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太陽の姫と黄金の魔女  作者: 桶屋惣八
第8章 ムスリカ編
218/354

三者会談

 午後になってエフメト一行が到着すると、イゾルテは出迎えたい気持ちをぐっと押さえて大広間で待ち構えた。外交上の駆け引きである。弱みを見せないのだ。だが彼女はここのところ女性の顔すらまともに見ていなかった。スキンシップはもっと足りない。胸の柔らかさも忘れてしまうほどに。だって自分のはボリュームが足りないから! 

「ファル!」

だからそれがエフメトに弱みを晒すことだと分かっていても、彼女はニルファルの顔を見た瞬間に駆け出していた。

「イゾルテ!」

そして彼女は両手を広げるニルファルの胸の中に勢いよく飛び込んだ。


  ゴツン!


「……何で胸甲なんて着けてるの?」

彼女の目に涙が浮かんでいたのはおでこが痛いからだろうか、それともニルファルの胸の柔らかさを堪能できなかったからだろうか。だが涙目で不満気に見上げてくるイゾルテは異常なほどに可愛らしかった。普段超然としている猫ほど甘えてきた時は可愛いものだ。かつてのニルファルなら身悶えしてクネクネしていたかもしれない。しかし母となった彼女には、その可愛らしさが保護欲や罪悪感として感じられるようになっていた。

「うう、ごめん、イゾルテ。道すがら狩りをしていたんだ」

「狩り?」

何と悠長なと一瞬呆れたが、よく考えればエフメトがハサールの一向について行けたはずもないから、先行しては暇つぶしをしていたのだろう。しかしイゾルテは首を傾げた。狩りの時に鎧を身に付ける必要があるだろうか? そんな彼女の疑問を察してエフメトが答えた。

「狩りと言っても盗賊狩りだ。難民崩れが同じ難民を襲っているからな」

「……なるほど」

 逃げた先で受け入れて貰える保証がなければ、それくらいの事は起こるだろう。平時ですら盗賊はどこからともなく沸いて出るものなのだから。そしてきっと、ハサール人たちは動物を狩るように盗賊を追いつめて殺したに違いない。

――あれ? 動物みたいにってことは絶滅しないように一部はわざと逃がすのかな?

むしろ盗賊は絶滅させて欲しいのだが、ハサール人が盗賊狩りを楽しんでいたら本当にやってそうである。要らない配慮だった。

 だが彼女の想像を超えて事態は深刻だった。海賊のように元手を必要としない地上の盗賊は、困窮した難民たちの誰もが参入可能なお手軽な職業なのだ。そう、女子供までが。もちろんその多くは盗賊よりはまだ幾らか命の危険の少なく良心の呵責のない奴隷や娼婦の道を選んだのだが、そちらも供給過多で値崩れしており、結局最後の手段に訴えるしかない者は多かった。

 ニルファルは男は全く容赦なく、そして女もワリと容赦なく殺したが、子供だけは殺せなかった。矢を射ることも出来なかったのだ。自分が子供を産んだだけだというのに、セリヌとは似ても似つかない汚らしい子供達が逃げ散るのを彼女は止めなかった。……まあ、他のハサール人が殺したんだけど。ただ逃げることも出来ない幼児や赤子だけは彼女が拾い集めて保護していた。結局はテュレイが面倒を見ているのだが、それでも彼女としては大変な心境の変化である。


「ところでそっちのオッサンは誰だ?」

無礼な口を聞いたのは、もちろん品性下劣で色情魔のエフメトである。愛し合う(?)2人の折角の邂逅を邪魔するとは何事だろうか。バールは義憤にかられて青筋を立てた……訳ではもちろんなくて、オッサンと言われて腹を立てたのだ。娘の婿にと思っていたイゾルテが余所の女に抱きついたりしたからって、その八つ当たりに怒ったわけではもちろんないのだ。……たぶん。

「誰がオッサンだ、青二才が」

バールにとってドルク帝室はムスリカ帝国の(スルタン)として不倶戴天の敵というだけではない。ウルド人としてドルクに生まれて迫害され、叛乱に失敗して奴隷にされた個人的な恨みもあるのだ。まあ、ドルクでは何人であっても迫害はされるんだけど。睨み合う二人を見てイゾルテは慌てて仲裁した。

