アイヤール その1
昨日は投稿できなくてすいません。
どーも筆が進まないので、基本的に隔日刊くらいに思っていただけると幸いです。
バールとの会談の翌日、イゾルテは宿の一軒を借り上げるとそこを根城にして工事の準備を始めることにした。そしてそこにはアントニオやロンギヌスといったプレセンティナの面々の他に、スエーズ側との調整役としてサラも顔を出していた。
「姫サン、マズハ何ヲスルアルカ?」
……テ・ワもいた。なぜか。
「お前が何でここに居るんだ?」
「面白ソウアル。ソレニ私ノ国ニモ大キナ運河ガアルネ」
「へー、そうなのか」
「時ノ皇帝ガ農民ヲ無理ヤリ集メテ作ラセタネ。オ陰デソノ王朝……滅ビタアル」(注1)
なんとも縁起の悪い話だった。
「オイっ! なんでこれから運河を作ろうとしてるのにそんな例を出した!?」
「一番有名ナ運河ダカラアルヨ?」
しらっと言うテ・ワに、イゾルテは歯噛みした。
――私が難民を扱き使わないか監視に来たわけか。監視されて困るわけじゃないけど、こんな不審人物に疑われていること自体が腹立たしい!
とはいえそれも、イゾルテの日頃の言動のせいである。
「勝手にしろ。その代わり運河建設のノウハウを聞かせてもらおう」
「知ランアルヨ。何デ知ッテルト思タアルカ?」
ツーカ帝国ではそう言った土木技術は専門の職人が知っていればいいことであって、文人が知っているはずもないことなのだ。まあ、古ヘメタル帝国やプレセンティナみたいな市民=兵士=土木技師という国が変なんだけど。(注2)
「……役に立たないやつだな。サラと同じくらいに」
何気に要らない子あつかいされたサラは焦った。
「せ、拙者も頑張るでゴザるぞ!」
「ほう、何をしてくれるんだ? いや、お前に何が出来るんだ?」
「う、うぐっ、ご、護衛とか……」
「近衛も居るし、レオも居るぞ?」
「うううぅ……」
サラは悔しかった。自分が不甲斐なかった。一世一代の大仕事を前にして、自分だけが――テ・ワもだけど――出来ることが無いのである。こんな情けないことがあるだろうか。サラは心持ち顔を伏せながらもイゾルテから目を離さず、うるうると瞳を潤ませた。
「…………!」
――か、かわいい! でも騙されるな! これは男だ! 男なんだぁ~!
動揺したイゾルテは、とりあえずこれ以上可愛い顔をさせないために適当にとりなした。
「ま、まあ、おいおい出番もあるだろう。それまではゆっくりしていろ。私はお前を信じているぞ」
「い、イゾルテ殿ぉ~!」
サラがますますうるうるさせながら笑顔を見せると、イゾルテは無理やり目線を逸らせた。
――サラを見ているとおかしくなりそうだ!
