スエーズ その3
すいません、昨日は推敲してる間に寝落ちしてしまいました
スエーズの王バール・アッディーンとイゾルテの会談は緊張の中で始まった。
「初めてお目にかかる。私がプレセンティナ皇帝イゾルテ・ペトルス・カエサル・パレオロゴスだ」
小柄ながら堂々と名乗るイゾルテに、バールは気圧された。
「あー、某はバール・アッディーン。ムスリカ帝国の王でござる。ござるのだが……」
この国の名目上の主権者は指導者なので、格下のバールは下手に出た。機嫌を損ねられて支援を断られても困るというのもある。だが彼にはどうしても黙っていられないことがあった。
「ひとつ聞いて良いでござるか?」
「何なりと」
「その覆面は宗教上の戒律か何かでござるか?」
「おっと」
イゾルテは慌てて面覆い{顔面サンバイザー}を外した。一日中着けているとついつい忘れてしまうことがあるのだ。特に今日は、一緒にいたサラとテ・ワはイゾルテが「身を守るために」着けていると思っていたし、ロンギヌスたちにわか近衛兵たちは例のかつらみたいな変装グッズの1つなんだと思っていたのだ。唯一注意してくれそうなアントニオも、身なりが汚ないという理由で宿屋で風呂に入って来いと追いだされてしまって同行していなかった。本当のところは、ナイールから「無償の」援助を引き出したことをうっかり喋られては困るから連れて来なかったのだけど。
「失礼、日焼けしないためのものです。肌が弱いものでして」
軟弱な答えにバールは眉を顰めた。確かに覆面を外したイゾルテはサラに匹敵する美少年だったが、美容に気を使うなど軟弱にもほどがあった。サラの前だからかもしれないが、大変に不愉快な男である。しかも他国の首都までやって来たというのに護衛は少なく、腰には武器ではなく実用性皆無な錫杖{ライトサーベルのおもちゃ}を下げているだけだ。おそらくサラの前で格好をつけるために吊っているのだろう。やっぱり不愉快な男である。
――だがこいつの気を害せば民が飢えることになる。なんとしても機嫌を取らねば……
「ソーデゴザルカ。大変デゴザルナー」
バールは愛想笑いを浮かべた……というか、浮かべようと努力した。だが無表情に振る舞うことには慣れていても、ここ20年近く愛想笑いなどしてこなかったバールの表情は、そのストレスに満ちた内心が顕になってしまっていた。要するに口がピクピクと引き攣っていたのだ。
――なんかすごく苛立ってるなぁ。難民を抑えるのに苦労してるんだろうなぁ
事前に難民の受け入れ準備をしていないからこうなるんだとイゾルテは言いたくなったが、バールとしてはドルクの内乱がこんなに酷いことになるとは想像も出来なかったのだ。どっちかというとイゾルテの方こそ事前に予測してスエーズに知らせておくべきだったのだろう。だから彼らは彼女のせいで苦労しているのだとも言えた。
「さっそくだが、テ・ワの件について話しても大丈夫か?」
イゾルテの言葉にバールは目を細めた。凶奴のことを話すのに人払いしなくて良いのかと気を回してきたのである。
――生っ白いだけあって女のように気の回る男だな。だがなるほど、テ・ワの話を信じたからこそ即座に本人が乗り込んできたのか。人を見る目と思い切りの良さは人並み以上のようだな。
「こちらへ。二人だけで話すでござる」
バールが席を立って別室へ案内しようとすると、テ・ワも手を上げた。
「ワタシモ居ルアルヨ?」
当然彼は匈奴の話を知っているのだから隠す必要は無かった。
「こちらへ。三人だけで話すでござる」
サラは自分が除け者にされているのにテ・ワだけが付いて行くのを密かに不満に思ったが、バールはイゾルテと二人きりにならずに済んで密かに安堵していた。テ・ワがいれば結婚話を持ち出しにくいに違いない。
部屋を変えると、イゾルテは早速本題を切り出した。
「匈奴をどう考えている? 本当のことだと思うか? 無茶苦茶怪しいだろう」
「……姫サン、私ココニイルアルヨ?」
「確かにテ・ワ殿は怪しいが、その知識と人格は折り紙つきでござる。それにテ・ワ殿がすこぶる怪しかろうと、我々に嘘をつく理由もござらん。だから某は、どれほどテ・ワ殿が怪しかろうと匈奴のことは本当だと思うでござる」
