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テトラ・ワールド  作者: シンG
第1章 建国~砂漠の国~
52/96

第52話 薄暗い部屋の狂人は笑う

暗い暗い世界。

其処はただの景色として見れば、何処にでもあるような部屋である。

写真に撮って見せれば、逆に「この部屋がどうしたの?」と尋ねたくなるほど、普通の部屋である。

もしこの部屋に異変を感じ取る者がいれば、それは直にここに足を踏み入れた者だけだろう。


木製の椅子の背もたれに体重を預け、四本脚の椅子の後ろ二つで器用にバランスを取りながら、斜めに座る男が一人。


男のベッドだろうか。

彼の正面にあるベッドの上の毛布には、何かが包まっており、丸く大きい何かが小刻みに震えながら姿を覆っていた。


「騒がしいねぇ」


男は部屋の外に意識を向けるように顔だけ部屋の出入り口と思われる扉に向けて、ヒヒッと掠れた笑いを漏らす。


「んー、ぁあ、違う違う。笑い方ってゆーのは、こーじゃないんだよなぁ。何でだろうなぁ・・・別に法で定められたわけでもないし、相手に害を及ぼすわけでもないんだけど・・・笑い方一つで相手の警戒心ってのは変わるもんなんだよねぇ。こーゆー笑い方ってのは、あんまし好まれないから、きちんと練習しないといけないねぇ。君もそう思わないかい?」


男はベッドの上で毛布に包まっている「何か」に話しかける。

「何か」はそれが自分に向けられた言葉だと理解したのか、ビクッと震えたが、返事をすることはなく、毛布の塊のまま無言を貫いた。


「ダンマリかい? まぁいいや」


男は自分の右手の爪先を意味もなく眺めながら、今度はフッと小さく息を吐くような笑いを浮かべた。


「代わりに童歌わらべうたでも歌ってやろうか?」


不意に。

何もいなかったように見えた部屋の隅から、やや甲高い男の声が響く。

男はその存在に驚くことはなく、しかしその言葉の内容に目を丸くしておどけた様子を見せた。


「アンタがかい? ハハッ、そりゃ想像もつかないや。呪詛にも劣らない斬新な童歌になりそうだよ。っていうか、俺ってもう童歌とか聞かされる年頃じゃないんだけどねぇー」


椅子をギシギシと揺らしながら僅かな抗議する男に対し、部屋の隅に立っていた黒い影は肩を竦めた。


「酷い言われようだ。それに私から見れば、お前もその辺の子供と同じだ。たかだか数十年生きただけの若僧には童歌がお似合いだろう?」


「あー・・・ああ、まー、そうだねぇ。そりゃそうか。アンタは『そういう存在』だったよねぇ」


「・・・」


クックックとくぐもった笑いを漏らしながら、男は椅子を揺らし続ける。

乾いた皮膚を抉るように喉を掻きながら、声にならない「ぁー」という空気音を部屋に響かせる。


「いやぁ、俺ってこれでもアンタのこと尊敬してんすよ。ま、どっちかってーっと、アンタという個人じゃなくて、アンタのような存在に、かな?」


「・・・」


「あー、疑ってるねぇ?」


「疑う必要性はない。お前が私を尊敬しようとどうしようと、私には関係のない話だからな」


部屋の隅から一歩、また一歩と出てきた影は、見る者全てに警鐘を鳴らす風貌だった。

背丈は2メートルを超えるだろう長身に対し、全身は異常と言ってもいいほど痩せこけている。全身を包み込むローブを纏っているものの、それでも目を見張る痩躯である。


一般成人を体積を変えずに、縦に伸ばしたかのような不均等感。


頭部には笠を深く被り、口元まで覆ったローブと笠の隙間から人のモノとは思えない――赤い瞳が椅子に座る男を射抜いていた。


「相変わらず乾いているねぇー・・・俺も乾いて乾いて仕方ないけど、アンタのは違う種類だよね。俺は渇望であって、アンタは――・・・ぁー、何ていうんだっけ、こういうの」


ちょうどいい言葉が思いつかなかったのか、男は再度、ベッドの上に言葉を投げかけるが、帰ってくるのは無言だけだった。男は「ふぅー」と息を吐いて、吐き気を誘うような笑いをこびり付けながらおどけた。