このままでは美少女を見かけても「ひょっとして男じゃないのか……?」と条件反射的に疑うようになってしまいそうだった。
「ゴホンっ! とにかく時間がない。自然休戦も期待できないから冬までに完成させたい」
イゾルテが改まって一堂を見回すと、テ・ワ以外の皆が不思議そうな顔をしていた。そして色々知っているはずのアントニオに視線が集まったが、彼も何も知らされていなかった。
「半年ですか? なんでそんなに急ぐんです? そもそも自然休戦って何の話ですか?」
――ああ、スエーズ政府の意向を確認するまで公表を避けてたんだったな。本当はドルクやハサールとも情報交換をしてからにしたかったんだが、そろそろ知らせておくか。匈奴が攻めて来なくても、どうせもう止められないしな。
「実は……匈奴という騎馬民族がヒンドゥラ王国に攻め込んでいるらしいのだ」
「キョード?」
「ああ。50万の属国軍を従えてヒンドゥラ王国軍主力を打ち破ったそうだ。恐らく今ごろはヒンドゥラ王国を蹂躙している最中だろう」
「はあ」
皆の反応は鈍かった。確かにこれだけなら遠国の興亡の話である。そもそも今までヒンドゥラ王国を支配していた王朝がいつごろどうやって成立したのかということだって誰一人知らなかった。
「問題はその匈奴が……ビルジと組んだということだ」
「「「「…………!」」」」
ビルジの名が発せられた途端、一瞬にして座の空気が変わった。プレセンティナ人にとっては先の皇太子コルネリオを暗殺した不倶戴天の敵である。……まあ正直に言えば、コルネリオ自身は養子になったばかりでそれほど国民に慕われていた訳ではなかったのだが――というか、上手くやりやがってコンチクショウというやっかみもあったのだが――イゾルテが自分の即位まで蹴って擁立した経緯もあり、また若くして凶刃に倒れたことで様々な欠点も有耶無耶になり、彼は謂わば一種の虚像と化していた。死した英雄というやつである。そして何より、イゾルテの声に滲み出た静かな怒りが皆に伝染し、ビルジへの反感を掻き立てていた。事情を知らないサラまでもが、なぜかその空気に飲み込まれていた。だから彼らはビルジへの憎しみの余り……
「ソウイエバビルジッテ誰アッタカ?」
……テ・ワだけは例外だった。本当に空気を読まない男である。
「だからビルジはエフメトの兄で内乱の当事者だ。あと一応ドルク皇帝を名乗ってる」
「アー、聞イタ覚エガ有ルワケネ。ヒンドゥラノ王サンを裏切ッタ男ネ」
呑気なテ・ワの言葉に皆は気が抜けたようだったが、逆にイゾルテははっと息を呑んだ。
――そうか、テ・ワはテ・ワでビルジのせいで匈奴を倒すことが出来ず、祖国の滅亡を止めることが出来なかったんだ。忘れていようはずもない! だが殊更関心が無いように振る舞うことで、我々が私怨に囚われそうになるのを遠回しに止めたのか……
本当に底知れない男である。そもそも人の善悪を見抜く男が空気を読めないはずもない。彼は敢えて読まなかっただけなのだ。
――ということは、こいつの放った数々のボケも天然ではなく計算だというのか? むむむ、本当に底知れない男だ……
イゾルテは心底テ・ワに感心した。
「ゴホンっ! ともかく、匈奴がいずれドルク征服に乗り出すのは明らかだ。あくまでビルジの援軍としてか、あるいはビルジを属将の一人としてかは分からない。だが敵の主力はあくまで匈奴人の騎兵部隊であり、それさえ壊滅させれば全軍が崩壊するはずだ」
負けた軍勢がどういう扱いになるのかということは、イゾルテはまだ伏せておくことにした。今公表すれば難民がパニックを起こしてナイールへとさらに逃亡する恐れがあったのだ。運河が形になって、攻めてきても大丈夫だと思えるようになってからでも遅くはないだろう。
だがこの説明では不満だったようで、その場に居た唯一のプレセンティナ軍人であるロンギヌスがおずおずと手を挙げた。
