第62話 ミリティアの追憶 その3
さて、モグワイとの早朝訓練が始まり、ミリティアは王城で見た訓練風景をなぞらえるものだとばっかり期待していた。
モグワイが稽古をつけてくれると話がまとまったその日の夜、ミリティアは自分の目標に一歩前進したためか、嬉しいという感情が暴走し、仕事から帰ってきた父のダビ=アークライトに何度も今日の話をした。ダビは急展開も急展開な話に、最初は呆気にとられてしまったが、カミラの補足もあってようやく事態を整理できたようだった。
「――ミリティアがそうしたいなら止めないよ。だけど・・・自分の身が危うくなれば、自分の命を最優先に考えるんだ・・・。これだけは絶対に守ってくれよ。ミリティアは皆の幸せを願ってと言うけど、僕やお母さんの幸せっていうのは、ミリティアが健康に生きていてくれることなんだから」
一通り話を聞いた父の返事は、ミリティアの決意を後押しするものの、自分の命を第一に考えるようにとの釘も刺す内容だった。
他人のために何かを成そうとする人間は、自身を顧みることを忘れがちだ。
誰かのために行動することは尊いものだし、多くの人間に眩い輝きを与えるだろう。だが、それはあくまでも限度の中の話であって、度が過ぎた自己犠牲の上に成り立つ行為は欺瞞へと成り下がってしまう。そうなってしまえば、ミリティアも周囲の人間も最終的には不幸になるのだ。
ダビの言葉はそれを危惧してのものなのだろう。
そんな父の心配が伝わったのか、伝わっていないのか、元気いっぱいに「はい!」と答えたミリティアは母の元へ走っていき、今度はカミラとじゃれ合っていた。
ダビは「大丈夫かな・・・心配だ」と苦笑しつつため息を吐くが、当然誰もその姿に気づく者はいなかった。
食事を終えるや外で拾った枯れ枝で、訓練場で見た素振りを見様見真似でする様は微笑ましいものだった。
床に就いた後も何度も寝返りをうち、新しい朝を迎えることが楽しみで満足に眠ることが出来なかったぐらい高揚感が抑えられなくなっていた。
しかし蓋を開けてみると――。
「んにぃぃぃぃ・・・!」
朝っぱらから少女の苦悶の声が響き渡る。
「おい! お前、今・・・顎を地面につけないで折り返したな!?」
「ふぇ・・・、う、ぐぅ・・・」
力尽きた声を漏らしながら、ミリティアは家の裏手にある小さな広場にうつ伏せで倒れ込んだ。
「・・・たったの4回か。絶望的に筋力が無いな・・・」
ミリティアが行っていたのは腕立て伏せだった。
モグワイは最初に腕立て伏せのやり方を彼女に教えると、そのすぐ後に「可能な限り続けて見ろ」と指示。それに従って腕立てを始めるも、初回から限界を迎えたかのように腕が振るえる様を見て、モグワイは顔を手で覆ってしまったものだ。
うつ伏せのミリティアに近づき、しゃがんで彼女の頭上から声をかける。
「いいか? 何をするでも基礎体力は必須だ。筋力が無ければ剣も満足に触れないし、持久力が無ければすぐにバテて蜂の巣だ。瞬発力が無ければ行動は遅れ、柔軟性が無ければ体の故障に繋がってくる。全ては資本となる肉体があるからこそ回るんだ。それが今のお前には――圧倒的に足りない」
「ぅ・・・」
まだ二の腕が痙攣しているのか、ミリティアは手を使って立ち上がれず、仕方なく体を反転して仰向けの状態でモグワイと向き直った。
「大方、世間一般的な訓練を想像していたんだろうが、そんな筋力じゃ素振りすら無理だ」
「す、すみません・・・」
「謝るってこたぁ自分でも力量不足ってのは理解したようだな」
「はぃ・・・」
目を瞑って残念そうに口を紡ぐミリティア。
思わず慰めたくなる仕草だが、ここで甘やかすと後々そのツケが回ってくることは分かっている。
モグワイは頭を掻きながら、なるべく厳しめの口調を維持することを意識しながら言葉を続けた。
「とりあえず、ミリティアには俺が設定した目標をクリアできるよう頑張ってもらいたい」
「は、はい!」
腕の痺れが取れたのか、勢いよく立ち上がったミリティアはグッと拳を作って意気込みを返事に込めた。
「いい返事だが・・・」
そんな彼女を意地悪い笑みを浮かべてモグワイは――、
「いつまでそんな態度でいられるのか見物だな」
と彼女に課す目標を想像しながら、首を傾げる少女を見下ろした。
