#29
アストール先生の前に立つと、いつも心は穏やかではない。昔は歓喜に、今は……なんなのだろう。この複雑な感情を表す言葉が、見つからない。
名前を呼ぶとすぐに私を正面から捉えてくれる、あの琥珀色の瞳が大好きだった。優しい声で、『私のロリア』と言って貰えるのが幸せで、そう言ってもらえる為ならなんでもした。例えそれが自分の命に関わる事だったとしてもだ。
だが、私の中に今その感情はない。アストール先生に見つめられると、何故だか泣きたくなる。先生を喜ばしたいと思う感情は産まれてくるけれど、でも全てを犠牲にしてもいいとはとても思えない。あぁ、そうか……分かった。私は止めたいんだ。今度は、ただ言う事を聞くんじゃなくて、優しくも残酷で悲しいこの先生を、止めて、助けたい。
助けたいのだ。きっとそうだ。今も昔も、その気持ちは同じだ、ただ方法が変わっただけで。
「アストール先生は、何の過剰適合者なんですか?」
心の震えを悟られないように気になっていた事を聞く。昔はそんな事気にもしていなかったが、今になって凄く知りたかった。
「おや、知らなかったですか? 私は過剰適合者じゃありませんよ」
「……え?」
「私はノルンのハンター上がりです」
「えっ」
衝撃の事実に思考が飛ぶ。
「この通り『火』も、『水』も扱えます」
そう言って先生は右手に火を出し、左で水を生み出しその火を消した。
「それに、そもそもリサーチャーはノルン上がりが多いのですよ、知らなかったのですか?」
「……知りません、でした」
「おやおや、勉強不足ですね。そう言えばロリアはあまり勉強に熱心ではなかったですね」
「……はい」
「ティバーと言う機構は過剰適合者の施設ですが、その実、上層部の人間はノルンの人間しかいないのです」
「え……」
「あなた方が雲の上の人物と崇めるマネージャー達も、元を正せばノルン上がりのハンターでしかなかった」
「そんな……」
「実力から言ったらあなた方の足物にも及びません」
「まさか……」
信じられない。私達の上の人間は、ノルン上がりのハンター……? 絶対的な実力を持つ、神の様な人達だと、私たちは教えられてきた。実際、リサーチャーである先生に私たちは勝てないはずだ。だからこそ実力が上の人が上層部にいるのだと信じて疑っていなかった。
「元々、過剰適合者の力を恐れたひ弱な人間たちが、自分たちに害を成さないように従える為に作った組織がティバーです。そして保護と教育と言う名をとって過剰適合者を研究し、弱点を熟知し逆らえなくしていっただけに過ぎません」
「……他の、リサーチャーも?」
「そうです。過剰適合者に最適な先生とは良く言ったもので、その過剰適合者の弱点を付くことが出来る最適な相手なのですよ」
「そ、そんな! アストール先生やカイサル先生は……」
「私は凄く器用なのです。そして的確な判断を素早く下せます。ですからあなた達の様な、変わった過剰適合者にはボロを出さずに立ち回ることが出来るのですよ。それに、魔法に直接に作用するより精神的に刷り込んだほうが効果的な場合もあります」
「っ……」
「それに比べカイサル先生は大変ですよ。でもあの人の身体能力は特殊で天性の勘が素晴らしいので。攻撃的な過剰適合者たちを相手に、魔法を使わせる前に肉弾戦で落とすことが出来ます」
「…………」
何も言えなかった。言われてみれば、そんな気がする。そもそも先生が訓練を付けてくれる事は殆どなかった。基本は生徒同士で、先生はそんな私達を良く観察し研究しアドバイスをくれていただけだ。だがそれはちゃんと的を得た内容だった為、私たちは純粋に強くなる喜びや先生に認めてもらいたい欲求でより鍛錬を続けていた。
「でも、ちゃんと強くなる為の訓練を……」
「そうですね。あなた方が入った時にはもうティバーとしての基礎は完成していました。すでに上の指示に絶対のティバーのハンターが出来上がっていたのですよ。ですからあなた達が反旗を翻しても大丈夫、だったはずなのですがねぇ。……逸材が揃いすぎた為と、裏切り者の」
「それは……! 今ティバーでは内乱が起きていると言う事ですか?!」
「そうですよ。そしてそれは大きな波となりつつある。誤算でしたね、あの行為がこんな結果をもたらすとは。正直私も少し焦っています。このままでは目的が果たせない」
「先生の目的って! なんなんですか?!」
「……ロリア、あなたも知っているでしょう?」
にっこりと微笑まれて、首を振る。
「無理です! 無理ですよ!!」
「無理かどうかは分かりません、実際、効果は出始めています」
「そんなっ」
「それよりロリア、こんな話をする為に私の所へ押しかけたのですか?」
心底不思議そうな顔をする先生に、出掛かっていた言葉が飲み込まれてしまう。落ちけ、冷静にならなくては。初めて知ったティバーの内情に、上層部の存在に心が乱され頭が働かない。今すべき事はなんだ? 今何をすればいい? 私は何の為に先生に会いに来た?