「上サン……」
テ・ワが泣きそうな瞳でバールを見つめた。怪しいと連呼されて悲しいのか、それでも信じて貰えて感動しているのかは窺い知れなかったが。
「ではなぜドルクを攻めようなどと考えるんだ? 今は匈奴に備えるべきだろう」
「それ故にござる。テ・ワ殿の話ではまだヒンドゥラの主力軍が敗れただけでござる。もはやヒンドゥラに勝ち目はないでござろうが、匈奴がその全土を制するにはまだ時間がかかるでござろう」
「なるほど」
今度はイゾルテが目を細めた。ドルクを攻めると言うからテ・ワの話を無視したのかと思っていたが、それなりに考えた上で時間的余裕があると判断していたのだ。さすがに長大な防衛戦を守ってきただけあって、ムルス騎士団のように単なる脳筋とは訳が違うようだった。
「大軍を率いた王が殺された以上、ヒンドゥラのまとまりは失われたことだろう。個々の地方、貴族達が匈奴と戦っていれば、返って制圧に時間がかかるかもしれないな」
王が生きていればさっさと国ごとまとまって降伏していた可能性もあったが、強力な王を失えば強硬派と恭順派が入り乱れてしまうだろう。匈奴は個々に対応せざるを得ないはずだ。
「そうでござろう? だからその間にドルクを平らげ、匈奴に備えるのが我らの考えでござる」
「…………」
イゾルテは沈黙した。
――結局脳筋かよっ!
なんで結論がそうなるのだろうか? 一戦して一勝すればあっさりエフメトが降伏すると思っているのだろうか? しかもその後にはビルジも倒さなくてはならないのだ。エフメトが逆境に強いかどうかは分からないが、ビルジの諦めの悪さは既に実証済みである。そしてそもそもの話、どうやってエフメトを倒そうというのだろうか?
「無理だ無理! エフメトはハサール騎兵も含めて少なくとも60万の兵を掌握してるんだぞ? 防衛戦ならいざしらず、ドルクに攻め込んで勝とうなんて身の程知らずにも程があるわ!」
「しかし、他にどのような手がござる? 今我が国にいる難民たちが長く糧に困らぬようにするためには、国土を回復するしか無いでござる!」
「……なるほど」
確かに1年2年なら援助だけでなんとか生き延びることも出来るかもしれないが、当然ながら未来永劫という訳にはいかない。もし長城で匈奴を防ぐことに成功しても、国境がそこに確定してしまっては難民を救うことは出来ないのだ。
「言いたいことは分かった。だがやはりドルクを征服するなど無駄なことだ」
毅然として答えるイゾルテに、バールは反駁した。
「ではどうしろと言うのでござる? プレセンティナが難民たちを養ってくれるのでござるか!?」
「それは無理だ。とりあえず今年は500万人分の食料は確保したが、来年はどうなることか分からん」
「ご……ごひゃくまん?」
刻一刻と増えている難民の正確な数はバールも把握していなかったが、今のところ150~200万くらいのはずだった。それを遥かに越える数字にバールは思わず腰を浮かせかけた。
「た、確かにその支援は有難い。有難いでござるが、やっぱり今年の不安が消えただけでござる。匈奴が来襲する前に国土を回復し、農地に難民を戻す必要があるでござる」
とりあえずの不安が解消され、バールは思わず笑顔を浮かべそうになるのを必死で堪えた。無表情には慣れているので、頬はピクピクしないですんだ。
いちいち尤もな彼の主張に、イゾルテはどう説得しようかと迷った。彼の言うことは一つの真理ではあったが、彼女にはそれが非常に分の悪い賭けにしか思えなかった。
――ドルクの地で騎馬民族である匈奴と戦えば、広大な領域を戦場とした機動戦となるだろう。ドルク全土が更に荒廃することは必定だ。何度戦っても決着などつかない。少なくとも、こちらの勝ちという決着では……
匈奴に対して決定的な勝利を得るためには、敵の逃げ道を塞いで一網打尽にする必要があるのだ。そう、ペレコーポ地峡での戦いのように。
――決戦の地はこのスエーズでなければならない。ここでなら確実に勝てる方法があるのだ!
