸部に向かった行商人が帰ってこないこと、更にはハサール人が一向に姿を見せなくなったことに不安を感じてはいたのである。だから彼らはクレミアから持ち込んだ特殊な防御兵器使って街の防備を固めていたのだ。
海辺の道とも言えぬ道を警戒しながら進んできたモンゴーラ軍の司令部は、ソッチの街を前にして困惑顔だった。この地の地理に明るいとはとても言えないモンゴーラ軍は、事実上進路を一つに限られていた。しかもだだっ広い草原とは違い、海辺まで山地が張り出した起伏の多い道である。伏兵を忍ばせるにはもって来いだ。だというのに襲撃は一切無かったのである。じゃあ降伏するつもりなのかと思っていたのだが、彼らが到着しても誰も挨拶には出て来なかった。
「台吉(注3)、敵は出てきませんね。気付いていないのでしょうか?」
側近の千戸長(注4)に話しかけられて、シロタクは街に目を向けた。
「まさかな。敵は馬上で矢を射ることが出来ないから、こちらを引きつけてから矢を放つつもりなのだろう」
農耕民族の城塞都市は城壁を盾にして防御に徹するものだ。そうしてこそ遊牧民族に対抗することが出来る。だがこの街には城壁がなかった。どうもこの地を支配していたハサールのせいらしいのだが、モンゴーラ軍にとってはありがたい話である。
「しかし、城壁もないのでは我らを防ぎきれないのは明らかですが……。街に引き込んで混戦に持ち込む気でしょうか?」
「ふむ。敵は重騎兵が主体と聞くから、大通りに引き込んでおいて突撃してくるかもしれんな。弓兵の援護を受けながら」
「それは……侮れませんね」
もちろんそれは戦闘の一局面でしかないのだが、その一局面での大敗が戦場全体の趨勢をも変えてしまうことはままあることだ。なにしろ騎兵というのは調子に乗りやすく逆境に弱いのだから。……自慢にならないけど。
「では焼き払ってしまいますか? 火矢を使えば簡単に終わりますけど」
その提案にシロタクは肩をすくめると、背後に居並ぶ兵士たちを眺めた。
「それは無理だ。敵ではなくこちらの兵たちが許さないだろう?」
「それは……そうですね……」
兵士たちは農村部では(嫁以外の)略奪を禁じられていたが、都市の攻略では思う存分略奪を楽しんでいた。とはいえスラム人の街は大都市と言えるほどの物は少なく、しかもどの都市もあっさりと降伏したので、虐殺は禁止され略奪も制限が加えられていた。だからまだ全軍の兵士を満足させることは出来ていなかったのだ。そしてまだ略奪に参加できていない不幸な兵士たちは、このソッチ攻略において略奪の優先権を認められていた。
彼らは飢えていた。金品もそうだが、特に女に飢えていた。もともとモンゴーラは遠征の際にも家族を同伴するから、そもそも女日照りになることは無いはずなのだ。だが今回ばかりは違った。だというのに仲間達は新しい嫁を娶って宜しくやっていた。今のモンゴーラは上から下まで一夫多妻だから、羨ましくはあっても他人が非難出来ることではない。その上総大将であるパトー自身が「ガンガン子供を作れ」と推奨しているのだから遠慮などするはずもない。そして子供を作って人口を増やすことが目的なので、大勢で一人の女を慰み者にすることも禁じられていた。だって誰の子供か分からなくなっちゃうから! その点についてパトーは非常に神経質だった。ちなみに、生まれて来るのが前夫の子供かもしれないのは織り込み済みである。その点についてもまた、パトーは非常に神経質だった。(注5)
「腕がなるなぁ!」
「戦のことか? それともその後の事か?」
「どっちもだ!」
「はははっ! 最初にスラム人の金髪を見た時は気色悪がってたのに、もう慣れちまったのか?」
「テグのボルドが嫁にした母娘は、どっちもすげぇいい女だったからな!」
「確かになぁ。だが、ゾリグの嫁は酷かったぞ? 当たり外れが激しいってことだ」
「でも今度の街は人口も多いそうだし早い者勝ちだ。当たり外れがあるんなら、当たりが出るまで引けばいいんだよ!」
「なるほど、そりゃあいいや!」
わいわいと騒ぐ兵士たちの様子を見る限り、ここで「やっぱ焼き払うから略奪は無し」などと言おうものなら大損害を受けそうだ。精神的に。ハサール軍との決戦を前にしてモチベーションがダダ下がっちゃうことは避けたかった。それくらいなら戦闘で被害を受けた方がマシだろう。
「まあ、それでも降伏勧告くらいはしておくか」
そう呟くとシロタクは自ら馬を進め、街から300mほどの場所に立った。
「お前たちも知っているだろう! 我が曽祖父キルギス汗の時代から今日に至るまで、モンゴーラ軍によって世界がどうなっているのかを!