「そうだぞ青二才、このオッサンはスエーズの(スルタン)のバール・アッディーンだ。おまえと違ってちゃんと即位してるんだぞ、奥さんのヒモだけど。でもそれはお前も大して変わらんだろう?」

「「…………」」

どちらにもフォローを入れないことで彼女は見事に2人を黙らせた。飾らない彼女の言葉に二人が共感した結果である。……たぶん。

 エフメトはゴホンと咳払いをすると、改めて自己紹介を始めた。

「あー、失礼した。俺はエフメト・オルスマン、こっちは あ・い・さ・い のニルファルだ」

そう言って彼はニルファルの腰を抱き寄せた。

「え、エフメト、恥ずかしいではないか」

「何が恥ずかしいんだ? 昨夜したことに比べれば大したこと無いじゃないか。それとも今夜はもっと恥ずかしいことをしてやろうか? いや、いっそ今から始めようか?」

わざとイゾルテに聞こえるように大きな声で囁くエフメトを、イゾルテは心の底から憎いと思った。きっと今夜はお風呂でニルファルの体を堪能することが出きるだろうが、せっかく彼女が磨き上げたニルファルの体を、きっとエフメトはすぐさま汚すに違いない! イゾルテだって出来ることなら汚してみたいのに!

――こいつには報いを受けて貰わないとな。私のファルを奪った報いを!

だがそれは、時系列的に見ても言いがかりであった。


「某はバールにござる。妻はお連れしてはござらぬが、指導者様(ハリーファ)にござる」

「は、はりあ……はん?」

どうやらエフメトは指導者(ハリーファ)のことを知らないようだった。

「お前ってムスリカ教徒じゃなかったっけ?」

「そうだけど?」

「シヤー派なのか?」

「……なんの話だ?」

彼はそもそもスンナ派とシヤー派の争いすら知らなかった。イェニチェリには宗教的英才教育を施す割になんていい加減なんだろう。だがドルク帝室なんてこんなものである。教義では妻は4人までと定められているのに、何百人もの美女を後宮に侍らせて日替わりでおいしく頂くような羨ま……破戒者たちなのだから!

「これがお前たちの宿敵の正体だ。真面目に考えればバカを見るぞ」

イゾルテに言われてバールは返す言葉もなかった。彼だってドルクにいた頃は異教徒だったのだから。


「で、そっちのオッサンは誰なんだ?」

再びエフメトは無礼な口を聞いたが、イゾルテは窘めなかった。今度のオッサンはオッサンとしか言いようのない怪しい男だったからである。

「私テ・ワアルヨ。宋カラ来タネ」

テ・ワはドルク語も流暢に話した。さすがは才人である。でもやっぱり不思議と怪しかった。

「宋?」

「ソウアル」

「宋なのか?」

「ソウアル」

「宋なんだな!?」

「ソウアルヨ?」

やっぱり噛み合わず、エフメトはイゾルテに聞いた。

「で、宋ってなんなんだ?」

「ツーカ帝国の王朝だそうだ。匈奴に滅ぼされちゃったらしいけどな」

「ふーん」

エフメトは毛ほども関心が無かった。1万ミルム以上も東の話なのだからほとんど別世界の話に聞こえるのだ。

「安心もしていられんぞ。そのツーカ帝国の兵が、匈奴に使役されてドルクを襲うかもしれんのだ」

イゾルテが忠告しても彼は鼻で笑った。

「おいおい、幾らなんでも吹っかけ過ぎだろう」

「そういうお前はアムゾン海を迂回しようと試みたよな?」

「うっ……」

アムゾン海を迂回してペルセポリスを攻略する計画は、その行程だけで5000ミルムに及ぶものだった。そして碌に戦わないまま帰ってきたのだから、結果だけ見れば馬鹿みたいである。

「それに私がこの一年で移動した距離も10,000ミルムを下らないぞ」

「……マジで?」

「マジだ」

信じられない話だった。だが彼女はペルセポリスからハサールまで2度も往復した上にディオニソス北部まで出向き、更にイタレアに南下した後で密かにルートーのチブラルタルにまで赴いたのだ。そしてまたスエーズに渡り、今はサナポリにいる。まったく休まる暇もないとはこのことである! エフメトはイゾルテをジロジロと見ながら不思議に思った。彼女の小さなむ……体のどこにそのようなバイタリティが隠れているのだろうか、と。まあ実際には、移動中にぐーたら休んでいるんだけど。

