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テトラ・ワールド  作者: シンG
第2章 アーリア事変
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第6話 旅人の宿の一夜

「ヒザキさん・・・」


ヒザキがオアシスの中に潜って数時間。

軽い気持ちで見送った過去の自分を後悔するように、リーテシアは湖畔で体育座りをしながら、彼の名を呼んだ。


隣にはミリティアが控えており、彼女もヒザキの安否を気にしてはいるが、今はリーテシアの心を支えるために横に寄り添っていた。


「・・・大丈夫ですよ、リーテシアさん。短い付き合いではありますが、彼がたかだか水中にもぐった程度でどうにかなるような方には思えません。きっと道に迷っただけで、すぐに戻られますよ」


可能な限り笑顔を努めたが、視線が合ったリーテシアにはすぐに見破られたようだ。


「ごめんなさい・・・ミリティアさんも心配なのは一緒なのに、私ばっかり励まされて・・・」


「・・・そ、そんなことは――」


「・・・」


「・・・」


言葉で見繕っても、どうしても本心は顔に出てしまう。

特に二面性が低い、純粋なこの二人にあっては、その傾向は色濃く出てしまう。


この空気はいけない。

気落ちばかりしていては、言葉が少なくなり、いずれは上手く喋ることができなくなってしまう。

しかしようやく国として動き始めたと思った矢先に、最も大きな柱が抜けてしまった感覚が常について回り、やはり感情は下向きになってしまうのだ。


「っと――!」


と、すぐ近くで少年の声が上がった。

ラミーだ。

その横にはサジの姿もある。


彼らはどうやらヒザキから言われた「石投げ」を試みているようで、オアシスの浅い部分から拾ってきた掌程度の小石を足元にたくさん置いて、その一つ一つを手に取り、オアシスの中央に位置する岩場に向かって投げ入れる。