お前たちに忠告する! 我々の憎しみと怒りを恐れよ! お前たちが我らの命令に従うのなら、我々は憎しみを抱くことはないだろう!
しかしこの忠告を無視するならば、堂々と戦いに臨むがいい。その時は、天神がいかに望むかを見ることになるだろう!」(注6)
何とも寛大な言葉である。ぶっちゃけ降伏したところで略奪も略奪婚もするのだが、死ぬよりはマシというものだ。……たぶん。だがこの寛大な言葉がハサール語に通訳されるのを待たず、街からの返答が一条の矢となってシロタクのもとに返された!
「チョコザイな!」
シロタクはとっさに刀を抜いてその矢を弾こうとしたが、それは叶わなかった。とても不可能だった。彼が何も出来ぬままトスっと突き刺さったその矢を見て、一瞬恐ろしいほどの沈黙が一帯を支配した。
「「「「わははははははははっ!」」」」
言葉がわからずとも笑いは共通である。殊に嘲笑は。突如巻き起こったモンゴーラ軍の爆笑は、あるいは雄叫び以上にソッチの人々を威圧したかもしれなかった。半分も届かず地面に突き刺さったその矢(注7)は反抗の意を表すには十分ではあったが、武器としての敵を殺す威力や威圧するだけの存在感は欠片もまとってはいなかった。その力の無さはモンゴーラの子供よりも酷い。こういった場合にメッセージとして矢を射るのは軍を代表するような弓の達人であることが普通であり、命中精度だけでなく矢の到達距離や勢いも重視されるものだ。それがあまりにも弱々しい弓勢だったことで、モンゴーラ兵の嘲笑を誘ったのである。
――指揮官の意を受けた正式な返答ではなく、未熟な兵が先走ったのか? だとしても矢が放たれた以上はもう遅いな。
シロタクは冷静だったが、どちらにせよ彼としては放たれた矢を返事として受け取るしかない。重ねて降伏を呼びかければ、フラれた女にいつまでも付き纏う男のように女々しく映るものだ。ジョシ・ウルス(注8)の後継者として鼎の軽重を問われかねない。まして力尽くでどうにでも出来る状況なのだから、力尽くでヤっちゃえば良いというのがモンゴーラの考え方である。そういう考えが蔓延っている結果としてシロタクの家系はややこしい問題を抱えていたのだが、だからこそ彼はそれを理由に躊躇することは許されなかった。そしてそれが半ば公然の秘密であるにも関わらず、あまり気にしないモンゴーラの緩やかさを彼は愛してもいた。つまりはヤっちゃえ、ということである。
「良かろう、返答は然と受け取った!
ものどもぉぉお、かかれぇぇぇぇえぇえ!」
「「「「「「ふゥゥゥうぅラァぁぁあああァ!」」」」」」
血気に逸った兵たちは我先にと飛び出した。もはや彼らにとっての勝ち負けは戦の結末ではなく、略奪品の多寡、手に入れる女の美醜であった。スラム人は敵ではなく獲物であり、むしろ敵は他のモンゴーラ兵だった。仲間より先に街に飛び込むことが勝利への一番の近道なのだ。だがあまりにもスラム人を舐めたその油断が、まさかの事態を引き起こした。街から150mあまりのところで先頭を走っていた者達が次々と馬ごと崩れ落ちたのである!
