第68話 月下怪奇
深夜四時。
静まりかえる廊下の上を、ペタペタと裸足で駆ける音が響く。
王城の内廊下を一つの影が疾走する。
薄汚れたローブを頭から被り、その素性は外からは窺い知れない。
だが体型や身長から、リカルドのような猛獣を擬人化したかのような筋骨隆々ではなさそうだ。
時折見える足首から、どちらかと言うと細身の人間である可能性が高い。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁっ――」
走る。
目的地はあるのか、と問われれば「場所」という概念で答えれば――無い。
しかし「場所」に捉われないのであれば、その者は「死」という終着点こそ目的に駆けているのかもしれない。あえて「場所」として指すならば、誰にも見つからない場所で最期を遂げたい、と言ったところだろうか。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁっ――」
息が切れる。
疲れからか、それとも――別に原因があるのか。
その者は腹部を右手で抑えながら、時折、バランスを崩したかのように壁に肩をぶつけた。
全身を小刻みに震わせ、体調に何かしらの問題を抱えていることは明白だ。
それでも一分でも立ち止まることを恐れているのか、震えが小さくなったタイミングで再び走り出す。
「はぁ、はぁ・・・」
最後に砂利や砂で汚れた足を向けたのは、一般兵たちが日中に鍛錬を行っている訓練場だった。
「――っ、ぐ・・・」
鳩尾のあたりを強く両手で押さえ、せり上がる何かを抑え込むようにして中腰の状態で立ち止まる。
ローブの陰から見える頬には大量の汗が流れており、強く歯を食いしばる。
顎から垂れた汗の滴が足元に溜まったの砂の色を変えるほど流れてから、ようやく動きを再開する。
先ほどまで走っていたはずの体が上手く動かなくなってきたのか、一歩一歩を踏みしめるように前へと進んでいく。
「・・・はぁーっ、はぁーっ、ぁ、ぅぁ、はぁっ、・・・はっ――・・・!」
その先には一般兵の兵舎脇にある武器庫があった。
武器庫の建物を一瞥し、そこを目指してゆっくりと歩いていく。
蛇行しながらも何とか武器庫の扉の前までたどり着き、扉を開こうとする。
だが当然、鍵で閉められており、扉は引けど押せどもビクともしなかった。
「そんな・・・」
今日は雲も少なく、月の光で良く周囲が見える。
その月明かりを見上げ、その者はゆっくりとその場で尻餅をついた。
冷静に考えれば、武器庫に関わらず、夜間に人が出入りする必要のない場所は施錠されているのは、この王城内で常識といってもいい習慣だ。
そんなことにすら頭が回らなかった自身の余裕の無さに苛立ちを覚えたが、今はそれどころではない。
地面に手をついて、よろけながらも立ち上がる。
「はぁ・・・っ、ぐぅ・・・ど、どうしたら・・・」
膝に手をつき、次にどうすべきかを必死に考えているところで――何処からか声がかかった。
「こんな夜更けに武器庫に何か用かい?」
その初老の声には聞き覚えがあった。
声に反応して、ゆっくりとローブの者は横へと視線をスライドさせていく。
武器庫と併設されている兵舎の壁で視線は止まり――そこには一人の老兵の姿があった。
兵舎の壁に背中を預けているのは、ギリシア=ガンマウェイ。一般兵を連なる総隊長の姿だった。
ギリシアは壁から背中を放し、困ったように眉を下げて顎鬚を指で撫でた。
「困るねぇ・・・『伝令』も大事な仕事だっていうのに、こんなとこでサボってちゃ」
「っ・・・!?」
その言葉に背筋を凍る想いをしたのか、その者は肩を震わせてギリシアを見た。
迷い、困惑、悲しみ、そして絶望。
空気を通して伝わってくる感情の奔流。短い挙動だったが、長年の経験から来る「人を見る目」というのは中々に馬鹿に出来ないものだ。ギリシアは月明かりに照らされた人物に「現時点では」悪意がないと判断し、彼も戦う姿勢は見せずに世間話でもするかのように話しかけた。
「・・・」
様子を探るように鋭い視線を向けたギリシアだったが、それも一瞬のこと。
頭を掻きながら深い息を吐いて、おどけてみせた。
「なるほど、最悪なシナリオとしちゃ・・・君が謀反を起こして『相方』を始末したんじゃないかって思ったけど――」
「ち、違いますっ!」
「だろうねぇ・・・君には誰かを傷つけるような悪心は感じなかった」
「・・・ぇっ・・・?」
明確な言葉を口にしたことでローブを被った者が女性だということは分かったが、予めその正体にアタリをつけていたギリシアにとっては、新しい情報ではなく、自身の憶測をより確固たるものにする情報となった。何よりこちらの問いかけに過剰に反応したのが、確信に至る何よりの情報だった。
ギリシアは相手を安心させるように、小さく笑みを浮かべた。
そして一歩、近づこうと足を踏み出したのだが――それは悲痛な叫びによって止められてしまった。
「だ、駄目ぇっ!!」
「――」
幾度の戦場を渡り歩いた老兵といえど、全身全霊を言葉にかけて放たれた懇願の前には足を止めざるを得なかった。
「はぁ、はぁっ――・・・お、お願いです・・・ギリシア様」
「・・・なにかな?」
腹部を抑えながら女性は猫背になる。