イゾルテは一つ深呼吸をすると、毅然としてバールを見つめた。
「難民を帰すことはできないが、国土は回復させてやる」
「……どういう意味でござる?」
「アルビア半島を含むバブルン以南の領域をエフメトに譲らせる」
思いもよらない言葉に、バールはポカンと口を開けた。臣下には一度も見せたことのない間抜け面であった。
「ま、待つでござる! よ、よもやそのようなこと、ドルクの若造が承知するはずが……」
動揺するバールにテ・ワが呆れたように言葉を掛けた。
「上サン、騙サレチャ駄目アル。姫サンハドルクニ『匈奴ガ片付イタ後ニ始末スレバイイ』ト持チカケルツモリネ」
「おいおい、それは酷い誤解だぞ? 私はただ、エフメトならそう考えると言っただけだ。わざわざ私が言わなくても、あいつなら理解するだろうからな」
「…………」
フォローになっていなかった。だが確かに、エフメトがそう考えるなら国土の割譲に応じる可能性は高いだろう。もっともバールとしては、エフメト軍を破ってから匈奴と戦うか、匈奴を撃退してからエフメトと雌雄を決するかというだけの違いでしかない。だが匈奴がドルク北部に向かう可能性も無い訳ではないし、バールがあっさり敗れてしまってはエフメトも困るのだから、何がしかの協力は見込めるはずだ。現状でいきなりエフメトの大軍と戦うよりは、先に国土を回復する方が有利だろう。そしてなにより……
「そ、それはつまり……静かなる都バラクダットが、そして聖地マラッカやメッシーナが無血で回復できるというのか……?」(注1)
「……まあ、地理的にはそうなるな」
バールは喜びの余り今度こそ立ち上がった。
「有難い! 早速その線で交渉を開始しよう!」
かつての都バラクダット――今のバブルンや、聖地の回復はスエーズ王国の悲願だったのだ。だがそれに反してイゾルテは顔を曇らせた。
「……だが、その地はすぐに放棄することになる」
「なに?」
「ハサールと戦ったことがあるか? 遊牧民族の機動力は馬鹿にならんぞ。ドルクで戦えば必ず負ける。一度や二度は勝てるかもしれんが、最終的に勝つのは彼らだ」
「油断ならぬ相手だということは言われるまでもないでござる。某はウルド人でござるぞ」
「ウルド人?」
「ドルクに住む山岳遊牧民族でござる」
イゾルテは首を傾げた。
――文字通り山間部で遊牧してるのかな? 草原の遊牧民とは特性がだいぶ違う気がするけど……
何にせよ匈奴を蛮族だと軽んじている訳ではなさそうだった。だって山奥で暮らしてる方がより蛮族っぽいのだから。
「ならば考えても見ろ。彼らを防ごうとすれば機動戦に巻き込まれるぞ? ドルク全土が戦場になる。バブルンも、メッシーナも、マラッカもだ」
「…………」
バールは押し黙った。確かに機動戦に巻き込まれないためには、防壁を築いて一兵足りとも侵入させないことが必要だ。だがスエーズ地峡でも150ミルムもあるというのに、ドルク全土を守ろうとしたらペルージャ湾とカスピ海に挟まれた最も狭い部分まで防衛線を下げたとしても800ミルムは下らない。湿原と大河を除外しても600ミルム以上の防壁を築く必要があった。今からではとても間に合わないだろう。
「ならばなぜ、我らに国土を割譲するというのでござる? すぐに放棄するというのであれば、いったい何の意味があるのでござる!?」
都や聖地を弄ぶかのようなイゾルテの策に怒り、バール思わず怒鳴っていた。戦場に生きる男の一喝は安普請のドアを越えてサラやロンギヌスたちの耳をも打った。
イゾルテはこういう反応も予想していた。どうやらバールはそれなりに計算のできる理性的な男のようだったが、こと宗教に関わるとこれである。だがイゾルテは妥協できなかった。彼女の計画の根幹はここにあるのだ。彼女はすっと目を細めるとその顔から一切の表情を消した。
「敵をこのスエーズ地峡に引きつけるためだ。この南北150ミルムの地峡が敵に満たされた時、我々は勝利する。一網打尽だ」
自信に満ちているというより淡々と事実を述べるかのようなイゾルテの口調に、バールは得も知れぬ違和感を感じた。言っている意味も良く分からない。
