第67話 移り行く心と親友
体中から体液をまき散らしながら跳ね上がったサンドワームが目の前で落下していく。
下の砂地に接触し、その巨体を沈みこませると同時に周囲に大量の砂が吹き上がっていった。
「ぁ・・・、ぁ・・・」
ミリティアは外壁を超え、まだ風魔法の補助を得て空中にいるため、体感することはないが、目で見ていても理解できた。あの巨体が着地したと同時に、地上が少しだけブレたのを見た。
振動とは体で感じる事はあっても、目で感じる機会というのは中々ないだろう。しかし今、確実に地上の全てが二重に見えるほどの衝撃が視認できた。それほどの地震をサンドワームが起こしたのだ。
「きゃっ――!」
少し遅れて吹き上がった砂がミリティアのいる高さまで迫ってきた。
慌てて自分を守るイメージで風魔法を展開する。
彼女が無意識にイメージしたのは、目前に迫る砂の壁を「吹き飛ばす」もの。風の球がミリティアの魔法陣から顕現され、砂の壁に大きな穴を開けた。
その穴を通り抜けるようにミリティアは前方へと体を躍りださせる。
対象があまりにも巨大すぎて遠近感がおかしくなりそうだが、先ほどはアレほど間近に感じたサンドワームは、思いのほかアイリ王国から距離を取った場所にいるようだ。
負傷なのか、そういう性質を持っているのか分からないが、体中から気味の悪い体液を絶えず噴き出しながらサンドワームは円状の口から空洞音のような唸りを上げていた。
間違っていた。
外壁を通り超えるまで、もしかしたらやれるんじゃないかと――自分はデュア・マギアスという才能に恵まれ、今回の件はその力を以ってみんなの力になれるんじゃないかと思っていた。
だが目の前にいる――この圧倒的な存在は、そんな思いは「間違いだ」と断定してくるかのような威圧感を放ってきた。
胸の前に抱えたショートソードでこんな相手に何が出来るのか。
おそらくこの程度の剣で斬りかかったところで、人間でいう指の腹を少し切った程度のものでしかないだろう。もしかしたら痛みすらも感じない程度で終わるかもしれない。
「・・・・・・あっ――」
違う。
ぶんぶんとミリティアは顔を振って、考えを改め直す。
自分は何もあのサンドワームと戦いにきたわけではない。
後方支援部隊として参加している父や仲間の方々、そしておそらく一緒にいるだろう母を助けるために来たのだ。
目的をはき違えないよう、意識を切り替え、ミリティアは切れかかった魔法の補助をかけ直し、飛んでくる砂の礫を右手でガードしながら、砂漠の様子を確認した。
これだけ衝撃で砂が散っているのだ。
間違いなく、魔法を使えない人間なら窮地に陥るはず。
となれば、おのずと自分の魔法が必要になってくるはずだ。砂に埋もれているなら風で吹きとばせばいいし、退路を築くための手伝いだって出来る。
「が、頑張らない、と――!」
王城のエントランスでの怯える人々の暗い表情。
あんなものをいつまでも引きずらせてはいけない。生活環境がどんなに苦しかろうと、幸せに感じる心を忘れさせてはいけないのだ。
誰に言われたわけでもない――あの日、ルケニアの笑顔を見てから願ったミリティアの想いだ。
呼吸と同時に開いた口に砂が入ったため、慌てて吐き出す。
砂嵐とは違う砂の災害。
見たこともない、国を飲み込めるほどの巨大な魔獣。
初めて魔法による浮遊を体験し、上空百メートル以上の空は――風の加護があるとはいえ心臓が縮むほどの高度だ。
こんな異常事態の中に単身でいることを思い直せば、体が竦み上がるほどの恐怖が降りかかってくる。
ミリティアは出来るだけ目的だけのことを考えるようにし、今自分が置かれている環境のことは度外視するように努めた。
「――・・・」
強く鳴る鼓動を意識の外に追いやり、急いで足元の先、砂漠の外壁の根本付近を確認する。
目下を砂の膜が張っている状態で、視界は非常に悪い。
目を凝らしたからと言って見えるレベルではないので、ミリティアは仕方なく高度がゆっくりと下がるイメージをした魔法を足の裏にかけ、砂礫に耐えながらも降下していった。
彼女自身は気づいていないことだが、誰の指南も受けずに魔法をここまで扱いこなせる人間は数少ない。ましてや多感期の子供が、感情や感性をコントロールしての所業だ。これが他国に存在する魔法学校で披露した日には「天才」と称されてもおかしくない才覚であると言えるだろう。
ミリティアは未曽有の出来事を前に、無意識に刺激を受け、吸収して確実に魔法師としての一歩を登り始めていた。
サンドワームが着地してから数分は経ったというのに、未だ上空は荒れ果てている。
着地当初よりは収まってきたものの、サンドワームが起こした暴風は収まる事なく周囲に被害を与え続けている。
「っ・・・、ぅ」
いくら腕で顔をガードしていても、完全防備なわけではない。
隙間から流れ込んでくる砂粒に息苦しさを覚え、顔を歪める。高度を下げるに比例して、横殴りの風と自身の飛行を手伝っている風魔法がぶつかり合い、バランスを保つのも苦しくなってきた。
(お父さん、お母さん・・・どこ? みんなは何処にいるのっ・・・?)