ちゃぽん、という音と共に石は水中下にもぐっていく。

その位置は岩場まで全く足りていないものだった。


「くっそー! 日頃の砂掃除で鍛えた俺の筋肉がこの程度だってのかー!」


「おいおい、ラミー。ちょいと見てろよ」


「ああ?」


悔しがるラミーを他所に、サジは得意げに同じように振りかぶり、石を思いっきり放り投げた。

当然――岩場までは全然届かないにしろ、ラミーより若干奥へと水飛沫があがるのを確認できた。


「――俺の勝ちだ!」


「・・・あああ!?」


勝ち誇るサジに対して、ラミーが負けず嫌いを発揮する。

まさに売られた喧嘩を買う、というやつだ。


「なめんな、てめー!」


「はっはっは、悔しいか負け犬~」


「う、うおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」


顔を真っ赤にしてラミーは全身の筋肉を総動員して、小石を思いっきり投げ飛ばす。

その軌道を二人して見送り、やがて――サジの先の一投よりも同じか、やや奥に落ちたことを確認する。


「へ、へへへ・・・! はぁーっはっはっはっは! ざまぁ見ろ! やっぱり俺の方が強いじゃねーか!」


「は、はぁ!? ど、どう見ても俺と同じぐれぇだろーが!」


「ば、ばっか! そりゃおめーの目が腐ってっからだろ!」


「ぐ、こ、このっ・・・ぜってぇお前より先に岩に当ててやっからな!」


「俺の台詞だ!」


砂掃除の時もそうだったが、いつもこの二人は張り合っている。

リーテシアからは理解できない心情だが、心の底から喧嘩をしていないことは良く分かった。

いい意味で切磋琢磨する仲なのだろう。

そんな二人からはヒザキのことを心配する様子は見られなかった。


「二人とも・・・ヒザキさんが心配じゃないのかな」


思わず出てしまった本音に、慌ててリーテシアは自分の口を押えたが、既に遅く、しっかりとミリティアに聞かれていた。


「あ、ああっ・・・え、えと! ち、違うんです・・・、その・・・別に悪く言うつもりはなくてっ」


「ふふ、大丈夫ですよ、リーテシアさん。ヒザキさんを心配する気持ちが強いがために、他の子にもその気持ちを分かってほしい・・・そういう想いが出てしまったのですね」


「はぅ・・・」


見透かされたような感覚に、リーテシアは膝の間に顔を埋めてしまった。


「他の子たちはそれほどヒザキさんと触れ合う時間があったわけではありませんからね。リーテシアさんほど表に出る子が少ないのは仕方がないことだと思います。ただ――」


「・・・ただ?」


「あの方の背中が・・・強く、雄々しいことは出会った人、みんなが感じることです。例えば・・・ラミーさんやサジさんを見てください」


ラミーやサジにも敬称をつけるミリティアに、リーテシアは思わず「呼び捨てで大丈夫ですよ」と言いかけたが、話の腰を折るのもどうかと思ったので、そこは言葉を飲んで彼女に言われるがまま、ラミーたちの姿を再び遠目で眺めた。


「彼らは会ったばかりのヒザキさんに教えを乞い、その意図も詳しく教えられていないのに、一生懸命、石投げに励んでいます」


「そ、それは・・・た、多分単純だからじゃないかと」


今までの彼らの行動を振り返ると、いつも感情的な行動ばかりしている光景が思い浮かび、リーテシアは思わず苦笑してしまった。


「ふふ、純粋なことも一因としてあるでしょうが、もしそれだけでしたら、きっとすぐに飽きてしまいますよ」


「あっ・・・」


「かれこれ二時間も彼らは石投げを続けています。体力もかなり消費しているでしょうに、それでも・・・彼らはヒザキさんに強さを教えてもらうために、ずっと彼が出した課題を達成しようと努力しているのです。それは・・・彼らが心の底から『強くなる』ことを望み、同時にヒザキさんが無事返ってくることを疑っていないことにもなります」


「・・・」


リーテシアは驚いたように口を開けて、ミリティアを見上げた。


「信頼の形、というのは人それぞれ――ということですね」


柔和な笑みを浮かべるミリティアに、リーテシアは自分の小ささを恥じるように身を縮こまらせた。


「なんだか・・・私、一番子供っぽいですね・・・」


「そうですか? 私としてはリーテシアさんのように、顔に出して心配してくれる姿も良いかと思いますが・・・。確かに国主として立たれる場ではその感情を抑える必要もあるでしょうが――ここには貴女と親しい人間しかいないのですから。もっと甘えていただいて構わないのですよ?」


「そ、それはそれで・・・恥ずかしいので、しょ、精進する方向で頑張りたいと思います・・・」


甘える、というワードにリーテシアは照れたように俯いた。

どうやら同年代より一歩前に出ている彼女にとって、誰かに甘えるという行為は「恥ずかしいこと」という認識があるようだ。それは孤児院で小さな子たちをレジンと共に世話をする側だったことも関連しているのだろう。


「でも、そっか」


少しだけ顔を下げた後、リーテシアは何処か納得したように頷いた。


「そうですよね・・・皆、形は違えど、ヒザキさんを信じてやるべきことをやってるんですもんね」


「ええ、まだ半月にも満たない付き合いではありますが、私も一度手合わせをした身。あの方が簡単に膝を落とすことなどないと断言できます。ヒザキさんのことは信じて待つとして、私たちは決められた役割に沿って、できることをやっていきましょう」


「はいっ! ありがとうございます、ミリティアさん!」


オアシスの中を調査しに潜ったヒザキの安否が気がかりなのは変わらない。かといって、このグライファンダムには魔獣ひしめく外を歩くための戦力はミリティアしかいない。彼女を無理に引っ張って彼の捜索にあたるよりは、彼を信じて国の立ち上げに力を注ぐ方が効率的なのは間違いないだろう。


端から見れば、冷たくヒザキを切り捨てたように見えるかもしれないが、彼は彼でグライファンダムには無くてはならない存在であるということもまた必然。

だから信じて待つ。

彼が早ければ今日にでも、ひょっこりといつもの無表情で現れるのを。


(でも・・・心配した分はきっちり戻ってきた時に怒っちゃいますからね、ヒザキさん!)