「確かにこの地には長城がござるが、守ることしか出来んでござるぞ? 何を以って一網打尽と申される?」
イゾルテは相変わらず淡々と答えた。
「水だ。濠を穿つ。南北150ミルムの長大な濠をな」
「濠? 確かに濠がござれば防衛線は鉄壁になるでござるが……守っているだけでは一網打尽にはできんでござるぞ?」
そりゃあそうである。濠は防御の足しにはなっても、逆にこちらから仕掛けるには邪魔にしかならないのだから。
「いや、一網打尽だ。2本の濠で囲ってしまえばな」
「?」
バールはますます分からなくなった。
「しかし、2本の濠で挟み込むには、敵が片方を越えなくてはならんでござるぞ? 濠が鉄壁なら敵はそれを越えぬでござろう。されど簡単に渡れるのなら、撤退も容易でござる。しかも防衛線が2本になれば、必要な兵力も2倍でござるぞ? 東の方は城壁も無いでござるから、きっと被害も大きいでござろう。また敵の予備兵力が東から攻撃をかけて来れば、挟撃されてしまうでござる。自殺行為でござるぞ?」
当然の心配だった。長城に加えて濠を穿つというのはバールにも納得できなくもなかったが、濠で挟み込むというのは机上の空論としか思えない。だがイゾルテの表情は揺るがなかった。
「東の濠は空壕だ。敵が越えた後に水を入れる。それにその後の防衛は我がプレセンティナ軍が行うから気にする必要はない」
「プレセンティナ軍が……でござるか?」
「ああ、我がプレセンティナ海軍がな」
「…………!」
バールは愕然とした。海軍が防衛するということはすなわち……
「運河アルネ!」
バールはセリフを取られて憮然とした。だがテ・ワの言うとおり、海上用の大型船が通れるような広く深い濠を穿ち南北の海水を引き入れるのだ、まさに運河である。騎馬民族の匈奴はもちろん、海にも慣れたヒンドゥラ兵でも越えることは難しいだろう。なにせメダストラ海を支配するプレセンティナ海軍が、わずか150ミルムのスエーズ海峡を所狭しと埋め尽くすのだから!
「なるほど……確かにそれなら勝てるでござろう。東西ともに鉄壁の守りとなれば、敵は飢えるしかござらぬ。
されど……されどでござる。そのような大工事、今から完遂できる訳がござらぬ! 完成前に敵が押し寄せれば取り返しがつかんでござるぞ!」
当然の指摘だった。濠と運河はその性格が大きく異る。掘りなら間仕切りを作ることもできるが、運河は南北の海を区切りなく繋げる必要があるのだ。つまりその場所の標高が3mだろうと300mだろうと、海抜以下まで掘る必要がある。幾らなだらかな地形とはいえ、運河を掘るということは恐ろしいほどの難事業なのだ。
だがやはりイゾルテは動揺しなかった。そしてバールの懸念に対する彼女の回答は簡潔だった。
「そのための難民だ」
「…………!」
淡々としたイゾルテの声は、バールが戦場で聞いたどんな怒号や悲鳴より彼を激しく動揺させた。
――難民までも計算に含めていたのか……!
確かに既に200万人近い難民が居るのだ。彼らを動員することができれば運河の2本や3本はできるかもしれない。難民までも駒と考える冷徹さに畏れに近いものを感じ、彼は人知れず身を震わせた。だがイゾルテはそれすらも見透かしていた。
「難民を難民として扱えば社会の負担にしかならず、彼らの誇りを奪うことにもなる。だが労働者として扱うならば逆だ。彼らは自分たちを追い詰めたビルジへの復讐も兼ねて精一杯働くだろう。そしてその報酬として食料を受け取ったとて、なんら恥じることもない。またスエーズの人々も彼らを頼もしい仲間と見做すだろう。彼らをも自らの民とするのなら、国民の宥和は何よりも大切なことだ」
「…………!」
再びバールは驚愕して身を震わせた。
――難民やこの国の民の心情にまで計算……いや、配慮をしていたというのか……!
あるいはそれは、感動と言っていいものだったかもしれなかった。だが難民に対してそこまで配慮するのに、これから難民になる者たちへの配慮はないのだろうか?