青年の話によると、外壁のすぐ裏側に父を含めた後方支援部隊がいるという話だったが、その姿は今のところ見受けられない。
いるはずなのに、見つからない。
その事実がミリティアの心に焦燥を募らせ、ただでさえ余裕が無かった表情が更に悪くなっていく。
『コォォォォォォォォォォ――!』
サンドワームが再び咆哮を響かせる。
思わず振り向くと、サンドワームの周辺に異変が生じていることに気づく。
サンドワームの体表に出来る水ぶくれのような腫瘍が破裂し、次々と体液を吹き出していく。
勝手に破裂したのかと思いきや、良く見るとサンドワームを囲うように黒い粒のような何かが群がっていた。
黒い粒の正体は魔獣だ。
サンドワームが巨大すぎるが故に黒点にしか見えないが、サソリ・蟻・蛙・甲殻虫など、様々な魔獣がサンドワームに対して攻撃を行っていた。どうやら住処を追い出された恨みからくる敵対行為のようだが、従来の魔獣たちであれば真っ向からサンドワームに立ち向かうなどという「愚行」は選ばないだろう。逃げの一手を選択し、住処を追いやられても生き延びる道を選ぶはずだ。だというのに魔獣たちはサンドワームに揃って攻撃をしかけている。
――理由は明白だ。
サンドワームは理由は分からないが、確実に弱っている、ということだ。
『コォォォォォォォォ・・・』
それは痛みを訴える叫びか、それとも怒りに身を震わせる砂漠の暴君の咆哮なのか。
サンドワームは体を震わせて、身に纏わりつく魔獣たちを追い払おうとする。しかし魔獣たちも仲間が何体か踏みつぶされ様がお構いなしに、休みなくサンドワームの膨れ上がった水泡部分に攻撃をしかけて、着実にダメージを稼いでいた。
「なんて・・・」
光景なのか、とミリティアは唇を震わせた。
まるでこの世のモノとは思えない凄惨な光景だ。
サンドワームと魔獣たちが身を削り合いながら、互いの命を刈り取ろうと殺し合いを始めている。
「早く、見つけないと・・・!」
こんな戦いに父や母が巻き込まれたと思うと、心臓が止まりそうになる。
泣きそうになりながらも、涙を堪え、ミリティアは忙しく視線を地上に巡らせた。
『ゴォォォォアアアアア・・・!』
「っ!?」
さらに高度を下げていったところで、サンドワームの巨大な口から今までと違う音が響いた。
何事かと思い、本能的にそちらを見る。
サンドワームは全身に脈動を走らせ、不気味なうねりを見せた。
明らかに先とは違う動きに、サンドワームが「何か」をしようとしているのが分かった。
魔獣たちにはそれが伝わらなかったのか、変わらず攻勢を続けている姿が見えた。
人間だからこそ感じる危険。
今のサンドワームの近くいるのは危険だと、頭の中で警鐘が鳴る。だが同時に何が起こるかを見届けたい、という知的好奇心も働いてしまった。
ミリティアは口を開いたまま、サンドワームの次の挙動を凝視する。
ボト、という音が聞こえてきそうな粘着性の液体がサンドワームの口腔内から砂の上に落ちる。
白褐色のその唾液は、砂に融け込むのではなく、砂の上を滑っていくようにして周囲に広がっていった。
当然口腔近くで攻撃をしていた魔獣たちはその唾液に足元を取られ、動揺したかのように手足を動かそうとする。しかし一つの例外もなく、魔獣たちの足は唾液にからめとられ、一切の動きを封じられる結果となった。
サンドワームは頭部を激しく動かし、唾液を四方八方に振りまいた。
「きゃっ!?」
ミリティアまでは距離があるため飛んでこないものの、あれを全身で被った時の自分の未来を想像しただけで背筋が凍ってしまう。
そしてその未来を体現するのが、周囲にいた魔獣たちである。
徐々にサンドワームの周囲を埋め尽くす唾液に動きを止められ、必死に手や体を動かすものの、その動きが災いして、全身を唾液に包まれていく過程が良く見えた。
『ギィィィィ・・・』
今度はサンドワームが体を左右に動かし、腹の部分の砂を魔獣たちにかけ始める。
唾液を多少なり、全身に被っていた魔獣たちはその上に更に被せられた砂に驚きを隠せない。
唾液の上に被せられた砂は徐々に唾液と同化していき、生物の身動きを封じる牢獄として硬化していった。
「ひっ――」
あれだけ猛攻を続けていた魔獣たちがあっという間に沈黙してしまった。
生きた肖像のように、唾液と砂で固められた魔獣たちは物言わぬ存在となってしまったのだ。
サンドワームは器用に全身を小刻みに動かし、周囲の魔獣たちを一か所に集めていく。ちょうど口の真下辺りだ。
『ォォォォォォ・・・』
そして集められた魔獣たちの上に更に大量の唾液を垂らし、先と同じように砂を被せていく。
まるで子供が砂遊びで作る不格好な搭のように、生きた魔獣たちで作られた砂の塔が出来上がっていった。
サンドワームが大量の「餌」を捕食する際の性質だ。
ミリティアは砂の塔をサンドワームがどうするのかは知らなかったが、きっと捕食のシーンを見てしまえば、一生記憶に残るトラウマになっていただろう。
そうならなかったのは、サンドワームが砂の塔を口に納める前に、その体躯を燃やす攻撃が放たれたからだ。
「えっ――」
突然、尾の方に炎が上がり、サンドワームが何事かと再び声を上げる。
ミリティアは見た。
サンドワームの後方、その先に人の群れがいることを。
胸が跳ねあがる。
外壁の傍、とは聞いていたが、もしかしたら何かしらの事情で砂漠と山岳の間に移動していたのかもしれない。そして――探していた後方支援部隊はそこにいるのだと、彼女はそう思い込んだ。
実態は捕食行為に走ったサンドワームに対し、意識を向けるために炎魔法を放ったギリシアたちの部隊なのだが、ミリティアはそんなことは露も知らず。この状況の中で人の集団があれば、直結的に「後方支援部隊」と思い込んでしまうのも無理もないだろう。冷静に考えれば、何故後方支援が前線と思わしき場所にいるのかと疑問に思う部分もあるのだが、子供で経験や知識も浅く、精神を極限まですり減らしている中でそこまで思考を巡らせるのは難しい話であった。
ゆっくりとサンドワームの頭部が後方を確認するように動いていく。
「だ、だめっ・・・」