先ほどまで異様に重かった腰は軽くなり、リーテシアは反動をつけて立ち上がった。

無機質な世界を見上げ、胸元で小さく手を重ね、彼女は隻腕の青年を思い浮かべながら気持ちを新たにするのであった。



*************************************



「それで湖底を辿ってセーレンス川の中流に流れ着いた、と? ヒヒ、まったく相変わらず突飛なことばかりしておるのぅ」


「そういうアンタも変わらないようだな」


窓の外はようやくヒザキの魔法による蒸気が晴れ、再び土砂降りの光景へと戻っていた。

雨に打たれながら、ヒザキが道中でたまたま狩ってきた猪の血抜きを数人の兵士が行っている。

その姿を横目に既に自己紹介を済ませたヒザキ、ヒョドリー、ヨルン、ディランの四人が暖炉の傍の木製の長椅子に腰かけ、ヒザキの此処にいたるまでの経緯を聞いていた。

薪代わりの木片がようやく乾き、火の魔法によって着火された暖炉の炎がゆっくりと室内を暖めているところだった。


「いやいや待て。今の話で気になる部分はそこじゃねーだろ。いや、そこも気になるし・・・スライムの討伐方法も気になるし、気になることしかねぇが! だがそこを我慢してでも優先して確認しねぇといけねぇことがあんぞ!」


「・・・ヒザキ殿は今、オアシスと仰いましたね」


経緯を聞いていたヨルンとディランが頭痛を抑えるように頭を押さえながら、ヒザキに最も確認しなくてはならない部分を尋ねる。


実のところ、先に自己紹介とこの場にいる経緯を話したのはヨルン側であり、その時点でヨルンたちが「アイリ王国北東部に発生した新国家に、ライル帝国の使者として向かっている」と明かしたため、ヒザキも自身が彼らの目的地の関係者であることを話したのだ。まだ不安定な状態であるグライファンダムのことを明かすことはリスクにも繋がることだが、黙っていても彼らはいずれグライファンダムに辿り着くだろうし、その際に黙っていたことが原因で話がこじれる方が厄介だと判断し、要所だけ彼らに話すことにしたのだ。


「ああ」


ディランの問いに短く答える。


「サスラ砂漠は長く、水不足に喘いできたと認識しております。理由は雨が全く降らない環境と、オアシスの枯渇。かつて砂漠全土を手中に治めてきたアイリ王国が、国有旗を回収し、今では王城のある本土だけを残して衰退していった原因もそこであると・・・」