「渇望、か。お前もこの国の人間も、全てが潤いを求めて止まない亡者のようだな」


「一緒にしないで欲しいねぇ。俺とアンタは種類が違うけど、俺とアイツらも比較対象にはならない存在だぜ? 欲しいものがある。やりてぇーことがある。目的や夢がある。辿り着きたい――場所がある。未来はこんなにも無限に分岐してんのに、アイツらは一歩もスタート地点から動こうとしねぇのさ。おかしな話だろ? 欲しい欲しいって喘いでんのに、欲しいモンを手に入れるために何も行動しねーんだからな」


「些末な差にしか感じんがな」


「うっそ・・・マジで?」


「短い人生の中で丸くなってうずくまろうが、懸命に走ろうが・・・所詮は泡沫うたかたに過ぎん。豆粒のような脆弱な存在が広大な世界の中でもがこうと、誰も気に留めないのが世の常だ」


「えぇー・・・かるぅーく傷つくんだけど。俺ってけっこー頑張ってるつもりなんだけどなぁ」


「その『頑張り』が、この廃れた一国に小さな騒動をもたらす程度であれば、たかが知れたことよな」


無機質な赤い瞳が男を見下ろす。

「むぅ」と男は初めて笑みを消し、面白くなさそうに口を尖らせた。


「これは俺の人生計画の序章だっての。始まり、スタート地点。そこだけ見て結論出されても、せりゃ正当な評価には思えないねぇ」


「あの狂信者マッドサイエンティストの力を借りたところで、行きつける場所は限られていると思うがな」


「おっ! 今、アンタぁ新しい言葉を言ったね!? それどういう意味だい? まっどぉー、さいうぇんすと? 言いづれぇーなぁ・・・」


突然、笠の男に食い掛かる男。

赤い瞳はそんな男の反応に「知るか」と冷たく切る。


「ひっで・・・同門のよしみだろーに」


「同門? あの爺の元にいるという意味で、そう言ったのであれば筋違いだな。アレは私に執心なだけで、私はアレに興味はない。ただ他の場所に行く宛もないから付き合っているに過ぎん」