立っているのも辛そうな状態で、女性は力を振り絞って声を出す。
「わ、私を・・・殺して、ください・・・」
「・・・武器庫に来たのは、自害するための道具を探しにきたから――かい?」
「は、ぃ・・・」
尋常ではない汗の量に、覚束ない足元。しきりに腹部を抑え込もうとする仕草。そして死を選ばなくてはならないほど、追い詰められている状況。彼女から得られる情報の断片を紐付して「解」を導き出そうとするが、まだまだ情報は少ない。
「状況を整理したいねぇ。少し話を聞かせてもらえないかな、ウィンフィル=アズナー君」
名を呼ばれ、女性は隠しても仕方がないと諦め、震える手でローブを避けて顔を出した。
月の光の下に、その素顔が映し出された。
年齢は20代半ばで身なりをきちんとしていれば可愛らしい顔立ちをしているだろう、その女性は乱れ切った髪を直そうともせず、やつれた表情を浮かべていた。
その姿は見間違えるほど憔悴しているものの見覚えのあるものだった。
ウィンフィル=アズナー。
数日前、サリー・ウィーパの件でヒザキたちと会合を行っていた際に、ギリシアが鋼液の特性について注意喚起を促すための伝令を任せた二人組のうちの一人だった。
だがその任務は遂行されていないことは、先日のビッケルの言から割れている。
この数日で何があったのか。ギリシアにはそれを紐解く義務がある。
「じ、時間が・・・ない、んです・・・」
「時間? それは何の――いや、君の今の『症状』に関係するのかい?」
喋るだけでも億劫な相手に、一から事情を聞きだすのは難しい。
ギリシアはある程度の憶測を立てて、こちらから質問を投げかけ、彼女には可能な限り「はい」か「いいえ」で答えられるよう会話を誘導することにした。
ウィンフィルが小さく頷く。
それを確認してギリシアは話を続けた。
「君と一緒にいたカーラ君は・・・どうなったか知っているかね?」
「――っ!?」
その名前を耳にした瞬間、顔を上げたウィンフィルは泣きそうな顔をしていた。
下唇を強く噛み、嗚咽と涙をのみ込んで我慢するも、あふれ出る悲哀の感情は彼女の顔を歪めさせていた。
「・・・知っているようだね。彼は地下の浄水跡地で遺体となって見つかったよ。損傷が激しかったが・・・奇跡的に頭部だけは判別可能な状態で残っていてね。だがハッキリ言って、死因が全く分からない状況だ。魔法による攻撃、というのが可能性としては最も高い・・・少なくとも魔獣や魔法を持たない人間による殺害ではないと踏んでいるんだ」
ブンブンと激しく首を振るウィンフィル。
それはギリシアの言葉を否定する意味なのか、それともカーラの死を思い返す話を聞きたくない想いからくる行為なのか。その真偽は分からないが、今は彼女の真意を深堀するよりも事実を聞き出すことが優先だ。心苦しい尋問だというのは理解しているが、状況を正しく理解できないことには何の力にもなれないことも事実。ギリシアは顎鬚を弄りながら、続けて口を開いた。
「彼の遺体付近には風の魔法を使ったと思われる痕跡があった。君は犯人に何かしら心当たりはあるかね?」
ギリシアはミリティアから報告があった、血痕が不自然に塗りたくってある箇所を思い返しながら、その痕跡の原因が風魔法であると断定しているかのように言った。
本音の部分では風魔法が関わっているかは不明と言うべきだろう。
痕跡から見て取れるのは、カーラが何かしらの攻撃で全身を爆発させたかのような死を遂げ、その拍子にまき散らされた大量の血液に汚れるのを嫌って風魔法を発動したのではないかと思っている。風魔法によって避けられた血の雨。その痕跡が余りにも不自然だったために後から周囲の血を被せるように上からかけた。だが結局は、ギリシアの中でそう考えるのがしっくりくるだけの話で、何の根拠もない想像の中の話だ。
その上で断言したのは、彼女に対してカマをかける意味も含めていた。
しかしその思惑は空ぶってしまい、彼女は静かに首を横に振るだけだった。
「・・・ぁ、・・・、・・・、・・・・・・っ」
「・・・・・・?」
突然、ウィンフィルの様子がおかしくなる。
先ほどまで腹部を抑えていた手はいつの間にか顔を覆う位置に移動しており、震え――というより痙攣したかのように連続的に揺れていた。
顔を覆う指の隙間から見える眼球は目まぐるしく四方を移動し、その口元からは泡のような唾液があふれ出ていた。
「・・・っ、ま、た・・・、も、ぅ・・・・・・っ」
(――! 限界か・・・何の症状かは分からんが、これ以上は危険と判断するしかないねぇ)
尋常ではない様子にギリシアは尋問を中断し、彼女の介抱を優先すべく駆け寄ろうとする。
――――――。
ギリシアがその行動に移れたのは、本当に「奇跡」に近いといっても過言ではなかっただろう。
数多くの戦場を、人や魔獣を相手取り、かつては各国に恐れられていた実力者であるからこそ、脳が状況を把握せずとも、全身の肌が危険を感じ取ったのだ。
意志とは反して、ウィンフィルから距離を取るように後ろへ飛びのく。
ギリシアも自分自身の勝手な動きに驚いたが、その理由はすぐに理解することになる。
ギリシアが踏み込もうとした位置の地面に大きな亀裂が入る。
まるで見えない強靭な刃に削られたように、だ。