「あのう、そんなことを我々に言われても困るんですが……」
彼だってもともとは治安を維持する衛士に過ぎないのだ。戦略だのなんだのは分かるはずも無かった。だからイゾルテは噛み砕いて説明した。
「まあつまりだな、今回作る運河は敵を包囲するための罠だってことだ」
「罠ですか?」
「ああ、東西2本の運河で敵を挟み込んで包囲するんだ。だから東の運河は水を入れずに空堀にしておく。そして敵が渡り終えた後で海とつないで海軍を呼び入れるんだ」
「なるほど……」
その大雑把な説明でも、これから作る運河が重要な意味を持つことは皆に良く分かった。
「だから敵が押し寄せる前に確実に運河を完成させる必要がある。だがまだ測量すらしていないのが現状だ。測量をするのにどれくらいかかる?」
イゾルテの質問に答えるべき測量技師はまだ航路の途中である。
「はい、アントニオ!」
「えっ!? えーと、1ヶ月?」
「ばっかもーん! 150ミルムが2本だぞ? そんな簡単に済むか!」
「じゃ、じゃあ……2ヶ月?」
「はあ、本当に適当な奴だなお前は。いいか、よく聞け! 測量は……すっとばす」
「は?」
「測量なんてみみっちいことはやってられん。ちゃっちゃと掘り進むのだ」
随分な計画である。だが、もちろんイゾルテには考えがあった。
「ただし、細い用水路をだ」
「用水路?」
「そうだ。せいぜい幅5mくらいだな。これにはすぐに水を入れ、海抜を明らかにする」
アントニオはぽんっと手を打った。
「なるほど、その水面が海抜0mだから、それに合わせればいいんですね!」
「そういうことだ。そうやって地形を見ながら適当に海抜が0mに近いルートを探していくのだ」
なんとも行き当たりばったりな話だったが、確かにいちいち海抜を確かめていけば大きな間違いは起こらないだろう。
「ただし海から水を入れる都合上、当然南北の海岸から始めなければならない。だから測量技師が到着し次第、彼らは中央から南北へと測量を開始する」
「では、海抜が明らかになってルートが確定した部分から順に濠も掘り始めるわけですね」
「そうだ。だからロンギヌス、お前たちにはスエーズ軍と協力して早速用水路を掘り始めて欲しい」
「はっ! しかし、海抜を明らかにするだけなら5mも要らないのではないですか?」
「まあな。だが用水路は文字通り水路としても活用する。あのガタガタ道で馬車を走らせるより小舟のほうが便利だろう?」
「なるほど」
イゾルテはガタガタ道が余程懲りたらしい。移動指揮車のせいで普通の道で普通の馬車に乗れない身体にされてしまったようだ。
「いずれにせよまずは西の運河だ。東の運河は着工する前にあの男の許可を得なくてはいけないからな」
あの男とはもちろん、愛しいニルファルを寝取った憎きエフメトである。……いいがかりだけど。
「しばらくしたら私は王と共にサナポリに行かねばならん」
「父上もでゴザるか?」
サラが小首をかしげると、イゾルテはげんなりとした。ただし彼が可愛いからではない。
「王がいるからサナポリまで行かねばならんのだ。私だけならバブルンに押しかけてるよ」
ムスリカ帝国(自称)とドルク帝国は不倶戴天の敵なのだ。まあ、ムスリカ帝国の側が一方的に敵愾心を燃やしていて、ドルクの方はスエーズの先のナイールが欲しいだけなんだけど。そんな訳で両者を取り持つ立場のイゾルテとしては、万が一の事態が発生しないようにプレセンティナの保護下で面会させなければいけないのだ。そしてそれは先日送った書簡でエフメトにも知らされており、今はその返答を待っているところだった。
――だがその前に難民たちに伝手を持っておきたいところだ。バールのおっさんは悪い奴じゃないけど、すごーく不器用そうだからなぁ
そしてなにより、彼女には難民と直に会わなければならない理由があった。……ナンパである。
その夜イゾルテは例の黒髪のかつらをかぶると、密かに宿の裏口から抜けだした。お忍びで難民たちの様子を見に行くためである。
