第29話 魔獣サリー・ウィーパとの戦い
やれやれ、と彼女は嘆息する。
せっかく入った見習いに向かって振り下ろされる凶刃を食い止めるために、いの一番に魔獣と対峙したものの、接近戦はマイアーの得意とする距離ではあるが、こういった力勝負は分が悪いのが正直なところだった。
筋力もギリシアやリカルドと比較すれば、5分の1にすら満たないだろう。
狭い場所での剣の打ち合い、という条件下で戦えば、下手をすれば第二部隊のライン一等兵にも後れを取る可能性だってある程度だ。
だから、今こうして行っている鍔迫り合いのような手法は悪手でしかない。
愛用しているククリは力勝負には向かない武器の為、とりあえずは一本だけ予備に持っていた短剣で対応したが――、言うまでも無く、純粋な力の差があるため、ジリジリとサリー・ウィーパの前足が眼前に迫ってくる。
(――あの子は後ろに下がったみたいだねぇ)
背後で感じ取っていた取り乱していた気配が、さらに後方へ下がっていったのを肌で感じ、マイアーはふぅと小さく息を吐いた。
不意にサリー・ウィーパの爪と拮抗していた圧力が消えたため、つんのめるように空を切って、そのまま砂に突き刺さる。
マイアーが短剣を引いたためだ。
硬質な足で砂をかき分けて蛇行し、小さな砂煙を出しながらサリー・ウィーパは目前から消えた獲物を探す。
獲物はすぐそばにいた。
先ほどまでの足の裏をしっかりと地につけた、力比べのスタイルではなく――常に踵を浮かせて、即座に反応・回避を行うことを前提としたヒット&アウェイのスタイルへと変わっていた獲物の姿に、サリー・ウィーパは何ら疑問を感じずに、同じように爪を振り下ろした。
相手は非力な存在だ。
先ほどの力比べでも、明らかに自分に理がある。
そんな考えを魔獣が頂いていたかどうかは定かではないが、特に警戒心も抱かずに同じ攻撃をしてくる様子から、少なくとも自身が優勢であるという見解は持っていそうだった。
「ギィ――!」
ギチギチと忙しく動く蟻特有の顎から漏れる声には、微塵も自分が敗ける光景など感じさせない、
「ふぅ、そこまで余裕ぶられちゃうと私もちょっとだけ思うところがあるのさ」
鈍い音がする。
と同時に、マイアーの肩口に振り下ろされる予定だった鎌状の爪は、何かに邪魔されるように彼女の頭上で伸ばした状態のまま固まっていた。
「ギィ、ギィィィ!」
「戦いというのは、互いに凌ぎ合って初めて意味を持つ、と私は思うのさ。どちらかが油断していたり、実力が偏りすぎていたりしちゃ、その戦いの末に何も得られないと思わないかい? やっぱり死線ギリギリを超えるか超えないかぐらいの緊張感がないと、ただの『作業』になっちゃうからねぇ」
ククリだ。
いつの間にか彼女の納刀帯から抜かれた一本のククリが、サリー・ウィーパの前足の関節部に深々と突き刺さり、筋を切断された前足が「振り下ろす」という行動に移ることが出来ずに、固まっていたのだ。
サリー・ウィーパの足ではククリを抜くことが出来ない。
ククリによって破壊されたも同然の右足は諦めたようで、サリー・ウィーパは器用に足を動かしながら距離を取り、左前足を何度か振り、威嚇行為をマイアーに向けて放つ。
「さて、やる気になってくれたのは嬉しいさねぇ。――ん?」
不意に地につけていた爪先から振動を感じた。
どうやら敵は目の前の一体だけではない、と見ておいた方がよさそうだ。
「パリっち」
「わかってますって!」
気付けば横にいた女性兵士は、何度か砂を蹴って盛大にため息をつく。
「あんだけデカいのが地中を動いてるってのに、思いのほか振動は小さいんッスねー。あぁー・・・最悪な場所で最悪な展開ッスねー・・・」
軽口を言いつつも神経を足の裏に集め、パリアーは地中を走る振動がいつ来ても反応できるよう、軽くステップを踏んだ。