「・・・」
反射的に二本のグラディウスを抜く。
鞘にこすれる音と共に、グラディウスは月光に刀身を光らせた。
「いやいや――・・・せっかく意識を取り戻したっていうのに、出来ることは助けを求めることだけかい? ヒヒヒ・・・そりゃ期待外れもいいところだよ」
深夜の闇に響く、勘に障る声。
ギリシアは一切表情を変えずに、声の方向へと視線を向けた。
「そろそろ変質する頃合いと踏んで、決闘の場に置いてきてあげたっていうのに・・・まさかそこで自我を取り戻してここまで持つとは予想外だったよ。俺としては、あの子とアイツの戦いの場で大きく狼煙を打ち上げるっていうのが理想だったけど、まあそれはいっか。最初から最後まで俺の気分で動いてる計画だし・・・ヒヒッ」
(随分と喋る男だ。自己顕示欲が高いタイプかねぇ・・・しかし――)
ギリシアは意識の半分を警戒側へと残し、もう半分を自分の記憶の蓋を開ける作業に割いた。
この男の声が何処か引っかかる。
既視感、と言うべきか、奴の声質に覚えがあるのだ。
少し揺さぶってみるか、とギリシアは口を開いた。
「あの子とアイツ、って言ったけど・・・それはもしかしてミリティア嬢とヒザキ君の決闘のことを指しているのかい?」
「ヒヒ、ああそうだよ。決闘そのものは想定外だったけど、中々面白い見世物だったね。ま、あの子が敗ける姿ってのはあまり見たくなかったけど、・・・あの化け物が相手じゃ仕方ないか」
「・・・まるで昔から知ってる口ぶりだねぇ」
「――そうさ、因縁があるのよ、俺らには・・・ヒヒ」
一瞬だけ躊躇があったものの、男はハッキリとミリティアたちと面識があることを告げた。
自身の正体が明かされない自信があるのか、それとも――正体を隠す必要がない理由があるのか。
「因縁、というほどでもないけど・・・俺も何処か心当たりがあってね。君の声・・・喋り方こそ違えど、何処かで耳にした覚えがあるんだよねぇ。それも一回や二回じゃない・・・何度も言葉を交わしている気がするんだ」
「・・・ヒヒ、ま、そうかもね~」
間延びした語尾に対して、ギリシアは眉を少し動かして闇の向こうに視線を送った。
「ああ、今少しだけ――君本来の喋り方をしたね。それともそっちが『噓』の喋り方で、今の君が本来の姿だったのかな?」
「――さてね」
短い言葉だったが、相手が警戒を強めたことが良く分かった。
冷たく鋭い、氷の刃のような声。
正体が割れるよりも、ギリシアのペースで喋らされていることが気に食わないように聞こえた。
「ぅ、ぁ・・・! ぁ、ごふ、・・・」
なおも苦しみ続けるウィンフィル。
口元から溢れる泡の量が尋常ではない。それに何処か香る――柑橘系の匂い。
この場には相応しくないと言っても良い清涼的な匂いに、逆にギリシアは肌寒い嫌悪感を抱いてしまった。
「・・・君と世間話をするのも悪くないが、まずは彼女の介抱をさせてもらおうかな。邪魔しないでもらえると助かるんだが、どうだろうか」
「・・・ヒ、ヒハハ! 介抱っ? く、くくく・・・、ああいいぜ、ご自由にどうぞ」
「・・・」
一歩踏み出すが、闇の向こうから攻撃を仕掛けてくる意志は感じられない。
先の攻撃はおそらく風魔法によるものだろう。遠距離からの攻撃、それも風を応用した攻撃のパターンを頭の中で予め想定し、ギリシアは風魔法の多彩な攻撃に対して即座に適応できるようイメージを固めた。
二歩、三歩と近づくにつれ、ついに膝をついたウィンフィルの姿が大きくなる。
痛ましい姿だった。
全身から生気が抜け、元々の姿を知っているだけにその変わりように胸が苦しくなる。
「・・・」
もっとも、本当に胸を痛まなくてはならないのはこの後の結末だ。
二本のグラディウスを携え、やがてギリシアは彼女の目の前に辿り着いた。
「うげ・・・ぐ、ぁ・・・・・・ぉ、っ、こ、ころ・・・し、・・・てっ・・・ぁ」
まだ理性があるのか、ウィンフィルは俯きながらもギリシアが目と鼻の先にいることを察し、途切れながらも死を望んだ。ローブの隙間から体中を掻き毟った跡が見えた。おそらく痛みで自制を保とう試みた跡なのだろう。今も地面を爪で引っかいたり、頭部や腕部に爪を立てたり、自傷行為を続けている。
「ウィンフィル君、すまなかったな。俺はこの国の裏に潜む、腐った芽の存在に気付けなかった。その結果が君を苦しませるものとなってしまったことを――深くお詫び申し上げる」
普段のおどけた口調ではなく、心から詫びの一心を伝えるための、彼なりの誠意を込めた話し方で言葉を紡いだ。
「―-、ぁぁぁああぁぁ、っ・・・ぅ・・・」
返事をしようとしたのだろうが、彼女の喉奥から漏れてきたのは、意味を持たない唸り声だけだった。
「君の憎しみと怒り、そして悲しみは俺が背負おう」
右手に持つグラディウスを掲げる。
「君の魂は此処に」
左手のグラディウスももう一方の一振りと交差させるように掲げる。
「カーラ君の魂は此処に」
そして、
「確かに請け負った」
二本のグラディウスは夜の闇を裂き、眼前の女性の首を刎ね飛ばした。
月に照らされるようにウィンフィルの首は飛んでいき、やがて重力のままに何回か跳ねて転がって行った。
鮮血が頸動脈から噴き出る。
あまりの容赦の無さに動揺が走った。
誰の?