サンドワームの意識があの集団に向けられる。
それはミリティアにとって、父や母が先ほどの魔獣と同じ運命を辿るイメージに見えてしまった。
アレの意識をそっちに向けさせてはいけない。
その思いに囚われ、彼女は視野が狭くなっていることに気づかず、何とかしてサンドワームの気を逸らすことだけを考えた。
冷静でないことは誰の目にも分かる。
だが愛する親が死に瀕していると感じた時、子が冷静にその事実を受け止められるわけがない。
ミリティアはショートソードを鞘から抜き取り、未熟ながらも無意識に刺突の構えを取る。
イメージするは、サンドワームの巨体を貫く攻撃。
どんな攻撃でも良い。
あの巨体の活動を停止させるだけの威力があれば――。
「だめぇーーーーーーっ!」
叫びと共に二種の魔法陣が展開され、後の彼女の戦闘スタイルの原型となる「魔導剣技」がここに発動した。
ジリジリと大気を焼くような帯電の音と、彼女自身を高速に射出する強力な風圧。その二つが折り重なり、晴天の空の下、空を一線に裂く風雷の矢が鋭く奔った。
計算ではなく感覚で、理性ではなく本能で穿つ一撃。
宙に散布していた砂が道を開けるように、彼女の通り道を作り上げていった。
ショートソードに纏う雷撃が金切音を響かせながら、僅か数秒で数百メートルはあったであろう距離を詰めて、ミリティアはその刃をサンドワームの背部に突き刺した。
ゴムのように弾力があり、鉄剣すらも弾く高度を持つサンドワームの体皮だが、ミリティアの雷撃を纏った一撃は容易く貫き、剣先から半径10メートルほどの範囲に雷が奔り、その肉を焼き払った。原因は不明だがサンドワームは現在、非常に弱体化している。その事実も相まっての結果だろうが、それでも12歳の子供が放つにはあまりにも強力過ぎる一撃であった。
弾け散る体液すらも、ミリティアを包み込む電撃に焼かれ、空中で蒸発していく。
『コォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ――ッ!?』
背部で弾け飛んだ痛みと衝撃に驚いたサンドワームは、仰け反るように体を折り曲げて一段と大きい声を上げた。
「い、行かせない――っ! みんなのところにはっ!」
深々と突き刺さった剣の柄を強く握り、サンドワームの動きで振り落されないように踏ん張る。
「やぁぁぁぁーーーっ!」
そして再び、ショートソードを通して雷魔法を展開し、刀身からサンドワームの体内にめがけて雷撃を打ち込む。
一瞬の間を置いて、ミリティアの位置から広範囲にかけて内部から体液が噴き出した。
――効いている。
間違いなく、自分の攻撃はこの巨大な敵に効いている。
一縷の望みを手にしたかのように、ミリティアは一心不乱に魔法を流し込む。
一度、二度、三度・・・。
その度にサンドワームは奇声を上げ、ミリティアの周囲には黒く焦げて朽ち果てていく魔獣の体があった。
「はぁっ、はぁっ、はぁ――!」
まだ行ける、とミリティアはもう一度、雷魔法を打ち込もうとした。
しかし流石にこれ以上は好きにさせまいと、サンドワームは大きく体をうねらせて、反動をつけて背部に張り付いていたミリティアを上空へと吹き飛ばした。
「――あ」
いかに強力な魔法を使えど、腕力は子供のそれである。
素振りすらも正確にできないミリティアの手はいとも簡単に柄から離れ、気づけば空高く宙を舞っていた。
(・・・か、風の魔法を、使わないとっ――)
そう思い、先ほどまでと同様に風魔法を駆使して飛行を試みる。
予想通り、自由落下する体は風の浮力で止まることができたが、同時に全身に異変が起こった。
「あ、・・・れ・・・?」
急激に頭からつま先まで力が入らなくなる。全身から血液が抜かれていったら、こんな感覚に陥るのかもしれない。ミリティアは爪先から膝、腰、首へと徐々に力が入らなくなり、コントロールが効かなくなった風の上に立つこともできず、頭から地表に再び落下してしまった。
魔法回数。
厳密に言えば、魔法回数という定義は曖昧であり、正確なものではないが、各魔法師が大凡自身の使える魔法の目安としては重要な指標の一つである。
まだ誰にも魔法について教わっていないミリティアは、それが体内の魔素を使い切った症状だと理解できず、ひたすら何が起きたのか理解できず、茫然と重力を全身で感じながら落ちていく。
「――・・・ぇ」
血の気が引く。
何が起こっているのか、さっぱりわからない。
いや、今はとにかく風魔法で落下を止めるのが先決だ。
だと言うのに、体は言うことを聞かないし、どんなに念じても魔法陣は形成されなかった。
(な、なに・・・これ! なにこれ! え・・・や、やだ! どうして魔法が出ないのっ!?)
指先一つ動かせない状態だというのに、思考だけはやけに冴えわたっている。
そのため、自分が死へと一直線に向かっていることを理解できるのに、それに抗う術が一切ないという最悪な状況だ。地上は柔らかい砂漠とはいえ、落下の衝撃を緩和できるほどのものではない。仮に海であっても、この高さから打ち付けられれば全身がバラバラになってしまうだろう。
助かる方法は風魔法しかなかった。
(いや、・・・た、助けて! お母さん! お父さん!)
助けを呼ぶが、当然誰も来ない。
当たり前だ。
こんな空中の、それもサンドワームという凶悪な魔獣の前に誰が来ると言うのか。
それを悟った時、ミリティアは自分の愚行を悔やんだ。
結局、何もかも力不足だったのだ。
モグワイからも指摘されたばかりだと言うのに、何を調子に乗ってこんな戦場に出てきたのか。
剣も満足に触れない、こんな未熟者に一体何が出来ると言うのか。
そんな浅はかさで誰かを幸福にしたいなど、勘違いな豪語も甚だしかった。
あの青年に言葉に感化された。
初めての風魔法が上手く行き、自分には才能があると思い込んだ。
無我夢中で突き刺した一撃がサンドワームに通じたため、対等に戦えるのではないかと勘違いした。
――全ては過剰な思い上がりが招いた、一人相撲だったと理解する。
(いや、いや・・・いやいや――助けて! 死にたくないっ!)