「数はわかんないッスけど、少なくとも二体や三体っていう優しい数じゃなさそうッスね。あーもう面倒ッス! 砂の中からってのが厄介すぎッス!」
「ほらほら文句言わないで、チャンスじゃないのさ」
「何がッスか?」
「運良く魔獣の群れでも襲ってきて、それを見事、撃退――って条件を満たすのにねぇ」
「あぁ・・・」
マイアーの台詞につい数時間前の言葉が思い出される。
パリアーは少し肩の力を抜いて、腰の鞘からショートソードを静かに抜き取る。
その口元には僅かながら、笑みが浮かんでいた。
「確か一般的な武勲の対象って、一人あたり二十体の討伐からでしたっけ?」
「連国連盟の基準の一つではそうさねぇ。それも大規模の討伐時のみ対象」
「色々と条件が足りないッス・・・」
「そこは可愛いパリっちのため。今回は特別に五体捌いたら休暇を進呈しましょう」
対峙するサリー・ウィーパから目を離さず、しかし場違いなマイアーの明るい声にパリアーも「相変わらずッスねー」と独り言ち、器用にショートソードを指で一回転させ、構えを取る。
「んじゃ――いっちょ頑張りますっかねー」
「頼もしいねぇ、それでこそパリっち。――っと」
マイアーの余裕の態度が癪に障ったのか、サリー・ウィーパが一度タメを作ってから砂上を駆け出し、残った左の爪を振りかぶってくる。
しかし、その攻撃を見切っていたのか、今度は正面から受けるのではなく、短刀で攻撃を横に受け流して、それを回避する。
受け流したものの、魔獣の力は人のそれを軽く凌駕するもの。その衝撃で先ほど自分の不注意で切った掌から、滲むような痛みと少量の血が噴き出たが、戦いという場に立った今、その刺激は高揚感を増すための促進剤にしかならなかった。
痛みが熱となり、熱が心を震わせる。
戦いとはこうでなくては。
気付けば自身でも「その行為」を知覚するのに遅延が発生するほど、脊髄反射に近い形で手が動き、ククリを一本引き抜いて、それを下手投げで放る。
糸を引くように、直線をなぞって宙を飛ぶククリは、吸い込まれるようにサリー・ウィーパの頭部と胴体の付け根に突き刺さる。
「ギ、ィッ!」
顎をけたましく鳴らし、サリー・ウィーパは人で言う首に刺さったククリを確認しようと頭部を動かすが、右足と同様、ククリが関節部に突き刺さっているため、上手く頭を回すことが出来なかった。
無理に動かしたためか、ククリと傷口に隙間ができ、そこから大量の体液が漏れ出す。
体液は足元の砂を染め、やがてその勢いが止まるころにはサリー・ウィーパは体を折りたたむようにして丸まり、その活動を停止していた。
「おお!」と歓声が背後から起こりかけたが、それをマイアーは手を上げることで制した。
「くるよ! 総員、地中からの攻撃に備え、防御から回避に専念! 地中から的が這い上がったら、後は好きに戦え! 間違っても油断だけはするな!」
普段と異なる命令口調に、戦場の経験がないカリーを除いた全員が「ハッ!」と返事を揃えた。
足を伝わる振動が強くなる。
どうやら仲間の一体が絶命したことは、手法は不明だが、地中にも伝わっていたらしい。
その振動はどこか「怒り」を含んだように、荒々しく砂を揺らしていた。
地中にこんな化け物が横行闊歩しているかと想像すると、夜もおちおち寝ることができない恐怖に襲われる。カリーは就寝中にサリー・ウィーパに襲われ、一撃で首が胴とオサラバする光景を脳裏に浮かべ、その肌を震わせた。
頭を振っても、恐怖心など早々に立ち去ってはくれない。
先ほどの意気込みすらも飲み込もうと、恐怖という無形の呪いはカリーを再び締め付けようとしたが、そんなものすらも置き去りにする展開が目前で起こった。
小さな爆発でも起こったかのような音を立てて、足元の砂が巻き上がった。
「きた!」という誰かの大声すらも、巻き上げられた砂に隠されるかのように曇って聞こえる。
すぐ横の兵士が何かをこちらに言っている。