「そしてもちろん、ヒンドゥラ兵は確実にドルクに向かってくるだろう。ヒンドゥラ兵にツーカ兵、両国を落とす前から配下だったのが50万、そして蛮族自身の兵が……」

気を持たせるように黙り込んだイゾルテに、エフメトがゴクリと唾を飲んだ。

「…………」

「…………」

「……オイ」

「…………」

「どれだけなんだよ」

「……知らん」

そういえばイゾルテは一番重要なところを聞いていなかった。ツーカ帝国とヒンドゥラ王国を同時に攻め落としたというだけで十分な脅威だったし、彼女の作戦の前では敵の本隊が1万だろうと100万だろうと大して変わらなかったのだ。だがエフメトの呆れた顔がイゾルテを焦らせた。

「ま、まあ慌てるな! こういう時のために連れて来たのがこのテ・ワだ! さあテ・ワ、この男に真実を教えてやれ!」

なぜか偉そうにイゾルテが命じたが、テ・ワは不満もなく言われたままに彼の知る全てを打ち明けた。

「ヨク分カランアル」

「「「…………」」」

衝撃的な内容だった。

「オイ、どういうことだ。こんないい加減な話で俺をここまで呼び出したのか? そもそも本当に攻めてくるのか?」

エフメトは更に呆れたがイゾルテはもっと焦った。

「い、いやいや、待てって! おい、テ・ワ、どういうことだ!?」

「イツモ数ガ読メナイネ。伏兵ヤ別働隊モ多イアル。ソレニ匈奴以外ノ遊牧民モ配下ニシテルアルヨ? 騎兵ノドコマデガ匈奴カモ分カラナイネ」

テ・ワの語るそれなりに尤もな言い分を、イゾルテは端的にまとめた。

「つまり、分からんということだ」

「…………」

「ほ、ほら、ハサールだってスラム人と関わってなきゃ未だに謎の民族だったと思うぞ?」

イゾルテの言い訳に、今度はニルファルが怒った。

「謎とは酷いぞイゾルテ! ハサール人はハサール人のことをちゃんとよく知っている!」

「いや、だからそれをスラム人が伝えてなければ、私達には謎だったんだよ。でもそれだけではあんまり良く分からなかったから、自分から訪ねて行ったんじゃないか!」

「……なるほど、確かにそうだな!」

イゾルテはなんとかニルファルを言いくるめると、今度はエフメトの言いくるめにかかった。

「本隊の数がどれだけだろうと関係はないぞ。ツーカ帝国とヒンドゥラ王国をまとめて同時に倒した敵なんだ。そんな相手に内乱中のドルクが太刀打ち出来るのか?」

「むっ……だが、既に大勢は決している」

「ほんとか? 200万の援軍を得たビルジが戻ってきてもお前の軍は付いてくるのか?」

「…………」

痛いところである。彼の配下の多くは特段の忠誠心があって付いて来ているのではない。もともとのプレセンティナ遠征からなんとなく勝ち馬に乗って来ているだけなのだ。旗色が悪くなれば彼を見限る者が続出しないとはとても言えなかった。

「しかも国民の半分は故郷を追われているんだ。ここに最低でも倍以上の兵力が流れ込んでくればとても対抗できない。ビルジがあちらにいる以上、大義名分と地の利も無いと考えるべきだしな」

国中に災いをもたらしたビルジの人望は地に落ちていたが、あくまで皇帝の冠はビルジが持っているのだ。それにエフメトが人格的に優れているという訳では決して無い。各地の地理だって知っている人間が居るだろう。

――うむ、むしろニルファルが皇帝になるべきだな。機会があれば策を練ろう。

イゾルテはそう思っていたが、ドルク人から見てニルファルが人格的に優れているという訳でも決して無かった。単にエフメトが気に入らないだけである。だがそれ以上に、何よりも彼女はビルジを憎んでいた。


