アイヤール その3
本当はその2で収めるはずだったんですけど、長くなりすぎたのでその3まで伸びちゃいました。
なので今回は割りと長めです。
2人は男たちの案内で小汚いが大きな天幕に連れて行かれた。その有り合わせの天幕は、よく見るとたくさんの膝丈ズボンを解体して作ってあった。どんだけ替えを持ってたのだろうか。
「親分、ただいま戻りやしたでござんス」
「おう、入りな」
天幕から嗄れた声が返されると、3人組は中に入っていった。その後を少しばかり警戒しながらサラがついていくと、中には3人組とは別に10人ほどの男たちが屯しており、その中心には細身の老人が座っていた。彼は2人にチラリと一瞥をくれただけで、部下の3人組に向き直った。ドルク人だから女が顔を隠していなくても驚かないのだろうか。
「それで、首尾はどうなんでぃ」
老人の嗄声に対して3人は膝を折った。
「へい、ハムザの野郎が囲ってやがった女達は、奪った金を持たせて逃がしやした。ただこのお兄さん方が、あっしらを拐かしだと勘違いして喧嘩を売ってきたんでござんス」
老人はサラにギロリと一瞥をくれると、ゆっくりと立ち上がり中腰になった。いまにも飛びかからんとするかのようだ。すると取り巻き達も一斉に立ち上がり、同様に腰を落とした。もちろんサラも油断なく腰を落として戦いに備えていた。
――おいおい、結局荒事なのか?
イゾルテはそっと腰の剣{ライトサーベルのおもちゃ}に手を伸ばすと、男たちを驚かすタイミングを見計らった。静かに高まる緊張の中、先手を取ってサラが動いた。彼の手が稲妻の異名に相応しい電光の速度で突き出されたのだ! ……素手のままで。
「お控えなすって!!」
「……は?」
イゾルテがポカンとする中、男たちもざざっと片手を突き出した。1人だけぽつねんと突っ立っているわけにもいかず、イゾルテも見よう見まねで片手を突き出した。するとサラは普段とは全く違う口調で流れるように奇妙な挨拶を始めた。
「さっそくのお控えありがとさんでござんス。軒下3寸借り受けましての御仁義、失礼さんにござんス。あとさき間違いましたる節は、まっぴらご容赦願います。
手前、生国と発しますは、ムスリカ帝国はスエーズにござんす。偉大なる指導者様のお膝元にて産湯を浸かり、3度の飯は抜いても、5度の礼拝だけは生まれてこの方欠かしたことはゴザんせん。
姓はアッディーン、名はサラ、人呼んでシナイの稲妻と発します。(注1)
スエーズは3丁目アイヤールの先代組長にして、23代目総長を勤めさせて頂いた者にござんス。
以後面体お見知りおきのうえ、よろしくお引き回しのほど御頼申しまス」
イゾルテが呆然としていると、今度は老人が嗄声で挨拶を始めた。
「ご丁寧なるお言葉、有難うござんス。申し遅れて失礼さんにござんス。
手前、帝都バブルンはバスラ地区より流れ流れて参りましてござんス。
ライスの息子にて名はヤークーバ(注2)、人呼んで瘋癲の虎と発します。
以後、万事万端、宜しく御頼申しまス」
イゾルテはふたたびあんぐりとした。
――稲妻も凄いけど、精神異常の虎って……
何とも物騒な二つ名であるが、狙いそこねて格好悪くなっちゃった感じだった。危険な雰囲気を出したかったんだろうけど、精神異常というのはどうにも格好悪かった。「ふっ、俺に近寄ると怪我するぜ」と言われなくても近づきたくないし、仲間にしたくない危険さである。
だがイゾルテはいつまでも呆けている訳にも行かなかった。男たちが中腰のままイゾルテに視線を向けたのである。
「えっ、私もやるんですの? (コソっ)」
「申し訳ゴザらん。何かそんな雰囲気でゴザる (コソっ)」
サラの無責任な答えに、イゾルテは拳を握りしめた。
――じゃあ先に教えとけよ! 後で殴る! ハンマーで殴る!
