7 補給線
冥界の王ハゾスは姿を隠す隠れ兜を持っていた。何かと陰気な印象のあるハゾスだが、その実3兄弟で一番まともな人格者である。平然と姉や姪や人妻を犯すゼーオスやポセウドンの手に隠れ兜が渡っていたら、彼らの落とし子は10倍以上に増えていたことだろう。
レンツォ・スパディーニ『タイトンの神々と神器』
――――――――――――――――――――――――――――――――
漂流船が流れ着いて5日、北アフルークからの補給は途絶えたままだった。ドルク方面からの補給もそろそろ届き始めていい頃なのだが、まだ一隻も到着していないのだ。おかげで輸送艦隊の司令はカリカリしていた。
「アフルークからの船はまだ着かないのか?」
「はい。例の漂流船以来一隻も着いていません。やはり疫病で封鎖されているのではありませんか?」
部下の呑気な発言に、司令は思わず怒鳴り返した。
「あれは疫病などではない! 皆消えていたのだぞ!」
だがやはり役人上がりの彼には迫力が足りないのか、あるいは現場を見ていないからか、部下の反応はあくまで呑気だった。
「疫病で死んだ者を海に捨てて、最後の者も感染に気付いて身を投げたんですよ」
「服を残してか?」
「……そのあたりは良く分かりませんが、それも病気のせいかもしれません。体が暑くなって服を脱ぎたくなるとか……」
司令は釈然としながったが、今まで考えた中では一番まともな説明に聞こえた。
「第一、敵の仕業ならもっと不可解ですよ?」
「まぁ……確かにな」
司令は不承不承頷いた。疫病だという結論が一番まともだというのは、一体どういうことだろうか?
「本日で残りの輸送船の荷揚げは終わりますが、予定通り本国のサナポリに送りますか?」
「ああ。サナポリからの続報がないのが不安だが、北アフルークに送っても無駄足になるかもしれん。アフルーク方面はしばらく続報を待つことにしよう」
こうして荷揚げを終えた最後の20隻の輸送船は、船団を組んで東へと向かった。ゲルトルート号を始めとするプレセンティナ遠征艦隊の本隊が待ち構える海域である。
ゲルトルート号を初めとする帆船11隻ガレー船28隻のプレセンティナ遠征艦隊本隊は、ローダス島の東にいた。ローダス島の東80kmを中心に南北に哨戒線を張る第6分艦隊(帆船10隻)。その西20kmに南北に分かれて展開する第4分艦隊(ガレー船10隻)と第5分艦隊(ガレー船10隻)。さらに西に30km、つまりロードス島東岸から30kmの位置には、第2分艦隊(ガレー船8隻)とともにゲルトルート号が停泊していた。
何かとマストに登りたがるイゾルテだが、さすがに普段から見張りを買って出ている訳ではなかった。この時も見張りに立っていたのは熟練の水夫だった。見張りというのは目がいいだけではできない。目だけならイゾルテもかなりいいのだが、やはり勘所というものがある。熟練の見張り員が望遠鏡{双眼鏡}を持つと、水平線の向こうから飛び出たマストまでも見つけられたのだ。実に30km近い驚異的な索敵距離である。
だが、マストは寒かった。月も変わって11月。メダストラ海は年を通して雪の降らない温暖な海だが、それでも海の真ん中で高度50mの吹きっ曝しに一人でいると、身も心も凍えそうになってくるものだ。しかも今は夜だった。
だが、そんな役目にも楽しみがあった。イゾルテが熱い飲み物を差し入れに来てくれるのだ。
「見張りご苦労、差し入れだ」
そう言ってマストを登ってきた彼女が差し出した革袋は、悴んだ手には熱いほどだった。
「今日はホットワインだ。酒精は飛ばしてあるが生姜が入っているから温まるぞ」
「あ、ありがとうございます、姫」