言うまでもない。
仮に月明かりが無くとも、完全なる黒の闇の中であっても、老兵の感覚を掻い潜ることは不可能に近いだろう。それだけギリシア=ガンマウェイの全神経は研ぎ澄まされていた。
「――どうした?」
暗闇に問いかける。
「随分と心音が響いているぞ? まるでこの二本の剣の錆になりたがっていると見える」
「――!?」
ギリシアの殺気が高まった瞬間、男は元いた位置から移動して、ギリシアの死角となる方角へと退避した。だがまるで、真昼に目で追っているかのように、彼は性格に男の移動先へと体を向き直り、口の端を上げた。
「ヒヒ、怖ぇオッサンだよ・・・だけど、なぁ――!」
未だ姿を見せない男が、まるで形勢逆転の合図となる声を上げた。
呼応するように、辺りに甘い匂いが充満する。
ゴポ、と何かが泡立つような音がしたかと思えば、唐突にウィンフィルの胴体が跳ねあがるように起き上がった。
男に向き直る形だったため、ギリシアの背後でウィンフィルの亡骸が起き上ったことになる。ギリシアは咄嗟に前方へと駆け出し、振り向き様にウィンフィルの体に何が起こったのかを見た。
「・・・・・・!」
「そいつをたたっ切ったのは正解だったぜぇ・・・けどなぁ、首を飛ばした程度じゃ、孵化は止まらねえのさ! ヒヒ・・・容赦なく殺したときぁ驚いたが、結果は何も変わらねえってこったぁ!」
「・・・」
ウィンフィルの体は徐々に膨張していき、耐え切れなくなった肉の裂け目から鮮血が飛び散っていく。
まるで趣味の悪い噴水だ。
人の死を冒涜する光景に、立場が逆転したと判断して調子を戻した男の声が木霊する。
「ヒヒヒヒ、改良に改良を重ねた『卵』だ! 実験の結果よぉ、やっぱり『産む』って行為は女の方が相性がいいみたいでなぁ! コイツの成功した姿を見送ったら、いよいよ仕上げだ・・・クヒヒ、ああ・・・楽しみだなぁ」
「・・・吐き気がする台詞だが、なるほど。目的も原理も不明瞭な部分が多いが・・・ここ数年の不可解な現象も全て貴様が原因だと仮定すれば、案外つじつまが合うのかもしれないな」
「・・・あぁ?」
もはやウィンフィルの原型すらも留めない大きさまで膨れ上がった肉塊。
四メートルはゆうに超える団子のような肉体から、八本の手のような触手が伸び、最後に蛇――に近い頭部が突き出てくる。
「魔獣――と称するには、見たこともない姿だな」
阿鼻叫喚してもおかしくない光景を目の当たりにしてもなお、ギリシアは冷静に言葉を吐いた。
「ヒハハッ! そりゃそうさ! 魔獣と呼ぶ奴らと同じ過程を踏んだとはいえ、それは『その女』から産まれた化け物なんだ! 同じ人間なんていねぇだろ? それと同じさ・・・ヒヒ、そうだなぁ、魔獣ウィンフィルとでも名付けてやろうか? ヒハハハハハハァッ!」
「地下の魔獣も同じか?」
法螺貝を吹いたような産声を上げながら、かつてはウィンフィルだった新たな魔獣は、ギリシアの姿を確認すると、ゆっくりと足のような触手を蠢かしながら近づいてきた。
「ああ、あれな。あれは失敗作だったぜ・・・やっぱり野郎の体に埋め込んだところで、未成熟な魔獣しか産まれねぇみたいだな。ま、最初は小せぇ一個体しか腹ん中から出てこなかったってのに、宿主の体を食い散らかした途端、分裂して一気に増殖したときは驚いたぜ? ま、結局は弱ぇ個体が群がっただけのつまらない結果だったけどな」
「・・・良く喋るな。景気よく答え合わせに付き合ってくれるようだが、構わないのかい?」
ギリシアの言葉に、間を置いた後に急に噴き出したように嗤う声が響いた。
「ヒヒ、ヒハハハハ! ああ、問題ないよ・・・そいつは今までで一番安定している個体だ。アンタを葬るには丁度いい相手だろ?」
「・・・なるほど、死人に口なし、ということか」
キィン、とグラディウスを鳴らし、ギリシアは月の光を遮るようにしてゆっくりと迫る魔獣と向き直った。
(ヒヒ、もっとも・・・そんな鈍足にアンタを倒せるとは思えねぇからな。アンタにトドメを刺すのは――)
ギリシアの背後、一般兵舎の屋上に風の魔法陣が形成される。
魔素の光に照らされ、外套を被った男の姿も闇夜に照らされた。
(俺の方だけどね!)
魔法陣が砕け散るとともに、鋭く対象を穿つ風の槍が宙に構成され、男が指先で合図をすると同時に槍はギリシアの背にめがけて放たれていった。
鋼鉄製の盾でもなければ容易く貫かれるであろう風の槍は、ギリシアの背中に吸い込まれるように突貫していき――、その寸前で切り払われた。
「随分と――甘く見られたものだ」
反転し、二本のグラディウスで十字を描いて風の刃を打ち払った。
男の浅はかな誘導など、ギリシアにとっては児戯にも等しい。予見した通りの攻撃を自慢の愛剣で斬り、斬撃の綻びから解かれていくように風が四方に吹いていく。
その風の切れ目から、確かにギリシアは屋根の上にいる存在を視界に納めた。
『ォォォォォォォォォォォォォォォ・・・』
重低音の咆哮を上げながら、ギリシアのすぐ背後まで魔獣が迫りくる。
ウィンフィルの面影もないその存在の眼にギリシアがどう映っているのかは分からないが、敵意をこちらに向けているのは、どうやら間違いなさそうだ。
「・・・ヒ、ヒヒッ! 挟み撃ち、だ――!」
ギリシアの防撃に虚を突かれて呆けていた男だが、魔獣が老兵に対して攻撃を仕掛けようとしていることを見て、次の魔法を展開しようとする。
全く以って、愚かである。
ギリシアは静かに息を吐き、小さく呟いた。
「炎よ、聳え立て」
「っ!?」
『ォォォォォ・・・』
赤く燃え上がるような魔法陣が魔獣の足元に形成される。
火の魔法陣など見飽きたと言ってもいいほど、珍しくもなんともないものだが・・・その魔法陣は目を剥くほどの特徴があった。