物騒なように聞こえるが、イゾルテの腕力ではハンマーくらい使わないと効かないのである。
覚悟を決めたイゾルテは中腰になって片手を突き出した。先ほどの挨拶と、いつか読んだ北アフルーク語の検閲本を思い出しながら、それっぽく訥々と挨拶を始めた。
「えーと、お控えなすって、くんなまし。
あっちは、生まれも育ちも、プレセンティナ帝国は母なるヘメタルの、歴史の息づくペルセポリスでぇありんす。
姓はパレオロ……パレオロッソ、名はトリス、人呼んで……人呼んで……漆黒の小悪魔と発します。稼業は皇帝……付き侍女でありんす。
面体は忘れて下さって構いませんから、本日はお話を聞かせて頂けないでしょうか?」
最後にイゾルテがぺこりと頭を下げると、ヤークーバ老人が相好を崩しアイヤールたちも笑いだして、天幕に漂っていた緊張感は霞のように消えてしまった。
「お嬢さん、素人にしちゃあ良い仁義でござんすなぁ」
「いーえー、不調法で申し訳ないでありんす」
「普通に話しておくんなせえ。手前らはこれが普通なんでござんすよ」
「じゃあ、お言葉に甘えよう。……ですわ」
彼女はうっかり普通に話しかけて、やっぱり女言葉に戻した。サラが居なけりゃどっちでも良いんだけど。
ヤークーバは今度はサラに目を向けた。
「ところで親分さん、総長といやあ幾つもの組をまとめて何かなさったんでござんしょう? しかし声を聞いた限りじゃお若いようでござんす。いったい何をなすったんで?」
老人の言葉にイゾルテは引っ掛かりを覚えた。
――声を聞いた限りでは? まさか目が見えないのか? なるほど、だからサラのことをすんなり男だと見破ったんだな。
サラのハスキーボイスは中性的だが、声だけならどちらかというと男だ。最初に会った3人も薄闇の中だったから声で男だと思ったのだろう。一方で男装しているイゾルテを女だと見破ったのも女ことばと声のせいだろう。だが老人の矍鑠とした振る舞いにはそれを伺わせるところはなかったので、弱視か鳥目なのかもしれなかった。
「恥ずかしながら……王と一悶着あったのでゴザる……」
サラは本当に恥ずかしそうだった。だって要するにただの親子喧嘩なのだから。だがそんなことはイゾルテ以外には分かろう筈もなく、ヤークーバ老人は楽しそうにぽんっと膝を打った。
「ほう、王に! そりゃあ剛毅だ!」
親子喧嘩のためだけにスエーズ中のアイヤールをまとめ上げたのだとすれば、確かに剛毅かもしれない。
「そいじゃあひょっとして、この国が我々避難民を受け入れて下すったのも、親分さんのおかげでござんすかい?」
ヤークーバの言葉を聞いて子分たちは一斉に目を剥いた。サラの挨拶を聞いて見た目に似合わず大物だと思っていたら、自分達の大恩人ではないかと言うのである。
「とんでもゴザらん! それがしは少しばかりお遣いをしただけでゴザって、すべては指導者様の思し召しでゴザる!」
サラは慌てて否定したがアイヤール達は信じなかった。ドルクで生まれ育った彼らには、為政者が自分から民を助けるなどとは想像できなかったのだ。唯一親身になって彼らと向き合ってくれた民政長官も、内乱に巻き込まれて命からがら都落ちして行った。彼と細君を酒樽に隠してバブルンの城外に送り出したのが最後、2人の消息も知れなかった。まあ、今となっては彼らの方も浪々の身なのだが。
「またまた御謙遜を。だがまあ、他ならぬ親分さんがおっしゃるのならそういうことにしておくでござんス。ですがこれだけは聞かせてくんなせぇ」
そう言ってヤークーバはずいっ身を乗り出してサラを睨んだ。どこか焦点の合わない藪睨みの双眸は、何を考えているのか分からない不安をかきたてた。なるほどこれが瘋癲の謂れなのだろう。
「親分さん、今ある食料は、いつまで保つんですかい?」
イゾルテははっとした。彼女も正確なところは聞かされていないのである。まあどうせすぐナイールから届くんだけど。
「それが実は……知らないのでゴザる」
イゾルテはガクッとずっこけた。
「知らないってどう言うことだ! ……ですの!? プレセンティナに資金を援助して貰って、それからナイールで食料を買い込んで、スエーズに運んで、みんなに配る。当然この時間的余裕はあったんじゃなかったんですの!?」
イゾルテの勢いに押されながらも、サラは必死で弁明した。
「出発前には3ヵ月と聞かされていたのでゴザる! でも帰ってきたら難民は増えてるし、配給量は減らしてるし、もうアテにならないのでゴザる!」
3ヶ月とはまたギリギリな話である。ペルセポリスまで往復するのに2ヶ月かかるとしたら、1ヶ月で買い付けと輸送と配給を終え無くてはならないところだった。そもそもイゾルテが断ってたらどうするつもりだったのだろうか?