透けるように肌の白いイゾルテは、月光と海の照り返しの中で妖精か幽霊のように見えた。昼間の活発な印象との落差もあって、見張りはその儚げな美しさに見惚れていた。これで歌でも歌われたら、さてはシーレーン(美しい歌声で船乗りを惑わす人魚)かとでも思うところだ。そんなイゾルテと二人っきり、再び望遠鏡{双眼鏡}を目に当ててホットワインをちびちびと飲むと身も心も暖かくなってきた。それは必ずしも生姜のせいばかりではなかった。音痴な彼女が本当に歌ったら、全て台無しになっただろうけど……。
「しかし、夜中の見張りはつまらんな。暗くて何も見えん」
「ドルクの船は衝突防止のために舳先と船尾にカンテラを点けますから、それを見るんですよ」
「しかし船体は水平線の向こうなのだろう?」
「ええ。ですから見えないはずの物が見えたら、敵に動きがあるということです。今は見えないことを確認しているんですよ」
「なるほどなぁ」
「でも……見えますね……」
「何?」
イゾルテが振り返ると、見張りは望遠鏡{双眼鏡}を構えたまま指をさした。
「殿下! その警鐘を鳴らしてください!」
「こ、これか? 分かった!」
イゾルテは誤報防止のために固縛されていた警鐘を解くと木槌を強く打ち付けた。
カンカンカン、カンカンカン
見張りが叫んだ。
「敵影発見! 西南西25km! 詳細不明!」
イゾルテは目を細めて睨むように西南西を見たが、肉眼では何も見えなかった
「私にも見せてくれるか?」
「すいません、殿下。目を離すと見失ってしまいますので」
「そうか。いや、私のワガママだ、続けてくれ。……話はしても構わんか?」
「ええ、口と耳は暇ですから」
「25kmというのはどうして分かるのだ?」
「詳しい理屈は知らないのですが、ここは水面からの高さが50mですから、水平線までは25kmあまりなんだそうです。さっきまで見えませんでしたから、今は大体25kmだろうというだけのことです。この先は20kmだろうと5kmだろうと見分けはつきませんよ」
「なるほど。では、船種は分かるか?」
「いえ、数だけです。今は1隻しか見えませんが、単に先頭の1隻かもしれません。しばらく様子を見る必要があります」
「なるほどな。では、私は戻る。後は頼んだぞ!」
「はい、お任せください」
イゾルテは帆桁から身を翻すと、金具{下降器}を使ってロープ一本でするすると懸垂降下していった。
イゾルテが司令室に駆け込むと、ムルクスは黙って海図を見ていた。
「爺、動かんのか?」
「まだ余裕がありますので、数が分かるのを待っております」
ムルクスはあくまで落ち着いていた。
「今後の方針は?」
「1隻なら哨戒任務のガレー船でしょう。第2分艦隊を回りこませて退路を断ち、払暁まで付け回してから襲います。
5隻程度なら輸送船でしょう。本艦は一旦20kmほど東に引き、3つのガレー船分艦隊で包囲した上でやはり払暁に拿捕します」
「夜戦はせんのだな」
「無駄に損害が出ますし、逃げられる可能性があります」
「そうだな。今は情報を持ち帰られるくらいなら、全部やり過ごしたほうが良いかもしれん」
敵が封鎖に気づけば、敵主力の積極的な行動を誘発することになる。ローダス島の東沖にそれぞれ40隻程度のガレー船が確認されている以上、タイトン諸国に正対する北や西がそれ以下であるはずもないだろう。南にいると確認されている艦隊も東と同規模と考えるなら、その合計は最低でも160隻、下手をすれば200隻に及ぶかもしれない。そんな大艦隊と正面決戦することは可能な限り避けたかった。
それに2人は、少なくとも一度は艦隊決戦をする必要があると考えていた。であるならば、それまでは浮網と投網のことは隠しておきたかった。その存在が知られれば、決戦の時に何らかの対策を練られてしまう可能性があるからだ。ガレー船を襲って万が一逃げられれば、網の存在が敵本隊にバレる可能性があった。
「それ以上出てきたらどうする?」
「わざわざ夜間に出立するとは思いにくいですが、40隻規模なら東岸にいるガレー船艦隊です。サナポリから続報が届かないことに焦れて動き出した可能性があります」