「ビルジはお前を倒すためにヒンドゥラの下に付いたのだ、お前を殺すまで決して諦めないだろう」

「ダケド、ソノヒンドゥラマデモ裏切ッタノガビルジネ」

「どこまでもビルジ兄らしいな。それが賢いのだと本気で信じているんだろうが、信頼を切り売りしているだけだと気付いていないんだ」

「うーむ、本当にカスでござるな。さすがはドルクの皇て……いや、なんでもござらん」

「そんなのを義兄と呼ばねばならない私は不幸だ」

散々な言われようである。ここにビルジがいたら泣いちゃったかもしれない。

「だが、だからこそ我々が手を組むことが出来る。勘違いするんじゃないぞ、本来エフメトなんかと絶対組みたくないのだが、相手がビルジだから仕方なく手を貸してやるんだ。それにどっちかというとファルのためなんだからな!」

ツンデレである。エフメトにツンでニルファルにデレである。

「だからお前が生き延びる策を考えてやったんだ、感謝しろ」

恩着せがましいイゾルテに少しばかりムカついたが、エフメトは怒りを抑えて下手に出た。

「……試しに聞いてってもいいぞ」

最大限の譲歩である。凄く偉そうだったが、イゾルテは嬉しそうにニコリと笑った。ニルファルがエフメトの耳をぐいーっと痛そうに引っ張ったから。エフメトの不幸は蜜の味である。

「基本戦略はこうだ。第一に敵主力をスエーズ方面に誘導する。第二にスエーズ地峡(◆◆)に張った防御線でこれを食い止める」

「そんなこと出来るのか?」

エフメトは不審げに口を挟んだ。スエーズ軍など取るに足らない数である。北アフルークの全軍を集結させてもとても匈奴軍に対抗できるとは思えなかったのだ。だがイゾルテはその疑問を一蹴した。

「出来る。そして第三に、これを包囲殲滅する」

「は?」

ますます意味も根拠も不明だった。エフメトは眉を寄せたが、その横で彼が腰を抱いたままだったニルファルがプルプルと体を震わせ始めていた。スエーズの地理など知らないニルファルには、イゾルテの言った「地峡」という言葉だけが理解でき、そして地峡と聞いて真っ先に頭に浮かぶ記憶は、あのペレコーポ地峡の戦いだった。同胞たちが追い詰められた狩りの獲物のように手もなく虐殺されていったあの地獄の戦場である。その地獄を演出した憎むべき敵であるイゾルテが、そして彼女自身と多くのハサール人の女子供をスラム人の報復の手から救い上げたあの優しいイゾルテが、そして一緒にお風呂に入ったり不思議な甘い食べ物{桃缶}をチュパチュパして彼女をなんだか変な気分にさせた可愛いイゾルテが、もう一度あの地獄を用意しようというのだ! 彼女の震えはあの時の様々な葛藤を思い出したが故だった。お風呂とかはあんまり関係なかったけど!

「い、イゾルテ、まさか、まさかまた……アレをやるのか……?」

怯えるニルファルに、ちょっと気まずげなイゾルテが、だけど断固とした口調で宣言した。

「ああ、あれをやる。といってもさすがにキメイラだけで攻め入ったりはしない。降伏するまで包囲するだけだ、運河でな」

「運河? 運河を掘るのか? しかしあそこは100ミルムだか200ミルムだかあるんだろう?」

さすがに多少はスエーズについて知っていたエフメトがツッコミを入れた。

「150ミルムだ。そこに東西2本の運河を引いて東側を空壕にしておき、敵が渡った後で海水を入れる。プレセンティナ海軍が大挙して運河に乗り入れれば、200万が2000万だろうと幾らでも持ちこたえられるだろう」

「「…………」」

スケールの大きさにエフメトもニルファルも黙りこんでいた。虐殺がないと聞いてもニルファルが青い顔をしているのは、きっと船が出てくると聞いたからだろう。ペルセポリスで育ったイゾルテには理解不能だが、なぜかニルファルは異常に船を恐れていた。そのうちなんとか宥めすかせて船に乗せて、怖がって抱きついてくる彼女の感触を堪能してみたくもあったが、それは逆に彼女が絞め殺される危険性も伴っていた。せめてニルファルの胸の感触を感じながら死にたいので、鎧は脱ぐように説得しないといけないだろう。

 難しい顔をしていたエフメトも、イゾルテの説明に納得せざるを得なかった。状況が違えば彼がこの罠にハメられていたかも知れない。その時イゾルテはきっと彼を殺すだろう。あるいは見逃す代わりに人質としてニルファルを要求するかもしれない。……なんかむちゃくちゃありそうな話だった。

「うーむ、その点には一応納得した。しかしスエーズにそんな大工事が出来るのか?」

「難民の力を借りる手はずは整えた。彼らの生活を保証する代わりに運河開削に協力してもらうのだ。その資金は私が用意した」

厳密にはナイールを脅して食料を出させたのである。だがさすがにそれだけでは心苦しいので、幾ばくかの現金と魚を提供する用意も整えていた。もっともこの彼女の親切が一時的な海洋資源の枯渇を招くことになろうとは思いもよらないことであったのだが。そしてそれは微々たる問題であったが。

――何も得ることのない戦いにそれほどの財を投入しようというのか……! 何故だ? 俺への愛か?