「くっくっく、やはりにわか近衛だけあって外にしか注意が向かっていないな。簡単に抜け出せたぞ」
衛士だった彼らは護衛対象が抜け出すことなど想定もしていないのだ。……まあ、近衛兵だってイゾルテの担当以外は想定してないんだけど。もし彼らが囚人を監視してるつもりだったらイゾルテとて簡単には抜け出せなかっただろう。彼らが警戒しだしたら近衛よりもよほど手強い敵になることに、彼女はまだ気付いていなかった。そして彼女は今現在、自分の背後にいる人影にも気付いていなかった。
「待つでゴザる!」
突然上がった制止の声にイゾルテはビクリと動きを止めた。
「何者でゴザる? 答えよ!」
誰何している方が何者かバレバレなのは妙なものである。ランタンを片手に持ちながらもしゃらんと片手で刀を抜き放ったサラは、これでもかと殺気を迸らせていた。イゾルテは慌てて両手を上げて武器を持っていないことをアピールした。
「怪しい者ではございません、侍女のトリスと申します」
「侍女でゴザると? イゾルテ殿は侍女など連れてきてはおらんでゴザる!」
サラはそう言いながらも油断なく不審な女に近づき、その顔にランタンの灯りを差し当てた。そこに現れたのは、当然ながら彼のよく知る人物だった。
「そ、そなたは……港の少女!」
「…………はあ?」
思わぬ言葉にイゾルテは眉根を寄せた。「イゾルテ殿! 護衛も連れずにどこに行くつもりでゴザった!」と説教されるかと思っていたのに、意外な展開である。
「お、覚えておられぬか? そこもととはコレポリスの港で……いや、忘れてくだされ!」
サラが黒髪の少女と逢ったのは、船酔いでゲロゲロしてた時だったのだ。最悪の出会いである。
――あー、変装してたから別人だと思ってたのか……
なんでかつらだけでここまで別人だと誤解できるのだろうかとイゾルテは疑問に思ったが、侍女トリスの時は女言葉でもありスカートも穿いていたので、イゾルテの時とは随分と印象が違うのだ。軍服ではお忍びにならないので、今もスカート姿である。
「あ、で、でも、あの時の手巾は肌身離さず持ち歩いておりもうした。お返しするでゴザる」
慌ててごそごそと懐を探し始めるサラを見て、今度はイゾルテが慌てた。
「け、結構ですわ。サ……あなたがお持ちください」
ゲロを拭いたハンカチなんて返されたって迷惑なだけである。
「そ、そうでゴザるか? ははは、では遠慮なく」
サラは嬉しそうに女物ハンカチを懐に戻した。
――うむ、やっぱり見た目通り少女趣味なんだな。それともレース付きで高そうだから? ……貧乏って悲しいなぁ
イゾルテは1人納得した。彼女はケチだけど、綺麗好きでもあるのだ。
「ところでトリス殿はここで何をしておられるのでゴザるか?」
「あー、えーと、陛下に難民たちの生活を視察してこいと言われたんですの」
イゾルテの適当な答えにサラは大仰に驚いた。
「なんと! か弱く美しい女性に、夜の街を1人歩きせよと? 全くイゾルテ殿は何を考えておられるのでゴザるか! 非常識にも程があるでゴザる! 本当に非常識でゴザる! 本当に本当に非常識でゴザる!」
「…………」
恐らくサラはトリスの身を案じて義憤に燃えているのであろうが、イゾルテとしてはジト目で見つめ返すことしか出来なかった。
「そ、それでは仕方がござらん。某がトリス殿の護衛を……」
モジモジするサラをイゾルテはあっさりと拒絶した。
「いえ、護衛ならいますわ。さあレオさん、行きましょう」
「に゛ゃあ」
「うわああ」
突然背後で上がった鳴き声に、今度はサラが飛び退った。
――い、いつの間にっ!?
もちろん彼がデレデレモジモジしていた間にである。そして彼の見ている前で、彼女は獅子を連れて去って行こうとしていた。あの時と同じように……
――今声を掛けねば、もう二度と会えぬやも知れぬでゴザる!