「俺もアンタには執心してるぜ?」


「私という存在に、だろう?」


「ヒヒッ、そうそう」


肩を揺らして笑う男に、笠の男は呆れたようにため息をつく。


「笑い方が元に戻っているぞ」


「おっと」


口元を抑えてわざとらしく仰け反る男。

男は椅子の脚二本で揺れる動作に飽きたのか、勢いよく椅子から立ち上がる。

重心が崩れた椅子は大きな音を立てて床に転がり、その音にベッドの上の毛布がビクッと震えた。


「なぁ、どうやったらアンタのような存在になれるんだ?」


「自分で調べろ、と前に言ったはずだが?」


「いや、ね? 俺も頑張り屋さんだからさぁー・・・勉強もするし、くっだらねー先入観も捨てて色々と取り入れる柔軟性も持ってるわけよ」


腰に手を当てながら嘆くかのようなポーズをとる。


「でもさぁ・・・やっぱ時間がかかんだよねぇ。今回の件だって、下準備に何年かかったんだよってぐれぇかかったし・・・。しかもコレ・・・まだ実験段階ってゆーね?」


「爺の研究を利用しているんだ。十分な近道をしていると思うがな」


「ハハッ、もっと近道があるだろ?」


「・・・」


唐突だった。

部屋の気温が十度は下がったのではないかと錯覚するほどの殺気が充満する。


男は笑みを張り付けたまま。

笠の男は全く動じずに、そんな男を見下ろし続ける。

殺気に当てられた毛布の中の存在は、もはや震えるという生理現象すら生じないほどの重圧に締め付けられていった。


「アンタを掻っ捌いて、中身を観察したら・・・色々と見えてくるのかねぇ?」


「気になるなら、やってみるといい」


挑戦的な言葉を気にした風もなく、笠の男は冷ややかに言葉を返した。


数秒か数分か。

時間の感覚が吹き飛ぶほどの異質な空気に包まれた静寂が流れていく。


やがて、男の方が姿勢を解き、体を弛緩させた。


「って止め止め。仲間同士でそんなことしても不毛ってね? 知識も不十分だし、まだまだ教えてもらうことも多いから、止めておこう」


男から発せられていた殺気が霧散する。

両手を上げて「ごめんごめん」と男は謝罪を口にした。


「別にどちらに転ぼうと、どうでもいいことだ。気にはしていない」


「え、そうなの?」



と。



緩んだ部屋の空気に一陣の風が走る。


いつの間にか握られていた刃。風の魔法により生成された極限までに圧縮された風の刃は、男の右手の動きに合わせてその凶刃を笠の男の首元に向かわせていく。


居合抜きのような態勢から放たれた、狂気の一撃は――笠の男の首を刎ねる前に、その動きを止めることとなった。



「・・・」


「・・・」



両者が睨みあう格好となる。


男は風の刃を振りぬけなかったのではない。

当然、殺すつもりで刃を振りぬいたし、手加減もしていなかった。

だというのに、振りぬけなかった。


「・・・いやぁ、マジで?」


さすがに人を馬鹿にした笑いではなく、心の底から自然と湧きあがった苦笑を浮かべることとなる。


男の振りぬこうとした右手に絡まった鉄塊。

鉄は部屋の床から伸びて来ており、見た目は粘土のような柔らかさを兼ねているように見えるのに、その鉄に掴まれた男の右手は微動だに動かすことができなかった。


そして何より男が驚いたのは、自分の居合を止めた鉄塊ではなく、自分の周囲を囲むように地面から突き出た巨大な六本の刀身だった。人が扱う大剣よりもさらに巨大な剣。柄はなく、刀身だけが床から生えたように突き出し、その刃は全て男に向いている状態だった。


軽くなぞるだけでも両断されそうな鋭い刃。

刃の群れに一通り目を這わせた後に、男は「ヒヒッ」と笑いを浮かべた。


「錬金術・・・ってやつ?」


「そう呼ばれているようだが、言ってしまえばただの土魔法の延長線上のものだ」


「いやいや・・・土魔法の極地とも言われてる次元を、簡単に片付けちゃうねぇ・・・」


「感謝しろ、小僧。お前の今の魔法技術は中々のものだった。私に魔法陣の発動を悟られずに発動させたのは大したものだ。今回お前を殺さなかったのは――それを私に見せた褒美といったところだ。だが・・・手心を見せるのは今日限りだと思え」


「へぇへぇ」


理解したのか、そうでないのか。いい加減な返事をする男に笠の男は「やはり斬っておくか?」と尋ね、それに対して慌てて「いやいや、悪かったって! もうしないよ!」と弁明することとなった。


笠の男が指を鳴らすと、床から生えた刃や鉄塊は水のように崩れ落ち、床と同化していくようにして消えていった。


「大したもんだねぇ・・・やっぱ憧れるね、アンタ」


「ああ、勘違いするなよ」


「ん? ――っ!?」


日常会話のような雰囲気から一遍、笠の男の拳が目の前の男の顔面にめり込む。

鼻骨ごと後頭部から突き抜けていきそうな強烈な打撃に、男は宙に舞い、そのまま背後のベッドの上に吹き飛んでいった。細腕のどこにそんな力があったのか想像もできない力だ。

毛布に包まれていた者もそれに押しつぶされ、中から「ヒィッ!?」という声が漏れた。


「殺さぬとは言ったが、私に刃を向けたことに対するケジメはつけてもらおうか」


一かけらの殺気すらも出さず、自然な所作で拳を繰り出した笠の男は、何も変わったことは起きていないような雰囲気のまま、乾いた赤い瞳を無機質にベッドの上に向けた。


「ご、グッ・・・ぃ、いってぇ・・・」


「まだ憧れるか?」


「・・・、っ、ぐへへ・・・、ぃやぁ、参ったね、こりゃ・・・」


へし折れた鼻を治そうと、指で無理やり整形しようとしたが、走る激痛に顔を歪ませた。

それでも命を繋いでいるのは、笠の男が手加減をしたか、彼がタフなのか。

どちらにせよ、普通の人間なら死んでもおかしくない一撃を顔面に受けてなお、男は嬉しそうに笑みをこびり付けていた。


「憧れる、ぜ・・・当然だぁ。へへ、どんな気分なんだろうなぁ・・・、ええ? 人間をゴミのように扱う気分ってのはぁ・・・さぞかし晴れ晴れとした気分になるんだろうなぁ・・・」


