ナイール
あんとにお、はじめてのおつかい
アントニオはナイール王国の首都カーヒラ(注1)を訪れていた。北アフルークに入ってからは中型のガレー船に乗り換えナイール川を遡上してきたのだが、河岸には見渡すかぎりの畑が広がりこの国の豊かさを垣間見ることが出来た。まあ、麦が刈り取られた後なので何にも生えてなかったけど。
王都カーヒラも大変な繁盛で、河岸の倉庫街には穀物倉が立ち並び、市場には様々な商品が並んでいた。聞けばヒンドゥラからの商人がルブルム海を経てやってきて香辛料などの貴重品を持ち込むのだという。そして彼らはナイールで作られた砂糖を買って帰っていくのだ。少なくとも、普段なら。
カーヒラにはプレセンティナ商人の集まる商館があった。政治よりも商取引の繋がりが深いナイールでは、この国と交易を行っている商人の中で元老院議員の身分にある者が持ち回りで大使に任命されるのが通例となっていた。そのため、彼らの集会所とでもいうべきこの商館が事実上の大使館として機能していた。ひとまずこの商館に(ついでに渡された)イゾルテの手紙を届けに行ったアントニオは、応対に出てきた商人から思わぬ話を聞くことになった。
「宰相閣下との面会はこちらから申し込んでおきます。ところで……セルベッティ様はイゾルテ陛下の側近とお聞きしております。ひとつ教えていただきたい事があるのですが……」
「様はやめて下さい。陛下の好きなモノなら、美人とお肉と甘い物ですよ。絵画は嫌いじゃないようですが、音楽家は絶対ダメです。逆鱗に触れます」
商人は「ほう」と納得するような表情を見せたが口では否定した。
「いえいえ、そうではありません。ヒンドゥラのことです」
「ヒンドゥラ? 何かあったんですか?」
「おや、ご存じないので? ではきっとガセですな」
商人はあっさり納得したようだったが、今度はアントニオの方が気になった。彼はナイール政府を説得する手段を見つけられず、藁にも縋る思いだったのだ。
「……一応、教えてもらえますか? 何かの参考になるかもしれませんし」
「いえ、確かな話ではないんですよ。ヒンドゥラ商人から漏れ聞こえてきた噂なんですがね、あちらで大きな戦があったというのです」
「大きな? というと、どの程度の?」
「国を挙げての大戦だそうで、敵味方合わせて100万人を越えるとか」
「ひゃ……我が国の総人口に匹敵しますね……」
なるほど信憑性が薄いわけである。戦争自体はあったかもしれないが、噂として伝わってくる間に針小棒大に歪められてしまったのだろう。
「そんな訳で普段ならさっさと国に帰るヒンドゥラ商人が、しばらくは様子見だと言って帰らないのですよ」
「なるほど。じゃあ、早く正確な情報が入るといいですね」
だがこの当たり障りのないつもりの答えが、どういう訳か商人の微妙な所に当たってしまった。
「良くはありません! 彼らは本来、香辛料を売った金で砂糖を買うんです。でも今は帰れるかどうか分からないので貨幣のまま手元に置いているんです!」
「……砂糖が暴落していると?」
「暴落とまでは言いませんが、ジリジリ値が下がり続けています」
本来砂糖商に流れるはずの金も滞っているので彼らが買うはずの物も売れず、一方で入荷が途絶えると予想される香辛料は高騰を続けていて、経済的な影響は計り知れなかった。
「……まあ、良いんじゃないですか? 陛下は甘い物好きですから喜びますよ」
「冗談ではありません! 砂糖を先物で買ってしまっている我々は大損ですよ!」
商人はカリカリして怒鳴ったが、アントニオとしては完全なとばっちりだった。
「ゴホンっ! ところで今年の小麦の収穫はどうだったんですか?」
「今年の麦の獲れ高は平年より良いのですが、価格は3割ほど高くなっていますね」
アントニオは首をひねった。供給量が多ければ値が下がるのは常識である。
「何故です? アルテムスの人たちが帰国して、我が国の購入量は減ったはずですよね?」
「何言ってるんですか、イゾルテ陛下のせいですよ! 去年の大量買い付けで各国が備蓄を減らしましたからね。今年はその分を買い増してるんです。それにあの買い付けのおかげでこの一年我々がどれだけ嫌味を言われてきたのか分かりますか? あちこちへの貸しは全部消えて、借りを作りまくっちゃったんですよ!」
「……すいません」
これは必ずしも八つ当たりではなかったが、できればイゾルテ本人に言って欲しいものである。
