使者
あれから半月あまり、サラの仁義なき戦いは順調に進んでいた。……というか、あんまり仁義と関係ない形で進行していた。サラの配下に降ったアイヤール達が食料の配給を行うようになったのだ。
彼らの天幕の前では、こんなやり取りが行われるようになっていた。
「すいません、配給を頂けますか?」
「おっと、お前さんは新顔でござんスね。バブルンの出でござんスか?」
「東部のスィースターンですけど……」
「だったらスィースターンのアイヤールの所に行ってくんなせぇ」
「だけど連中は配ってないから……」
「だったら今までどおり正門前の配給の列に並んでくんなせぇ。まあ今から並んでも、貰えるのは明日の昼頃でござんしょうが」
「…………」
こうしたやりとりが何度も何度も繰り返されるうちに、当然難民たちは自分のところのアイヤールに皮肉や文句を言うことになった。
「どういうことだい? あんたらは何で配給を貰ってないんだい?」
「そうだそうだ! バブルンの連中だけじゃないんだぞ? マラッカの連中も配ってるそうだ!」
「正門の配給の列に並んでると丸一日潰れちまうんだよぉ。なんとかしとくれよぉ」
突き上げを食らったアイヤールは頭を抱えた。彼らはもともと金持ちから金品を強奪したり堅気の衆から"みかじめ料"を受け取って生活していたのだが、真っ当な金持ちなんて既に殺されたかドルク北部やナイール王国にさっさと高飛びしてしまっているから、今は堅気の人たちが受け取る僅かな配給から差し出される更にささやかな"みかじめ料"だけが生計を支えているのだ。その配給について文句を言われては、"みかじめ料"すら払って貰えなくなるではないか。だから彼らは仕方なく、既に配給を配っている連中に聞きに行くことになった。
「お前さんたちは、どこから配給を貰ってるんでござんスか?」
「そりゃあお前ぇさん、サラの大親分でござんすよ」
「大親分?」
「王に難民を受け入れるように説得しなすった、この国の大親分でござんす」
「なんでござんすとっ!?」
まさに大親分、一国の王を動かし何百万もの難民たちを助けるとはケタ違いの大物である。
「一宿一飯の恩義を受けている以上、早いとこ挨拶に行った方が良うござんすよ
「そ、それでその大親分はどこにいらっしゃるんでござんすか?」
「大親分ならヤークーバ親分のところでござんすよ。ああ、住民の名簿を持っていって下せぇ。そうじゃなきゃ二度手間になっちまいやすからね」
こうして名簿を持ったアイヤールがサラの元に行列を作ることになったのだ。正しく仁義(はあんまり関係)なき戦い(?)であった。そしてこうして持ち込まれた名簿は、事務方へと回されるのである。
「アントニオ殿、次の名簿でゴザる」
「うわぁー、またまた字が汚い……」
「アイヤールにはあんまり学のある者がいないのでゴザるよ。全然いない組だと堅気衆に頼んで書いて貰うので、返って綺麗になるのでゴザるが」
「まあ、なんとか頑張りますよ!」
アントニオがサラの下で働いているのには理由があった。彼のサラに対する恋心を知ったイゾルテが、彼を応援に送り込んだのである。……勘違いだけど。だがアントニオは普段に増して燃えていた。サラと親しく接している間に、本当に彼に対する恋心が芽生えたのである……訳ではなく、サラが時々こんな言葉を漏らすからだった。
「はぁ、トリス殿は手伝いに来て下されぬのでゴザろうか……」
このつぶやきを最初に聞いた時、アントニオは悟った。
――トリスって誰だっけ? ああ、陛下の偽名か。ここには変装して来たんだって言ってたっけ。でもその陛下に手伝いに来て欲しいってことは……やっぱりサラ王子も陛下のこと狙ってたのか! 何てことだ、両思いだったのか!? くそぉ、絶対陛下に会わせるものか!