「呆れた男だ。用は済んだし、私はもう帰るぞ」


笠の男は木製の机の上に置かれた包みに視線を移し、最後にベッドに倒れたままの男を一瞥する。


「ぁ~・・・ぃてて・・・ったく。あー、ありがとさん。こいつを持ってきてもらったことぁ感謝するよ」


鼻を押さえながら男はゆっくりとベッドのふちに移動し、何度も自分の手に零れ出した血を見やる。

痛みを主張する男を無視し、笠の男は音もなく出入り口の扉へと足を運ぶ。

そのまま立ち去ると思いきや、扉に手をかけたところで立ち止まり、少しだけ考えた後に口を開いた。


「お前は先ほど、自分のことを『渇望』と表現したな」


「んあ? ・・・あー、そうだな」


「一つ教えてやろう」


「・・・」


その言葉に男は無言で座り直して、続きに耳を傾けた。


「私のように『成る』ためには、強い感情が必要だ。アレに持っていかれない程の強い感情がな。押し負ければ最期、醜いなれの果てに堕ちる。だが押し負けず、自我を保つことができたのであれば――お前もいつかは辿り着くのかもしれないな」


「・・・感情、ねぇ。俺から見たら、アンタにはそれほど偏った感情は無いように見えるんだけど? むしろ無気力?」


キィン、と鉄が鳴く音がしたかと思えば、いつの間にかベッドに座る男の目の前に剣先があった。

笠の男が土魔法で作った即席の剣だ。今度は刀身のみではなく剣の外装を成しており、笠の男が剣を手に男に剣先を向けている状態だ。

異様に刀身の長い剣は、部屋の出入り口からベッドまでの距離を埋めていた。

笠の男が一歩前に出れば、その剣先はいとも簡単に男の眉間を貫くことだろう。


「無気力、か。悪くない表現だが・・・少し違うな。この剣に何を感じる?」


「何って・・・命の危険を感じてるんだけど」


「・・・」


「・・・わぁったよ、そうだな・・・、あー・・・・・・」


「・・・」


「何も、感じねぇ。ていうか何か感じるもんなの?」


「・・・」


「お、おい・・・不正解引いたからって殺すなよ?」


返事がないことに若干焦りを覚えながら、男は両手を上げて無抵抗をアピールする。

微動だにしない剣先に寄り目になってしまう。


「いや・・・それで正解だ」


「はぁ?」


瞬きの間に彼が持っていた剣は姿を消していた。

まるで手品のような手際だ。

実際は魔法として制御・構成されていた剣が魔素へと分解されただけなのだが、瞬きという一瞬の間にそれを実行する手際は見事なものであった。


「何も無い――虚無。それが私の根源だよ」


「虚無ぅ? んだ、それ・・・要は何も考えてないってことか? そりゃ感情って呼べんのかい?」


期待していた反面、裏切られたような回答に男は力を抜いたようにベッドに寄りかかった。


「れっきとした感情だ。がらんどうのように何もなく、冷えた空洞が何処までの続くような――それが私の、今の私が生まれた時の感情だ。・・・私の魔法がまさにていを成しているだろう?」


掌から土魔法で構成された刃だけが造られ、その刀身に対面に座る男を映し出す。


「この刃のように――無機質に冷徹で、鋭く、触れる物すべてを切り刻む。私が土魔法に偏っているのは、今の私の出自の際に沸き起こった感情が強く起因しているのだよ」


やがて刃を握る潰すようにして刃を消滅させる。


「・・・ハッ、逆に疑問が増えるぜ。アンタが本当にんな冷てぇ感情しか持っていねぇなら、なんで俺や爺なんかに肩を持つ? 無機質ってんなら、誰かに肩入れするよーな感情すら無ぇんじゃないのかい?」


「言っただろう? 『今の私』が生まれた際の強い感情だと。別にその感情に永遠に囚われるわけではない。むしろ囚われる程度の精神しか持ち合わせていないのであれば、とっくに『成り損ない』のように狂ったさまを振る舞っていただろうよ」