サナポリからはローダス島の遠征軍総司令部に、「敵艦隊来襲の知らせは途絶えたれど、迎撃艦隊の行方も杳として知れず。来援を乞う」という続報(というか要望)が送られているのだが、それは今頃快速船を拿捕した第4分艦隊の司令室に転がっているはずであった。
「その場合は南下してローダス島の南に布陣する3個分艦隊(第6、第3、第7)と合流を計りつつ、南のドルク艦隊の動きを見て各個撃破を目指します」
「なに? 本隊は東に引いて、南の別働隊と挟撃するのかと思ったぞ」
ムルクスはイゾルテの戦術眼に舌を巻いた。彼女は若いからか、遠くと話す箱{無線機}を使った戦いのやり方に既に順応していたのだ。だが、それは彼とて一度は考えた策であった。
「……確かにそれも面白いですが、南北のドルク艦隊も連携している可能性があります。下手をすると3個艦隊120隻以上のガレー船を一度に相手にすることになりますよ」
「あぁ、確かにそれは嫌だな。第1分艦隊もボロボロだし」
「ええ。増援が待ち遠しいです」
ローダスの東90kmで南北の哨戒線を張っている第1分艦隊は、この5日間の海賊行為で大きく戦力を低下させていた。毎日のように現れる輸送船団を(別のガレー船分艦隊が)拿捕しており、その鹵獲帆船を後送するために帆船乗りである第1分艦隊の水夫が引き抜かれているのだ。すでに20隻あまり拿捕した現在、第1分艦隊の乗員は半減しており、白兵戦は元より操船にも困難を来す有り様となっていた。
――いざ戦闘となればいち早く避難させたほうが良いだろうな。いや、本隊が南に下る場合には第1分艦隊だけは本国へ帰らせた方が良いかも知れん。
イゾルテがそんな事を考えていると、ドタバタと次の伝令が駆け込んできた。
「見張り員より伝令。敵の数はおよそ20。船種は不明です」
イゾルテはムルクスと思わず目を合わせた。
「20隻……何だと思う?」
「分かりません。これまでの例では輸送船団は5隻規模でした。そう考えるとガレー船部隊である蓋然性が高いですが、艦隊を二分する意図が解せません。サナポリへの救援なら、前回と同じ20隻の艦隊では足りません」
「サナポリからの最初の連絡を受けて、輸送船団に護衛を付けたという可能性は?」
「とすると、ガレー船10隻に帆船10隻というところでしょうか。ガレー船20隻のサナポリ艦隊が敗れたと考えているなら、あまり意味のない護衛ですよ」
「では、サナポリ艦隊が敗れたとは思っていないのではないか? いや、それなら護衛ではなく増援を出す可能性が高いか……?」
「……なるほど。それならしっくり来ますな。とすれば、彼らもまたガレー隻20隻で10隻のガレー船艦隊を追っている訳ですな」
「またやるのか?」
イゾルテがニヤリと笑うと、ムルクスもニヤリと返した。
「またやりましょう」
もっとも彼は、いつでも傍目にはニコニコしているのだが。
第4分艦隊を西進させて第2分艦隊と共に敵の左右に回り込ませると共に、ゲートルート号は北寄りの風を捉えて南東に10km下がり第5分艦隊と合流した。敵艦隊の進路と目される位置だ。今回は余裕を持って会敵予定地点に到着することが出来たので盛大に浮網を撒いた。夜明けの後、正面の第5分艦隊とゲルトルート号をわざと発見させてこの浮網の罠に誘いこむのだ。網を使う以上は一隻たりとも敵を逃してはならないので、第2、第4分艦隊は敵が逃走した場合の抑えだった。
作戦の開始を告げる太陽が水平線上に現れると、朝ぼらけの中警鐘が鳴り響いた。
「詳細判明! 帆船20! 距離6km!」
その知らせを聞いた司令部では動揺が走り、イゾルテも思わず罵声を上げた。
「帆船だと! ガレー船ではないのか!? それに――」
――敵に見つかる距離まで近づかれるとは、いったいどういうことだ!