あくまでサラが好きなのはトリスであってイゾルテじゃないんだけど、微妙に誤解じゃない誤解をしたアントニオはサラに敵愾心を燃やして発奮したのだった。
「へい……じゃなくてトリスさんは忙しい人ですからね! トリスさんのお手を煩わせるなんてとんでもない! こんなの僕だけでへっちゃらですよ!」
「……そうでゴザるか、失礼したでゴザる」
こうして間違ってもイゾルテが手伝いに来ないように、彼は必死に働いていたのである。心配しなくても彼女が彼を手伝ったりするはずないのに。
だがこうして難民たちの組織化が順調に進んでいる裏で、大きな問題が発生していた。ようやく届き始めたナイールからの支援物資に問題があったのだ。
「イゾルテ殿、これを見て欲しいでござる」
バールに示された倉庫には、びっしりと食料が詰め込まれていた。
「おお、なかなか壮観だな!」
「壮観なのは袋に入ってるからでござる」
そう言ってバールが手近な麻袋を開いて見せると、そこには……豆が入っていた。
「……麦じゃないの?」
「麦もありますぞ。ライ麦、燕麦、大麦でござるが」
「……小麦は?」
「ないでござる」
「……一袋も?」
「一粒も」
「…………」
「…………」
2人は押し黙った。これが籠城戦だったらライ麦や燕麦だってご馳走である。問題は、量が足りてるのに不味いものしか無いということなのだ……
「ま、まあ、飢える訳じゃないしな」
「そうですな。しかし、不満が出るのは確実にござるぞ」
「うぬぬぬ」
不満を言いたいのはイゾルテである。彼女は自分でアルテムスの難民を呼び入れて食糧不足を招いた立場上、昨年は大麦パンやライ麦粥を率先して食べていたのだ。クマデブルクに行ってからの方が良い物を食べていたくらいである。だというのに彼女は、今年もまた貧乏臭い食事を取らなくてはいけないようなのだ。
――せめて肉か魚が欲しいけど、肉は確実にムリだろうなぁ
どう考えても人口が多すぎて、それに見合う牧草地などなかった。ならば魚しかないだろう。
「こちらで魚を調達しよう」
「魚を? しかし高くつきますぞ」
「そこを安く調達する。漁師から魚を買うのではなく、漁師を雇って大型ガレー船に乗せ、しこたまでかい網で魚の群れを一網打尽にするのだ」
大型ガレー船で漁網を引き回したり{船びき網漁}、網を垂らしながら魚群を囲い込んだりしたら{巻き網漁}、そりゃあがっつり魚が取れるだろう。そんな大規模漁業など前代未聞のことだったが。(注1)
「なるほど。しかしそれが出来るのはメダストラ海側でござろう? このスエーズのあるルブルム海側はどうされるのでござるか?」
「運河が出来るまでは船を運んでこれないしなぁ。こっちは小舟をたくさん作るしかないだろうな。難民の中にも漁師は大勢いるだろうし、彼らにも船を与えて漁をさせよう」
「しかし、どれくらい作るのでござるか?」
「さあ? 1万艘か2万艘?」
「まん……」
桁違いの数字にバールは呆れた。
「そんなに作ってたら5年はかかるでござる。置いておくところもないでござるよ」
「プレセンティナから職人と工具が届けば、あとは材料さえあれば多分大丈夫だ。その木材も既にポルコサイードに集積を始めている。それにあと半月もすれば水路も繋がるそうだから、その水路の脇に置いておけばいい。
それにこれは漁師に使わせる小舟だけじゃないぞ。用水路を使った物流用に使う分も含めた数だ。ナイールからの食料の輸送だって、船便でポルコサイードへ陸揚げして、そこから小舟で運べば遥かに効率的だ。建築資材や人の行き来も楽になるぞ」
運河ルート策定に先立つ小用水路の開削は、常に2~5本のルートを掘り進みながら最良のルートを残して埋め戻すという、なんとも労働集約的・時間節約的な工事が行われていた。そんなことが可能なのは、もちろん難民の中から希望者を募って労働に従事させていたからである。