「しかし……バブルンを初めとした撤退予定地域の民は犠牲にするのでござるか?」
「残さない。予め避難するように呼びかけるのだ。どこまでも計画的に避難させ、さらには濠の工事に参加してもらう。そのための500万だ」
――なんと! そこまで見越していたからこそ、実数より大幅に多い食料を用意したのでござるか……
全然そんな事はなかったのだが、確保しちゃった以上は使わない訳にいかない。彼女は誰よりもケチなのだから。
考えつくされた(かのように見える)計画に、さすがのバールも納得せざるを得なかった。都はともかく聖地を諦めるのは身を引き裂かれる思いだったが、聖戦より難民の保護を選んだ身の上である。不確かな戦いで聖地を荒廃させるより、確実に勝って民草の安寧を図るべきだろう。今はただ捲土重来を期して……
「なるほど……御尤もにござる。イゾルテ殿の計画を全面的に受け入れるでござる」
バールのその言葉に、イゾルテがようやく人間らしい表情を見せた。……ニヤリと。
「そうか。ならばこちらからも一つだけ要求がある」
「…………!」
バールはまたもや動揺した。彼はここに至るまで最初の懸念をすっかり忘れていたのだ!
――ま、まずいぞ! サラの嫁入りを要求されても断れない……!
すっかり説得されちゃった後だけに今更ご破産にする訳にも行かなかった。というかイゾルテを人質になんかしたら、いったい誰が工事をしてくれるんだろうか? アイデアを横取りしても海軍まで出してくれるとは思えないし。
――止むを得ない……サラに花嫁衣装を着せて嫁がせるしか無い!
脱いだらバレちゃうというのに、バールは切羽詰まって混乱していた。そして花嫁衣装を着たサラを想像して胸が熱くなった。むちゃくちゃ似合っていた。「お嫁に行っても、サラはお父さんの子供だからね」とか言われたら泣いちゃいそうである。まあきっと「ゴザる」が付いた時点で正気に戻るんだろうけど。
「……止むを得ないでござる。相手がイゾルテ殿であれば、サラも幸せでござろう」
だがそんなバールの決意の言葉に、イゾルテは首を傾げた。
「何の話だ? サラが何の関係があるんだ?」
「……あれ? サラと結婚したいのではござらんのか?」
「冗談はやめてくれ! 私は男と結婚する趣味など無い!」
ぷんぷんと怒るイゾルテを見て、バールはホッと安堵の溜息を吐いた。彼の懸念は完全に取り越し苦労だったのだ。
「……あれ? では要求とはいったい何でござるか?」
「もちろん、濠の所有権だ」
イゾルテの謙虚な要求をバールが断る理由はなかった。ただテ・ワだけは、がっちりと握手した二人を呆れたように見ていたが。
こうしてスエーズとプレセンティナの交渉はまとまった。総じてスエーズ側は降って湧いたようなプレセンティナの申し出を歓迎したが、事情を知ったアントニオは呆然としてこうつぶやいた。
「まさにやらずボッタクリだ……」
つまりイゾルテは、ナイールの厚意によって送られてくる食料を使ってドルクからの難民に働かせ、スエーズから2本の運河を割譲させようというのだ。そしてこの運河が完成すれば、ヒンドゥラや暗黒大陸(アフルーク大陸の巨大砂漠以南の地域)の港を結ぶ航路が出来る。その経済的な効果は図り知れず、恐らくはプレセンティナ帝国に100年の繁栄を約束するだろう。たかだか500万人分の食料を手に入れただけの彼とは格が違った。
「アントニオ、何か言ったか?」
「……さすがは陛下だと言ったんですよ!」
注1 バラクダット=バグダット、メッシーナ=メディナ、マラッカ=メッカ
バグダットはアッバース朝時代からのイスラム帝国の都です。
ただし一時期はサーマッラーに遷都してました。その第一の理由はカリフのマムルークになったトルコ人たちの評判が無茶苦茶悪かったからだそうです……
メッカはカアバ神殿がある都市です。このカアバ神殿が曲者で、アダムとイブが作ったんだけどノアの洪水で流されて来たんだとか。だから根源的にはユダヤ教やキリスト教にとっても聖地なんですが、そう主張してるのはコーランだけなのでイスラム教が独占しています。
メディナはメッカを追い出されたムハンマドが最初にイスラム法に基いて統治した街で、政治的にはここがイスラム帝国の発祥地です。
メッシーナとマラッカは全然違う別の所の地名ですが、たぶんこの話には登場しないので使いました。




