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太陽の姫と黄金の魔女  作者: 桶屋惣八
第8章 ムスリカ編
202/354

船路

 暁の姉妹号は単艦でスエーズへと向かっていた。速度の異なる帆船やガレー船を伴えば船足が落ちることになるので一隻の方が早く到着するのだ。それに一隻でも十分な積載量を持つ上に、全メダストラ海はヘメタル同盟の制圧下にある。ドルク艦隊も既にエフメトが抑えているので、敵対する者がいるとしたら海賊の残党ぐらいだろう。だが20ミルム先まで見渡せるマストと200名を超える精鋭の水兵、そして何より海をも燃え上がらせる火炎壺の連射攻撃が安全を保証していた。というか、この異様な双胴船を見て逃げ出さない海賊が生き残っているはずもなかったが。

 ちなみににわか近衛兵たちは、プレセンティナ人だけあって船に酔うことはなかったものの、船上で戦う訓練を受けていないので戦力にはなりそうになかった。彼らの出番は陸に上がってからである。

 東の果てから旅してきたテ・ワにとっても双胴船は珍しかったようで、彼はサラと共に船内をくまなく探検して回るとスケッチを描き始めた。あんまり詳細に描かれてマネをされても困ると思い、イゾルテは後ろから覗きこんだ。だが彼女の興味は別のものに引きつけられた。

「ほう、変わった筆記具を使うんだな」

「コレハ筆イウアルヨ」

 彼はブラシのような物にインクを浸けて、手に持った紙にさらさらと描いていたのである。硬いペン先でガリガリと削るように書くタイトンの――というかメダストラ世界のペンとは対照的である。ペンの端の方を持っているので紙に手首や袖があたらず、そのためにインクで汚れることも無いようだった。

――なるほど、こんな書き方をするから右から左に書けるのか。しかし器用なもんだなぁ。あれ? でも別に、左から右でも困らないような……?

やっぱり何で右から左に書くのか理解できなかった。

 彼女が悶々と悩む傍らでテ・ワがスケッチに注釈を入れているのを見て、彼女は思い切って聞いてみた。

「なあ、何で左から右に書かないんだ? どうして右から左に書くんだ?」

「知ランアル。デモ大昔ハ右モ左モ無カタネ。木ノ札ニ一行書イタダケアル。ソレヲ繋イダ時ニタマタマ右カラ左ニナッタンジャナイアルカ?」

「あー、それはありそうだな」

イゾルテは納得した。右でも左でも変わらないのなら、なんとなくで決まっちゃっても不思議ではなかった。だが今度は彼女の後ろで深刻な顔をしている者がいた。サラである。

(それがし)どもも、右から左に書いてるでゴザる……」

「ああ、北アフルーク語もそうだったな。インクで手が汚れないか?」

「……汚れるでゴザる」

「「…………」」

呆れたような二人の視線に、サラはあたふたとした。

「な、預言者(ナビー)様が残された書物も右から左に書かれていたでゴザる!」

「そりゃ、アルビア人だもんなぁ」

「か、神が直接残された十戒も、右から左でゴザる!」

「そりゃ、ウーダラ人に読ませるために書いたからだろ?」

「ド、ドルク語も右から左でゴザる!」

「そりゃ、ムスリカ帝国を乗っ取ったんだからなぁ」(注1)