彼らの報酬は給食と僅かな賃金だけだった。もちろん働かない自由もあったし、働かない者にも配給を出さない訳にはいかなかったが、難民たちとて食っちゃ寝している訳にはいかなかった。皮肉な話だが、多少の財産がなければいずれ故郷に帰った時にそこで餓死することになることが分かりきっていたのだ。飢餓の不安に苛まれていた記憶が新しいので、彼らにはその想像がリアルに出来た。そんな訳で多くの難民たちが僅かでも賃金を得ようと志願して、奴隷軍人の指示に従って土木作業に従事するようになっていたのである。
「後はシェフの腕だな。既に工事現場では給食制度が施行されているが、これを難民キャンプにも適用させていきたい」
「豆や雑穀を渡すのではなく、パンや粥にして渡すということでござるか?」
「そうだ」
「しかしそこまでしてやることはござるまい。女たちの仕事が無くなるでござるよ?」
バールの言葉にイゾルテはビシリと指を突きつけた。
「まさにそこだ! そうなれば女達が働きに出ることが出来るだろう?」
その言葉にバールは目を剥いた。
「お、女を働かせようというのでござるか!?」
女は家庭の中にあるべきという彼らの伝統的な価値観とは真っ向から対立する考えである。
「そうだ。といっても土木工事をさせようというのではないぞ? 仕事はやっぱり炊事や洗濯だ。1人分の食事を作るのも5人分の食事を作るのも手間は一緒だと言うだろう」
バールには野戦料理の経験くらいしかなかったが、確かに一人分作るのも小隊分を作るのも手間はほとんど同じだった。必要な腕力は人数に比例してたけど。
「……なるほど、そうでござるなぁ」
「だろ? ウチのメイドたちはそう言って自分の分の菓子まで作っているしな」
バールは眉を顰めた。材料費も人数に比例するような気がしたのだ。っていうか、明らかに気のせいじゃないけど。その材料費の分は給料から差っ引いてるのかどうか気になったが、どこかで余計な恨みを買いそうだったので黙っておいた。
「それに女所帯の場合だってあるんだ。彼女らが金銭を貯める道を考えてやらなくてはな」
バールははっとした。ドルクの内乱では、当然一家の大黒柱が殺されたケースも多いだろう。戦争続きのムスリカ帝国でもそういうケースは多いが、そう言う場合は生き残った男が死んだ仲間の妻子を引き取って面倒を見るのが慣例になっていた。(注2) しかし難民たちの間ではそのような余裕が有るはずもなかった。
「そうかも、しれませぬなぁ……」
「それに皆が皆料理上手な訳じゃない。得意な者に料理させるのが誰にとっても幸せだと思わないか?」
「まさしくそうですな!」
バールには野戦料理の経験くらいしかなかったが、自分が当番の日に仲間たち嫌そうに飯を食うのが苦痛だった。気に入らないならお前が作れよ! とか思っている間に出世したので、今の今まで忘れていたけど。
「じゃあ、サラに言ってアイヤールの配給所で給食を出すように指示してくれ。料理を作る女達の賃金はこっちで用意するよ」
「……どうしてそこまでされるのでござるか?」
もちろんイゾルテの遠大な計画の最終的な目的は、メイドハーレムを築くことであった。アイヤールたちに「身売りをするくらいならメイドになろう!」と宣伝してきたというのに、そもそも食料不安が消えたせいで身売りする必要が無くなってしまったのである! その上「プレセンティナの皇帝イゾルテが支援を取り付けた」と宣伝したせいでイゾルテの評価が高まり「きっと美女に違いない」「母性あふれるふくよかな胸を持っているのだろう」という妄想が広まった所に、サラが「イゾルテ殿でゴザるか? まあ、見た目は非常に美しい少ね……少女でゴザる」と証言したため、「サラの大親分が美少女だっていうんだからトンデモない美少女に違いないでござんス!」