「何事だっ!?」
後方に下がって兵たちを見守っていたシロタクはその光景を見て思わず叫んでいた。だが予想外の事態に確信を持って答えられる者など誰もいなかった。
「わっ、分かりません。落とし穴の類でしょうか?」
「なるほど、それは厄介な……いや、兵たちは生きているようだぞ?」
彼らの見守る中で兵たちは次々に起き上がっていた。盛大に落馬したのにひょっこり起き上がることが出来るのは、軽い装備ととっさの受け身のおかげだろう。なんせ物心付く前から馬に乗っているのだから、当然受け身くらいは訓練されている。だがそれは恐らくハサールも同様であるから、スラム人だって知っていそうなものだ。落とし穴のたぐいなら落馬した兵士を殺す仕掛けも作っておいて然るべきだろう。尖らせた杭でも埋めておけば、受け身が出来ようが出来まいが関係なくグサリである。
「単なる足止めか……? いや、その間に矢で射止める気か!」
シロタクの叫びが合図であったかのように、街から無数の矢が放たれた。それらは山なりに飛ぶと、立ち上がったばかりの軽装のモンゴーラ兵に襲いかかった。盾のない軽装歩兵など弓矢の良い的である。
「くっ……! って、あれ?」
血の海を覚悟したシロタクの前で、兵士たちは飛び跳ねていた。非常に元気である。というか、彼らは踊るように矢を避けながら虚空に向かって剣を振り回していたのだ。普通なら絶対に無理な行為だが、遠目に見ても敵の弓勢は弱々しく簡単に避けられそうだった。もちろん全てを避けている訳でもないようだったが、矢自体も遠距離用の重厚で長い物ではないようで、革の兜に当たってあっさり跳ね返されるのが見えた。上着に当たった矢は突き刺さっていたが、兵士の動きに合わせてふにゃふにゃと動いているところをみると、肉に食い込むほどには刺さっていないようだ。「いってー」とか叫んでいるのが聞こえてきたが、その声の元気さが返って彼らの無事を伝えていた。なんとも拍子抜けである。
「何だ? 敵は何がしたいんだ……?」
奇策を以って騎兵の突撃を止めたのは見事だが、その後の攻撃がお粗末過ぎた。どうにもちぐはぐである。弓勢が弱いのなら弱いなりに、もっと引きつけて射れば良いではないか。まるで矢は当たりさえすればOKだと考えて、革鎧にあっさり跳ね返されるような最大射程ギリギリに罠を張ってしまったかのようだ。
――馬鹿馬鹿しい! そのような馬鹿が、我らに気付かれないような罠を仕掛けることが出来るか? いや、ひょっとして毒矢なのか? でも、兵たちはむちゃくちゃ元気そうだが……
戦いが終わってから毒が回っても仕方がないのだから、戦場でわざわざ遅効性の毒を使うことはない。兵士が飛び跳ねている以上は毒矢とは考えにくかった。だがそうでないのなら何でこんなことになっているのか想像もつかなかった。実際、スラム人の方も無駄を悟ったようで射撃が尻すぼみになっていた。つくづくグダグダな感じである。何がしたかったのか全く理解できなかった。だが敵の攻撃が途絶えても、落馬したモンゴーラ兵たちは忙しく剣を振り回していた。
「いったい何をやってるんだ? 替え馬を取りに来るなり、徒歩で攻めこむなりしそうなものだが……」
シロタクたちが首を捻っていると、前線から伝令が報告にやってきた。
「街の周りに網がはってありました!」
「そりゃあ、敵が待ち構えていたことは分かっているぞ?」
「いえ、本当に網が張ってあったのです! 鳥や兎を捕るために使う、あの網が!」
「何だと?」
網を見て鳥猟を思い浮かべるとはさすがに内陸の人間である。漁網しか頭に浮かばなかったイゾルテにはとても出来ない発想だった。……どっちでもいいけど。