「……メアリーを知りませんか」
「メアリー」
冷やりと、放たれた言葉に失敗したと気付く。出すべき名前ではなかったのかも知れない。
「おやおやおや、メアリーですか。それはそれは、一番聞きたくない名前ですね」
「……一体、彼女に何が……」
「それはあなたのたくさんいるお兄さん達に聞けばいいと思いますよ」
「え?」
「……本当に、ロリアは可愛いですね。やはり手放したのは失敗でしたね。もっと私のお人形であったらもっと愛して差し上げたのに」
「アストール先生……そんなの、間違ってます……。絶対に、間違ってます!」
「そうですか? それは残念です。ですが、結果的にあなたは私の手の中にいる。あの子達の悔しがる顔が想像できそれはそれで楽しいですね」
「先生……一体何を……」
その問いには、うっすらと笑っただけで答えてはくれなかった。その後先生は私を部屋から追い出すと、また鍵をかけ篭ってしまった。結局、メアリーが何処にいるのかは分からなかった。だが先生のあの怒りようから、先生の指示ではなかった事は確かだろう。むしろ、先生の意思にそぐわない行動をしたに違いない。そしてその怒りの矛先が私のたくさんいる兄と言っていた相手達に向かっていた事を考えると、しばらくメアリーと行動を共にしていたと言うレイスの指示でメアリーは消えたのかも知れない。
……なぜ?
分からない。もう全然分からないぞ。ちくしょう、こんな事ならあの時アストール先生についてティバーに戻るなんて事しなきゃよかった。レイス達が私に全く何も話してくれてないのが原因じゃないか、コソコソ裏で動き回ってティバーを引っ掻き回してるくせにふざけやがって。……って、私がいけないのか、勝手にティバーに戻ってしまったから……。
「はぁっ……」
私は大きく溜め息を付くと、宛がわれた部屋のベッドに引っ繰り返る。行儀悪く足を投げ出し両手で顔を覆った。
あの時、全てを思い出した時、私は怖かった。怖くて怖くて仕方なくて……あのまま、皆に会う事が出来なかった。リートに、リンダに、ウィンドルフにブレイムに……なによりレイスに、会うのが怖くて恐ろしくて苦しくて……よりによって先生の元へ逃げてしまった。
ティバーで内乱が起きていたのなら、アストール先生の閉ざされた灯台の中にいるのは一番まずいかも知れない。それなのに自分からそこへ飛び込むとは……本当に私は一体何をしているのだか。
再び溜め息を吐き出し、横向きにうずくまる。胸を押さえて目を瞑ればレイスの顔が浮かんでくる。
レイスは今、何をしているのだろう……。こんな時、一番に強く思い出されるのが辛そうな切なそうな顔をしているレイスだと言うのだから、私も大概だな。本当、いつの間にこんなに私の心を占めるようになったのだろう。
ブレイムと会っても、アストール先生と会っても、側にいたいと思う相手はレイスだった。その気持ちに揺るぎはなかった。でも、それ以上に今一番会いたくない相手もレイスだ。
「……私は、どうしたらいいのだろう……?」