「侍女のトリス嬢も凄い美少女でござんシタ。あれくらいでないとダメなんでござんしょう」ということにされてしまっていたのだ。トリス(イゾルテ)自身が「イゾルテの隣に立っても引け目を感じないような美女」という条件を付けていたので自業自得である。とんでもなくハードルが高くなっている上に、難民の女性たちは風呂も洗濯もままならず、当然化粧だって出来ない。ただでさえ自分の容貌に対して自信を喪失していたのだ。だからメイドに立候補しようとする者は、一人として彼女の元を訪れていなかった。
だがそんな事になってるとは知らないイゾルテは、きっと家事に追われて家を空けられないんだと考えていたのである。だからこうして、彼女たちの背を押すべく給食制度なんかを持ちだしたのだった。
「もちろん、女性たちに活き活きと働いて欲しいからだよ」
その嘘偽りのない彼女の言葉はバールの心を揺さぶった。自分が不器用で武骨であると知っているからこそ、イゾルテの細やかな配慮に関心したのである。それにイイ顔をして白い歯をキラリと光らせるイゾルテは、軟弱ではあるが、その容姿といい心根といいいかにも女達にモテそうだった。軟弱ではあるが、確かに善良で有能かもしれなかった。軟弱ではあるが、君主としても婿としても悪くはないかもしれなかった。本当に軟弱ではあるのだが。
「イゾルテ殿……今度、我が家に招待するでござる」
「招待? 今だって王宮には時々行ってるけど?」
「いやいや、もっと奥の指導者様の住まいにでござる。指導者様……妻と娘に紹介するでござるよ」
「ほう! それは光栄だ!」
イゾルテは喜んだ。残念ながらサラは男だったが、その母親と妹には期待できそうではないか! 最大の問題である性別が女だと確定してるんだし、サラの血縁なんだからきっと美人に違いないだろう。
だがイゾルテがサラの母と妹の姿を妄想してニヤニヤしていると、伝令が無粋な連絡を持って来た。
「陛下、ドルク軍の小集団が現れたとのことです」
その知らせにバールは緊張した。ドルクとの小競り合いはスエーズの日常なのだ。
「小集団? どの程度の規模だ」
「それが……20騎ばかりとのことです」
その規模ならどう考えても戦争をしに来た訳ではなさそうだった。それならばイゾルテにはその理由を察することが出来た。
「それならきっと、私の書状に対する返答を届けに来たんだろう」
「ですが……少々おかしいのです。ドルクの旗を掲げてはいるのですが、身なりが遊牧民族のようですし、先頭にいるのが女性なのです」
イゾルテは目を剥いた。
「遊牧民族の女性だと!? 今どこだっ!?」
「ちょ、長城の砦の前で待たせていますが……」
「ばっかもーん! サッサとお連れしろ! いや、私が砦に出向く! 直ぐに戻って丁重にお通ししておけ! あと、風呂の準備だ!」
「はっ、はいっ!」
伝令の奴隷軍人が慌てて飛び出していくのを、何故だか蚊帳の外に押し出されちゃったバールがポカンと見ていた。イゾルテの慌てぶりが理解できなかったのだ。
「その女性というのは誰なのでござるか?」
「ハサールの可汗の姫にしてエフメト皇子の妻、ニルファルだ」
「ああ、そういえばそんな話も……正妻でござるか?」
「正妻も正妻、側室なんて持とうものならハサール騎兵10万がエフメト派50万を殺戮する第二の内乱へと進展するだろう。以前浮気疑惑が持ち上がってエフメト派が崩壊しかけたそうだしな」
「…………」
恐ろしい話である。バール自身は妻である指導者一筋だったが、部下たちの多くは複数の妻を持っていたので、彼には何も言えなかった。ついでに言えば全てイゾルテが原因だったと知ればさらに恐ろしかっただろう。
「だから私が直接会ってくる! それじゃ!」