「しかし、そうなるとスエーズも大変な出費ですね」
「スエーズ? あそこは買うとしても雑穀やら豆ばかりですよ。なにせ貧乏だから」
「では、ナイールの政府が無償援助しているということは?」
「まさか! 3割も値が上がってるのにそんなことしませんよ」
「……なるほど」
つまり値が上がっている分だけ説得のハードルは高くなっているという事だった。アントニオは深い溜息を吐いた。
迎えに来たナイール兵に従って宮殿に赴くと、でっぷりと太った青年が汗をダラダラ垂らしながら玉座っぽい椅子にだらしなく座っていた。太りすぎて顎も頬も垂れ落ち、たぶん服の中では腹も垂れ落ち、ズボンの中は……想像したくなかった。そんな彼こそがこの国の王……ではなく、宰相のシャーワルである。だが王家はとうの昔に実権を失い王宮で軟禁同然に暮しており、宰相の彼こそが実質的な王だと言って過言ではなかった。
「宰相閣下、初めてお目にかかります。プレセンティナ帝国皇帝イゾルテ・ペトルス・カエサル・パレオロゴス陛下の臣、アントニオ・セルベッティと申します。本日はわが主君よりの親書をお持ちしました」
「大儀」
彼はそう言いながら本当に大儀そうにその巨体を持ち上げ、玉座(っぽい椅子)の上で姿勢を正した。一応行儀作法に気を使うつもりはあるようだが、そのだらしないスタイルのおかげでやっぱりだらしなく見えた。スタイルって大事だなぁ、とアントニオは思った。イゾルテに言ったら別の意味で殺されそうだけど。
侍従の手を経て親書が渡されるとシャーワルは一読して目を瞑った。ひょっとしたら細めただけかもしれない。
「プレセンティナとは良い関係を続けていきたいが、だからといってこのような要求に応じられる訳もない。500万人分の食料など、タイトン諸国への輸出量とほぼ同じだぞ?」
「ご……」
アントニオはうっかり出しかけた言葉をとっさに飲み込んだ。
――500万なんて具体的な数字聞いてないよ! 陛下が直に難民の数を確認してから具体的な量を要求するんじゃないの!?
数字が既に分かってるんなら、いちいちスエーズに何しに行ったのだろうか。人身売買の形を借りたナンパだろうか? だが実のところ、その数字はハッタリだった。イゾルテは絶対に断られるように適当な数字を書いたのだ。そしてスエーズについてから近衛の誰かを使いに出そうと思っていたのに、突然アントニオが追い駆けてきたものだから伝え忘れていたのである。
「どうしても……ダメですか?」
冷や汗をダラダラと垂らしながらもダメ元で言ってみたが、アントニオ自身ダメだろうと確信していた。
「プレセンティナが保障するというのであれば、掛けで売ることは出来るが?」
「…………!」
そんな天文学的な代金をスエーズが払える訳もないから、事実上プレセンティナの持ち出しということである。ケチなイゾルテがそんな契約を了承するはずがなかった。もし金を出す気があるのなら最初から「ウチが買うからスエーズに送れ」と言えば良い話だ。
――でも、うんと言わなきゃ断られちゃうぞ。説得できなきゃ陛下に怒られて叱られていびられて、今度こそドルク行きだ。でもうんと言って契約をまとめても、請求書を見た陛下に怒られて叱られていびられて、やっぱりドルク行きだ!
"ドルク行き"というのはもちろん、悪口を書いた国書を届けに行くという即死級罰ゲームの事である。絶望的な状況に彼は顔を伏せてぎゅっと目を閉じた。彼の耳には今にも愛しい主の声が聞こえてきそうだった。
「アントニオ、なんてことをしてくれたんだ! 今更契約破棄なんて言ってみろ、我が国の信用は地に落ちるぞ! 罰としてこの手紙をビルジに渡して来い!」
「ああ、こんな簡単な仕事もこなせないとは! やっぱりお前はパシリがお似合いだ! おいパシリ、この手紙をビルジに渡して来い!」
――ううっ、リアルすぎる。僕が反論できないのを良いことに有無をいわさず親書を押し付けるんだ! ……でも僕を殺したって何も解決しないんだから、土下座したら許してくれるかな? でもきっと、殺さない代わりにネチネチと僕を苛めたり脅したりして楽しむに違いない。そんなことになるならいっそ一思いに……って、脅す?
アントニオははっと目を開いた。
――そうか、陛下なら脅して人を操ろうとするに違いない! しかも自分が恨まれないように、あくまで善意の第三者としてサラッと!