四メートルほどの高さと、横にただれた胴体を持つ魔獣の足元を覆い切るほどの巨大さ。
それは風魔法の男が見てきた中でも最大級の範囲を誇っていた。
ギリシア=ガンマウェイはミリティアのように魔導剣技や身体能力の補助として魔法を扱う器用さは持ち合わせていない。魔法回数もミリティアとそう変わらない方で、少ない部類に入るだろう。
だから彼は魔法に頼らず、剣で戦う道を好む。
しかし元々ライル帝国の将校だった彼が戦場を生き残るためには、剣技だけではどうしても難しい場面が多々あった。戦場とは、相手が人であっても魔獣であっても、一対多を強いられることが多いのだ。
いかな達人であっても、千を超える矢を打ち払うことはできないし、複数人の強者に囲まれれば敗れる可能性は非常に高い。ましてや魔法と接近戦を織り交ぜた戦術で向かってこられた日には、太刀打ちすらできずに敗北を喫すかもしれない。
だから牽制や、戦況を打開するために彼は魔法をある方向に特化することだけを考えていた。
威力重視をイメージした、砲撃型の魔法。
キィンと、二つの刃を互いに鳴らし、ギリシアは片目を瞑り、それを黙とうの意として命を落とした二人に捧げた。
魔法陣が砕け散り、地面から上空に向かって――巨大な火柱が吹き上がる。
『ォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ・・・』
抑制のない声、もとい音を漏らしながら魔獣は火柱に飲み込まれ、全身を焼かれていく。
同時に火の光に照らされ、辺りは火柱を中心として日中のような明るさになった。
「なっ・・・!?」
屋根の上まで立ち上る火柱をみあげ、男は思わず立ち上がった。
そして男が一瞬目を離した隙に、ギリシアは器用に一般兵舎脇にある物置の壁に足をかけて登り、物置の屋根から兵舎の屋根へと縁を上手く活用して移動していった。
とても60を超えた男の動きとは思えないほど、俊敏であった。
火柱を背に、ギリシアは普段では見られない敵を射殺すほどの眼光を男にぶつける。
「・・・・・・ああ、まったく・・・どうして、こう上手く事が運ばないんだろうねぇ」
「人の世において、悪事を働く者は総じて消えていく運命に在るものだ。なに、貴様もその慣習に倣って身を委ねるがいい」
「ヒヒ、まだ・・・死にたくはないねぇ」
「貴様に選択権はない。拒絶しようが泣きわめこうが、我が双剣の錆になることは決定事項だ」
ギリシアはグラディウスを構え、一分の隙も見せずに男との間合いをジリジリと詰めていく。
二人の戦いを開始するゴングのように、地上では火柱に炭化させられた魔獣が音を立てて地に伏せる衝撃が足元を通っていった。
「やれやれ、あの女・・・せっかく感情を昂らせるように仕向けたっていうのに、結局はこの程度にしか成れなかったか。変質も何度か症状を見せたっていうのに粘って耐えてたし・・・純粋に女の体だけがカギってわけじゃないみたいだね。ヒヒ・・・ま、実験にはいつだって失敗はつきものだからねぇ、これも貴重な経験、ってわけだ」
「驚いたな。この状況下でまだ『次』があると思っているのか?」
「一応、計画は次段階まであるんだ。こう八年前から失敗続きだと自信を無くしちまいそうだけどよ・・・、せめて次の分までは見守らせてくれないかな?」
男は両手を広げ、風の魔法陣を胸元に顕現させる。
ギリシアは火魔法での応戦を一瞬考えたが、すぐに思考から振り払った。
この距離では剣技で対応した方が速い。
背を低くし、屋根の上を猛スピードで駆け抜けた。
男から見て左斜めに走っていく格好だ。
当然、男もそちらに狙いをつけて風魔法を放ってくる。
今度の魔法は風の球体を飛ばしてくる形状のようだ。
「ふっ!」
ギリシアは正確に襲い掛かってくる風の球を一刀のもと、両断してかき消す。
「ヒヒ、あんたの魔法は威力は高いけど、その分でっかい魔法陣を作る必要があるからな! 形成に時間がかかる分、小回りの利くこっちの魔法が有利ってなわけさ! 同じ土俵に上がってきたのは、ちょいと早計だったんじゃないかいっ?」
「いらぬ心配だ」
二発、三発と風の球がギリシアに向かって放たれるが、いずれもグラディウスの斬撃の前に断たれていった。
拮抗した戦いに見えなくもないが、徐々に二人の間は詰まっていき、ギリシアが徐々に攻撃範囲に到達できるよう近づいてきているのが分かる。
小さくステップを重ねながら、相手の魔法をいなし、一歩、また一歩と近づいていく。
炎の魔法さえ使わせなければ、早い遠距離攻撃を扱える自分が有利だと思っていたが、ギリシアの剣技の前に何ら成果を出せない展開に、男は思わず苦笑した。
「・・・使い古された人間が行きつく『終わりの国』だってのに、なんでこうもネジ外れた強ぇ奴ばっかいんのかねぇ! まったくもって納得いかねぇぜ・・・爺は爺らしく、床についてろっての!」
今度は風の刃だ。
攻撃が見えづらい上に、この時間帯ではほぼ視覚で判別することは不可能だ。
しかしギリシアは魔法陣の角度と高さから逆算し、攻撃が来るであろう範囲を予測し、それよりもやや広い範囲から抜け出すようにして屋根の上を駆け抜ける。
一秒も経たない後に、予想した範囲の屋根に斬撃のような傷跡が出来上がる。
「確かに人が住むには過酷な環境である上に、財政も壊滅的なこの国だ。周囲から『終わり』などと揶揄されても致し方ないことかもしれんな。だが表面上は諦観に染まっていようとも、この国に行きつく者も、新たに産まれる者も、誰もが――未だ見ぬ希望とやらを諦めきれていないのだよ」
「はぁっ?」