何故だか嬉しそうに見えるイゾルテに不自然さを感じながらも、バールは関わらないことに決めた。イゾルテの方が女心を分かっていそうだからお任せする事にしたのだ。
イゾルテは駆けた。というか馬を駆けさせた。苦手な乗馬も苦にならず、乗馬初心者のロンギヌスたちを置き去りにして砦に乗り付けると、彼女は案内された部屋に飛び込んだ。
「ファル! 会いたかったよ!」
そう叫びながらイゾルテは、両手を広げて彼女の胸に飛び込んだ。……つもりがガシっと肩を掴まれ、リーチの差で手も胸に届かなかった。
「くっ! あ、あと少し……!」
必死で指先を伸ばすイゾルテを、そのおっぱいの持ち主が窘めた。
「オイタをしてはダメよ、ボク」
「ボク?」
イゾルテが血走った目を胸から離してようやくその女性の顔を見上げると、彼女はニルファルではなかった。なかなかの美人だったが、彼女より5~6歳は年上で完全に別人だった。イゾルテは慌てて体裁を取り繕った。
「ゴホンっ! 失礼、ニルファルだと勘違いしました」
「あら、奥方様だったら胸を揉みしだいて良いと思ってるの?」
彼女のお姉さん風な口調と雰囲気が、お姉ちゃんっ子であるイゾルテを少しばかり萎縮させた。彼女の妹好きはファンタジーだったが、姉に説教されるのはリアリティを伴うのだ。
「も、揉むだなんて! ただ抱きついたり一緒に風呂に入って洗いっこするぐらいでして……」
風呂と聞いてその女性はぽんっと手を打った。
「ああ、ひょっとしてあなたがイゾルテ陛下ですか? 奥方様から聞いていましたが、確かに可愛い男の子のようですわ」
「…………」
イゾルテは不満気だったが、彼女も初見でニルファルを男だと勘違いしたので文句は言えなかった。
「はあぁ、こんなに可愛いのに女の子だなんて残念だわ……」
その女性はその女性で何やらがっかりしていた。
「……それで、あなたは?」
「私はエフメト殿下にお仕えするコルクト・パシャの妻でテュレイと申します。奥方様の身の回りのお世話もしておりますの」
コルクト・パシャというのは、エフメトの乳兄弟ハシムのことである。外向きに格好つけて名乗るときにはこう言っているのだ。とはいえハシムが表舞台に立ったのは昨年末からのことであり、イゾルテはそんな名乗りをしているとは知らなかった。まあ、どっちみち面識も無いんだけど。
――誰か知らんが、将軍って言うくらいなんだから重臣なんだろうな。主君に倣ってハサール人を娶ったというのなら、なるほど忠誠心も篤かろう。もっともテュレイは美人だから、普通に惚れただけかもしれないけどな。
何れにしてもニルファルの身内でもないのなら、敬語を使う必要はなかった。
「ニルファルは元気か?」
「はい、それはもう。毎日のようにお盛んで、体中にキスマークが……」
「言うなー!」
イゾルテは思わず絶叫した。ニルファルより常識がありそうな言動だったのに、いきなりとんでもない暴露をされてしまった。
「確かに元気だというのはわかるけど、そういうことを聞いてるんじゃない! っていうか、そういうことを勝手に話しちゃダメだろ!?」
「あら? 奥方様からはイゾルテ陛下には何一つ隠さずに話していいと聞かされておりますよ?」
「…………」
ニルファルの寄せる信頼が、イゾルテには山より重かった。そして嫉妬に燃える心の炎が、火山から溢れ出た溶岩よりも熱かった。
「……それで、本題は? 会談の件か?」
「はい、こちらです」
そう言って渡された書状はニルファルからの愛にあふれた恋文ではなくエフメトからの事務連絡で、半月後にサナポリで会談を行いたいということが端的に書かれていただけだった。がっかりである。だがテュレイが補足した言葉は興味深いものだった。
「会談の際に正式にサナポリを譲渡されるとのことです」
「ほう、エフメトのくせに存外思い切りが良いな」
「良い格好をしたいのですわ」