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腕立て伏せ 50回。
腹筋 50回。
近くの手頃な木の太枝を使っての懸垂 30回。
スクワット 50回。
西地区外周(約1キロ) 1周。
それがモグワイがミリティアに課した「初級」の課題だった。
そこまで無理難題でないことにホッと胸を撫で下ろすものの、今の自分には相当にハードルが高いことには変わりない。
なにせ腕立て4回が限界なのだから・・・。
ちょっとした絶望感を抱きつつも、ミリティアは不平不満は一切表に出さず「頑張りますっ」と元気に応えた。
「まあいきなり数日で出来るわけでもないし、しなくてもいい。まずは自分の限界を伸ばしていくことを考えていくんだ。無理をしても体に負荷がかかりすぎて壊すだけだからな。さっき腕立てで自分の限界を感じただろ? その時の感覚が来たらその日は一旦、訓練を止めること。決して焦って限界以上のことをしようとするなよ?」
そう言いつけられ、モグワイは王城に向かっていった。
取り残されたミリティアは言われた通りに自重トレーニングを開始することにした。
腕の張りのような感覚も薄れてきたため、まずは先と同じ腕立て伏せをすることにした――が、初回と異なり、今度は一回腕の屈伸を行っただけで急激に腕に軋みが襲ってきた。
思わずミリティアはそのままペタンと胸を地面に圧しつけて弛緩した。
どうやら和らいできた、というのはあくまでも日常的な動きをする範囲の話であって、力を込めれば裏に溜まった疲労が一気に表面化してくるようだ。
「・・・え」
あれ? と不意にミリティアはモグワイの課した目標に辿り着けるのか不安になってきた。
「う、ううん・・・とりあえず他のものをやってみよう!」
首を振って、今度は腹筋に挑戦することにした。
やり方が予めモグワイに全て見せてもらっていたため、それを
体育座りをしてから後頭部に両手を交差させ、背中を地面につける。そこから――一気に腹部に力を込めて上半身を起き上がらせる。
起き上がらせる・・・イメージはあったのだが、現実は理想と異なり、ミリティアの上半身は一向に起き上がる素振りを見せなかった。
「ふっ! うん! てやぁ!」
いや、素振り――というより努力の形は見えるのだが、彼女の柔らかい腹筋では上半身を起き上がらせることができず、左右にクネクネと体を揺する程度しかできなかった。
ピタ、と体の動きを止めてミリティアは考える。
「・・・」
まさか一回も腹筋が出来ないとは思わなかった。
モグワイはああも簡単にこなしていたから、さほど負荷は無いと思い込んでいたが、予想をはるかに超える高い壁だったようだ。
(あ、あれ・・・い、いや、でも! わ、私の苦手分野だったかもしれないしっ!)
今度は懸垂。
家の裏から出て、小さめの通りに生えている木を見上げる。
モグワイが事前に確認し、子供なら枝を掴んでぶら下がっても折れない強度はあると判断した木だ。
確かに太めの木の枝は、ちょっとジャンプすれば届く位置にあった。
「えぃっ!」
ミリティアは思い切ってジャンプし、木の枝を掴む。
そしてそのまま腕を伸ばした状態でぶら下がった。
「・・・」
両腕がプルプルと震える。
先ほどからミリティアは自重を腕の力で持ち上げようと、相当力を入れている――つもりだ。
しかし腕は振るえるばかりで全く微動だにしない。
それどころか枝を掴む手も痺れきたため、握力が徐々に弱まっていった。
「・・・・・・・・・ぁ」
限界が訪れ、自然と枝から手が離れ、ストンと静かに着地した。
両手を見ると少し赤くなっており、強く握ることができないほど痺れていた。
「・・・」
そんな。
そんな、馬鹿な。
確かに筋力など今までの私生活で気にしたことも無かったが、まさかここまで何も出来ないほど劣っているとは思わなかった。
いきなり目標を上回ることができるとは思っていなかったが、それでも半分――いや三分の一ぐらいは行けるんじゃないかと思っていたのだ。
甘かった。
実に浅はかな考えだった。
「ど、どうしよう・・・こんなんじゃ・・・」
ミリティアは顔を真っ青にして絶望感に打ちひしがれていた。
彼女が絶望に感じたのは自身の身体能力の低さではなく、モグワイに呆れられ、見切られることだった。
こんなこともできない子供に愛想をつかしてしまうんじゃないか。