力があれば違う未来があったかもしれない。
知識があれば違う道を選択したかもしれない。
経験があれば違う手段を用いたかもしれない。
魔法という強力な手札を持っていたとしても、足りないものが多すぎたのだ。
両目から漏れる涙が宙に置き去りになっていくように見えた。
その涙の数の分だけ足りないものがあったと、そんな錯覚を覚え、胸が苦しくなった。
不意に視界が暗くなる。
こんな状態だと言うのに、眼球は動くようだ。
ミリティアはその両目で、目の前に広がる昏い空洞を視認した。
――サンドワームの口だ。
細かい牙が螺旋状に並んでおり、何処までの続くと思わせる黒い穴がミリティアの命を終わらせようと、ぽっかり開いていた。
「ひぃ――!」
目を見開き、小さな口から漏れたのは絶望の引き攣った声だけだった。
あの穴に入ったら最期、どう足掻いても生き延びることは不可能だろう。サンドワームの腹の中がどういう環境になっているか不明だが、ただ地表に激突して即死する方が楽に感じるほどの生き地獄が待っている可能性だってある。
文字通り何もできずに捕食される。
地上で唾液に固定された魔獣たちも同じ気持ちを抱いていたのかもしれない。
「ぁ」
断末魔も辞世の句も、この世に何一つ残せずに幕を閉じる。
その幕が、闇となってミリティアを包み込んだ。
世界が光一つ存在を許されない、虚無の世界へと変貌した。
おそらくサンドワームに喰われたのだ。
ここはサンドワームの口の中で、これから口腔内を滑り落ちて、胃の中へと栄養分の一つとして落ちていき、ゆっくりと消化されていくのだろう。
まだ宙に浮いていた状態だったが、何も見えない世界に切り替わったことで、自分がどの高さにいて、あとどのぐらいで口腔下部に落下するのか、何もかもが分からず、より一層の恐怖がミリティアを包み込んだ。
だから――。
自分以外の誰かの声がしたとき、ミリティアは12年間生きてきて体験したことのない「安堵」を覚えたのだった。
「こんな化け物に単身で挑むとはな――じゃじゃ馬にも程があるぞ」
聞いたことのない男性の声。
今まで浮遊感に包まれた体が誰かの腕に引き寄せられ、温かい人の温もりに抱きかかえられた時、ミリティアは数秒だけ固まってから・・・再び涙を流した。今度は悲しみや絶望ではなく、安堵の涙だった。
「とりあえず、ここから出るから俺の体にしがみつけ」
わんわんと泣く子供を抱きかかえる男だが、良く見れば彼は逆さまの状態だった。
サンドワームの口腔内に深々と突き刺した大剣、その柄に両足を絡ませているようだ。傍目からは「吊るされた男」のような格好だ。左腕は無く、右腕だけでミリティアを抱えている。隻腕、というハンデを背負っているがために、魔法なしでミリティアを救うためには、今のような無理な態勢にならざるをえなかったようだ。
しかしこの暗い空間でミリティアに、彼がどういう状態にあるかを確認する術はなかった。
だから泣いてひきつけを起こす喉を何とか抑えて、彼女は深呼吸を何度かした後に――素直に言われた内容に返事をするために小さく声を出した。
「そ、の・・・ちか、らが入らない、んです・・・」
普通に言葉を発したつもりが、全く思惑と異なる結果となってしまった。
どうやら声すらもまともに出せない状態になっているようだ。
「――魔力切れ、か」
申し訳なく思っていると、彼はハッキリとした声で理解を示す言葉を放った。
彼は今の自分の状態が何であるか知っているようだ。
そのことがまた一つ、ミリティアの心に安心感をもたらしていた。
「・・・」
彼は黙考しているのか、二人の間に静寂の時間が流れる。
ミリティアはジッと彼の次の言葉を待ち続けた。
サンドワームの口の中、これからどうなるかも分からない状況だと言うのに、不思議とミリティアは彼の腕の中にいると「絶対的な安心」を感じていた。理由は分からないが、本能が「何とかなる」と確信しているのだ。言葉にできない――本当に不思議な感覚に思えた。
「そうだな、隠しても怖がらせるだけだろうからハッキリ言っておくが、今から――君を上に投げ飛ばす」
「・・・・・・ぇ」
一瞬、言葉の意味が分からず、聞き返してしまった。
「実は俺の左腕はある事情で存在しないんだ。だからこの態勢から君を抱えて脱出するには、少しばかり苦しくてな。だから君を一度上に投げてから、俺が脱出口を切り開く。その後に君を抱えて脱出する、という計画だ」
抑揚がなく、感情というものを感じない声質だったが、それでも何とか説明をしようという想いが伝わってくる言葉だった。
何となく、だが――この人はきっと不器用なのかな、とミリティアは思った。
「・・・難しいか?」
反応が無かったミリティアに対し、伺いを立てる男。
ミリティアは小さく身じろぎをして「だい、じょぶ・・・です」と答えた。
本当なら全力で否定して、「大丈夫です!」と深々とお辞儀したいぐらいの想いだが、体が反応してくれないのがもどかしい。
「そうか」
短く男は答え「では早速行くぞ」と心の準備すら与えてくれないほど、迅速に行動に移った。
ミリティアはそんな彼の行為に応えるように、目を閉じて全てを受け入れるように心を静めて力を抜いた。
「ハァ――ッ!」
男が息を吐くと同時に、重力に逆らっていくような浮遊感を感じた。
彼の温もりから離れたことが何よりも恐怖に感じたが、その感情の揺れ動きを必死に抑えて、再び彼が自分を抱きかかえてくれるその瞬間を信じて、待った。
直後、眩いほどの光が――目を閉じていても分かるほど瞼の先から流れ込んできた。
思わずミリティアは目を開いて、その光の先を見た。
――外だ。
サンドワームに飲み込まれて、まだ数分しか経っていないはずなのだが、何年ぶりかに帰ってきたかのような奇妙な感覚。それほどサンドワームの体内にいた時間は、一秒すらも永遠と思えるほど長く感じていたのだろう。