「草にまみれて仕掛けられていた網に馬の足が取られ、転倒したのです。今兵士たちが剣で網を断ち切っています」
シロタクは苦虫を噛んだように顔を顰めた。何とも狡猾な罠である。簡単に設置できそうだから野戦でも使えそうだ。歩兵なんかチョロイと思って仕掛けたら、網で馬の足を絡めとられて全滅、なんてこともあり得ない話ではない。が、彼はそのまま首を捻った。
「小癪な……と言いたいところだが、どうにも片手落ちだな。もとからこれだけの網があったとは考えにくい。しかしこのために揃えたにしては、攻撃があまりにも拍子抜けだ……」
海に面しているんだから漁網がいくらあっても不思議ではないのだが、彼らにはその発想はなかった。だって網と言えば鳥を捕る道具なのだから! しかし彼の考えは一面の真実を突いていた。これらの網は昨年イゾルテがクレミア諸都市に提供した物なのだ。しかし実際にハサール人が攻めて来ることもなく安全が確保されてしまったので、こうして横流し……ではなく、大陸の同胞に提供されたのである。……有償で。つまり網で突撃を止めて矢で殲滅するという戦術とコミで持ち込まれていたのだ。ソッチの街の人々はそれを額面通りに採用したのだが、彼らはその戦術の根本を何も理解していなかった。そして弓も見よう見まねで作った適当な物しか用意せず、何よりその訓練を怠っていたのだ。せめて有効射程がどれくらいかだけでも把握していればここまでグダグダにならずに済んだはずなのだが……。
しかしこれには売りつけたクレミア側にも問題があった。ちゃんと訓練してハサール軍を迎え撃ったスラム人はおよそ1万人に過ぎず、しかも彼らの大半はそのままペレコーポ要塞の守備についていた。つまり……売った方にも実戦経験がなかったのだ。だがペレコーポの戦いでこの網がハサールの大軍を食い止めたことも事実であり、有効性は疑いようもなかった。だからソッチの人々はその能書きを信じて購入してしまったのだ。
網の使用法はイゾルテの手により厳密にマニュアル化されていたのだが、それは当然まともな弓矢を用いることと、ペレコーポでスラム人達に施したような弓矢の訓練が行われることを前提としていた。だから規定通りの位置に網を仕掛けてしまうと、へぼへぼな弓兵の有効射程のはるか外側になってしまうのだ。そして今こうして、その網を切り刻もうとしている敵を指を咥えて見ていることしか出来ないでいたのである。
だがそんな事情など知らないシロタクは、奇妙な敵に戸惑いながらも何もできないでいた。というか、何かする必要も無さそうだった。街に入ったら重騎兵の反撃があるかもしれないが、弓兵のダメダメさを見た後だと真剣に警戒する気も薄れた。仮に手痛い反撃を食らったところで、既に敵のダメダメさは兵たちの前で明らかになってるから、戦場全体の風向きが変わることはなさそうだ。結局彼に出来たことはただ一つであった。
「誰か、あの者達のために後方から替え馬を連れてきてやれ」
やがて網を寸断し終えた兵士たちは、そのまま徒歩で街へと走りだした。彼らはお気に入りの馬を台無しにされて怒っていた。罠にかけられたのだとはいえ、衆目の前で落馬させられて恥ずかしかった。この恨みは敵を殺し、金品を巻き上げ、美女を犯すことでしか晴らすことができない。恨みが無くてもしただろうけど。しかしいちいち替え馬を取りに戻っていては略奪に出遅れてしまう。敵が弱いからこそ、戻ってくる頃にはあらかた味方の誰かの物にされてしまうと想像できた。それにどの道、家の中に乗り込むには徒歩にならざるを得ないのだ。
しかしいくら軽装でも徒歩の速度はたかが知れている。馬を盾にすることも出来ず、敵に近づくにつれ、兵たちは一人二人と次々に射殺されていった。だが彼らの突撃を見た後続の騎兵たちも再突撃を開始すると、守備側の目標も分散され、浮足立って、端から短くもなかった射撃間隔がさらに間延びしていった。