身も蓋もない言葉にサラは唇を噛んだ。イゾルテの言う通りなのだ。だから彼も身も蓋もない反論を口にした。

「左から右はタイトンだけではゴザらぬか!」

「そりゃ……あれ? そういえば……」

今度はイゾルテが悩む番だった。合理的なはずなのになんで少数派なのだろうか? だが、答えはあっさりと出た。

「ソウデモナイアルヨ? 横書きのは大体は左カラ右アル」

テ・ワは世界中の24言語を話す才人である。読み書きまで出来るのかどうかは怪しいけど、右から左か、左から右かというくらいは知っていても不思議ではなかった。

「……体を動かして来るでゴザる」

二人の視線に耐えかねて、サラはクロスデッキへと逃げ出した。


 サラがクロスデッキでぶんぶんと真剣を振り回し始めると、手の空いている水兵達が遠巻きにして見物をはじめた。

「凄いな」

「ああ、凄い美少女だ」

「陛下に匹敵するレベルだな」

「ああ。だが陛下じゃないというのが素晴らしいんだ」

ひどい言い(ぐさ)だった。

「どういう素性の娘なんだ? 陛下の侍女? それとも護衛?」

「いや、スエーズの王女らしいぞ」

「王女様かぁ……」

うっとりする彼らに、修練を終えたサラが話しかけた。

「ちとお尋ね申す。某の言葉が分かる方はおられぬか?」

「はいっ!」「はいはいっ!」「俺がっ!」「バカ、俺の方が上手だ!」

船乗りだけあって北アフルーク語を話せる者に不自由はしなかった。

「どなたでも構わぬが、風呂に案内して頂けぬか? 先ほど案内されたのだが、場所を忘れてしまったでゴザる」

水兵たちは額を寄せて相談をはじめた。

「風呂って、男湯のことか?」

「そりゃそうだろ、あとは陛下専用の棺桶風呂しかないぞ」

「いや、昔ながらのたらいもあるぞ」

水夫たちは(たらい)風呂に入るサラの姿を想像し、慌てて前かがみになった。

「馬鹿、案内しろってんだから(たらい)の訳がねーだろ」

「陛下の船室に行きたいならそう聞くよな」

「となると、やっぱり……男湯?」

水兵の1人がまさかと思いながらも、念の為にサラに問いかけた。

「えーと、あの、男湯のことで良いんですか?」

「ああ、勿論でゴザる」

「ま、まさか……入ったりしないよね?」

「入るでゴザるよ? 風呂に入らないで、何のために風呂に行くのでござるか?」

不思議そうに首を傾げるサラの可愛らしさに、水夫たちの目が血走った。そして更に前かがみになった。

「お、俺も風呂に入ろうかなぁ! い、一緒に来るかい?」

「ズルいぞ! お、俺も入る!」

「俺だって!」

俺も俺もと大変な騒ぎとなり、サラが慌てて割って入った。

「では皆で一緒に入るでゴザるか? さっそく行くでゴザる」

「「「はーい!」」」

彼らの夢が砕かれるのはわずか数分後の事であった。サラは脱いでも立派な剣士だったのだ。



 一方、アントニオもナイール王国に向かう船上にあった。海路と陸路でウロパ大陸をぐるりと一周した彼も、イゾルテと別れて旅に出るのは初めてのことである。しかも今回は重要な任務を負っていた。彼の双肩にはスエーズ王国の未来とイゾルテの期待がズシリとのしかかっていた。スエーズへの支援を渋るナイール王国を説得して食料を提供させなくてはいけないのだ。難問である。

「理を以って、か……」

 イゾルテから言われた通り、彼は理論武装するために総督府から資料を持ち出していた。それによれば、ナイールは古代から穀倉地帯として有名な土地だったそうだ。国の名の由来ともなっているナイール川の氾濫によって上流運ばれてくる肥沃な土により、他の地域よりも圧倒的に高い生産性を誇っていた。(注2) また古ヘメタルの時代には皇帝直轄の属州として国家予算とは別管理の半ば私有地として扱われていたそうだ。(注3) 他の属州なら総督がちょろまかすために多少の虚偽が混じっているかもしれないが、ナイールだけはその記録をそのまま信じても良いだろう。現在でもナイールといえば小麦の最大の輸入元である。

 アントニオはふと疑問を覚えた。

「こんなに豊かな国なのに、なんで北アフルーク統一に動かないのかな?」

だがその疑問には簡単に答えが出た。イゾルテが身を以って示しているではないか。

「……支配するのが面倒なんだな」

 冷静に考えてみれば、わざわざ貧しい土地を攻めて何が嬉しいのだろうか。征服に命を懸け、反乱鎮圧に命を懸け、身を粉にして働いたところで本国ほどの収穫は望むべくもないのだ。本国で開墾でもしてた方がよほど生産的だろう。