躱せる攻撃は余裕を以って躱し、躱しきれない攻撃のみをグラディウスで弾き、また一歩踏み込んでいく。
「想いや姿勢は違えど、もし希望なんてものがあるのであれば――それを見たくないと思っている人間はこの国にはいない。掴めるかどうか、そもそも存在するかどうかも分からない希望。その存在こそが俺たちの活力になるのだよ」
「ヒハハッ、希望だぁ? 思ったより夢想家だなぁ、アンタ! もっと現実を見たらどうだ? 希望なんてあったか? さっき、そこで、無残にも、何もできずに! アンタの炎で焼かれていった女のことをもう忘れたかぁ!? アイツに希望なんてあったかよ・・・在るのは全て平等に降りかかる『現実』だけさ!」
右足を大きく踏み込む。
入った。
ギリシアのグラディウスが届く、剣の間合いに。
素早く男も腰の鞘からロングソードを抜き出し、ギリシアが放った剣を受け止めた。
「希望はあった」
「・・・、ぁ、あん?」
つばぜり合いから互いに剣を放し、三度、刃を交わす。
ギリシアはリーテシアという少女とヒザキという他所から来た青年の姿を脳裏に浮かべ、ベルゴーが音頭を取って交わした約定の内容を思い返した。オアシスという希望を具現化した存在をめぐる、様々な想い。今、この国はその「希望」に対して、生かすことも殺すこともできる分水嶺に立っている。
大事な時期なのだ。
リーテシアが国有旗を立てたことにより、この国を凝り固めていた樹脂は一気に破壊された。
共に長く歩もうと幼いながらも願う少女の想いを背負った青年と、目先の希望を手中に収めようとする意志を背負った騎士との決闘が、大きな道しるべとなって舵を取っている。
未来がどんな形となって目の前に現れるかは分からないが、すくなくともこの流れを横から破壊するわけには行かないのだ。それがこの国の盾となり、剣となる一般兵を統率する自身の役割でもあると強く思う。
一言では表せない様々な要素が奇跡的に絡まって、今の現状がある。
裏を返せば、不安定な状況でもあるのだ。
昨日の約定や決闘も、不安定な状況を徐々に固めていくための重要な楔だ。
そして目の前にいる、この男はその楔とは真逆の存在。不安定な国の根幹を崩す、悪性そのものの存在だ。
「希望は形になりつつある。そこに皆を先導するという責務を負っているのが俺なのだ。貴様はその道を横から崩そうとする不穏分子。それを排除するためなら、いかなる手法を用いてでも全力を尽くして事を成そう。導くことをできなかった二人のためにも、貴様はここで死んでいけ!」
ギィン、と鈍い金属音が鳴り響く。
「ぐっ・・・、ケッ、希望なんてもんは所詮、個人の価値観に左右されるもん、だろうがよっ! 勝手に枠くくってまとめてんじゃねぇよ」
グラディウスを弾き、両者の距離が若干空いた隙に風魔法を打ち込むが、至近距離でも関係なく、ギリシアの剣技の前に魔法は両断されてしまった。
「そう、その通りだ。それが俺の希望、ということだ。大衆の希望への道を守る、それがこの俺の活力となり、貴様の首を斬りおとす原動力になるのだ」
「はぁ、・・・はぁ、そうかよ。色々と棚に上げてんのは人間らしくて結構だがよ・・・ま、いいや。他人の価値観ほど、議論すんのが無駄な話はねぇわな」
「そうだな。貴様が勝ち残るのであれば、大いに俺の考えを否定するがいい」
「・・・俺は困るねぇ。死後も否定されるなんざ我慢ならないねぇ・・・そんな乾ききった人生なんざ、くっそ面白くもなんともねぇ」
「それこそ議論するだけ無駄だな」
「・・・ヒヒ、仰る通り、――で!」
男のロングソードが一閃、ギリシアの左腕めがけて走るが、当然グラディウスが間に入り、その一撃は難なく弾かれてしまった。
入れ替わりにギリシアが攻撃に移ろうとした瞬間、男はロングソードをギリシアにめがけて投げつけた。
まさか近接の武器を躊躇なく投げてくるとは予想していなかったため、ギリシアは踏み込もうとした足を引っ込め、飛来するロングソードを弾くだけにとどまってしまった。
「むっ?」
魔法陣が砕け散る音と共に、男の周囲に風のドームが形成される。
形状からどういう目的のものか予想できたが、手ごたえを確認するためにギリシアはその風の壁に向かって、二撃ほど左右のグラディウスの斬撃を打ち込む。
が、風に巻かれる反動を腕に感じながら、剣撃はいずれも男に届くことなく横に弾かれてしまった。
ロングソードを投げてできた隙に、どうやら完全防護の魔法を使われてしまったらしい。
「・・・芸が多いな」
「多彩だろ? ヒヒヒ、手段ってのはいくら用意しておいても無駄にならないよなぁ」
汎用性の高い風魔法だが、ここまで多種多様に使い分ける魔法師は少ないだろう。
これほどの才を持つ人間が、何を思ってこのような行動に出たのか。心から残念に思う他無い。
「その壁をいつまでも持続できるとは思えんがな。根競べというなら、付き合ってやるぞ」
「・・・自慢じゃないが、魔法回数には自信があってねぇ。魔法が打てなくなって壁が消えるまで・・・何時間かかるか分っかんねぇから、アンタは大人しくベッドの上で寝てきなよ」
「なぁに、たまには夜更かしも悪くないものだ」
「・・・・・・チッ、ああ、本当に面倒臭ぇな」
舌打ちをするあたり、彼としても都合が悪い展開なのは間違いない。
風の壁の向こうから、魔法でいくら攻撃されても全て打ち消す自信があるギリシアは、余裕を以って対応できる距離まで下がり、男の様子を眺めるようにして臨戦態勢を続ける。
「さて、いよいよ貴様の最後になるな――クラシス=ストライク」
名を呼ばれたのは本当に意表を突かれたものだった。