「ライライライライラーイ!」
徒歩のモンゴーラ兵が奇妙な雄叫びを上げて斬りかかると、圧倒的多数であるはずのソッチの弓兵たちはあっさりと崩れた。矢を射るのと剣で切り結ぶのでは必要となる胆力が大きく異る。まして敵の騎兵が突進してこようとしているのに、頼るべき城壁もなく待ち構えることなど出来ようはずもないのだ。そもそも彼らは全員が素人の義勇兵で初陣だった。訓練すら碌に積んでいない。最初の一人が逃げ出すことは当然であり、それを見た二人目が逃げ出すことは必然だった。
逃げ惑う弓兵を追いながらその背中を斬りつけ、街の中へと雪崩込んだモンゴーラ兵は、そこに整然と隊列を組んだ重騎兵……ではなく、宝の山を見た。戦況が芳しくないと悟って逃げ出そうとする老若男女の人々が溢れていたのだ。まさに宝の山である! 彼らが抱える荷物は、所持品の中で最も高価で持ち運びしやすい物のはずであり、家の中を探しまわる手間がかからない。女にしたところで家の中で震えている者も多いだろうが、当たりくじを引き当てるには一軒一軒押し入る必要がある。だがまとまって外に居てくれるのだからその必要もないではないか。その美醜は一目瞭然なのだから!
「おい、そこの娘! お前は俺のモノだ!」
モンゴーラ語が分からなくとも抜身の血刀を持った男に指をさされて恐怖しない女などいないだろう。万が一イケメンだったとしても、血走った目で好色そうに舌なめずりなどされればドン引きである。
「きっ、きゃぁぁぁぁあああぁああ!」
悲鳴が悲鳴を呼び、女たちは大切なはずの家財をも投げ捨てて我先にと港へ走った。中には自意識過剰な女が居たことは事実だが、女でなくても悲鳴を上げちゃうような状況である。だがその悲鳴はモンゴーラ兵の劣情をますます掻き立てる一方で、情けなくも逃げ散ろうとしていた義勇兵たちの足を止めた。守るべき者を目にし、彼女たちの悲鳴を聞いたことで悲壮な決意を固めたのである。彼らの一部は短剣やナイフでモンゴーラ兵に斬りかかり、一部は通りに簡易なバリケードを築いた。全ては無駄な足掻きである。港に船は無いのだ。そんなものは高い料金を払った金持ちを乗せてさっさと出港していたのだから! 彼らはモンゴーラに負ける以前にチキンレースに負けたのだ。どうあっても彼らは殺される運命であり、女達は犯される運命だった。だがそれでも、いや、だからこそ彼らは最後まで抵抗しようと腹を決めたのだった。
「一人でも多く道連れにしてやる!」
「そうだ、死なばもろともだ!」
「いっそのこと街に火をかけろ!」
どんなに覚悟を決めようと平和ぼけしたスラム人など百戦錬磨のモンゴーラ兵の敵ではなかったが、彼らが街に火を放ち始めるとさすがのモンゴーラ兵も慌てた。
「なんてこった! まだ略奪してないんだぞ!」
「クソっ、あの家から若い女の悲鳴が聞こえるが……声では当たりかハズレか分からん!」
「だったらとりあえず助けてこいよ」
「さっき逃げてった娘は超好みだったんだ! 戻ってくるまでにお前らがあいつらを突破してたら、さっきの娘を横取りされちゃうだろ!」
攻める側も守る側も大混乱に陥っていた。……深刻さは対極にあったが。
外から様子を伺っていたシロタクは、街から煙が上がるのを見て眉をしかめた。略奪後に火をかけるのは良くあることだし、歯向かった以上ソッチの男は皆殺しにしてしまっても構わない。だが今回ばかりは街を焼かれては困るのだ。街の女達を草原に連れ出しても長生きさせることは難しく、況してや無事に出産することは更に稀である。慣れない馬上生活の間に流産してしまうのだ。だからどこかに定住させる村を作る必要があるのだが、今はハサールとの決戦を控えてそれどころではない。とりあえずはこのままこの街に住まわせるのが一番なのだ。