「まあ、史実ではそうなるな」


「・・・では、史実ではなく事実は異なっていた、と?」


探る様なディランの視線を真っ向から受け止め、ヒザキは肩を竦めた。

「ヒョドリーがいる時点」で嘘をつく意味はない。何故なら彼も――サスラ砂漠の地中に水源が残っている事実を知っているからだ。そのことをヒザキは良く知っている。


「そういうことだ。セーレンス川からの分岐した水脈――それがサスラ砂漠の地下まで伸びている、というわけだ」


「ヒッヒ、その水脈を逆にたどってセーレンス川の中流に顔を出すとは、面白いことをするのぅ」


「・・・最初はここまで来る予定はなかったんだが、まあ、水源の先を知れただけ良かったと考えている」


ふとため息をつくヒザキに、ディランが控えめに手を挙げて質問をする。


「ふと疑問なのですが・・・ヒザキ殿はセーレンス川に至るまで、息継ぎ無しで泳いできたのですか?」


「まさか。さすがにそこまでの長時間潜水をすれば俺も溺れ死ぬ。水脈の途中に幾つかの空洞があってな。そこで息継ぎをしながら泳いできたわけだ」


「空洞・・・息継ぎができた、ということは空気があった、ということですね」


「ああ、光の届かない暗闇だったから確信があるわけではないが、おそらく水脈は網目のように地下に広がってるんだろうな。そしていずれも外へと繋がっている可能性が高い」


「ヒッヒ、それで戻ろうにも戻れないというわけかのぅ」


「・・・そんなところだ。一寸先も見えない水中の迷路を辿って帰ろうとするよりは、陸路で帰るほうが現実的――というわけだ」


窓の外を見る。

月明りも雨雲に隠れ、目の前の舗装路すら視認できないほどの闇夜の中、止まることを知らない大雨が音を立てて降り続いている。


「へっ、俄かに信じがたい話だが、あり得ねぇ話でもねーな」


「ほう」


「あ、なんだよ」


オアシスを含めたヒザキの話を頭を掻きながら、否定しないヨルンを見てヒザキが反応したことに、ヨルンはぶっきらぼうに返した。


「いや、見た目からして猪突猛進なタイプかと思ったが、意外と考えが柔軟なんだな」


「おっと――今ぁ俺は喧嘩を売られたのか?」


「素直に感心しているだけだ」


「感心って言ってる時点で俺を見くびってることには変わりねぇんだけどな」


「ま、まあまあ部隊長、落ち着いてください」


口元に笑みを浮かべつつも、少しだけ腰を浮かせたヨルンにディランが慌てて宥めに入る。


(・・・ヒザキの奴め、わざと煽りおってからに。ヒッヒ、思いの外そのグライファンダムとやらに肩入れしておるようだのぅ。柄でもないことをしおる。珍しいこともあるものよ・・・この大雨もそのせいかのぅ)


内心で愉しみながら行く末を見守るヒョドリー。

そんな彼の目の前でヨルンは威圧を混ぜた視線をヒザキに送り付けた。


「チッ・・・」


しかし彼はそれ以上行動に走ることはなく、再び腰を木椅子に預け、不満そうに舌打ちをした。


「わざと煽りやがって・・・俺は試されるのが嫌いなんだ。二度とやんなよ?」


「・・・そうか、わかった。どうやら俺が想定している以上にやり手のようだな。必要なこととはいえ、気分を害したことについては謝ろう」


「わざと・・・?」


ヨルンの言葉に、今度は評価を改めたようにヒザキが頭を小さく下げた。

そのやり取りに数秒、ディランは呆けてしまったが、すぐに彼らの意図を察する。


(そうか・・・、ヒザキ殿には我々がグライファンダムたる新国家に向かっている経緯を先ほど話している。つまり彼にとって・・・我々はこの先、国を訪ねてくる来訪者。その我々がヒザキ殿にとってどの程度影響を及ぼす存在なのかを探られたんだ・・・! 見た目、と言っては失礼ですが、ヨルン部隊長は荒くれ者と思われても仕方ないほどの風貌。実際、短気な面もありますが・・・そんな部隊長の気に障る言葉をわざと投げかけ、安い挑発に乗ってくる連中かどうかを試された――ということですか)


このやり取りの前は思ったことを無感情に喋ってしまう性格だとヒザキのことを見ていたが、その考えは改めないととディランは思った。

正直、ヒザキの心情は読みづらい。というより、読めない。

ディランが二階で見た一瞬だけの赤い光、大雨すらも吹き飛ばすほどの火炎魔法を駆使するあたり、只者でないことは事実だが、実力よりも「何を考えているのか」分からない、そのポーカーフェイスこそがディランにとって、ヒザキを侮れないと判断した一番の理由になった。


同時にその意図に気づき、挑発に乗らなかったヨルンに改めて敬意を胸に抱いた。


「ヒッヒ、ヒザキよ。ワシからも保証しておこう。この小童は身なりこそ盗賊のようじゃが、それなりに頭は回るし、それなりに腕も立つ。それなりに空気を読むこともできる男じゃ」