それだけは決して無いと断言できた。……ちょっと残念だけど。

――ではニルファルへの愛か? だけどそれならドルクはもうダメだから国に帰れと言うだけだろう。ハサールの風習からして異民族の男と交わった娘は追放されるから、それを横から掻っ攫うのだ。うーむ、とっても魔女らしくてありそうだ……

彼はそう思ったが、イゾルテはその策に気づいていなかった。例え気付いていても、エフメトの敗退後にペルセポリスに戦火が迫ることが予測される以上、その策を取ることは出来なかったのだが。


「なるほど、ではもう一つの点だ。いったいどうやって敵をスエーズ方面に誘導するのだ」

「今回の会談のキモはそこだ。まず最初に、アルビア半島を含むバブルン以南の土地をスエーズに割譲してもらいたい」

「……なんだと?」

あまりにも虫の良い話に、返ってエフメトの方が戸惑った。

「放っておいてもビルジはバブルンを目指すぞ? それを死守するつもりならスエーズどころかバブルンで決戦を迎えることになる。ペルセポリスほど頑強にできていれば良いがな」

「…………」

バブルンはもともとムスリカ帝国の首都であり、それをドルクが奪ったものだった。少なくとも一回は陥落しているのだ。そして長らく戦いを経験していない。そして何より、今のバブルンの住人は戦うことが出来ないようにされていた。

「……止むを得ない。しかし割譲したからといって、スエーズとて撤退するのだろう? 意味があるのか?」

「そこだよ、エフメトは動くに動けない状態だと思わせるんだ」

「死んだとでも思わせるのか?」

「それが許されるならこの場で殺してやるんだが、それだとお前の軍が瓦解するかもしれん。怪我をして前線に出れないがそのうち治る、ってくらいがベストだ」

なんとも物騒な話である。前半が。

「そして、けがが治ったら反撃攻勢に出るが今は守りを固めろ、と大々的に触れを出すのだ」

「葬式でもやれば死んだことに出来るかもしれんが、怪我なんて信じるのか? 仮に信じたとしてもその機会に攻めようと思うんじゃないか?」


「大丈夫だ、ファルがハサール騎兵を率いていれば最初の攻勢は耐えられる。ビルジは匈奴の盟友というより属将にすぎないから、匈奴がヒンドゥラ王国の占領に時間をとられている間に単独で自らの勢力圏を獲得したいはずだ。そこにエフメトが敗退して怪我を負ったという情報が入ればきっと動く。そしてそのままスエーズ軍と交戦状態に入ってもらう」

聞き捨てなら無い言葉にエフメトは慌てた。

「ちょっ、ちょっと待て! 敗退って何の話だ?」


「お前にはスエーズ軍と戦ってもらう」


「「はぁ?」」

バールも初耳だったので耳を疑った。協力して匈奴と戦おうという話ではなかったのだろうか。

「せっかく不倶戴天の敵だったんだから、まだ敵同士だと思わせておいた方が都合がいいだろう? お前たちはこの……そうだな、ヘルハレムも聖地なんだっけ? このあたりの川の両岸に布陣して、盛大に合戦を行ってもらう。ただし……鏃のない矢でな」

バールはぽんっと膝を打った。

「欺瞞のために、わざわざ偽の合戦をするのでござるか?」

「ああ、盛大にやってもらうぞ。それぞれ100万本の矢を用意してやる」

「ひゃ、ひゃくまん……」

確かに盛大な矢戦(やいくさ)が出来そうだったが、バールには欺瞞のために用いるにはあまりにも贅沢に思えた。貧乏なスエーズには100万本の矢はあまりにも貴重だったのだ。もっともイゾルテが言っている矢というのが、矢羽が付いていないどころか適当な木を真っ直ぐ切っただけの四角い棒に過ぎないなどとは、彼の想像の及ぶところでは無かったのだが。もしそれを知っていたら武人としての矜持から断っていたかもしれないほどお粗末な物である。