「待たれよ!」
サラの声に差し迫ったものを感じ、イゾルテとレオは足を止めた。
「獅子を連れ歩いていては難民たちを怯えさせるでゴザる。某が代わりに護衛するでゴザる」
イゾルテはその申し出を聞いて「サラが来るの? 面倒だなぁ」と思ったが、確かに彼の言い分にも一理あった。レオの顔を見てみたが、彼はいつもの様に大きな欠伸をしただけだった。ものすごく面倒くさそうである。
「分かりました。お願い致します。でも私の前でイゾルテ様のことを悪く言わないで下さいネ!」
「も、申し訳ゴザらぬ! トリス殿の主を悪く言うつもりは無かったでゴザる」
大嘘である。サラの嘘はイゾルテには通用しないのだ。
「ではさっさと行きますわよ、フンッ」
「待つでゴザる。まずは庶民の服に改めるでゴザるよ!」
サラがイゾルテを連れて行ったのは、確かに庶民っぽい家だった。
――店じゃないのか? 強奪でもするのか?
イゾルテが戸惑っていると、サラはトントンとドアを叩いた。
「お久しぶりでゴザる」
サラの呑気な挨拶に出てきたのは膝丈ズボンを履いた柄の悪そうな青年だった。
「オウオウオウ、なんでぇなんでぇなんでぇ! ここを何処だと思っていやがる!」
「3丁目アイヤールの事務所でゴザろう?」(注3)
「けっ、女の身でいい度キョッ!」
彼は突然奇声を上げるとズルズルと崩れ落ちて膝をついた。サラが無言のまま鳩尾に拳を入れていたのだ。
「最近の若いのは礼儀がなってないでゴザるな。23代目総長が遊びに来たと伝えてこいでゴザる」
どう見てもサラの方が若かったが、意外な展開に目を丸くしていてイゾルテはツッコミそびれてしまっていた。
「に、にじゅうさん……? ってことは、シ、シナイの稲妻っ!?(注4) しょ、少々お待ちくんなせい」
青年は慌てて――だけどヨロヨロと――奥に戻って行った。残された2人は微妙に気まずい空気の中にあった。
「…………」
「…………」
「……23代目(ボソっ)」
「む、昔のことでゴザるっ!」
「……いなづま(ボソっ)」
「そ、某が付けた訳でわっ!」
「……で、ならずものってどういうことですの?」
「アイヤールとは任侠道に生きるものにゴザる。つまり若者らしさと男らしさを体現する者達でゴザるな」(注5)
「男らしさって……」
イゾルテが絶句したのは、そんな男臭い家に入りたくないなぁというのではなく、「だったら何でサラが総長なんか出来てたんだよ!」というツッコミを飲み込んだためであった。トリスの口調では激しいツッコミは許されないのである。
「しかし、王子ともあろうお方がなぜそのようなことを?」
「某も若かったのでゴザる。修行に嫌気がさして逃げ出したことがあったのでゴザるよ」
「修行?」
イゾルテは首をひねった。サラは旅の間もしょっちゅう鍛錬していたではないか、と。
「目隠しをされ、ドルク領内にある聖地シナイの山中に置き去りにされたのでござる」
「…………」
「猪を狩って生で喰らい、獅子と獲物を争いました。麓に降りてからはドルク兵の目を逃れながらようやくこのスエーズに帰って参ったのでゴザるが、そのまま王宮に戻る気になりませなんだ……」
「……まあ、分からないでもございませんわ」
とはいえ、そんな壮絶な修行をしながらも顔に傷ひとつないのはどういうことなのだろうか? そっちの方の理由はさっぱり分からなかった。
深刻(?)な身の上話にやっぱり気まずい雰囲気が漂っていたが、それは家の中から現れた男よってあっけなく壊された。
「兄貴ぃー!」
突然飛び出してきた巨漢の突撃をサラはさっと避けようとしたが、「む、トリス殿に当っては大変でござる!」と躊躇するうちに捕まってしまった。
「サラの兄貴ぃ、久しぶりでござんス! 相変わらずいい匂いデッ!」
サラを抱きしめながらくんかくんかと鼻を鳴らす巨漢の股間にゴスッと膝が入ると、巨漢はサラを離して膝をついた。
「この衝撃、懐かしいでござんス……」
「相変わらず落ち着きのない男でゴザるな、ブルジュミー。組長がそれでは思いやられるでゴザる。
トリス殿、無事でござるか?」
サラが振り向いてみると、そこには誰も居なかった。
「あれ? トリス殿?」
サラが周りを見回すと、隣の家の陰からひょっこりとイゾルテが顔を出した。高度なサバイバル術を身につけたサラにも気づかれないとは、なかなかの逃げ足である。
「ひょっとして……わざと抱きしめられないといけないのですか? そういう挨拶?」
「そんなことはないでゴザるよ。それに任侠道に生きる我々はか弱い女性に悪さをしないでゴザる」
「……まあ、サラさんがそう仰るのなら信じることにしますわ」
その言葉にサラはクラリと体を揺らすと顔を真っ赤にした。
――そ、某のことをそんなに信頼して頂けているのでゴザるか!? やったーでゴザる!