そんな考えが脳裏を過ると、ミリティアは全身が寒くなる程の負の感覚に襲われていった。
「そ、そうだ・・・あ、足なら・・・」
まだ項目は残っている。
スクワットとジョギング。
今までは腕力と腹筋だったが、脚力ならまだ望みはあるかもしれない。
ミリティアはそう考え、何か一つでも秀でた部分をモグワイに見せたい一心で次の項目へと挑戦していった。
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「ただいま・・・」
昼になろう時間になってミリティアは家の玄関をくぐった。
「あら、終わったの?」
いつもと変わらない柔らかい笑みで迎えてくれる母のカミラ。
そんな母を見ていると不覚にもミリティアは抑えようとしていた感情が涙となって吹き出し、ポロポロと泣き出してしまった。
カミラが声をかける前に母の元へ走っていき、その体に抱き付く。
「あらあら・・・大きくなったと思ったのに、まだまだ子供ねぇ。何があったの、ミリティア」
何も言いたくないのか、首だけ振って顔を上げないミリティア。
「・・・しょうがないわね」
ふっと息を吐き、カミラはミリティアの気が収まるまで、そのままの態勢で頭を撫でつづける。
昔、ミリティアが幼児だった頃に聞かせた鼻歌を口ずさむと、ミリティアは耳を少しだけ動かしてジッとその歌を聞き入った。
数分経って鼻歌も終わりそうになる頃、おずおずとミリティアは母の体にうずめていた顔を上げていった。
「ご、ごめんなさい・・・」
「なんで謝るのかしら?」
「だ、だって・・・私、駄々こねてる子供みたいだもん・・・」
「ふふ、そうね」
もう一度ミリティアの髪を撫でてから、カミラは「でもお母さんとしては、こうしてたまに甘えてくれるのも嬉しいかな」と言った。
「何か上手く行かなかったのかしら?」
「・・・・・・うん」
「でもまだ初日でしょう? 上手く行かないのは当たり前じゃないかしら」
「・・・」
ミリティアは身じろぎだけで返事し、その様子でカミラは愛娘の心情を察した。
「思ったよりも上手く行かなかった?」
「・・・・・・」
小さく頭が縦に動く。
「なぁに、ミリティア。もしかして最初からある程度はこなせる、なんて思っちゃってたの?」
困ったように眉を下げた表情でミリティアが顔を上げる。
一定の人生経験を積んできた成人なら、何か取り組むにしても初日から落ち込んで悩んだりはしないだろう。だがミリティアはまだ12の子供。さらにまっとうな教育機関の無いこの国においては、唯一の教育施設とも言える孤児院に通っていない子供の方が知能も経験も浅かったりする。
幸いミリティアは自分の意志で図書館に通ったり、ルケニアと接点を持ち、他人と行動することを身に着けたが、それはあくまでも外からの介入でしかない。内から――長期的に他者と一緒に行動し、学ぶという経験が圧倒的に少ないミリティアは、人見知りこそしないものの、初めて挑む課題に対する自身の尺度というものを計り切れていないのだ。
おそらくこれがルケニアであれば「まぁまだ初日だし、いっか」程度で終わらせるはずだ。
経験が浅く、かつ真摯に取り組もうとするからこそ起こるミリティア特有の心情なのだろう。
「いい、ミリティア。誰も最初から上手く行く、なんて思ってないわ。貴女が自分がどれほど出来ると見込んでいたかは分からないけど、私はきっとモグワイさんから戴いた課題の半分どころか、全然こなせないと思ってた。だってミリティア、そんなに体強くないものね」
柔らかい二の腕を軽くつまむと、筋肉など無いのではないかと思うほどの弾力が返ってきた。
その行為が不服だったのか、ミリティアが無言で頬を膨らませる。
「でも大丈夫よ、ミリティア」
「・・・」
カミラは何が大丈夫なのかという表情をしているミリティアの拘束を優しく解き、彼女と同じ目線になるように腰を落とす。
「だって私ですら分かったことだもの。専門家のモグワイさんに分からないはずがないわ。だから・・・貴女が最初から躓いてしまうことも計算に入れての課題だと思うの」
「・・・うん」
「先が見えなくて不安になるのも分かるけど、今はあの人を信じて進みなさい。諦めずに真面目に頑張っていけば、必ず成果は貴女の体に出てくるわ。それともミリティアはもう疲れちゃった? もう止めたくなっちゃった?」