彼はようやくイゾルテの言葉の意味を悟った。イゾルテならどう考えるかを考えろというのは、外面の良い意地悪になれということだったのだ! 思わずニヤリと歪みそうになる口を唇を噛むことでなんとか抑え、深刻そうな表情を浮かべて顔を上げた。
「……さすがにそれは無理と言うものです。我が国と貴国は対等な取引相手ですから、忠告でしたら幾らでも致します。ですが貴国を守るために、これほどの金額を拠出することは出来ません」
「……?」
シャワールは首にシワを寄せた。ひょっとしたら首を傾げたのかもしれない。
「助けが必要なのはスエーズだろう? 我が国は盤石だ」
「果たしてそうでしょうか? 精鋭揃いのスエーズが東から攻めて来ればどうなりますか?」
「なっ……!?」
アントニオの放った一言に、どこか眠そうにも見えたシャワールの細い目がかっと見開かれた。
「馬鹿な! スエーズがドルクに背を向ければ……あ」
彼はドルクが内乱で手一杯だからスエーズへの支援は不要だと考えていた訳だが、逆に言えばスエーズだってドルク国境を放置しても平気ということだった。
「ど、ドルク国境は無事だとしても、あの融通の効かないスエーズの連中が、さんざん世話になった我が国に牙を剥くとは思えん!」
「そうでしょう。彼らとて好き好んで貴国を襲う訳ではありません。彼らは仇敵ドルクとの戦いよりも難民の保護を優先しました。ですが500万の難民をいつまでも食わせておける備蓄はありません。ならば、飢えに苦しむ難民を見殺しに出来ましょうか?」
「…………」
義理堅いからこそ、難民のためにナイールを襲うというのだ。実にありそうな話だった。
「だ、だが奴隷軍人がスエーズだけのものと思うなよ。我が国には奴隷軍人だけでもスエーズに倍する兵がいる!」
「なるほど、これほど豊かなナイールなら多くの兵がいることでしょう。荘園を持つ領主たちの兵も合わせればスエーズ軍の4~5倍は固いはず。ですが……500万の飢えた難民はどうするのですか?」
「…………!」
シャワールは500万という数字に気が遠くなりかけた。難民とはいえ全くの丸腰という訳ではない。剣や槍を持つ者も居るだろうし、包丁や鋤は言わずもがなである。それが500万も集まれば大変な兵力である。況して飢餓という逃れがたい強烈な動機がある以上、一万や二万を見せしめ殺したところで逃げ出したりしないだろう。だが500万人を殺し尽くすにはナイール側も少なく見積もって100万は死ななくてはならない。そして万が一勝てたとしても、第三国からの侵略を防ぐ余力はもう残されていないだろう。
シャワールは今まで全く考えてもいなかったその可能性に冷や汗を垂らした。もともと普通の汗をかきまくっていたので傍からは分からなかったけど。
――確かに、難民を飢えさせれば我が国の滅亡につながりかねない。いや、仮にスエーズ自身にその気がなくても、飢えた難民が我が国に向かって移動を始めれば同じことだ! 混乱を避ける方法は……
彼はチラリと使者の少年の顔を見た。深刻そうに唇を噛むその表情は、彼もその最悪の状況を憂いているのだと物語っていた。だからこそ使者としてやって来たのだ。この少年が予測したのか、彼の主君たる皇帝イゾルテが予測したのかは分からないが……
シャワールは肩を落とすと意外に静かな声で礼を述べた。
「なるほど、お説御尤も。確かに支援は我が国のために必要なようだ。御忠告に感謝すると皇帝陛下にお伝えくだされ」
彼は本気で感謝していた。恐喝ではなく忠告だと本気で受け取り、冷静に判断を下したのだ。見た目はだらしないけど中身はしっかりした男だった。爪の垢をイゾルテに飲ませたいところだ。
「では?」
「御忠告に従い、スエーズの難民が飢えぬように支援を行いましょう」
「本当ですかっ! ありがとうございます!」
心の底から嬉しそうに、アントニオは弾んだ声を上げた。
――自分とは無関係な難民たちやこのナイール王国のために、これほど喜んでくれるとは……
彼の様子に、何故だかシャワールまでもが嬉しくなってきた。
「詳細は商館の者が担当します。私はスエーズを訪問しておられる陛下に、閣下のお言葉を伝えてまいります」
「ほう、皇帝自らスエーズに?」
「ええ、状況を直に確認すると仰られまして。陛下はあちこち飛び回る方なのですよ」
――他国の、しかも異なる民族の国のことなのに、そこまで親身になっているのか……
「陛下と貴公に神の導きのあらんことを」
「え? ええ、ありがとうございます」
アントニオは一礼すると、スキップしそうな足をなんとか落ち着かせて奇妙な足取りで去っていった。それを見届けたシャワールは即座に動き始めた。
「聞いたな? スエーズへ食糧支援を行う。500万人分だ!」
「しかしそれほどの小麦となりますと、いったいどれほどの出費となるか……」
そろばんを持った家臣がげっそりした顔を見せると、シャワールは不思議そうな顔をした。
「誰が小麦と言った? 豆や雑穀を優先しろ。えん麦やライ麦もだ。要するに飢えなければいいんだからな」
「……そうですね」
例え人の真心に触れて感動したとしても、感情で国を動かしてはいけないのだ。見かけと違ってシャワールは、節度を持って国を治めていた。
注1 カーヒラ=アル・カーヒラ(=カイロ)
アル=カーヒラはカイロの正式名称です。省略&訛りでカイロと言われるようになっちゃいました。