――いや、そのためのテ・ワか? だが私が援助するという確信があったとしてもギリギリだ。もうちょっと計画的に動けよ……!
イゾルテはスエーズの無計画さにイライラした。
「知ってる数字がアテにならないと思うんなら、ちゃんと最新情報を聞いといて下さい! 何のための連絡員ですか!?」
「ううう、今度聞いて来るでゴザ……いや、明日にでも聞いて来るでゴザる。ですからまた明日、トリス殿にお会いして報告するでゴザるよ!」
サラはちゃっかり明日の約束を取り付けようとしたが、当然イゾルテは冷たかった。そんなことを聞くためにわざわざ変装するのは面倒である。
「結構です。イゾルテ陛下にご報告下さい」
「しかし……」
「陛下にお願いします」
「……分かったでゴザる」
サラがしょんぼりして二人の言い合いは終わったが、アイヤールたちは深刻な顔をしていた。今の会話からは現存する食料備蓄は最大でも3ヶ月しか保たないということしか分からないのだから。
「親分さん、今の話は……本当なんでござんスかい?」
「え? ……ちゃんとイゾルテ殿に報告するでゴザるよ?」
「「「「…………」」」」
サラのボケは不発だった。客人のボケに愛想笑いも入れないとは、礼儀知らずなアイヤールである。
「そうじゃござんセン、今の備蓄食糧が3ヶ月しか保たないってことでござんス!」
「いや、それは1ヶ月前の話でゴザるから、基本的には2ヶ月でゴザるよ?」
「「「「…………」」」」
サラはどこまでも無神経だった。食糧危機は去ったと安心してしまっているからだろう。だがそれを知らない難民たちにとっては、死刑宣告に等しい内容である。もし二人がこのまま帰ってしまったら、明日にでも暴動が起こるかもしれないところだ。だがもちろん、こんなチャンスを見逃すイゾルテではなかった。
「でもプレセンティナのイゾルテ陛下が、500万人が1年生きていけるだけの食糧援助を取り付けて下さいましたわ!」
イゾルテの言葉にアイヤールたちがポカーンと呆けた。
――効いている、効いている。スエーズの無計画さに対して私の株が上がるのは間違いないな!
彼女は満面の笑みを浮かべた。
「今のところ難民は200万人ほどだそうですから、倍に増えても大丈夫ですわ」
アイヤール達はどう反応していいのか分からず黙り込んだままお互いに視線を合わせていた。数が多すぎて現実味を感じられなかったのだ。まして縁もゆかりもないどころか、ドルクが何百年も攻め続けている敵国の皇帝が、そのような援助をする訳がないではないか!
「カッカッカッ、お嬢さん、タチの悪い冗談はよしてくんなせぇ。
ここいら一帯の者にとちゃあ、生き死にの問題なんでぇ。
それを笑いモノにしようってんなら、女子供といえども……」
「本当でござるよ?」
絶妙のタイミングで発せられたサラのフォローが、ヤークーバ老人の腰を折った。……じゃなくて、彼の話の腰を折った。
「……ホントなんでござんすかい?」
「もちろんですわ。私のお仕えするイゾルテ陛下はまだ年若い女性ですが、清く正しく美しく、その上大変慈悲深いお方なんです」
「ほう……」
女の為政者と聞いて、ヤークーバは目を細めた。そういうことなら普通の為政者とは違うかもしれないと思えたのだ。イゾルテを賛美する言葉に対して失礼にも首を傾げるサラには少しばかりムカついたが、彼女はとりあえず無視した。本題はここからなのだ。
「そしてその陛下が、メイドを絶賛募集中なのです! あ、でもイゾルテ陛下の隣に立っても引け目を感じないような美女じゃないと勤まらないですよ? あと陛下は未婚女性が好み……じゃなくて優遇します。泊まりこみもありますからね、オホホホホ!