 一方ミランダ付きの秘書官から聞いた話では、スエーズ王国はもともと自立するだけの農業生産も経済力もありはしないのだという。まあ、ドルクの大軍を食い止めねばならないのだから、どうしたって軍事予算が国庫を圧迫するのだろう。それをナイール王国が生かさず殺さず支援することで、なんとか今日まで生き延びてきたのだ。ナイール王国としては(てい)の良い用心棒としてスエーズ王国を利用してきた訳である。

「ナイールとしてはスエーズが大きくなって自立しても困るんだろうな。だからドルクが攻めてこない限り支援はしないってことか……」


 彼は未だ匈奴の脅威については知らされていなかった。今のところテ・ワ一人の証言しかないので、これを公表すればパニックになりかねなくもあるし、あるいは信じて貰えずに冷笑されかねなくもあった。まずは証拠を集めつつ、一方の当事者であるスエーズと連携を図るべきだと考えたのだ。プレセンティナとスエーズが共に匈奴の脅威に備えると言えば、他の国々ももしやと思うだろうと考えてのことである。つまり、現段階でナイールへの説得材料に使ったとしても一笑に付されて終わりだろうと見積もったのだ。そもそもアントニオに言ったところで彼自身が悪い冗談だとしか思わなかっただろう。イゾルテは普段から悪い冗談ばかり言っているから……


「そういえば陛下が言ってたな、陛下ならどう考えるかを考えろって」

アントニオは言われた通り考えてみた。あのエキセントリックで行動が読めず、突飛な発想と発言で彼を惑わす愛しい主ならどう考えるだろうか……

「……あれ? こっちの方が難問じゃないか?」

アントニオは船旅の間ずっと悩み続けた。

注1 ヘブライ語やアラビア語を始めとして、中東の文字はなんでか←方向に書きます。一説には、石に文字を刻むときには←方向の方がやりやすかったからだとか。これもちょっと怪しいですけど。

オスマン語(オスマン朝のトルコ語文語)も←方向だったそうです。中央アジアのテュルク系諸語も←方向が多かったそうなので、テュルクの伝統で←方向なのか、アラビア文化を真似て←方向なのかは分かりません。


注2 ヘロドトスが「エジプトはナイルの賜物(たまもの)」と言ったように、ナイル川流域は古代から驚くべき豊かさを誇ってきました。

サラディンの活躍した12世紀ころでも、単位面積当たりの収穫量が「肥沃な三角地帯」と呼ばれるイラク、シリアよりも更に1.5倍だったそうです。

さらにヨーロッパでは1粒の麦から5~6粒の麦が穫れたそうですが、ナイル川の流域では20~30粒も取れたとか。つまりヨーロッパは収穫の20%を種籾に残さなくてはいけないのに、ナイルでは5%で良かったということです。

増水によって天然の肥料が自動的に供給されてたんだと考えれば、それくらいあっても不思議ではないかもしれません。

そもそもヨーロッパじゃ三圃(さんぽ)制なんてやってた時代ですから、3年に一回しか小麦が穫れません。でもナイル川流域では毎年土壌改良されるので小麦はもちろん、サトウキビやら綿やらの夏作物もガンガン作ってました。二毛作です。

おかげでサトウキビから出来る砂糖なんかは重要な輸出品にもなっていたそうです。

エジプトはその農業だけでもすげー裕福だった訳です。


注3 面倒な話ですが、古代エジプトはファラオに対する信仰心が強かったので、他の属州のようにローマという国家に支配されることを嫌いました。

でもその一方で外国人が現人神(あらひとがみ)として支配するのはOKなんですよね。そもそもプトレマイオス朝もギリシャ人(マケドニア人)の王朝ですし、クレオパトラだって基本ギリシャ人ですからね。

そんな訳でエジプト属州だけは時の皇帝が「神」として支配していました。実際には「エジプト長官」という名の代官が派遣される訳ですが、その税収はローマの国庫ではなく皇帝の個人収入扱いになりました。だから皇帝は道路やら浴場やらをどんどん作ることができたんですね。

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