#35
ティバーの施設がある場所から、そう離れていない町にその家はあった。診療所を営んでいた為その家は一般的な住宅より少しだけ大きい。そして入り口が二箇所あり、診療所の玄関は固く閉ざされている。埃や砂塵がこびり付き、しばらく開けられた気配はない。
だがもう一つある自宅の玄関は掃除が行き届いてあり、つい最近人が出入りした事を物語っている。
「こんな場所にアストールが……?」
他の誰も知らないアストール先生の事を私は知り尽くしていた。それは何でも知りたがった私が質問を繰り返していた為かもしれないが、そうではないかも知れない。もしかしたら私が理解できていなかっただけで、先生は……本当は、私の事をちゃんと信用してくれていたのではないだろうか。
だがその信頼を先に裏切ったのは私だ。それも娘さんの魔石を盗むと言う決して犯してはいけない過ちで。もし私が先生の信頼を裏切らず、先生に忠実で側にいれば違った未来があったかも知れない。
先生と同じ様に命で実験し命を消費し、叶う事のない願いをひたすらに追い求める。共に突き進むその道は……だが破滅へと伸びていただろう。
今が最善の道であったかと聞かれれば首を横に振る。それ程私は間違った道を選び遠回りをしてしまった。だがあのまま先生の側で茨の道を進むよりは良かったと思える出会いと経験を積み重ねてきたつもりだ。
隣に立っているレイスの手を握る。強く握り返してくれた温もりに心まで温かくなる。この手を失わない為にも、アストール先生を救いたい。
レイスが慎重に扉をノックすると、すぐに「はい」と女性が返事をした。そしてゆっくりとドアが開かれる。家から顔を覗かせた女性の姿を見て、皆息を飲んだ。呆気にとられ一瞬無言の時間が流れたが、レイスの「元気そうですね」と言う言葉で我に返った。
「メアリー! 無事でよかった!」
私が駆け寄りメアリーの腕を掴むと、メアリーは悲しそうに微笑んで頷いた。その姿に無理を強いられてはいない事が窺えてホッとする。アストール先生の事だから乱暴な事はしないと信じていたが、メアリーの名前を出した時の怒り具合から心配だったのだ。
ここにいると確信してはいたが、こんなにあっさりメアリーが見つかると、アストール先生は警戒していなかったのだろうかと不審に思う。私がアストール先生の望みも、この家の事も知っていると分かっていただろうに……。
「メアリーだったな、無事で良かった。あれからずっとここに? アストールは……?」
メアリーはブレイムの言葉に頷くと、目を伏せる。そして首を小さく横に振った。
「ここにはいない?」
また小さく横に振るメアリーの、煮え切らない態度に不安が募る。そして焦りから苛立ちへと変わる。
「メアリー! 教えてくれ! アストール先生はどこにいるんだ!?」
叫んだ私がメアリーを揺さぶると、彼女は顔を上げた。その瞳いっぱいに浮かんだ涙が瞬きと共に落ち、何度も頬を濡らす。
「……中へ、どうぞ……」
そう言った彼女に案内されるまま中に入ると、そこは簡素な部屋だった。必要最低限の物だけ揃えられた殺風景な家は、なんだか寂しくて冷たい。アストール先生が望んでいた、娘さんとの温かい日常がここにあるとはとても思えない、無機質な家。そんな雰囲気が漂っていた。
だから、きっとここにアストール先生はいないのだろう、と勝手に結論付けた私に、メアリーは疑うような事を話した。
「アストールさんはここにいます。……奥の、寝室で休まれています……」
「……ここに……?」
いると言うのか? 先生が……。それなのに私達が来てメアリーと話しているのに何もしてこないなんて、おかしいじゃないか。
「……会わせてくれるか」
厳しい顔をしたブレイムが聞くと、メアリーは頷いた。
「ですが……お話しする事は出来ないと思います……」
通された寝室のベッドに横になった先生は、私の知っている先生ではなかった。つい数日前、確かに向き合ったはずなのに、そこに横たわるのは別人のようだった。
死に逝く病人の様に真っ白な皮膚、赤毛は色素を失い、老人の様に皺だらけの顔。胸の上で組んだ手は細く、一人で立ち上がる事も困難だと思わせる程活力を感じない。命の灯火が尽きようとしているのが明白だった。
こんな一時で、先生は何十年も一気に歳を取ってしまったかのようだ。
「なんでっ! なんで先生……!」
「……私に詳しい事は分かりません。分かりませんが……装置のせいだと」
涙ぐむメアリーの言葉に、レイスがアストール先生の布団をめくり胸元を見る。そこには藍色の魔石が埋め込まれていた。ファンタやアントと同じ様に、虫の足の様な針金の先が痩せ細った胸に刺さり、歪んだ魔力が先生へ流れ込んでいる。
「……先生……どうして……」
魔石や魔力の事に疎いファンタやアント、幼いエンプならばその危険性を疑わず目先の力に飛びついてしまう事はあるだろう。だが、先生がそれに気付いていないはずはない。ずっと自分が研究して来たのだ。実際に魔石を胸へ埋め込み異生へと変化する実験を試していたのも先生なのに、どうして自ら装置を……。
メアリーは先生の布団をかけなおすと、寝室から出て行く。深い眠りに落ちている先生に何も言えないまま、私たちはメアリーの後を追った。
椅子に座り、出されたお茶をゆっくりと飲む。じわりと喉に熱が伝わり、固くなっていた身体から少しだけ力が抜ける。正面に座ったメアリーは俯いたまましばらく自分の手元を見ていたが、顔を上げると私を見た。