だが、イゾルテはそれを口にする前に昨夜の見張りの言葉を思い出した。
『この先は20kmだろうと5kmだろうと見分けはつきませんよ』
――警告されていたのに油断していた!
そして再び警鐘が鳴り響いた。
「敵艦隊、南に転進!」
「まずいぞ、追い風に乗って逃げる気だ!」
伝令の言葉にイゾルテが叫ぶと、ムルクスは頷いて命令を下した。
「第4、第5分艦隊に連絡して全力で敵を追わせなさい。第2分艦隊は北上して敵の頭を押さえなさい」
「了解しました。こちら遠征艦隊司令部。第4分艦隊および第5分艦隊に通告。南下して敵艦隊を全力で追って下さい。ドウゾ」
ガレー船が輸送船団を追いかける一方で、ゲルトルート号は1隻だけ残ってばら撒いた浮網の回収を行った。細かい指示は分艦隊単位でしか出せないので、第5分艦隊全10隻とゲートルード号1隻を天秤にかけてゲルトルート号が残らざるを得なかったのだ。
風速は10m/s程度と海の上としてはそれほどの強風ではなかったが、空荷だったことがドルク側に幸いした。プレセンティナ側のガレー船も櫂を漕ぎながら帆を張ったのだが中々追いつけなかった。そこに南の第2分艦隊が輸送船団の進路に立ちふさがったが、彼らは8隻しかいなかった。
「第2分艦隊、第2分艦隊、こちら艦隊司令部、沈めても構いません、足を止めなさい」
ムルクスの指示は無茶な命令に聞こえたが、もともと衝角をぶつけるのはガレー船の基本戦術だ。彼らもその程度の危険は承知の上である。
「ただし、ぶつけた後も敵の頭を抑え続けてもらいます。ドウゾ」
ドカンと正面からぶつかれば船足が止まるし、舷側をかすれば船体から突き出した櫂がバキバキと折れてしまう。ぐるりと旋回して再び頭を押さえろと言うのは無茶だった。結局第2分艦隊はドルク船団の横で旋回して並行追撃することを選んだ。
その後も逃げに逃げるドルク船を追いかけまわし、結局全てのドルク帆船を止めたのは日の暮れる直前で、その頃には艦隊は70kmも南に移動していた。遠くと話す箱{無線機}に聞き耳を立てていたイゾルテがほっと一息ついたその時、凶報が届いた。
『遠征艦隊司令部、遠征艦隊司令部、こちら第1分艦隊。ドウゾ』
「こちら遠征艦隊司令部、どうした? ドウゾ」
『9番艦が定位置で輸送船団を発見。規模は小。ドウゾ』
イゾルテは思わず叫んだ。
「9番……ということは哨戒線の一番北か!? ここからはともかく、ガレー船分艦隊からは100km近いぞ!?」
しかも日が暮れれば発見も追跡も難しくなる。哨戒している第6分艦隊自身で拿捕させるのも無理だった。端から端まで54kmもあるので、集結している間に逃げられてしまうのだ。
「これはさすがに止められませんね……」
ムルクスは肩をすくめた。ローダスから出て行く船を止めるために、ローダスへ情報を持ち込む船を見過ごしてしまったのだ。
――これでは本末転倒だ。私が余計なことを言わなければ……!
内心で動揺しながらも、イゾルテは平静を装った。
「謝罪はしないぞ、爺。お前も謝罪は無用だ」
「……ありがとうございます。問題は今後のことです。恐らくは今度こそガレー船が出てくることでしょう」
「そうだな。ただし今度は、我々が10隻でないことを知った上でだ」
死戦の予感に司令部は静まり返った。