「そしてその戦場でエフメトは怪我をして、ドルク軍は慌てて北部に逃げ帰り、スエーズ軍は前進してバブルンを占領するわけだ」

少々無理がある気もするが、両者が共謀していると知らなければエフメトが重症を負ったように思えるだろう。そうなればビルジも、怪我が回復するまで攻めてこないエフメトよりもバブルンを手にしたスエーズを相手にしようと言うことになる。もっともビルジのことだからスエーズに共闘を持ちかけるかもしれないが、散々バカにするような返答を送りつけてやればいいのだ。ドルクの皇帝に悪口を送りつけるとなれば、バールは喜んで引き受けるだろう。


「なるほど、それでは俺の演技力が重要になるわけだな。ふっ、夜な夜なファルとのプレイで培った俺の演技力を甘く見るなよ」

「え、エフメト、恥ずかしいではないか……」

モジモジするニルファルを見てイゾルテはそれがどんなプレイか非常に気になったが、今聞いたらこの場でエフメトを殺しちゃいそうだった。あるいは嫉妬で彼女自身が狂い死にしそうである。だから彼女は怒りを抑え、ついでに声も低めた。最後に彼女の背を押したのはエフメトである。

「いーや、演技など必要ない。お前には本当に怪我をして貰う」

「え? いやいや、しかしそんなの演技でだなぁ……」

「騙すのは人の良いファルではない、あのビルジなのだ! ホントに怪我をするくらいでなくてどうする!?」

「…………!」

エフメトは返す言葉がなかった。確かにイゾルテのいうことには一理あった。

「お前が全身に矢を受けてハリネズミになることでこそ、ようやくビルジを騙せるのだ!」

「死ぬ死ぬ! ホントの矢がそんなに刺さったら死んでる! 嘘がバレバレだ!」

イゾルテは唇を尖らせて不満気な顔をした。

「いいじゃん、ちょっとくらいサービスしろよ」

「どんなサービスだっ!?」

「ちぇーっ、じゃあ、両手足を損壊するくらいでいいよ」

「損壊って……嫌な表現するなよ。まあ、四肢に一本づつ矢が当たった、というくらいなら良いだろう」

確かにそんな状態になったら事実上寝たきりである。戦いに臨むどころか馬車に乗ることすら辛いだろう。

「エフメトが怪我をするのか?」

ニルファルが少し悲しそうな顔をしたので、イゾルテは彼女を慰めた。

「これは必要なことなんだ。それに命に別状はないよ。だからハサール流の看病をしてやってくれ」

「……そうか、そうだな!」

単純なニルファルはあっさりと懐柔されてしまった。

「じゃあ、そっちの方はそういうことで」

「サナポリの割譲の件か」

「もちろんそれもあるんだが、狼煙台を置かせて欲しいんだ。この作戦のために()

「狼煙台?」

「ああ、ただしただの狼煙台ではない。どちらかというと手旗信号に近いものだな。文章をそのまま送ることもできるぞ。所定の料金を払えばお前はもちろん民間でも利用できるようにしよう」

「なるほど、確かにそれは便利そうだ」

「そうか、じゃあ早速……」

「だが断る!」

エフメトはきっぱりと断った。

「プレセンティナ兵を国内に配置するだと? ふ・ざ・け・る・な! それが間諜(かんちょう)ではないと誰が言えるのだ? いいか、お前たちとはあくまで一時的に手を結ぶだけだ、履き違えるな!」

エフメトの言い分は尤もだった。だがイゾルテは恒久的な平和を望んでいるのだ。それが無理なのは骨身に染みているが、それでも彼女は一日でも長い平和を求めていたのである。つまり彼女は……手段を選ばなかった。