クラシス、と呼ばれた男はわずかに肩を揺らし、誤魔化すのは無理と判断したのか、外套をゆっくりと脱ぎすて、その中に隠していた顔を月明かりに晒した。
「へぇ、気づいてたんだ・・・本当に、おっかねぇや」
「気づいたのは、ここまで距離を詰めたからでもあるがな。こう見えて、一般兵以外の人間の顔も結構記憶しているのだよ。あまり話す機会はなかったが、まさか君がこのような愚行を犯す人間だとは思いも寄らなかったな・・・残念だよ」
「へぇ、そうかい」
肩を竦めるクラシス。ひょうきんな態度からは、まだ余力を感じさせる。
ギリシアは目を細め、グラディウスを掴む両手に力を込めた。
風の向こう側で薄い嗤いを浮かべる男を見据え、次の行動に瞬時に移れるよう姿勢を固める。
「ミリティア嬢が貴様のことを『道化』と呼んでいた理由が分かった気がしたよ。彼女は誰かに蔑称を使うような人間ではないんだが、思わず使ってしまいたくなるほど、貴様の本性を本能で感じとっていたのかもしれないな」
「あぁ・・・どこかで引っかかるものがあったんだろうねぇ。結局最後まであの子が気づくことは無かったけどね。だからこそ種明かしをする際の驚く様が楽しみでもある・・・ヒヒ、あの子が泣き叫ぶ姿を見てみたくはないかい?」
「全く無いねぇ・・・俺からすれば娘のような年の子だ。そんな子が悲しむ姿など、許せるわけがないだろう。これで、貴様を遠慮なく断ち切る理由が増えたな」
クックック、とくぐもった笑いをこぼしながら、クラシスは顔を抑える。
「そのつくづく勘に障る態度、人の皮を被った悪魔のようだな。人間味の欠片も感じられん」
「クヒヒ、酷い謂われ様だ。だが・・・『人の皮を被った悪魔』ときたか。言い得て妙とでも言うべきかな・・・奇しくも俺が目指す先も似たような存在だよ」
「なに?」
「いーや、なんでも・・・さて、このまま睨めっこしててもいーんだけど、それじゃ時間が勿体ないと思わないかい?」
両手を広げてケタケタと笑う悪魔に、剣先を向けて「同感だ」と返す。
「さっさと其処から出てこい。一瞬で終わらせてやろう」
「おいおい、生を謳歌するために人は時間を有効に使うんだぜ? 死ぬためじゃない」
「それは善良な人間に用意された権利であり、貴様のような罪人とは無縁のものだな」
「ヒヒ、良い返しだ。だが、罪の尺度なんざ人が創った指標の一つでしかない。そんな蒙昧な線引きに縋って進むアンタは、どっぷりと先人が築いてきた道に嵌っているように見えるよ」
「――人とは本来、欲に生きる獣だ。放置すれば貴様のように他者を喰らい、欲望と競争意識の元に醜い争いを始める愚者が出てくる。それを抑圧するためには、必要な線引きだと思えるがね」
「ククッ、だからその考えも既に誰かが創り上げた尺度の中のものなんだよ。他人の考えた道の上でしか生きられないから、視野が狭くなるのさ。道から外れて歩く俺から見れば、決められた道の上で四苦八苦している君たちを眺めるのは実に滑稽だけど、同時に憐れみも覚えるんだ。例えば道の外から矢を飛ばして誰かに刺さったとしても、君たちは外側を認識できないから『何が起きたのか分からない』んだ。面白いだろ? 俺は普通に矢を射ただけだというのに、君たちはそれを理解できずに慌てふためく。それが俺と君たちの大きな違いなのさ」
「なるほど――そういった思考を持った狂人たちを総じて『外道』と呼ぶわけだ。まさに字の通り、貴様にお似合いな名だと思わないか?」
外道と呼ばれたクラシスはこの上なく凶悪な笑みを浮かべた。何処まで口の端がつり上がるのかと思わせるほど、笑い、嗤った。
「じゃあ――俺がその『外道』という概念を塗り替えてやるよ。道を踏み外す者が外道ではなく、道を外れて新たな世界を築く者を外道と呼ぶ、ってねぇ。ヒ、ヒヒヒ、ヒハッハアアアハハァ・・・ああ、いいねぇ。そういう趣向も悪くない、かもなぁ!」
その言葉を最後に、クラシスの前方、風の壁の外側に魔法陣が展開される。
ギリシアの魔法陣ほどではないが、先ほどまで攻撃に使用していた魔法陣とは比較にならないほど大きい。
何か、大規模な魔法が来る、とギリシアは回避8割・迎撃2割の意識で態勢を低くした。
「槍や刃じゃ、アンタには届かねぇからな! 点で駄目なら、面でやるまでさぁ!」
「な、に――!?」
魔法陣が砕け散ると同時に、一般兵舎の屋根を吹き飛ばすのではないかと思わせる突風が襲い掛かった。
ギリシアは全身が風によって浮かされると同時に、右手のグラディウスを屋根に突き刺し、吹き飛ばされないように踏ん張った。
屋根を構成している木片や瓦礫が風によって剥されていき、ギリシアの傍を横切って天へと舞っていく。
「ぐ、ぬぅ・・・こ、れほどの規模の魔法を、使いこなすか――!」
「ヒハハ、耐えるのはいいが、背後にも気を付けた方がいいぜぇ!」
「――!?」
敵の言葉に素直に耳を傾けるわけではないが、確かに背後から敵意を持つ何者かが近づいてくるのを感じた。
少しだけ振り向くと、屋根の端に見覚えのある肉塊、いや――触手が登ってきているのが見えた。
「まだ、生きていたかっ!」
表面は黒く炭化し、割れ目からは痛々しいほど赤黒く鬱血していた。
人間であれば死を免れない重度の火傷のはずだが、あの魔獣にその常識は当てはまらないようだ。
「くっ――!」
ギリシアは片手でグラディウスの柄を握り締め、左手を伸ばす。
掌の先の宙に、炎の魔法陣が展開されていく。
狙う先はクラシス。先ほど魔獣に放ったものは地上から天へと突き上がる火柱のような魔法だったが、今度はその火柱を水平に叩きこむようだ。