そんな訳で皆さんにお伝え下さい、身売りをするくらいならイゾルテ陛下のメイドになろうと!」
今度はアイヤール達がイゾルテの勢いに押されていた。なんで男だらけのこんな場所で熱心にメイドを募集するのか、彼らには意味が分からなかったのだ。だがヤークーバ老人だけはその意味を悟った。
「……そうでござんスか」
――素性のしれない難民も差別はしないって事でござんすかねぇ。メイドが匕首の一本も忍ばせてりゃあ、グサリとやられちまうというのに……
老人は目を瞑った。確かにその皇帝は彼の知る為政者たちとは何かが違うようだった。
「……それで、そのお姫さんの腰元のお嬢さんがそんな格好で、いったい何の御用なんで?」
「え? えーと……」
今まさに本題を言ったのだが、ヤークーバ老人にはおまけだととられてしまったようだった。
――うーん、今更メイドを探しに来たって言ったら格好つかないなぁ……
彼女はやむを得ず、先ほど思いついたことを本題だということにした。
「えーと、いずれ王の方からお触れが出ると思いますけど、先ほどの件を皆さんに広く伝えて頂けますか?」
「先ほどってぇと、食糧支援の話でござんすかい? 人の口には戸が立てられねぇもんでさあ。況してやそんなありがてぇ話、頼まれなくても明日の昼には、このあたりの難民皆が知っていることでござんしょう」
「そうかもしれません。ですが敢えてお願いします。この件をスエーズ王国にいる全ての難民に伝えて欲しいのです」
イゾルテの言葉にヤークーバは戸惑った。彼女が言っているのは、どうやら単純な仕事ではないようなのだ。
「全ての……で、ござんすか?」
「もちろんです。あなた方と違って私達には、このあたりの方だけを特別扱いする理由はありませんもの」
イゾルテの皮肉にヤークーバは束の間沈黙した。
「……そりゃあ何とかしてやりてぇのはやまやまでござんすが、手前にはそれほどの力はござんせん。
バブルンの親分衆には多少は顔が利きやすが、他の街の連中のことはとんと知らねぇんでござんす。それに手前ぇの縄張りの中でさえも、余所者の悪行に目が届かねぇ有りさまでござんす。
お嬢さんには申し訳ねぇでござんすが、他を当たって頂けねぇでござんすか?」
ヤークーバの言い訳じみた言葉に、イゾルテは素直に頷いた。
「分かりました。では他を当たりましょう」
だが彼女は素直に去ったりはしなかった。
「それで、私はどこを当たればよろしいんですの?」
「そりゃあ……他でござんす」
「そうですか、アテもないのに他に行けと仰るんですね。食料を恵んでもらうだけで働きもしないで」
イゾルテの言葉にその場の空気は一変した。静まり返る天幕の中で、ヤークーバの鋭い視線がイゾルテに向けられた。
「……何でござんすと?」
そのドスの利いた声は嗄れたまま1オクターブ低くなってやたらと迫力があったが、彼女は今更動揺しなかった。それどころかあざ笑うように、そして満足そうに満面の笑みを浮かべていた。そう、むしろ怒らせるために言っているのだから。
「あら、そうでしょう?
アイヤールが大きな事を起こす時は、幾つもの組がまとまって一人のアミールに従うのだとお聞きしました。
でも200万人からの人々が故郷を捨ててここまで流れてきたというのに、それをする気はないと仰るのですから」
「…………」
ヤークーバが沈黙しても、イゾルテは構わずに言葉を続けた。
「もうすぐ大きな工事が始まります。やがてここにやって来る敵を防ぐためです。
もちろん難民の皆さんにも働いて貰いますが、スエーズの軍も政府もそれに手一杯です。
治安の維持も、揉め事の解決も、情報の伝達も、意見の拾い上げも、難民自身の手でやって貰わなくては困るのです。
でもあなた方は情報の伝達すら手に余ると仰り、他にアテもないと仰ります。
さてさて、難民たちはこの先どうなるのでしょうね?」
イゾルテの皮肉に苦り切ったヤークーバーは、渋々と彼女に要求を聞いた。
「……どうしろと仰るんでござんすか?」
「アミールを立てて下さい。難民を取りまとめ、スエーズの王と共にこの窮地を乗り越えられるアミールを!」
そう言ってイゾルテはさり気なくサラに視線を移した。サラはイゾルテと見つめ合う形になって急にドギマギし始めた。ノリノリのイゾルテは普段に増してキラキラと輝くようであり、だからサラはアイヤールたちの視線が自分に向いているのにすら気付かなかった。藪睨みの一対の視線にも。
「……なるほど、お嬢さんの仰ることも尤もでござんす。一宿一飯の恩を忘れちゃあアイヤールを名乗れねえ。
あっしらは親分さんのおかげで三度三度の食事を頂いている身でござんす、親分さんの指示に従いやしょう」
ヤークーバの言葉にイゾルテはグッと拳を握りしめた。これで難民の自治が始まれば、治安も安定するだろうし、男たちは安心して運河開削の労働に身を入れる事が出来るだろう。そして女達は安心して顔を見せるようになるのだ!