「そうだな。だれが工作員かなんて誰にも分からない。例えば……皇族とか」

エフメトの頬がピクリと動いた。イゾルテはニヤリと笑うと、ニルファルに呼びかけた。

「ニルファル、実は最近私のイトコが結婚したんだ」

「へぇー、おめでとう」

「そのイトコの名はアルクシウス……じゃなかった、アレクシアって言うんだけどね……」

何だか不穏な空気を察したエフメトは慌ててイゾルテに囁いた。

「オイ、コラ、なんのつもりだ?」

彼の額には汗が浮かんでいた。

「いやぁ、お前がどんな相手と"一時的に"手を結んでいたか教えようと思って」

「結んでない! 言いがかりだ!」

「そうか? でも私の方も言いがかりだ。本当だったら海上に船を受かべておけば良いだけだからな。敢えて陸上に置きたいのはその方がコストが安く済むからに過ぎない。実際サナポリ以南は匈奴の侵出前に海上に移す予定ことになるしな」

エフメトはギリギリと歯を噛みしめると、喉の奥から妥協案を出した。

「……じゃあ、その差額を払えよ」

「その分利用料をまけてやろう」

イゾルテの白魚のような手が差し出されると、彼は苦々しい顔をしながらもそっと手を握った。契約成立である。


「よし、じゃあ最後にサナポリの割譲だな。証書を作ってきたからサインをしてくれ」

「……分かった」

エフメトが頷いた瞬間、イゾルテの目がキラリと光った。ついに彼女の罠が彼を地獄へと突き落とす瞬間がやって来たのだ! 彼女は懐から例のペン型神器{ショックボールペン}を取り出して彼に差し出した。

「さあ、これを使ってくれ」

「何だそれ?」

「いちいちインクを付ける必要のないペンだ」

「ほう、珍しいものだな。貸してくれ」

エフメトはペン{ショックボールペン}を借りると自分の署名を……書けなかった。

「おい、書けないぞ」

「そのペンの頭を押すんだ。そうしたら書けるようになる」

「頭? 何のことだ?」

エフメトは首を傾げた。

「だから、ペンの端っこだよ」

「意味が分からん。お前がやってくれ」

「えっ?」

イゾルテは凍りついた。

「だから、ペンの頭とやらを押してみてくれ」

彼はペン{ショックボールペン}をずずいとイゾルテに突き返した。

「…………」

「おい、早くしろよ」

「……ううぅ~」

困り果てるイゾルテを見て、ニルファルが心配そうな顔をした。

「イゾルテ、どうかしたのか? 私がやってやろうか?」

「とんでもない!」

――そんなことをしたらファルに嫌われちゃうよ!

イゾルテは恐る恐るペンを手に取ると、ギュッと目を瞑ってペンの頭を押し込んだ。

  ビリビリッ!

「ひぐっ!」

イゾルテはビクリと体を震わせた。

「ひぐ? 何のことだ?」

「な、何でもないぞ。さあ書け、今書け!」

――そして私がしたようにしてペン先をしまうのだ!

彼女はまだ諦めていなかった。エフメトもイゾルテの行動に不審さを感じて恐る恐るペン先を証書に押し当てたのだが別に何が起こるわけでもなく、それどころか意外にサラサラと滑らかな書き心地に感心した。(注1)

――ほう、これはすごい。いったいどういう作りなんだろう? 一本欲しいなぁ

だがそんな事を言えば代償として生贄(たぶんニルファル)を要求されそうなので黙っておいた。

「さあ、書けたぞ。これでこの街はお前のものだ」

そう言って証書とペンをイゾルテに差し出すと、彼女は笑顔で……受け取らなかった。

「どうした? お前が要求したんだろ?」

「いや、だから、ペン先をだな……」

「うん? 出てるよな? 何か問題か?」

不思議そうな顔をするエフメトを見て、彼女は己の失策を悟った。

――しまった! ペン先を仕舞うという文化が無かった!

そもそもペン先が飛び出す仕組みなんて初めて見たのだから、再び仕舞えるなんえ思いもよらないのだ。何度か見たことのある彼女だからこそ、使い終わったらペン先を仕舞うのが当然だと思っていたのである。

「も、もう一回押すとペン先が仕舞えるんだよ。そうすると服とかにインクが付かないだろ?」

「へー、それは便利だなぁ。で?」

「……いや、だから、仕舞って欲しいなぁと……」

「仕舞えばいいじゃん、お前が」

「…………」

正論である。イゾルテはぐぅの音も出なかった。押し黙るイゾルテを見て、ニルファルが再び心配そうな顔で覗き込んだ。

「イゾルテ、どうかしたのか? 私が仕舞ってやろうか?」

「とんでもない!」

イゾルテは慌ててペンをひったくると、ギュッと目を瞑ってペンの頭を押し込んだ。

  ビリビリッ!