「はぁ・・・成り損ない、ねぇ」


男は後頭部を掻きながら、何かを思い浮かべるように視線を虚空に這わせる。


「勝手に挑むのは勝手だが、愚鈍な有象無象に成り果てるような醜態だけは見せてくれるなよ」


「そりゃアンタにとって『娯楽』ってことになるのかい?」


その問いに笠の男は少しだけ考え、視線を上げる。


「――そうだな。出来の悪いB級映画を見る程度には楽しみにしていよう」


「へへ、びーきゅーう映画ねぇ。『映画』ってのは知ってるぜぇ・・・俺ぁ努力家だからな。よーは観客を楽しませるモンを見せりゃいーんだろ? 観客はアンタ、主演は俺ってわけだ。・・・いや、観客が一人ってのも寂しいよな・・・。せっかくだから一国ぐれぇはまとめて面倒みてやらねぇとな! ヒヒッ!」


「主演、か」


笠の男は床を踏みしめ、何かを思い返すように目を閉じる。

その間は一秒にも満たない刹那であったが、彼にとっては頭の中を整理するに十分な時間だった。


「さしずめレッドカーペットは、血で塗り固められた華美とは程遠いものになりそうだな」


「レッド、なんだって? ちょっと待った・・・今メモを取るからよ。んだよ、今日は随分と大盤振る舞いじゃねーか。ええっと・・・『まっどぉーさいうぇんすと』に『れっど・・・かーぺっと?』っと・・・」


男は意気揚々にベッド脇のボロボロの小冊子を開き、そこに筆を走らせていく。

その眼には狂気染みた光を感じさせる、男の妄執が映っているように見えた。


「ああっ、これの意味とか教えて欲しいんだけど――」


と言葉はそこで途切れた。


先ほどまでそこにいたはずの笠の男は、最初から存在しなかったかのように姿を消しており、小さく開いた扉が彼が立ち去ったという事実を物語っていた。


男は肩を竦めて、浮きかけた腰をベッドの上に降ろす。

口元には変わらず卑屈な笑みを浮かべつつ、先の一撃で歪んだ鼻頭を指で調整する。痛みで目尻を歪めるも、それすら楽しいと言わんばかりに男は笑みを絶やさなかった。


「ハハッ、どう思う?」


誰もいなくなった部屋――いや、未だベッドの上の毛布にくるまった存在に対して男が再び言葉を投げかける。


「っ・・・・・・」


毛布がたじろぐ様に震える。

息を飲む音。荒い呼吸。小刻みに震える体。そして全意識を毛布という壁の向こうにいるこちら側に向けているのが気配で分かる。だというのに相も変わらず無反応な相手に男は「やれやれだねぇ」と息を吐いた。


「そんなさぁ、丸まってなんか意味あるの? 俺が憎いなら殺しにかかってきてもいーし、それが無理だって分かってんならさ、従順に俺の命令を聞くってのもアリじゃないの?」


「・・・・・・っ、ぁ、貴方は――」


我慢しきれなくなったように、毛布の中からくぐもった声が漏れる。

その声は恐怖か怒りか――自身でも制御できないほど震えていた。



「貴方は・・・最低の、屑です」



心底から湧き上がる憎悪。

女性の声と思われる、その声には負の感情がこれでもかと言うほど滲み出ていた。

その言葉に男はゾクゾクと肩を震わせ、恍惚に顔を染めた。


「ヒ、ヒヒッ・・・ヒハハハハァ! ああ、いいねぇ・・・いいよ、君! 君は今、偉大な一歩を進んだんだ! 怯えて何もできなかった当初に比べれば、恨み節の一つでもぶつけられる程度に成長したんだよ! ああ・・・、ゾクゾクするねぇ。もっとだ、もっと感情を強く持つんだ・・・!」