「う、ううん・・・」
止める、という言葉に強い否定の意を見せて、首を横に振る。
「そう、ミリティアは心が強い子だものね。その強い心にまだ体が追い付いていないだけなの。気持ちばかりが先に行こうとして焦るのは分かるけど・・・体がついてくるまで辛抱強く頑張れば――きっと貴女はいくつもの壁を乗り越えていけるわ」
そう言ってカミラはギュッとミリティアを抱きしめた。
ミリティアも手を母の背中に回して、その抱擁を受け入れる。
「うん・・・頑張る」
耳元でミリティアの決意を聞き届け、カミラは満足そうに頷いた。
母の言葉は確信はないし、子供には分からない比喩も含められていた。
だがその言葉には確かな信頼と重みがあり、ミリティアの心に何の引っ掛かりも無く染み渡って行った。
「お母さん、ありがとう」
そう呟いたミリティアの目には既に涙はなく、降って湧いた迷いも消え去っていた。
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ミリティアがモグワイの出した初めの課題をクリアしたのは、母に泣きついてから一か月後のことだった。
成果に目を向けるのではなく、一日一日、決められた目標に向かってすべきことを成す。それだけを心に一心不乱に走っていたのだが、気づけば最初の課題は難なくこなせるほど肉体は強化されていた。
「よく文句の一つも出ずにやりきったもんだ」
というのは課題クリアした時のモグワイの言だが、初日から早速母に泣きついた記憶が鮮明に残っているミリティアは曖昧な笑みで誤魔化す他無かった。
だが褒められるのは素直に嬉しい。
そして成果が目に見えた時、自分が進んできた道に誤りは無かったと確信を持つことができた。
モグワイ、そしてカミラに手を引いてもらって進みぬいた道ではあるが、初めてゴールが見えない不明瞭な過程を歩んだミリティアにとって、この結果は大きな自信へと昇華していた。
確信できたなら後は邁進するのみだ。
ミリティアは次々にモグワイから出される課題を、時間がかかっても腐らず、諦めずに徐々にクリアしていった。
二か月経った頃には、モグワイから模擬剣を渡され、素振りをしてみることになった。
そこで基礎体力、筋力が無ければ素振りすらできないと言われた意味を痛感することになる。
モグワイから「上段に構えた後に正眼まで振り下ろし、そこで剣を止めるように」と言われ、その通りの動きを行おうとした。しかし重力に引かれた剣は、振り下ろしによる慣性のままに地面に叩きつけられてしまった。両手に強い痺れが走り、ミリティアは思わず剣の柄を離して両手を見下ろした。
「・・・!」
モグワイの課題をクリアできたということは、最低限の体は出来上がったという事だ。しかしそれでも剣の勢いを止めることができず、逆に剣に振り回される形になってしまった。
もし課題をクリアする前に剣を握っていたら、もっと酷い結果になっていただろう。
「まあ想像通りだな。まだお前には剣を扱うには体が出来てなさすぎるってことだ」
「・・・はい」
「だが、剣筋は想像以上に真っ直ぐだったぞ。ちゃんと真面目に体造りをしていた証拠だ」
「はい、ありがとうございます!」
「おっ・・・なんだ? もっと剣を使って訓練したいって言うかと思ってたんだが・・・やけに素直だな」
「あ、いえ・・・」
母に言われて、自分の考えを見つめなおした・・・というのは何だか気恥ずかしくて言いにくかった。
かと言って自分の力だけでここまで真っ直ぐ進めたわけでもないので、良い表現がミリティアの脳内に浮かんでこなかった。そのまま言い淀んでいると、時間切れが先に来たようでモグワイは「まあいいか」と話を終わらせてしまった。
「今、無理に剣を扱おうとしても手の怪我に繋がるだけだ。だから今の素振りから寸止めまで難なくこなせる程度の体にしないといけないわけだ。特にミリティアは女であり子供だ。筋力の付き方には個人差があるものの・・・通常の兵士並みの力にたどり着くには時間がかかることだけは覚悟しておくように、な」
「は、はいっ」
地面に転がった模擬剣を拾い上げ、モグワイは片手で先ほどミリティアが出来なかった素振りからの寸止めを行った。