「ひぐっ!」

イゾルテは再びビクリと体を震わせた。

――なんでだ、なんで天罰が私にばかり落ちるんだ!? ひょっとして何かの予兆なのか!?

そしてその瞳にはうっすらと涙が浮かんだ。それを間近で見たエフメトはほぅっと息を呑んだ。

――そうか、そんなにこの街が欲しかったのか。さっきから様子がおかしかったのは、この喜びを押し隠していたのだな。やはり可愛いところもあるではないか

彼女の泣きそうなその顔はなんとも可愛らしくて、封印されたはずの浮気心がむずむずと鎌首をもたげた。熟れたニルファルも良いが、まだ初々しいイゾルテも捨て難いものである。……が、それを敏感に察したニルファルがぐーっと彼の耳を引っ張ったので、イゾルテの溜飲も少しは下った。


――そうだ、こんなのは前菜に過ぎない。メインディッシュはこれからだ!

イゾルテはニルファルに向かってニコリと微笑んだ

「さあファル、用件も済んだことだし一緒にお風呂に行こう」

「い、一緒にか?」

ニルファルは何だか恥ずかしそうにもじもじと体をくねらせた。

「うん、行こうよ!」

「でも……汗をかいてるから……」

「だからこそ風呂に行くんじゃないか!」

「……汚れてるし」

「ふっふっふ、私が洗ってあげるよ!」

むしろそれが狙いである。イゾルテは鼻息を荒くした。

「……キスマークもあるし」

「…………」

イゾルテは押し黙った。

――消す! それが無理なら上書きする!

イゾルテはぐっと拳を握り締めると不退転の決意を固めた。だが、まるで彼女を邪魔するようにハサール人の伝令が飛び込んできた。


「申し上げます! 7日前の8月8日、我が国東部の平原において我軍とモンゴーラ郡が激突しました!」

「何だとっ!?」

誰よりも先に叫んだのはイゾルテだった。彼女はハサール人なら相応の余裕を持って異変を知ることが出来るはずだと思っていたのだ。少なくとも西に移動しながら時間を稼ぐことは出来るはずだと。桃色気分だった彼女もこの情報には驚かずにはいられなかった。

「援軍は? 援軍は間にあったのかっ!?」

伝令はイゾルテを見て気まずそうに答えた。

「いいえ、到着はまだでした。ですが敵の数が想定より少なく、ハサール軍だけで勝てると見込んだのです」

「それで? それで(いくさ)はどうなったのだ!?」

ニルファルがどなると、伝令は再び彼女に向き直った。

「我軍は……敗北しました」

ひゅうと息を呑む音が幾つも響いた。ニルファルだけでなく、イゾルテも、エフメトも言葉が出なかった。そしてバールとテ・ワは……ハサール語が分からなかった。なんか凄く訛りの激しいドルク語みたいに聞こえるので、何かまずいことになっているらしいというのは分かったんだけど。だが悪い知らせはそれだけで終わらなかった。

「途中タイトンの援軍が到着して我軍はなんとか撤退することに成功しました。ですがが、その際に……その際に……」

伝令はイゾルテに顔を向けると辛そうに目を閉じた。イゾルテはそれを見て、これからが本当の天罰なのだと悟った。


「御父君が御隠れあそばされました!」


イゾルテはぷつりと糸が切れたようにその場に崩れ落ちると、そのまま意識を失ってしまった。

注1 ボールペンのペン先には文字通りボールが付いています。これがインクの蓋をしつつ回転することで滑らかな書き心地を実現しつつインクの蒸発を防ぐ訳です。

個人的に何度か万年筆にチャレンジしてみたことがありますが、一度も上手く使えた試しがありません。インクは滲みてこないわ、ペン先は引っかかるわで良いこと無しだと思うんですけどね。

でもパイプ(たばこ)に憧れるように万年筆にも憧れるんですよね。

まあ近代以前のヨーロッパのペンは、万年筆より漫画用のペンに近いものだと思いますけど。



 前回までだらだらタイトン諸国のことを書いてましたが、ようやく本筋に戻ったかと思いきや急転直下です。たぶん。

次回、ハサールの戦いです。ハサールと匈奴、はたしていったいどちらが勝つのでしょう!? ……って、もちろん匈奴ですけど。

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