魔獣は相当弱っているようで、クラシスの風を押し返す力はないらしく、屋根の縁から身を乗り出した状態から先に来ることができないようだ。触手だけを伸ばしてくる可能性もあるので、一概に無視はできないが、取り急ぎ対処すべきはこの先にいるクラシスの方だ。
「ハァ――ッ!」
ギリシアの声と共に、宙に描かれた巨大な魔法陣は砕け散り、再び闇夜を照らす炎の奔流が前方へと放出される。
「ヒハハ、無駄だよ無駄!」
暴風の中を炎が突き進むも、横殴りの暴風に大半が掻き消され、クラシスの元に届いた炎も彼を防護する風の壁に巻き込まれ、火の粉と化して夜の空に融け込んでいった。
(やはり届かぬか・・・剣すらも弾く強固な風の渦――あの壁を突破するのは俺の魔法では相性が悪い、か)
こちらから手を出せる選択肢は無くなったに等しい。
「・・・おっと、どうやら兵舎で寝ていた兵士どもが目を覚まし始めたようだぞ」
風の音と風圧で上手く気配を拾うことができない。
後ろの魔獣ぐらいまで近づけば察知することも出来るが、さすがに足元の兵舎で何人の人間がどうしているかまでは彼クラスの実力者でも把握することはできなかった。
そんな状況だと言うのに、クラシスの声だけは明確に届くことが忌々しい。声を乗せた風をこちらに贈りつけているとしか考えられないが、本当に芸が細かいことだと舌打ちをする。
と、別の兵舎の窓から燭台の灯りがついたことに気づく。
クラシスの言う通り、兵舎で寝泊まりしていた兵士たちが騒ぎを聞きつけてきたようだ。特に屋根に大きな衝撃が走っている足元の兵舎の人間は、全員が目を覚ましたことだろう。
これは優勢なのか劣勢なのか。
援軍と言えば聞こえはいいが、作戦も統率も取れていない兵士の集団など烏合の集もいいところだ。最悪、余計な被害を生む危険性もはらんでいる。クラシスの本性を知らぬ者は、彼が笑顔で近づいてくれば容易に懐まで踏み込ませてしまうだろうし、彼が悠々と王城内を歩いていたところで疑う者はいない。仮に伝令を出したところで、情報が知れ渡る前に彼は姿を消してしまうだろう。
逆に人ごみはクラシスの気配をも紛れさせてしまうため、追跡者たるギリシアの足を止めてしまう厄介な足枷になってしまうのだ。
故に決着は一対一の形に持ち込んだ「今」だったのだが――。
彼の実力をもう一つ読み切れていなかった自身の甘さに歯軋りする。
ベキベキと足元の屋根が剥がれていく音が耳に届く。
暴風で部分破壊された破片は先ほどから近くを通り過ぎていたが、どうやら屋根の根本から吹き飛ばそうとしているらしい。
ちょうどクラシスとギリシアの間に大きな亀裂が生じ、徐々にギリシア側の屋根が盛り上がるようにズレ始めていた。
「くっ・・・!」
とんでもない威力だ。
これほどの威力を以ってすれば数十人程度の人間なら簡単に吹き飛ばすことも可能だろう。
一体、世界中にこのレベルの魔法を扱える人間が何人いるだろうか。
間違いなく、クラシスは世界に名を残せるほどの魔法師と言わざるを得ない。
(それほどの力を持って・・・何故、道を誤った!)
この力を公の場で示せばアイリ王国に限らず、諸国の有力者に選ばれる可能性だってあったはずだ。それを一切の力も見せず、今の今まで隠し通していたクラシスの意図がギリシアには理解できなかった。
屋根を支える支柱の一本がへし折れたのか、大きくギリシアの体が屋根ごと後ろに傾く。
屋根が障害物となり、全身を襲っていた暴風が一瞬止んだ。その隙を狙って背後の魔獣が数本の触手をこちらに伸ばしてくるが、ギリシアは左手のグラディウスでそれを切り裂き、屋根に突き刺していた右のグラディウスも抜き取った。
屋根ごと飛ばされるのであれば、もはや剣で支えを作る意味もない。
風が遮られるのも束の間のことだろう。
すぐに屋根ごと後方へと吹き飛ばされる前に手を打たなくてはならない。
打つとすれば、風の圧力が屋根の壁によって軽減されている、この状況を利用するしかない。
「ふぅ・・・そろそろ仕上げかな? ヒヒ、段取りはまた狂っちまったけど、終わりよければ全て良しってね!」
クラシスは追撃に再び風魔法を発動させ、目の前でめくれ上がった屋根の腹に強烈な風をぶつけた。
屋根は根本から破壊され、風に押されるがままに魔獣もろとも前方へと飛ばされていった。
その光景を満足そうに眺めていたクラシスだったが、すぐに目を剥く結果になる。
僅かに残った屋根の骨子を足場に、弱まった風の合間を縫うようにギリシアがこちら側に渡ってきていたのだ。クラシスが屋根を吹き飛ばす直前に、兵舎の端まで移動していたようだ。視界の端に老兵の姿を捉え、クラシスは「いかれてやがる!」と悪態をつきつつ、迎撃用の風魔法を準備する。
「――馬鹿め、視野が狭くなったのは貴様の方だったな」
「ぁ――?」
いつの間にか、そう――いつの間にか、クラシスの周囲を覆っていた風の障壁が消えていた。
暴風を操っていた途中で魔法が切れたのだろうが、問題はそこではない。
問題は――この時、この瞬間に完全に無防備を晒してしまったこと。
「やぁ、クラシス。ちょいと質問なんだけどねぇ」
聞き覚えのある声。
ギリシアに集中しすぎていたため、その存在に気づくのが大分遅れてしまった。
「――っ!」
クラシスは反射的に再び風の防護壁を展開しようとするが、その数秒の時間すらも致命的な隙となってしまった。
「アンタ――顔を変えた経験とか、あるかい?」
速い。
速度だけならギリシアよりも上だろう。
振り向き様、既に目と鼻の先まで接近していた長髪の女性は、妖艶な笑みを口元に浮かべながら、クラシスと至近距離で視線を合わせた。
「やっと――見つけたよ」
そう言い放ち、寝間着姿の女性――マイアーは流れるようにククリを手に持ち、クラシスの喉元へとその切っ先を押し込んだ。