空気を割く音と共に、綺麗に縦に線を描いた剣筋はミリティアの目にとても美しく見えた。
「ま、いつかお前もこれが出来るようになるさ。サボらなければな」
ニッとモグワイが笑みを浮かべると、ミリティアも何故かその表情を真似して、ニッと笑みを浮かべた。
自分の顔を真似されたことに若干の気恥ずかしさを覚えたモグワイは「そ、それは真似しなくて良し」と釘を刺した。
「おっと時間だな。それじゃいつもの訓練をこなしておけよー」
「了解です!」
背筋を伸ばして返事をするミリティアに、鼻頭を掻きながらモグワイは家を後にした。
これからか彼は王城で通常の仕事に戻るわけだ。
まだ二か月、されど二か月。
一日たりとも欠かさず指南を続けてくれることに、ミリティアは心から感謝した。
彼の背中が見えなくなった後、もう一度だけ深々とお辞儀をする。
それから早速、ストレッチを開始し、体を十分にほぐしてから、いつもの体造りの訓練を開始することにした。
・・・。
・・・・・・。
・・・・・・・・・。
嫌な風が肌を舐めるように通り過ぎたような気がした。
ミリティアは筋力トレーニングが終わり、国の外周をランニングしていた最中にふと足を止めた。
一定の脚力と体力がついた頃から、ランニングの途中で止まることは無かったのだが、今日は妙な風の気配を感じて本能的に足を止めてしまったのだ。
「・・・?」
空を見上げる。
晴天だ。
特に異変も違和感も感じない。
風もさほど強くないため、砂嵐が起きる可能性も低いだろう。
では何に体は反応したのか。
「・・・・・・!?」
と、再び吹いた風に身を任せると同時に、全身に悪寒が走った。
風邪の予兆ではなく、純粋に風が「何か」を語りかけてくるような――それも悪い何かを。そんな感覚が肌に強く浸み込んできた。
「な、なに?」
聞いたところで帰ってくる言葉がない事は分かっているが、どうしても声に出してしまいたかった。
落ち着かない様子でミリティアは胸元で手を握り、遥か頭上まで伸びる外壁に背中を預けた。
――瞬間。
まるで地面が消えてしまったかのような浮遊感。
次に体を吹き飛ばすかのような強烈な振動が襲い掛かってきた。
地震。
いや違う。
図書館の書物で得た知識で分かる。アイリ王国で地震があったのは数えるほどで、少なくとももう何百年も起こっていない。この国で「横揺れ」の大きな地震が起きる場合は決まって――。
ミリティアはハッと顔を上げ、外壁を背に遥か遠くの向かい側の外壁。そのさらに向こうのサスラ砂漠を見た。
「・・・!」
再び地面が揺れる。
まるで地面に流れる波紋が足元を波打っているような感覚だ。
近くの家から何事かと次々に民が顔を出してきた。
状況を把握している者なんて一人もいないだろう。
ミリティアも当然その一人にカウントされているわけだが、図書館での知識がその可能性を教えてくれた。
「サ、サンド・・・ワーム?」
その名に呼応するかのように、三度目の振動。
国が騒がしくなってくる。
いかに日々を生きることに疲弊してきたアイリ王国の民であろうと、これほど日常から逸脱した現象を体験してしまっては、呆けたままではいられなかった。
ミリティアの視線の向こう――遥か砂漠の先に広大な砂煙が立っていた。
砂嵐・・・ではない。
砂煙は渦を巻いて上昇しているのではなく、純粋に砂漠の砂が巨大な質量に押し上げられ、空中に散って出来上がったもののようだ。
王城に設置された警鐘が鳴る。
前に鐘が鳴ったのは何時だったのか。鐘はあまり使われていなかったのか、音がくぐもった上に不協和音のように耳障りなものだったが、それでも国土に響き渡る音量を絞りだしてくれたようだ。
王城の鐘が鳴る時――それは国全土に警戒を呼び掛けるときだけだ。
警戒を呼び掛けた後に何をどうするのか――おそらく王城の兵士の指示に従う形になるのだろうが、普段からそういった意識がない国民はただただ混乱を広げていく一方だった。
そんな状況を嘲笑うかのように、再び振動が国を襲う。
「――あ」
そしてミリティアは壁の向こうに立ち込める砂煙、その奥に潜む存在を垣間見た。
距離が遠すぎるため、黒い影としか認識できなかったが、確かにそれは砂煙の中を泳ぐ様に蠢いていたのだ。
――現代より八年前。
アイリ王国の歴史の一節に記録されるだろう大事件が幕を開けたのだった。