そして同時に視界に捉えた。
自分を救い出してくれた男性の姿が。
彼は身の丈よりも大きい大剣で、サンドワームの口の一部を切り裂き、強引にその口を開かせていたところだった。彼は口の端を足台に蹴り上げ、信じられないほどの跳躍力でミリティアの方へとジャンプし、その小さな体を大剣が当たらないように右腕で抱えた。
外界から流れ込んでくる風が心地よく感じる。
「ぁ・・・」
ミリティアは少しだけ戻ってきた握力を総動員して、彼の胸元の服をギュッと掴む。
直後、サンドワームの喉奥から強烈な声と同時に突風が二人を押し出すようにして吹いてくる。
彼が斬りつけた傷。その痛みでサンドワームが声を上げたのだ。背中を後押しするかのように外へと二人を吹き飛ばしてくれた。
「きゃっ――」
「・・・」
風を切る音を耳にしながら、ミリティアは何処か意識が薄れていくのを感じた。
おそらく極限まで追い込まれた緊張感と、焦燥感。そして一度は死を垣間見る絶望。その末に救いの手に包まれたことによる安堵・脱力・解放感。それらが綯交ぜになってしまい、精神的にも肉体的にも極度の疲労を溜め込んだ結果、ミリティアの脳は「休養」を求めて眠るように指示をしたのだろう。
空中で男性が体を捻る仕草が、胸元に密着していた頬から伝わってくる。
もしかしたら着地態勢に入った合図なのかもしれない。
そもそも風魔法無しで、無事に着地できるものなのだろうか・・・などと色々な考えが脳裏に浮かんでくるが、そんな考えも全て取り込むように抗えない睡魔が襲ってくる。
何度か体を揺らす振動があってから、二人の動きは完全に静止した。
(・・・ぁ、だめ・・・ねむっちゃ、だめ・・・)
重しでもつけられているのではないかと思ってしまうほど勝手に落ちてくる瞼を必死に上げようとする。靄のかかった思考で何度も何度も「せめてお礼だけでも・・・!」と念じるが、その意志に反して強制的に意識が遠退いていった。
既に着地が済んでいたのか、彼の手によって地面に降ろされる感覚が手足から伝わってくるが、それも何処か夢のような遠い世界のことのように感じた。
背後から複数人の人の声が聞こえるが、フィルターがかかったかのように何を言っているか聞こえない。
どうやら彼と何人かの人が話をしているようだ。
「――の子を―――――んだぞ」
「――っ? ――は、一体――――んだ?」
「―――は、――んなる旅人――――するな」
「ま、待――! ―――・・・」
短い会話をした後に、自分を救ってくれた男性は背を向けて、未だ悲鳴のような声を上げ続けるサンドワームの方へと歩いて行った。
あの巨大な敵と戦うつもりなのだろうか。
彼に出会うまでの自分なら、無謀だと思ったことだろう。
しかし、ミリティアの目にはサンドワームの規格外な巨体よりも、彼の背中の方が大きく感じた。
ああ――だから大丈夫だ、と。
もう、この国は救われたのだと――そう思った。
きっとお母さんやお父さんも――。
薄らと映る視界で最後に見たのは――力強く、いかなる存在よりも大きい彼の背中だった。
*************************************
「――」
目を覚まして最初に目にしたのは、見慣れた天井だった。
どうやら自分の寝所で横になっていたようだ。
夢で気を失い、現実で目を覚ますとは、何ともチグハグな目の覚め方だなと思わず苦笑してしまった。
ミリティアは何気なく視線を横にずらしてみると、そこには一人の女性が静かに寝息を立てていた。
ベッドの端に顔を埋めて寝ている女性は、彼女の良く知る人物だった。
「ルケニア」
何の夢を見ているのかは計れないが、口元が緩んで涎を垂れ流している様子から悪夢の類ではないことは確かなようだ。
(看病してくれていた、のかな・・・)
優しく彼女の髪を梳くと、何故かうなされるように歯軋りを始めたものだから、ミリティアは慌てて手を引っ込めてしまった。
(なぜ私が触れると、反発してしまうのだろう・・・)
むむ、と難しい表情で自分の掌を眺めるミリティアだが、ふっと息を吐いてから微笑みを浮かべた。
「夢・・・か」
懐かしい夢を見た。
自分の原点であり、もっとも苛烈で――絶望と希望の両方をその身に受けた始まりの日。
ヒザキの背中を見たところで目が覚めたのは良かった。
あのまま夢を見続けていれば間違いなく、母と父が「行方不明」という事実を受けて、何ヶ月も塞ぎ込んだ日々も見る羽目になっていたのだから。とはいえ、もう8年も行方が分からず、なぜ姿を消してしまったのかも分からない両親の姿を、夢の中とはいえ、再び見てしまったことはミリティアに少なからず胸の痛みを伴わせていた。
溺愛していた両親の失踪。
原因も理由も全てが不明。
噂では門兵と一緒に駆け落ちしたなど、心無い話も耳にしたが、父や自分をあれほど愛してくれていた母が駆け落ちするなど考えられない。
父も姿を消していることから、何らかの理由で二人とも国を出なくてはならない事情があった――と推測するのが妥当だとミリティアは考えている。何の前触れも無かったことが気がかりだが、子供だった自分では気づけない何かしらのシグナルが当時、あったのかもしれない。
背景にどんな事情があったとしても、人を幸せに、笑顔にしたいと思って走り出した一人の小さな女の子が、気づけば独りぼっちになってしまったことに変わりはなかった。
だが何が起きようとも――生きていてくれさえいれば・・・十分なのだ。生存の報せはまだ手元に来ていないが、今でもミリティアは「両親は生きている」という希望を捨てずに抱いていた。
「お母さん、お父さん・・・」
あの後、ヒザキの力も得て、サンドワームの討伐に成功したことは後で耳にしている。