「火をかけるなと徹底してこい」
「はっ!」
命令を聞いて即座に伝令が駆けて行ったが、側近の千戸長は訝しげだった。
「まだ略奪は始まったばかりです。いえ、戦闘すら終わっていないでしょう。この時点で兵たちが火をかけるでしょうか?」
「街の者が自ら火をかけたと?」
「失火かもしれませんが……」
「ふむ……」
街や村を放棄する場合には、敵に利用させないために火をかけることは良くある。あるいは最初から住民の多くは避難済みであり、自ら火をかけることも織り込み済みだったのかもしれない。
――だが、それほど用意周到だとしたらあのザマは何だ? 玉砕覚悟で抵抗するくらいなら、弓兵はなんであっさりと逃げたのだ? 何もかもがチグハグだ。やはり偶発的な失火だろうか?
だがシロタクの疑問は町の方から駆け戻ってきた伝令によって明らかになった。誰もが予想もしなかった事態として。
「台吉ぃ! 大変です!」
「何事だ!?」
「て、敵です!」
「…………」
シロタクの「ナニ当たり前な事を言ってんだ?」という冷たい視線に晒されて、伝令は一瞬たじろいだ。
「ち、違います、街じゃありません! 街の向こう、南の山から新手が現れました!」
「何? そうか、そういうことか……!」
シロタクは全てを理解した。兵の一部を囮として街に残し、火をかけて混乱したところを山に潜んでいた主力で攻撃するという策だ。囮は死兵となる非情な策だが、だからこそ有効でもある。何よりそれなら敵のチグハグぶりも納得できた。わざとモンゴーラ軍の突入を誘ったのだ。敵の唯一の誤算はモンゴーラ軍が5000騎ほどしか街に突入させなかったことだろう。その理由が略奪の優先権の問題だというのは自慢にならないが、そのお陰で敵の思惑に乗らなくて済んだのだから何が幸いするか分からないものである。
――うむ、私はついているようだ。
敵の動きをようやく理解できて、彼は自信あり気なドヤで諸将に言い放った。
「ふっ、こんなこともあろうかと思って兵の大半を街の外に残しておいたのだ!」
「「「おおぉー!」」」
シロタクの言葉に諸将は驚きを隠せなかった。若干別の意味で驚いて白い目で見ている側近とか側近とか側近とかが混じっていたが、彼らは何も言わなかった。人心を掴むための罪のない嘘である。おかげで動揺していた伝令もすっかり落ち着きを取り戻していた。
「さすがは台吉です! ハサール軍の動きも予測されていたのですね!」
「……え?」
「違うんですか? 山を下ってきた騎兵は、たぶんハサール軍だと思ったんですけど……」
「…………」
シロタクはドヤ顔のまま真っ青になった。
――ど、どういうことだ!? どうやって我軍の占領地を突破してこんな僻地にまで……? 海路なら馬までは運べまい。陸路なら本隊と我ら以外の別働隊の全てを突破し無くてはならないのだぞ!
彼はハサール軍がドルクに軍勢を送り出していたことを知らなかったから、当然ハサール国内にいた兵力であろうと考えた。もし北部から強行突破して来たのなら山中を通って来た敵よりも味方の伝令の方が早く着くだろう。味方が伝令を出す余裕がないほどの完敗を喫したのなら、敵はシロタクの後方を塞いだはずだ。そうすれば彼らは袋のネズミなのだから。
――ということは、現れたハサール軍は最初からこの街にいたのか? あるいは我らに追われるようにして南端のこの街に逃げ込んでいたのかもしれないな。計算外ではあるが、山に籠もられていたらその存在にも気づかない所だった。出て来てくれて返って幸いだったかな? やはり私はついている!