「つまり、それなりの男、ということか」


「うむ」


「うむ、じゃねぇぇぇーよ! 今のは完ぺきに打算とかじゃなく、本心からコケにしやがっただろ!?」


ヨルンは跳ね上がるように椅子から立ち上がり、ヒョドリーとヒザキを歯ぎしりを立てながら睨みつける。

その様子を淡々と見上げてから、ヒョドリーとヒザキは目を合わせた。


「ほれ、その辺で粋がっておる賊に比べれば、ここで掴みかかってこないあたり、教育がきちんとなされておるじゃろ? ヒッヒッヒ!」


「ふむ、問題を起こせば、外交問題に発展することは重々理解しているようだ」


「ぐっ、ぬぅ・・・! こ、こいつらもう殴ってもいいよなぁ!?」


「だ、駄目ですよ、部隊長!」


振り上げた拳を震わせながらも堪えるヨルンとは対照的に、楽しそうに笑うヒョドリーに、小さく頷いて「一定の信頼は置けそうだ」とヒザキ。

その何処か上座から言葉を投げられるかのような感覚に、ヨルンは怒りに顔を真っ赤にした。


「ケッ、やってられっか! 猪肉の調理が済むまで二階で剣の手入れでもしてくらぁ!」


「あ、二階は例の女性を寝かせてますよ・・・」


「別にでけぇ音立てるわけじゃねーんだから問題ねぇだろ」


ディランの忠告を無視して、自分の剣の鞘を掴み、手ごろな布を反対の手に持って階段を上がろうとするヨルンだが、次のヒョドリーの言葉でその足を止める。


「ヒザキよ、お主の相方と二人っきりにして構わんのかの? あやつ含めてこの部隊はつい先日まで戦いだけの世界に数か月おったからのぅ・・・女日照りもいいところじゃ。冷静を装っておるが、いざ目の前にしたとき、堪えきれずに襲ってしまうかもしれんぞ?」


「別に相方というわけではないが・・・成り行きでその身を預かったとはいえ、そうなってしまうのは困るな。ヨルンと言ったな。気持ちはわかるが、ここは自重してもらえると助かる」


これはいけない、とディランは汗を流した。

しかしもう手遅れだろう。

ここでどうフォローしようが、間違いなくヨルンは脳の血管が何本か逝ったに違いない。

剣を抜くことはないだろうが、過去の経験上、拳骨の一つでも見舞ってくるだろう。


ゆっくりとヨルンは登りかけた階段を逆再生のように降りていき、ゆらりと幽鬼のようにヒョドリー達の前に戻ってきた。全身の筋肉がピクピクと痙攣したかのように震えているのが肉眼でもわかる。


そしてディランの予想通り、青筋を立てたヨルンは静かに剣を置き、握りこぶしを強く作った。


「上等だぁ、コラぁ・・・! テメエら、頭蓋が陥没するぐれぇの痛みは我慢しろよぉっ!」


そしてヨルンは強靭な筋肉を捻りながら、思いっきり木椅子に座るヒザキの頭頂部めがけて拳骨を振り下ろした。発端であるヒョドリーではなかったのは、怒り心頭であっても、相手が高齢であることを配慮しているからだろう。


思わず周囲の兵士やディランは目をつぶって、続いて室内に響くだろう鈍い音を待つことになった。


「――ぁあ?」


しかし代わりに返ってきたのは、拳骨を振り下ろしたヨルンの間の抜けた声だった。


ヨルンの体が宙を舞う。

何故か?

答えは簡単だ。

振り下ろされた拳――その手首をヒザキは右手で払い、前のめりになるヨルンの慣性を利用して、宙返りさせるように後方へと投げ飛ばしたのだ。


瞬き数回分の間の後、音を立ててヨルンの背中が床につく。

床に当たる直前にヒザキが掴んだ釣り手を引いたため、ヨルンの背部にはそれほど大きな衝撃はなかったが、そんなダメージのことよりあまりにも簡単に自身が投げ飛ばされたことにヨルンは驚きを隠せないでいた。それも座っている状態の隻腕の男に、だ。


五体無事の人間が片腕に傷を負っている状態より、常に片腕を失っている隻腕の者の方が、常時その状態に慣れており、どこに重心を置けば効率よく体を動かせるか経験から熟知している分、片腕による戦闘に長けているのはわかっている。だが、それでも大きなハンデであることは間違いないのだ。