――よっしゃぁー! これでナンパが出来る!
彼女は喜び勇んでサラの手を取った。
「やったな! じゃなかった、やりましたわ、サラ様!」
「え? ああ、うん、やったでゴザる……」
サラの方もとっても嬉しそうだった。……想いを寄せるトリスと手を繋げたから。
「じゃあ、難民の取りまとめはお願いしますね!」
「もちろんでゴザる! トリス殿の頼みならどんな事でも……って、え? 何でゴザると?」
「ですからアミールとして難民を取りまとめて下さいネ!」
サラは愕然とした。そんなことになったらイゾルテの所に出入りする機会がなくなり、彼女の侍女であるトリスと遭遇するチャンスまで無くなってしまうではないか!
「い、いや、某はイゾルテ殿との連絡員という仕事が……」
「頑張って下さい! 応援してますわ!」
「応援……で、ではトリス殿にも手伝って戴けぬでゴザるか?」
イゾルテはニヤリと笑った。食料の配給を加減して、サラの配下に加わらない者に圧力をかけてやればいい。簡単な事ではないか。
「もちろんですわ、あらゆる手を使ってサラ様によるアイヤール統一を支援させて頂きますわ」
サラはぱぁっと華やかな笑顔を浮かべると、繋いだままの手をブンブンと上下に振った。
――トリス殿と一緒に働けるなら、こんなに嬉しい事は無いでゴザる!
「分かったでゴザる! 某は頑張るでゴザる! みんな、某に付いて来いでゴザる!」
「「「おー!」」」
こうしてサラは難民たちの裏社会を統一するために動き出すことになった。もっともその統一事業は、荒事よりもむしろ事務仕事によって為されていくのだが……
その後の宴会で飲酒を固辞したサラ以外の全員がしこたま飲んで酔っ払うと、イゾルテはサラに手を引かれて宿まで戻って来た。といっても宿についたのはもう朝方である。部下に叩き起こされたロンギヌスが黒髪のイゾルテを見て顔を顰めていると、早起きのアントニオが通りかかった。
「うわ、陛下、酔ってるんですか?」
「だーれがへいかだ? ……ですの? わたしはとーりすですわぁ」
立ったまま半分寝ている彼女は相手にならないと見て、彼は物問いたげな視線をロンギヌスに向けた。
「サラ王子とどこかに行ってらしたようです。王子に手を引かれて帰ってらっしゃいました」
「サ、サラ王子とっ!?」
アントニオは愕然とした。イゾルテがサラと初めてあった時、彼女は(サラを女だと思っていたので)惚れたと言っていたのだ。そして昨晩はこっそり宿を抜けだして二人で密会し、手を引かれて帰ってきたのだと言う。その間にどんな事があったのか想像がつかないほど、彼はもう子供ではなかった。
「……寝室にお連れして下さい。それと今日の仕事は午後からにしますから、それまで寝かせてさし上げて下さい。僕はスケジュールの調整がありますからこれで失礼します」
彼はペコリと頭を下げるとロンギヌスの返事も待たずに踵を返し、走り出しそうになる足を必死で抑えながら自分の部屋に戻った。そして一時間ほど、彼は部屋から出てこなかった。
その日の午後、まだガンガンする頭を抱えながらイゾルテは執務を始めた。
「今日はどういう予定だっけ?」
彼女はいつものようにアントニオに聞いたが、彼はぼーっとしたまま窓を眺めていた。
「おい、アントニオ。どうした? 何か悩み事でもあるのか?」
「…………」
アントニオは何だか拗ねたような目で彼女を見返した。
「……いいんです、どうせ恋人もいない僕の気持ちは陛下には分からないでしょうからね」
「なんだお前、恋人がいないのか? そうかそうか!」
ミランダと恋人同士になっていないと確認できて、イゾルテは少し上機嫌になった。だがその態度は、アントニオにしてみれば勝ち誇っているようにしか見えなかった。
「いいですよね、陛下にはサラ王子が居て……」
「サラ? まあ、便利な奴だけど……貸して欲しいのか?」
アントニオは最初にサラに会った時(サラを女の子だと勘違いした)イゾルテが彼に「惚れても仕方がない」と言った事を思い出した。彼女は彼がサラに惚れていると思って、自分の恋人を貸してやろうと言っているのだ! なんという性癖! なんという倒錯! 3人一緒ならちょっと心が揺れるけど!