ヒザキは名乗りすら上げずに、さっさと去って行ってしまったようだ。未だに「外から来た人間」や「旅人」と称され、サンドワーム大討伐の立役者として名も無い英雄扱いを受けているのは、そのためだ。
もっとも今、当時の英雄が彼だと触れ回ることは、ヒザキにとって喜ばしいことではないことは想像できる。彼はあまり他人との接点を持ちたがらないようにも見えたので、ミリティアは彼が英雄たる存在だということを胸の奥に仕舞っておこうと心に決めた。
両親がいなくなったことで、ぽっかり空いた穴は一年の歳月を経て、何とか埋めることが出来たのは――稽古と称して現実を一時でも忘れ、何かに没頭する時間を与えてくれたモグワイ。そして時間がある時は一緒にいてくれた、そう今のように共に寄り添ってくれたルケニアのおかげだろう。
両親の失った悲しみを全て癒したわけではないし、今もその辛さは何処かで燻っている。それでも前を向いて歩く活力は取り戻すことができた。
そうなると今度は「何を目指して」歩いていくか、だ。
その時からだろうか。
モグワイやルケニアにも何度か話したが、ミリティアが「強さの象徴」として記憶に刻まれた、あの背中。その背中に少しでも追いつくことができれば――もう二度とあのような絶望を味わうこともないのではないか。そして、それだけの強さがあれば――あの時自分が感じた「希望」を誰かに与えることができるのではないか――と。そう思い始めた時期だった。
そしていつの日か、母や父と再開した時に「私は立派にやっています」と胸を張って言えるように。
ヒザキの背中を追いかけ、修練に修練を重ね、魔法師としての知識も修め、ミリティアは誰もが驚く勢いで力をつけていったのだ。
若くして、デュア・マギアスという才能にも恵まれていたミリティアは、一部の人間からは疎まれ、厄介者扱いされることも多々あったが、人の悪意すらも寄せ付けない、あの時のヒザキの背中を思い出しては跳ねのけ、気づけば――近衛の頂点に座していた。
言葉遣いも改め、人の上に立つという意識と責任を背負い、他人にも厳しい物言いを言えるようになっていた。元々心優しい性格のミリティアは「人に何かを強要する」ような真似は苦手だ。仮にそれが正しい行為であっても、誰かが引き換えに悲しむのであれば、それは可能な限り避けたい。
それでも近衛兵の隊長として、立場上踏み込まなくてはならないこともある。ミリティアはいつしか責務という重圧と自身の信念に挟まれ、近衛兵隊長としての「殻」を被ることで、重圧の痛みを和らげ、自分を騙すことでようやく前に進むことが出来たのだ。
振り返れば、その時期から目的と手段が入れ替わっていた気もする。
(そういえば・・・殻を被っている時は、こうやって考えている時も口調を変えていたなぁ)
そう考えると、何とも奇妙な演技をしていたのだと笑ってしまう。
外から演者と化した自分を見ていたモグワイやルケニアからすれば、何とも滑稽な様子に映っていただろう。いや――彼らのことだから、表には出さずとも心配をかけていたかもしれない。最近モグワイに諭されたり、ルケニアに指摘されたり、と色々と言われているのを思い出し、ミリティアは気まずそうに口を閉ざした。
(後で・・・謝って――いや、お礼を言おう)
きっと、それが正解だ。
感謝されたくて世話を焼くような間柄じゃないのは分かっているが、それでも心を込めた感謝の言葉は、一つの区切りとして必要なことだと思うのだ。
そう言えばヒザキと再会、というより――向こうは思い出し、こちらは思い出していなかったのだが、ヒザキは「随分と捻くれて育ったものだな」と言っていた。殻を頭から被った時の自分とはいえ、ヒザキから見れば救い出した少女が随分と横柄な人間に成り果てていたと思われたことだろう。そういう視点で改めて当時の自分を見返すと、血の気が引くほどみっともなかった。
その「みっともない」という感覚は、おそらく本能的な部分で理解していたのだろう。だから無意識に恥をかいたと思い、あの時、ヒザキに対して冷静でいられなかったのだ。
「は、恥ずかしい・・・」
ミリティアは過去に戻って、今度は笑顔で握手から始められる再会をしたいと願ったが、そんな願いは叶うはずもないので、頭を振って諦めることにした。過ぎたことは過ぎたこと。やり直しはできないが、これから可能な限り、返して行けばいい。
ミリティアはゆっくりとルケニアを起こさないように上半身を起こす。
窓の外には青白い三日月が顔を覗かせていた。
夜まで寝ていたことに今更気づく。
(ヒザキさんやリーテシアさんにもお礼を言わないと・・・)
少し寝癖がついた金髪を月明かりに照らしながら、新しい国家を立ち上げた二人を思い返す。
二人はこれから新しい国家を立ち上げるために、共に切磋琢磨していくのだろう。
ヒザキが何を思って、リーテシアと共に歩もうと決心したのか、深部までは分からない。気まぐれなのかもしれないし、何かしらの彼の琴線に触れるものがあったのかもしれない。
彼らには学術では知り得なかった「自動魔法付与」や、魔力のことを学ばせてもらった。そして既に枯渇したと思われたオアシスを見つけ出し、一本しか無かったアイリ王国の未来を大きく枝分かれさせた。オアシスのあったあの空洞が何なのかはいまだに理解できないところではあるが、本当に色々な体験をさせてもらったものだ。下手をすればここ八年よりも得た知識の深みはあるかもしれない。
「・・・」
自分の胸元に右手を当てる。
「けど・・・」
月明かりから表情を隠すように、ミリティアは金色の髪を垂れさせながら、膝にかかった布団を見下ろした。
「けど・・・・・・私はそこには、いない」
戦いに敗れた。
さっきはヒザキの前でかいた恥を、別の形で返して行けばいいと思ったが――それも難しいだろう。
ルケニアの笑顔を見て、ヒザキの背中を見て始まった彼女の旅路は、一度ここで幕を閉じるのかもしれない。第二章の幕は、王の傍で一人の女として跪く――そんな物語として開けるのだろう。