ドヤ顔のまま血色が戻ってくると、彼は再びふっと笑った。
「……その通りだ。東部地域に残留していたハサールの守備兵が我らに追い詰められてこの街に集結していたのだ。私が予測していた通りだな!」
「おお、なんと頼もしい!」
「さすがはパトー様のご子息だ!」
側近たちの白い目が痛かったが彼らはやっぱり何も言わなかった。出来た側近たちである。できればちょっとはフォローもして欲しいけど。
「それで敵の数は?」
「さあ? 既に1万はいると思いますけど、まだ続々と降りてきています」
「…………」
思ったより遥かに多い数にシロタクはドヤ顔のまま冷や汗を垂らした。ここは三方を山に囲まれたどん詰まりの土地である。彼らが地理を分かっているのは北へと続く海岸沿いのルートだけだ。敵が待ち構えていたのなら、こちらの進軍中に偵察されていたことは間違いないだろう。もし敵に1万以上のまとまった戦力があるのだとしたら、そして山道にも精通しているのだとしたら、往路なり復路なりで長く伸びた隊列を分断するのが効率的だ。それをしないということは……
――既に退路が断たれているのかっ!?
最悪の事態である。正面の敵を仮に1万5千だとしても、街の外にいるモンゴーラ軍と同数である。しかも先の戦いとは異なりここは地形の入り組んだ盆地だった。視界も悪く、どこに伏兵がいても不思議ではない。
「て、敵の姿を確認出来れば十分だっ! 街に飛び込んだ連中を呼び戻せ! その間に我々は退路を確保し、敵を牽制しながら撤退の準備を行う!」
「……敵は倒さないのですか?」
「ここは地の利が悪すぎる。一旦後退して味方と合流するぞ!」
モンゴーラ軍は太鼓を連打して撤退の合図を送ったが、街の中で混戦に陥っていたスラム人義勇兵とモンゴーラ兵の耳には届いてはいなかった。
注1 シロタク=サルタクです。
パトゥの長子でキプチャク=ハン国の二代目ですが、即位直後に死ぬんで存在感薄すぎです。
ついでに謎の人で、僅かな記録によるとキリスト教に改宗してたそうです。
モンゴル帝国は意外と外国人を登用しまくってましたからキリスト教徒と交流があっても不思議ではありませんし、ゆっるーい天神崇拝が基本なので現代日本人や古代ローマ人並に他宗教に寛容でした。
もっとも、心底キリスト教に帰依してた訳じゃなくて多分にポーズでしか無かったんでしょうけど。奥さんも6人いましたし……
つーか、そういう人の改宗をあっさり認めるローマ法王庁がいい加減過ぎです。
ずっと後の人ですが、離婚のために国ごとカトリックをやめたヘンリー8世の立場はどうなるんでしょう?
さらに法王庁は十字軍への協力を求めるたそうですよ。節操なさすぎ!