何が可笑しいのか。

引きつった笑いを浮かべては思い出したように笑い方を直そうとし、しかし直らずに気味の悪い笑い声が部屋中に響き渡る。


「何が・・・何が可笑しいっ! あの人が・・・、っ・・・あの人が死んだことがそんなに嬉しいかっ!」


ついに怒りが爆発したのか、毛布を吹き飛ばし、中から一人の女性が全力を以って平手を男に向かって振り下ろす。

男は躱せるだろう一撃を、笑みを張り付けたまま目で追い、そのまま頬に受け入れた。


バチィンと乾いた音が響く。


「っ・・・! こ、このっ!」


叩かれても笑みが消えない。

まるで元からそういった顔だと主張するように、その口元から嫌らしい笑みが消えない。

そして何より――少し仰け反った顔、その双眸が「観察」するように、舐めまわすように女性を離さず、見続けているのが酷く吐き気を催すほどの嫌悪感を引き立てていた。


怒りを嫌悪感が勝り、その視線を早く自分から外したいと、女性はもう一度手を振りかざす。


「ヒヒッ――」


しかし、今度は男も無防備に受けるつもりは無いらしく、体を捻って女性の一撃を簡単に躱した。

勢いあまって女性は男の座っていたベッドの上に倒れこんでしまう。

女性が起き上がろうとする数秒の間に、男は卓上に笠の男が置いて行った袋の中に手を入れ、何かを取り出していた。


「っ――! 許さない、絶対にゆる――」


「――さなくて結構だよ。さぁて、あの失敗作ゴミのようにならないでくれよ、お嬢ちゃん」


女性は目を見開く。

男が手に持つ小さな球体を見て。

その球体は植物の球根のような形をしていた。

そして女性はその存在を知っているのか、慌てて攻撃態勢を解き、身を翻して逃げようとする。



――微かな柑橘系の匂いが部屋を走った。



「さっきの男も言っていただろ? 気持ちを強く持つんだ・・・それが君の、君であるための、君が生き残るための条件だ。大丈夫・・・俺を強く憎む想いがあれば、きっと乗り越えられるさ」


耳障りの良い言葉を優しく投げかけてくる。


「そして、俺がアイツのようになるための実験の踏み台になっておくれよ。ふ、ふふふ・・・フヒ、ヒヒヒヒハハハハァァァァ!」


「ぐっ――!」


右手を男に捕まれ、泣きそうな顔を浮かべる女性はそれでも何とか抵抗しようと思いっきり男の脛を蹴り飛ばす。

しかし狂気に目を見開いた男はそんな衝撃では止まらなかった。


「あぁ! 乾く乾く乾く乾く乾くっ! ぁぁぁああぁ~、早く俺に潤いをくれぇ!」


球根を持たない左手で頭を掻きむしり、血走った両目が女性を掴んで離さない。

女性は扉までたどり着くことができず、男に床に押し倒され、そこですべてを諦めてしまった。

目尻から流れる涙は後悔か、無念か、それとも誰かを思ってのものか。


(ああ・・・こんな――)


ゆっくりと迫る男の右手にある物を見ながら、女性は別のことを考えていた。


(こんなことになるなら・・・あの時、勇気を出して――助けを求めるべきだった。殺されるかもしれなかったけど・・・でも、少なくともこんな結末よりは救われていたかもしれない・・・)


男が何かを言っているが、もう耳には何も届かない。

脳裏に白髪の男の姿が浮かんだが、すぐに霧散していった。


(すみません、カーラさん・・・私もここまでみたいです)


そして最後に思い浮かべるのは、一人の男性だった。


(何もできずに・・・怖くて、縮こまってて・・・貴方を助けることも庇うこともできなかった私を――あっちに行ったら叱ってください・・・)


男性の最後の姿を思い出し、女性はより多くの涙を流した。


(あっちに行ったら・・・また色々と教えて下さいね)


一瞬だけ。

そう一瞬だけ、数日前までの楽しかった記憶がよみがえり、女性は少しだけ微笑んだ。

対峙する男はその表情に怪訝そうに眉をひそめたが、すぐに笑いながら球根を女性の口元に運び、無理やりねじ込んでいく。


口腔内に広がる甘い味。


同時に嫌悪すべき禍々しい何かが自分を侵食していくのが分かった。


「ヒヒッ、最後になるかもしれないからなぁ。何か言いたいことはあるかい?」


どうしてだろうか。

全身は麻痺し、指先は意志と関係なく痙攣している。

眼球はぐるぐると勝手に回り、もうどこを見ているかも定まらない。

口からは泡が溢れ、手足は皮が剝がれたかのように熱く、虫が這いまわっているような悪寒に襲われている。

そんな酷い状態だと言うのに、どうしてか、男の声は鮮明に聞こえていた。

理解もできる。


だから女性は最後にこの男が自分以上に悲惨な最後を迎えられますように、と願いを込めて、



「くたばれ」



とハッキリ、笑みを浮かべたまま、呪いを口にした。



最後に鼓膜を震わせた音は、



「ヒヒッ」



と、最後まで神経を逆なでする笑い声だった。


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