「な、ななな、なんでそうなるんですか!」
「……自分が言ったんだろ? 連絡員にサラが居て羨ましいって」
「そういう意味で言ったんじゃありません! 僕には恋人がいないから……って、え? 連絡員?」
「サラは連絡員だろ?」
アントニオは眉を寄せた。何だか話が噛み合っていないようだった。
「……恋人じゃないんですか?」
「誰の? サラに恋人なんかいたのか?」
イゾルテは首を捻った。彼女の知る限り、彼にはそんな様子は欠片もなかった。
「でも……陛下は朝まで一緒に居たんですよね?」
「ああ、朝まで飲んでたぞ。でもあいつは浮いた話は一つも話さなかったな。アイヤール達は盛り上がってたのにあいつだけ酒を飲まなかったし、ノリの悪いやつだぞ」
彼女の言葉にアントニオは目をパチクリとさせた。
――あれ? 飲んでただけだったの!? しかも二人っきりじゃなかったんだ!
イゾルテとサラが恋人でもなんでもないことが分かり、アントニオはぐっと両手を握りしめた。
「良かった! 別に恋人でもなんでもないんですね!」
「具体的に誰かサラの恋人らしき奴がいたのか?」
「あー、いやいや! 僕の勘違いですよ! はっはっは!」
アントニオの喜びようについにイゾルテは悟った。彼の恋心に……
――ああ、こいつは未だにサラのことを女だと思ってるのか……って、あれ? でもさっきサラ王子って言ってたよな? えっ、マジ? マジでこいつも真の愛に目覚めちゃったの!?
一旦燃え上がった恋の炎は、サラが男だと分かっても消えることはなかったのだ! 彼女のニルファルに対する想いと同じである。全てを悟ったイゾルテは何も言わず、ただ生温かくも優しい瞳で彼を眺めながら、うんうんと頷くばかりだった。
注1 中世イスラム世界においては、名前がムチャクチャ複雑です。この時代の人名録によると、1人の人間が5種類の名前を持っていました。
①ラカブ(尊称) → 例:サッラーフ・アッディーン (信仰の救い:サラディンのラカブ)
②子称:クンヤ(○○の父) → 例:アブー・バクル (バクルの父:初代カリフのクンヤ)
③個人名:イスム(本来の名) → 例:ユースフ (サラディンのイスム)
④父称:ナサブ(○○の息子) → 例:イブン=アイユーブ (アイユーブの息子:サラディンのナサブ)
⑤ニスバ(縁故・出身部族・職名など) → 例:アバージー(アバージュ村出身)、アフガーニー(アフガニスタン出身)
「やあやあ我こそは、清和天皇の後胤、左馬頭源義朝朝臣の子、|九郎大夫判官源義経朝臣なりぃ~」……っていうのと、だいたい同じノリですね。
もちろん全部繋げて名乗ることなんてめったにないでしょうから、この内の一部が通称になって教科書に載ってる訳です。(たぶん)
しかしクンヤだけは意味不明ですね。初代カリフのアブー・バクルなんて「バクルの父」ですよ? でもそのバクルって誰なんでしょうね……
注2 元ネタはイランあたりにあったサッファール朝の開祖ヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファールです。長っ!
ヤアクーブはアイヤールから身を起こしてサッファール朝を興した人物です。
今でもイランでは義賊的な人気があるそうですが、彼自身はスンナ派です。
ヤクザ上がりで国王になったんだから大したものですが、漢の高祖劉邦に比べれば小粒ですね。