だがイゾルテの方としては、サラがこの男たちと一緒にいて無事だったんだから、自分も大丈夫だろうと判断しただけだった。
中にいた数人の男たちが慌てて部屋を片付けると、サラとイゾルテは中に通された。中は確かに男臭かったが、酒臭くも磯臭くもなく、総じて船よりはマシだった。
「ところで兄貴、そちらのお方は兄貴の兄弟分でござんスか? やっぱりどこかの領主の若さまなんでござんスかい?」
「え? えーと……」
サラが言葉に迷うのを見て、イゾルテは機先を制した。
「私はプレセンティナの商人の娘でトリスと申します。父がイゾルテ陛下の付き添いでこちらにきましたついでに、私も付いて来ましたの。今はサラ様に街を案内して頂いておりましたわ」
イゾルテの答えに「サラ様」と呼ばれたサラは相好を崩し、他の男達は驚愕していた。
――あれ? 何で驚いてんの?
「お、おおお、おお、おんなぁ~~~っ!?」
「な、なんで顔を隠してないんでござんスかっ?」
「や、やばい! 若い女の顔を見ちゃったでござんスよ!」
「しかもサラの兄貴くらいに可愛いでござんス!」
「ああ、うちのかーちゃんやねーちゃんとはエライ違いでござんス!」
顔を見たくらいでえらい騒ぎだった。
「あの、なんでそんなに驚かれるんですか? ムスリカ教徒以外だっているんでしょう? もう日は沈んでるんですから、日焼けの心配はありませんよ?」
「「「「日焼け?」」」」
首を傾げる男たちに、イゾルテも首を傾げた。
「だってサラ様が、女性たちが顔を隠しているのは私と同じで日焼けから肌を守るためだって言ってらしたから……」
「いやそれは不埒な男から身を守るという意味であって、日焼けから肌を守るという意味では……ん? それはトリス殿ではなくてイゾルテ殿に言ったはずでは……?」
眉根を寄せるサラに、イゾルテは慌てて言い繕った。
「ええ! イゾルテ陛下から又聞きしたのですわ! だからトリスも昼間は日焼けに気をつけなさいって注意されましたのよ、オホホホホ」
「なるほど、そうでござったか。確かにトリス殿のような、う、美しい女性は、肌にも気を使う必要がゴザる」
何気にトリスを美しいと言ってサラは真っ赤になったが、その彼があんまり気を使ってないのにツルツルスベスベの肌をしているのだから嫌味にしか聞こえなかった。
「それでサラの兄貴、そのお嬢さんにここをお見せするために連れて来られたんでござんスか?」
「いや、預けておいたズボンを返して貰おうと思ったのでゴザる」
「そ、そんな! あれがなくてはサラの兄貴の香りが消えてしまうでござんス! 残しておいて欲しいでござんス!」
「ううう、未だにそんなに某を慕ってくれているとは、嬉しい限りにゴザる!」
なんか微妙に噛み合っていない兄弟分同士の会話に、イゾルテは内心でげんなりした。激しくどうでもいいけど。
「では新品のズボンはございませんの? いえ、ズボンだけでなく上下2揃え頂けませんか? もちろんお代はお支払いします」
「それでしたら今すぐ! お代は結構でござんス! ……その代わり、使い終わった後に返して頂けるでござんスか?」
「ん? よく分からんが良いでゴザるよ?」
「……私はお代をお支払いします。商人の娘として、きっちりスジは通させていただきますわ!」
ケチな彼女も、自分が着た服をくんかくんかされるくらいなら金を払った方がマシだった。