「あ、れ・・・」
不意に掌に涙が数滴零れた。
気付けば肩は震え、動悸が激しくなっていた。
まさかここで過去に置いてきた脆さが、顔を出してくるとは自分でも思わなかった。
ミリティアは布団の端で顔を覆い、布地に涙を染み込ませる。
「私は・・・後悔、しているの?」
そんなことはない。
彼と決闘をすると決心し、その決闘が敗北の可能性が高い挑戦だとも理解していた。
後悔はしていなかったはずだ。
戦いの中で自分の「強さ」の幅が広がり、新しい景色を見た瞬間は心すら踊ったぐらいだ。
だから後悔ではないのだ――この涙の根源は。
「なんで・・・、ぅ・・・ひっく・・・」
気を失う瞬間、ヒザキに強さを認めてもらった時、満足していたことを覚えている。
だというのに、時間を置いて気持ちを新たにすれば、こうも未練がましい感情が囃し立ててくる。
こんな惨めな姿は誰にも見られたくない。
ミリティアは目元を拭うが、抑えきれない感情は滝のように止まる事を知らず、涙は止めどなく流れていった。
ヒザキやリーテシアは、ミリティアにとって「未来の象徴」だ。
限りなく狭く、百人が百人とも「こうなる」と簡単に予見できる未来しかなかったアイリ王国。そしてそこに住まう者たちは、その運命と共に歩むしかなかった。すぐに壁にぶつかり、そこで立ち止まったまま朽ち果てると理解していても、そうするしかなかった。
それを大元から破壊し、新たな朝を導いてくれるのが彼らの行く道なのだ。
彼らについていけば、もっと強くなれる。
様々な経験も積めるし、まだ見ぬ景色も見れるかもしれない。
新たな発見も多く出てくるだろう。砂蟹やオアシスだってその一つだ。
その道についていくことができれば、ミリティアは――彼女自身が「こうでありたい」と思える未来像に辿り着けるかもしれない。
別にアイリ王国を捨てたい、だとか逃げ出したいと思っているわけではない。
兵士として、近衛兵として、軍務に携わっていけば、自ずと友好関係を結んだリーテシアの国との親交機会で共に行動することがあるはずなのだ。彼の国はまだ二人しかおらず、人手に困窮することは目に見えている。だから一つの人手として彼らの手助けとなり、その時だけでも構わないから――共に道を歩みたいのだ。
この涙は後悔ではなく、その未来を実現できない「諦観」の象徴として漏れてきたのだろう。
歩んだ道を負の思いを以って振り返るつもりは毛頭ない。だから後悔もない。しかし明るく大きく開いた未来への道のりは、ミリティアの目にこんなにも輝いて見えるというのに――その道を歩くことは許されず、何の変哲もない誰かが定めたお決まりの道を歩まざるを得ない状況に涙がこぼれたのだ。
「ミリー」
苦しそうに腕を抱えて腰を曲げるミリティアに、優しく声がかけられた。
先ほどまで昔の夢を見ていたからだろうか。
彼女が幼少期にミリティアにつけた愛称「ミリー」で名を呼ばれて、思わずミリティアはハッと顔を上げた。
「ル、わっ――」
ルケニアに泣いていたことを悟られまいと、言い訳を並べようと思ったが、どうやら遅かったようだ。
ミリティアはルケニアの胸元に抱えられ、その豊満な胸に顔を埋める。
男なら喜ぶシチュエーションなのだろうが、ミリティアにその気はない。感じるのはただただ――ルケニアの優しさと温もりだった。
「もー、まーた一人で面倒くさいこと考えてるのー?」
「・・・・・・そ、そんなことはない」
「嘘。アンタさー・・・誰かのために~とか、皆の笑顔のために~とか偉そうに御託並べるけどさ・・・アンタ自身のこと、忘れてない?」
「・・・え?」
気のせいだろうか。
ルケニアの声が若干震えているように思えた。
彼女の胸に抱え込まれているため、その表情は伺い知れないが・・・先ほどの自分の声と同じ、泣きそうな声に聞こえてしまった。
「頑張ることは悪いことじゃないよ。何かに一生懸命に挑戦するのなんて凄いことだと思う。夢に向かって走り続けることなんて――誰にだって真似できるわけじゃない、尊い想いだと思うの。ここの・・・根っこから枯れ果てた連中に見習わせたいぐらいだわっ」
ここの連中、とはアイリ王国の民のことだろうか。
確かに生活水準が著しく低いこの国では、夢に向かう余裕を持つ者はほぼいない。
流されるままの人生を善しとする者の方が多いだろう。
「・・・だけど、だけどねっ。だからといって・・・そのために自分を押し殺すことは違うと思うの。ミリーが隊長になって、喋り方を変えて、考え方も無理やり変えて・・・隊長として振る舞うために、ミリーの大事な想いを押し込めて――そんなことしないと隊長が出来ないんだったら『止めちまえ』って何度言おうと思ったか!」
「ル、ルケニア?」
「黙って聞く!」
「う、うん・・・」
見上げようとしたミリティアの頭を手で押し戻して、彼女は話を続けた。
「八年前だってそう。後でアンタが一人で戦場に向かった話を聞いて、こちは何て思ったと思う?」
「・・・」
当時、両親の件で塞ぎ込んでから徐々に精神が回復していた時、ミリティアは何度かルケニアにサンドワームの時の話をした。もちろん絶望的な話をするためではなく、その時に助けてもらった感動の話をするためだ。
その話を聞いていた時、ルケニアは――どんな表情をしていたか。
「正直、全力でぶん殴ろうかと思った」
「・・・うん」
そうだった。
あの時、本当に一瞬だけ――ルケニアは怒りや悲しみが入り混じった感情を浮かべたのだ。
だがミリティアの精神状況も踏まえて、彼女は自分の感情を抑えたのだろう。その後は普通に会話をしたし、ヒザキの話を嬉しそうに聞いてくれていた。