「……ここへこんなに早くたどり着くとは思いませんでした。全てをお話するのはアストールさんが亡くなって、私が自らティバーへ赴く時だと思っていました」
「あの後すぐにここへ来たのか?」
ブレイムが尋ねると、メアリーは頷いた。
「貴方達にお話したように、私はアストールさんに同情していました……。大切な人を亡くしたら心が壊れてしまうのも仕方がない事、ですよね?」
涙が浮かんだその瞳は、悲しみに彩られている。異生に大切な人を奪われた苦しみは、私も経験した事がある……。行き場のない思いは、どうする事も出来ずに自分を苛む。アストール先生も、そうだった。きっと、メアリーも……。
「ですが、それもお話ししたと思いますが」
ヒヤリと冷気が流れる。いつもより若干低く感じるレイスの声が、棘を持っていた。
私が知らない間に、どんな事を話したのだろうか? 隣に座ったレイスの静かな怒りが、メアリーを攻撃している。
「分かっています、分かっています。でも、それでも……自分勝手だって思われても、それでも自分の希望を、想いを叶えたいって思うその気持ちを、私は……」
「あなたは何一つ勉強も成長もしないのですね。同じような過ちを何度も繰り返す。そしてそれによって他人がどうなっても気にしない。申し訳ないと謝り傷ついた顔をしながら自分の意思を押し通す」
「…………」
「あの時なぜアストールの元へ戻ったのですか? あのまま隠れていればこの様な事にはならなかったはずです」
「はい……その通りです……。でも、彼を放っておけなかったのです」
浮かんだ涙がぽとりとテーブルに落ちた。震える睫毛が重そうに水滴を滴らしている。
話の内容について行けない状態だが、責めるレイスを見ていたくなくて私はメアリーにハンカチを手渡す。
「私は全く話が分からないのだが、メアリー……琥珀色の魔石を知らないか?」
ずっと気になっていた事を聞く。娘さんの、意思が宿っていると先生が大事にしていた魔石。先生は蘇らせる目処が付いたと嬉しそうにしたいたのだから、良くない事を行使したに違いない。
だがアストール先生があの状態ならば、その魔石を確保することが可能かも知れない。
メアリーはハンカチで目元を拭くと、私を見つめた。そして、私のハンカチを持ったまま、両手で胸元を押さえる。
「……ここに、あります……」
「っ」
その意味を理解するのは簡単だった。レイスも、ブレイムも、当然私も。そうではないかと思ってはいた。カイサル先生に魔力増殖装置を見せられた時、その疑いは確信に変わった。魔石の魔力を、人へ移動させる。そんな装置がなぜ必要なのか……それは。
「本当はロリアにつけるつもりだったと言っていました。でも、それが無理だと分かって、私にしたと。何もかも、全て話してくれました。だから私は構わないと思ったのです」
まるで昔の私の様だと思った。心に傷を負ったメアリーは、同じように心を壊した先生の望みを、理解したのだろうか。
「アント達を見ていたので、どうなるのか分かっていました。ですが……私は何も変化はありません」
「……魔石の魔力が弱いからだろう。連れ去られてすぐに付けたのか?」
「はい。私が付けると、それだけでアストールさんは別人の様になりました……。抜け殻のようになり、無気力で何もせず、一日中ただ虚空を眺めていました。ですので、私は……娘の様に振舞うことにしたのです。ご飯を作り、洗濯を掃除をこなし、彼の世話を焼きました。何日か経ったある日、アストールさんの胸にあの装置が埋め込まれていました。そして、彼は『お揃いだね』と言いました」
言葉を止めたメアリーの瞳から、再び涙が零れた。だが今度は堪え切れなかったのか、顔を覆い嗚咽を漏らす。
「その後は、もうあっという間に……みるみるうちに衰弱していって……今はもう、目を開けることさえありません」
「……そうですか……」
「自分で、終わらせたのか……」
ブレイムが静かに紡いだ言葉が、全てを語っている気がした。落ちた沈黙に、耐えられず私は先生が休む寝室へ入り込む。
暗闇の中、硬く閉じられた瞳が、表情が、それでも少し軟らかく見えるのは気のせいだろうか。
全てを理解して、それでもきっと先生は、止められなかった。自分では、きっともう止まる事は出来なかった。
「先生……先生……ごめんなさい、ごめなさい……」
私が、止めるべきだった。止めなきゃ行けなかった。誰よりも側にいて、見ていた私が……本当は止めなきゃいけなかったんだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
「ロリア様のせいではありません」
後ろから抱きしめられた温もりに、甘えてしまう。慰めてくれると分かっているのに、言わずにはいられない。
「違う、私のせいだ。私は分かっていたのに。先生の、先生の事を……分かっていたのに……」
「違います。ロリア様のせいではありません」
言葉と共に交わされる口付けからレイスの魔力が流れ込んでくる。冷たくて暖かい……そんな矛盾を抱えた優しい想いに満たされていく。
溢れる涙を拭われ、何度も贈られる口付けに、甘えてしまう。
それでも私は、もう私を見る事のない大好きだった琥珀色の瞳を思い浮かべながら、何度も何度も、謝り続けた。