ヨルンも本気で拳を下ろそうとしていなかった分だけ、他の動作に力を配分できる余力はあった。

つまり、ヒザキが何かしらの反撃体制を取ろうとしても対応できるだけの構えを取っていたのだ。

故に――彼は驚く。

その上で、投げられるまで「投げられたこと」を理解できないほど、見事に捌かれたことを。


「すまない、今の件については別に怒らせるつもりはなかったんだが・・・」


しかもこの態度。

投げ飛ばしたこと事態は「当たり前」のようだと言わんばかりに、ヒザキはヨルンが憤慨したことに対してだけ言及した。


しばらく仰向けの状態で呆気に取られるヨルンだったが、やがて堰を切ったかのように笑いだした。


「く、くく・・・はははは! こりゃ参ったぜ・・・! 魔獣を相手にしたって、んなアホみてぇなざまは見せねぇぜ!」


「ぶ、部隊長・・・?」


反応に困るディラン。ヒョドリーは頬の皺を指でなぞりながらヨルンの動向を見守った。


「くっくく・・・、ここまで見事に投げ飛ばされたのはガキの頃以来だ・・・!」


「・・・そうか」


何と返すべきか悩んだあげく、いつもの短い返答だけを口にするヒザキ。

そんな彼と目を合わせるように床に胡坐をかき、ヨルンは口の端を上げて笑った。


「へっ、くだらねぇ任務だと頭ん中で片づけてたが・・・ようやく興味が湧いてきた。俄然、やる気もな! っし――!」


落ち着かない子供のように、すぐに立ち上がり、ヨルンは「おい! さっさと猪掻っ捌いて飯にすんぞ!」と声を張って、部下に命じる。


「部隊長、まだ血抜き中ですよ・・・」


「ああん、肉なんざ焼けば血があろうがなかろうが、同じ味だろう?」


「見事な体格の猪ですからねぇ・・・一度には食べきらんと思いますよ。きちんと血ぃ抜いとかんと残った肉がすぐに腐っていくんですよ。だから血抜きってのはちゃんとやっておかないと後で後悔するって話ですわ」


軒下で猪の頸動脈に短剣を突き刺し、玄関脇で血抜き作業を行っていた部下が窓越しに説明をする。


「それに猪は体毛が固いうえに、寄生虫も多いですからねぇ。鹿と違って肉の処理はやや面倒なんですよ。だから予定通り二階で剣の手入れでもしといてください」


「う・・・に、二階はもういーんだよ。わぁったよ、終わるまで待つから頼むわ」


「了解」


動物の解体に関しては部下の方が上なのか、ヨルンはそれ以上は何も言わずに自分の剣を再度手に取り、近場の椅子に腰かけて手入れを始めた。


そんな部隊長を見て、部下の面々が声を揃えて言葉をかける。


「あれ、手入れは二階じゃなかったでしたっけ?」


「部隊長、ここは一階で二階は階段の上っすよー」


「手入れ場所、間違えるなんて部隊長もお茶目ですねぇ」


明らかに冗談と分かっていつつも、ヨルンは額に青筋を立てながら「っせぇぞ、ゴラァ! 手入れの前に剣の錆にしてやろうか、テメエら!」とがなり立てた。彼が本気でないことを理解している部下たちは思わず笑いだし、ヨルンもそれに対して「ったくよ・・・」と苦笑して手入れを開始した。


「・・・どうやら機嫌は治ったようで安心した」


ヨルンを遠目に、ヒザキは小さく肩をすくめた。


「ヒッヒ、その辺のプライドだけで固められた盆暗ぼんくらなら、先の一投げで激昂しておったじゃろうが、そうならずに敗北を認めて笑い飛ばすあたり、中々に今後の見所がありそうな小童じゃのう」


「は、はは・・・私も部隊長のように豪快に物事を判断できるようになりたいものです」


苦笑しながら、先の事態をヒヤヒヤしながら見送っていたディランが呟いた。

それに対して、ヒョドリーが「何を言っておる」と目を丸くして答えた。


「お主が冷静に判断する分、あやつが馬鹿できるのであろう? お主までがあやつと同じようになってしまえば、この部隊はバランスが崩れ、ちょいと突けば散ってしまうような惰弱なもんになってしまうじゃろうよ。ディランと他の兵たちの力があるからこそ、ヨルンは無茶できるのじゃよ。そこを履き違えてはならんぞ」