注2 ソッチ=ソチです。
冬季五輪をやった所ですね。恥ずかしながら位置を知りませんでしたが、意外と南の方でした。コーカサス山脈の麓です。
まあ、スキー競技をやる以上は山がなくてはいけませんから、当然といえば当然ですが
注3 ややこしいですが、モンゴルにおける「台吉」はチンギス・ハーンの子孫に付ける称号だそうで「太子」とも書いたようですが、別に何かの跡継ぎでなくても付けたらしいです。
1~4等級に分けられて爵位として使われていました。
ムハンマドの子孫並にたーくさんいますからねぇ。
因みに清の第二代皇帝「ホンタイジ」も人名ではなく君主号で、漢字では「皇太子」と書きます。
親父のヌルハチが大汗になっていることを鑑みると、同じ「台吉」の系列なのだと想像できます。実際、同世代に「皇太子」を名乗った人が複数いたそうなので、日本で言う「皇太子」ではなく「親王」くらいの意味なのでしょう。
注4 モンゴルでは千戸制と呼ばれる軍制を敷いていました。
1戸は1人の成人男子を家長として家族や奴隷などで構成されていました。この家長が兵士になるので基本的に1戸=兵士1人です。
これが10集まると十戸、十戸が10集まると百戸、百戸が10集まったのが千戸です。
それぞれには長が任命され、(百戸長以上には)行政上の権限も与えられました。
要するに封建領主の遊牧民族バージョンです。所領ではなくて住民に対して直接紐付いている訳ですね。
まあ、十戸長は村長どころか町内会長以下ですけど。
モンゴルの場合土地に対する個人の権利が希薄ですから、こういう合理的で大雑把なまとめ方が出来たんですね。
ちなみに1戸が複数の天幕を持っていることはザラですし、息子が成人すると分戸して別の世帯(戸)を作りました。
なおチンギス=ハーンが95個の千戸を置いた時に二人の重臣を「万戸長」も任命しますが、これは千戸x10を統括してたわけではなくて、「お前ら半分ずつ統括しーや」と言っています。
さすがに「4万2千戸長」とか言うのが面倒だったんでしょう。
ただしこれらの統治制度はモンゴル人の間でのみ使用されていて、他民族に対しては既存の支配体制のまま監督官を派遣して間接統治をしていました(後の元を除く)。
まあ、GHQみたいなもんですかね
注5 バトゥの父のジョチはチンギス・ハンの長男でしたが、彼が生まれる前に母親が敵対部族に拉致られちゃった事がありました。
略奪婚の風習がありましたから、敵の妻を拐って自分の妻にすることが往々にしてあったのです。
その後いろいろあって彼女は戻って来ましたが、その後生まれたジョチについては「俺の子じゃないんじゃねーの?」という疑惑が残りました。
それが長男のジョチではなく三男のオゴタイが後を継いだ一因になったのではないかと言われています。
もっとも、もともと遊牧民というのは長子相続制ではありませんでした。
農耕民族のように土地を相続する訳ではなく家畜や家(天幕)といった移動可能な財産を相続するだけですから、兄弟で分けるのが簡単なんですよね。
長男から順に成人したら生前贈与を受けて分家を立て、最後に残った末っ子が残りを継ぐというのが基本だったようです。
所謂「末子相続」というやつですね。
しかし財産と違って家督は分割することが出来ないので、こちらは実力重視で選ばれました。
ジョチの場合は実力的にはまずまずだったのに「出生のせいで候補から外されたんじゃね?」という程度の疑問ですね。
財産自体は十分に相続しています。
注6 バグダットに立てこもるアッバース朝カリフに送った降伏勧告を参考にしました。他のが見つからなかったので……
なので元ネタのセリフの主はサルタクではなく彼の大叔父のフレグですね。(たぶん)
注7 江戸時代の弓胎弓は最大射程400m、合成弓の一種であるトルコ弓は600mだそうです。
意外と飛びますね。
でも狙って当たる訳でもなければ、狙われてる方が避けられようなものでもありません。
あくまで届くというだけです。有効射程(殺傷するに十分な威力がある距離)としては半分以下になります。
ちなみに三十三間堂の通し矢ではたかだか121.7mの距離を射る訳ですが、高さが5mくらいしかないので山なりに撃てないのがネックになっています。
そのまま仰角45度で山なりに放てば300mや400mくらい飛ぶことは簡単に想像できますね。
パターで120m(!?)かっ飛ばせる人なら、ドライバーを使えば400mも軽いという理屈と同じです。……たぶん。
注8 ジョシ・ウルス=ジョチ・ウルス
ウルスは「国」とか「(人の)集団」という意味です。
ジョチは大汗にはなれませんでしたが、中央アジア(北寄り)あたりの支配権と4つの千戸が与えられました。
これがジョチ・ウルスであり、後には周辺を制圧したりヨーロッパに攻め込んだりして、最終的にはキプチャク汗国になります。