やがてどこからか調達してきた毛織物のシャツと膝丈ズボンを二人が身につけると男たちは一斉に喜んだ。
「生足! 生足でござんス!」
「再び生足が見られる日が来ようとは……感無量でござんス!」
「だが注意しろでござんス。あの生足に見とれるあまり、誰も膝蹴りを避けられないでござんスよ!」
それはもちろん、サラの生足のことである。
「さあ、これでどこからどう見ても一般人でゴザる。全然目立たないでゴザるよ」
「……そうですか?」
アイヤール達がハッスルしている前でそんな事を言われても全く説得力が無かった。そしてイゾルテの方も、ズボンの下にタイツを履いていたし、毛織物のシャツの下には肌着と黒いチョッキ{防刃ベスト}も着込んでいたので、なんだか一人だけ珍妙な出で立ちであった。
「だ、大丈夫でゴザる! ……たぶん」
まあ確かに、サラの生足が注目を集めてくれればその分イゾルテは目立たないかも知れなかった。素直に喜ぶことも出来なかったけど。
2人は男たちと別れると西の城門へと向かった。
注1 隋の第二代皇帝の煬帝が農民を駆り集めて無理やり作り上げたのが黄河と長江をつなぐ京杭大運河です。
605~610年のたった6年で総延長2500kmを開削したそうですから大したものです。もっとも既存の小さな運河も連結したので全部が全部この時作った訳ではないのですが、それにしたって凄いスピードです。
でもこの時の強制動員が煬帝に対する不満にもつながり、618年には殺されて隋も滅亡します。因果応報です。
そしてこれを乗っ取った唐が運河を活用し、大いに栄える訳です。あれ? 因果応報……じゃないよなぁ。やらずボッタクリ?
注2 民主制時代の古代ローマは抽選による徴兵制でした。そしてローマ軍団は高度な土木技師軍団でした。一晩寝るごとに野戦築城する変態ぶりで、宿営地に駐屯してる時は道路や橋なんかを作ったりしました。また帝政期に入って志願制になった後も土木工事は十八番で、定年になって軍団を辞めたオヤジたちは集団で都市を作って住み着いたりしました。植民都市と呼ばれるローマ起源の都市の多くは、こういった元軍団兵が作った物が多いそうです。
注3 アイヤールとはもともとは「ならず者」という意味の単語ですが、イスラム社会における任侠集団みたいなものを表します。
つまりやくざです。ただし現代的なやつじゃなくて、次郎長的な感じの。
アイヤールのトレードマークはスィルワールと呼ばれる膝丈ズボンだったそうで、その口調も独特だったそうです。
ちなみに自称はフィトヤーンだったそうですが、面倒なのでアイヤールに統一しました。
注4 サラディンの同僚(同じ主君の部下)で後に部下になったイマード・アッディーンが書いたサラディンの伝記が『シリアの稲妻』というタイトルです。
なんでシリアなのかは、サラディンが幼少の頃住んでたからか、イマードが仕えた晩年のサラディンはシリア平定とジハード(=十字軍の追い出し)にかかりっきりだったからでしょう。
でも、「稲妻」って(笑)
中二病って、中東二つ名病の略かもしれません
注5 若者らしさは正義を追求し、嘘を言わず、進んで人助けをする徳目で、男らしさは勇敢で物怖じせず、常に献身的に振る舞う徳目です。
まあ内容は的には「義」と「勇」って感じですが、立ち位置的には「仁」と「義」みたいなもんです。