「ヒョ、ヒョドリー殿・・・」


感銘を受けたかのように顔を上げるディラン。

同時にわずかに目を開いて、ヒザキはヒョドリーを見た。


「なんだ、アンタにしてはまともなことを言うもんだな」


「ヒッヒッヒ、可愛い小鳥たちが小さな羽を必死に羽ばたかせようとしておるのじゃ。その様子を見守り、時には助けてやるのが老後の楽しみであっても問題なかろう?」


「ろ、老後の楽しみ・・・」


独特な言い回しにディランは目を細めて困ったような表情を浮かべる。


「そして、ヒザキよ。それはお主にとっても通じるものがあるんじゃないかのぅ?」


「・・・・・・」


「ヒッヒ、ズバズバと空気読まずに言葉を並べるお前さんが、思わず言葉が出ないほど入れ込んでおるのかのぅ? こりゃグライファンダムとやらに出向くのが楽しみになってきたわい」


「・・・先に言っとくが、あの国に余計な真似をしようものなら容赦はしないぞ」


「ヒヒ、決めるのはこの目で確かめてからになるだろうが、お主が惚れ込んだ国なら悪いようにはならんじゃろうて。それにワシとお主が本気で喧嘩でもしようものなら、大事おおごとになりかねんものよなぁ」


「俺もそんな展開は御免だ」


(け、喧嘩って・・・)


痩せ細った老人のヒョドリーが、ヨルンを軽々と投げ飛ばしたヒザキと喧嘩。

その光景が全く想像できなかったディランは、ただただ天井に視線を送って眉を八の字にした。


(ヒョドリー、ライル帝国、か・・・。使者として向かう者が彼らだったのは幸運だったかもな。もっともヒョドリーは知らんが、彼らも帝国に身を置く者として上からの命令には逆らえないだろう。折り合いがどこでつくかを予め探っておく必要があるかもな・・・。行先が同じだったのは助かるが、リーテシアたちに不利益にならないよう、道中で彼らとは利害関係を明確にした上で、協力関係を結べれば御の字といったところか・・・)


そう算段を並べるヒザキだが、反面、出来るだろうかという不安もある。

現に先ほどヨルンにわざと煽りを入れた件は見抜かれたが、そのあとに何げなく口にした言葉は彼を怒らせてしまった。

つまりヒザキは圧倒的に「普通のコミュニケーション」が弱い。

温和なリーテシアたちや、生真面目なミリティアなどに囲まれていたから見逃してもらった部分もあるだろうが、間違いなく初対面の相手には失礼に値する言葉を発してしまう危険性があるのだ。

一応、気を付けているつもりなのだが、どうにも長い時間を独りで過ごしてきたヒザキとしては、ちょっと油断するとそういう一面が出てしまうのだ。

こればかりは深層意識に根付いている部分のため、注意していても出てしまう悪い面だった。


(・・・できるだけ早く、ヒョドリーに協力を取り付ける必要があるな)


なので、フォロー役がいると非常に助かるのだ。

という面からも、ヒザキはヒョドリーとの連携が必要と判断し、ふと対面に座る老人と目が合う。


ヒョドリーはその視線から察したようで、ニヤッと嫌な笑みを浮かべた。


「ヒッヒ、力を貸すのはやぶさかではないが、それなりの見返りは求めるぞ」


「・・・やれやれ、面倒なことになったものだな」


「そうかのぅ? ワシはこれから起こるであろう変化に久々に胸が躍っておるぞ」


「だから面倒だと言うんだ・・・」


彼にしては珍しく、盛大な溜息をつく。



意図せずして邂逅したヒザキとヒョドリーたち。

この出会いが産声を上げたばかりのグライファンダムにどのような影響を及ぼすのか、それはまだ誰も知らない未来であった。


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