「今だから言える話だけどねー・・・もうね、アンタ何言ってんのって感じ。助けてもらったとか、感動したとか、あの人みたいになりたいとか――アンタ、その人がいなかったら死んでたんだよって叫びたかった。こちは何も知らずに、何も関われずに、何が起きていたのかも分からずに、後でアンタの死っていう結果だけ聞かされるんだって・・・それがどれだけこちの胸を締め付けたか、分かる?」
「・・・ご、ごめんなさい」
「・・・ふーん、ちゃんと素直に『謝れる』ってことは、もう殻は脱いだんだ」
「うん・・・」
「ま、しょーがないなぁ・・・こちは『お姉ちゃん』だからね・・・許してあげる。でも、アンタがこちに相談もせずに、勝手に悩んで、勝手に結論を出して、勝手に行動する――それがどういう結果に繋がるかは、もう分かるでしょ?」
「・・・」
こく、とミリティアは小さく頭を縦に振った。
「別に何でもかんでも言えってわけじゃないよ? そら他人に言いたくないこと・知られたくないことなんて、こちも腐る程あるし。だけど、人生を左右することで悩んでるなら・・・・・・こちが、お姉ちゃんが相談に乗るから――ちゃんと言ってよ」
「・・・っ」
「我慢すんな、この頑固者」
「・・・っ、ひっく・・・ごめ、んなさい・・・」
「ううん・・・」
ミリティアの頭部に温かい水が落ちる。
ルケニアも泣いているのだ。
月明かりの中、二人の女性は互いに身を寄せ合って涙を流し続ける。
やがて数分経ち、感情の起伏が収まりつつある時にミリティアが「あ、でも・・・」と切り出した。
「ルケニア、宮廷魔術師の時・・・私に相談しなかった」
「ぅ」
ようやくルケニアの胸から顔を上げて、ミリティアは彼女にしては珍しく、やや幼い素振りで頬を膨らませて抗議する。言われてみれば、当時、立ち直ったミリティアがグングンと先に進む様子を見て、置いてかれないようにと始めた魔術が評価され、宮廷魔術師として打診があったわけだが――その時はミリティアに相談しないで決めようとしていた。
正直、勝手にライバル意識が芽生えていた・・・という背景もあって、打ち明けるのが気恥ずかしかったというのが主な原因なのだが、涙も落ち着いたこのタイミングでは言い出しにくい。
「私もその話を別口で聞いた時、心配したんだよ? もう必死でルケニアを探して探して・・・」
「ま、まぁ~? こちはお姉ちゃんだからいいの! それにそんなに悩んでなかったし!」
「私も心配したんだぞ!」
「わ、分かった分かった! 今度から言うって!」
久しぶりにミリティアが感情丸出しで迫ってくるため、ルケニアはタジタジになりつつも約束を取り付けて彼女を宥めた。
そして二人は顔を見合わせて、互いに笑いあった。
それは何処か――久しく忘れていた、子供時代の頃と同じ温かみを感じるものだった。
「さぁて、そろそろアンタの悩み相談に乗ってあげよっかね~って言いたいとこだけど、どーせあの馬鹿王子の一件でしょ? 大筋は宰相から聞いたよ」
「ル、ルケニア・・・そういう言い方は良くないと思うの」
「ふふん・・・『言い方が良くない』ねぇ? アンタ、なんだかんだ言いつつも、あいつが愚王だって認めてるんじゃなーい? 今までの近衛兵隊長のミリティア様だったら『国辱モノだっ!』なんて叱ってた癖にねぇ~」
意地悪な笑みを浮かべて指摘すると、ミリティアは慌てふためく。
「ち、ちがっ――・・・ぅぅ・・・」
否定の意志を見せかけるものの、少し前の隊長としての自分だったら考えずとも出てきた言葉が、今は上手く口に出来なかった。それだけ近衛兵隊長としての殻は、無意識に立場を考慮した言葉を並べられるほど、強固なものだったのかもしれない。
「んー・・・やっぱり駄目だなぁ」
「え、な、何が?」
「今のアンタ、急に女らしさが出てきちゃったから・・・アイツの前に出そうものならすぐに手出されそう」
「・・・ま、まぁ・・・たぶん、そういうことなんだろうと思うから・・・そうなる、のかな?」
「だから駄目! 色々とこちも考えたけど、どー考えてもアイツにアンタをむざむざ渡すことはできないっ! 何食っても同じ味に感じる奴に高級料理出すのと変わらないじゃない!」
両手をあげてムキーッと抗議するルケニアに、ミリティアは「まぁまぁ」と落ち着かせた。
内心では自分を本気で心配し、言葉に表してくれる親友の姿に嬉しい感情が溢れる。本当に良い友を持ったのだと改めて思い知らされた。
「でも・・・もう決まったことだし」
「・・・嫌なんでしょ?」
「・・・」
言葉を選ぶミリティアだが、今の心情を表せるものは何も出てこなかった。
人間関係、社会的立場、契約、夢、理想・・・いくつもの要素が雁字搦めになって、今がある。だがルケニアが聞きたいことはそんな「過程」の話ではないのだろう。もっと単純で本能的な部分――理屈や人の世の縛りなどを度外視した、もっと純粋な答えを聞きたいのだ。
ミリティアはやや逡巡したが、やがて目を閉じて小さく頷いた。
その返事にルケニアは「ふふん」と満足そうに笑った。
ルケニアの自信に満ちた態度に、ミリティアは眉を潜めた。まるで王との約束など、大した壁でないと言わんばかりの様子だ。
「本当はこちを通してくれれば、もっと『条件』を盛り込んだのになぁーって思うんだけど、ま、ベルゴーのおっちゃんにしては良くやったって感じで褒めてあげてもいーかなー」
本人のいない場所で、自慢げに大口を叩くルケニアに思わず苦笑してしまう。
しかし気になるキーワードが幾つかある。
ミリティアにはそれが何を指しているのか、全く分からなかった。
「ルケニア、条件・・・って? ベルゴー様が関わっている、ということは――リーテシアさんの国との約定のこと?」
うん、とルケニアは一つ頷き、
「そ、アンタはこれから――ただのミリティア=アークライトとして、新しい人生を歩むんだよ」
とミリティアの新しい未来への道標を堂々と示したのだった。