テュレイの言葉にイゾルテは頷いた。
――そうだろうな、スエーズの目の前でプレセンティナとの友好関係をこれみよがしに見せつけたいのだろう。また一方で、危険地域に拠点を持たせることによって、対匈奴戦線からプレセンティナが手を引くのを防ごうという意味もあるはずだ。
いかにもエフメトらしい打算的な策である。どうせくれてやらねばならないのなら、最大限の対価を得ようというのだ。だが彼女はそんな考えはおくびにも出さないで、全く違うことを口にした。
「ああ、あいつは私に未練タラタラだからな」
「え……?」
テュレイはこの話題は初めてだったらしく、初めて口篭った。
「……奥方様に、というつもりだったんですが……」
「知らないのか? もともとあいつは私に求婚してたんだぞ? サナポリでは私のいとことイチャイチャしていたらしいしな」
これも初耳だったらしく、彼女は眉を顰めた。だからイゾルテは悪戯っぽくニヤリと笑った。
「そこんとこニルファルに伝えといて♪」
「……分かりましたわ」
そう答えたテュレイも苦笑を浮かべた。予めニルファルから、イゾルテの為人を聞いていたのだろう。笑い合って心が近づいたところで、イゾルテが更なる親善のための提案をした。
「と、ところで、テュレイさんも疲れたろう? どうかな、一緒に風呂にでも入って旅の埃を落とさないか?」
「いいえ、やめておきますわ」
そう答えたテュレイはやっぱり苦笑を浮かべていた。
「奥方様に禁じられておりますの、イゾルテ陛下と一緒にオフロに入ってはダメだと」
「ええっ!?」
彼女は予めニルファルから、イゾルテの為人を聞いていたのだ!
――それってどういう意図なんだ? 独占欲? それとも私に気を付けろっていう警告? どっちなんだぁー!?
イゾルテは打ちひしがられながらも、風呂へと案内されていくテュレイの背中を見送った。
「ああ、美人が行ってしまう……」
彼女はもう1ヶ月以上、(自分以外の)女性の裸を見ていなかった。飢えている所に美味しそうな料理を見せられて、寸止されちゃったのである。テュレイの胸は大きくなかったが、今のイゾルテにはBカップ以上は文句なくご馳走だった。
「サナポリに行かねば! エフメトが来るのなら、行動的なファルもきっと来るはず!」
そしてニルファルが来るのなら、一緒にお風呂に入れるはずであった。
注1 船びき網は地引網の船で使うバージョンです。底引き網で海底を浚うほうが漁獲量は期待できるんですが、これは近代になって登場しました。一方で地引き網は『旧約聖書』に登場しているそうです。
だったら中世には当然船びき網くらいあったんでしょう。……たぶん。
巻き網漁は錘を付けた網を沈めながら海域を一周し、逃げ道を塞いで魚群を文字通り一網打尽にする漁法です。
幼魚も獲っちゃうので資源の枯渇に繋がりますが、さすがのイゾルテもそこまで考えていないようです。
注2 イスラム教は一夫多妻制で男1人が女性4人と結婚できることは有名な話です。
これはイスラム帝国拡張期のジハードで多くの寡婦が生まれたことに対する救済策でもあると言われています。
ちなみに預言者ムハンマドは特別に5人以上もOKで、実際に22人が確認されているとのことです。
ここだけみると、どこかのカルトみたいですね……
サラディンはいろんな逸話の多い人だったそうですが、基本的に仁君として知られています。
戦争中でも立ち寄った村々にぽんぽんと軍資金をあげちゃったりしたので、個人資産から補填していたそうです。
おかげで彼が死んだ時には葬式代も残ってなかったので、エジプトの一般民衆がカンパしたとか……
泣ける話です。
でもホントに泣いてたのは、彼の財務官僚でしょうね。
お金があるとサラディンが使っちゃうので、かれらはへそくり(裏金)を作っていたそうです。