声は聞こえない。
表情も確認できない。
危険を促しているのか、次に移すべき行動を指示しているのか、それとも声自体がそもそもの勘違いなのか。
漆黒の外殻から砂をこぼれさせ、砂漠を照らす太陽を隠すようにサリー・ウィーパが飛び出す。
「・・・っ、ぁ・・・!」
目が合う。
こちらを見ているのか、見ていないのか。
それすらも判別できない、黒い眼は何を語るもなく、淡々と標的を覗き見た。
「どっせい!!」
あまりの近距離からの襲来に「もう駄目だ」とすら思う余裕のなかったカリーだが、その怒声と共に吹き飛ばされ、何回か転がった後にようやく勢いを止めることが出来た。
意図せず口の中に入ってきた砂の味で、またしても現実に戻ることが出来た。
(何度目だよ、情けない・・・)
見習いが込めた集中力など、紙程度の薄さだと実感させられたが、とりあえず紙であろうと何であろうと、あるものは出さなくては話にすらならない。
再び、現状を確認するために顔を上げた。
先ほどまで自分がいた場所に一人の兵士が、その手に持つロングソードでサリー・ウィーパの爪を抑えていた。
兵士はこの戦いが始まる前に何度か会話をし、サリー・ウィーパの襲撃後もすぐ横に待機してくれていた兵士だった。名前をまだ聞いていなかったのが悔やまれる。カリーは名前を呼ぶこともできず、ただその兵士の姿を視認することが精一杯だった。
「へっへへ! こりゃ結構な重さだこってぇ!」
兵士は最初は片手で持っていたロングソードを、両手持ちに切り替えて応戦する。
口元に笑みを浮かべているものの、サリー・ウィーパの力の方が上手にようで、徐々に爪が押し込まれていくのが見て取れた。
「ギィ――ッ!」
次の手に映ろうかどうか、という仕草をしていた兵士に対し、サリー・ウィーパは短く鳴き、その全身の隙間から霧状に近い液体を吹き出した。
一瞬、何かしらのダメージを受けたのかと思ったが、サリー・ウィーパの攻撃が緩まる様子はない。
その体液の意味。
答え合わせは、すぐに兵士の反応という形で行われることとなった。
「ぬぐっ!?」
兵士の体の動きが極端に鈍くなる。
何事かと兵士の様子を凝視すると、どうやらサリー・ウィーパが噴出した液体が固まったらしく、兵士が身動きを取れなくなっているようだった。
(や、やばい――!)
何をしたらよいか分からないが、何かしようと立ち上がろうとするカリー。
その動きよりも早く、周囲の兵士二人が彼をフォローするために、問題のサリー・ウィーパに肉薄していった。
流れるような助太刀に、思わず見とれてしまうほどだ。
しかし、その二人の前にも砂飛沫が上がり、それぞれにサリー・ウィーパが一体ずつ攻撃をしかけてきた。
「うおっ!?」
「何体いやがるんだ、こいつら!」
慌ててその攻撃を回避する二人だが、必然的に樹脂のような体液で固められた兵士へのフォローが遅れることになる。
「ふんぬ!」
助太刀無しのこの状態。
無傷による回避は不可能と判断したのだろう。
兵士はサリー・ウィーパの攻撃軌道から急所を外すことに専念し、体を強引にひねった。
腕の一本は仕方が無い。
そんな軌道だ。
(ま、待て――)
そんな光景は見たくない。
何か魔獣の気を引こうと、大声を出そうとしたが、喉から出たのは掠れた空気音だけ。
思わず目を瞑ろうとした瞬間、今日と言う一日では最も聞きなれたのではないかと思える女性の声が鼓膜を叩いた。
「おりゃぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
只でさえ歩きにくい、この砂の上を驚くべき速度で走り抜け、その剣を魔獣に突き立てる。
惜しくも、脆い関節部に刃は届かず、堅い外殻に剣は弾かれたが、その攻撃のおかげで兵士は無傷のままだ。
「ビッケル、あんた気ィ抜きすぎッス! 死にたいの!?」
少し怒り気味・・・、いやかなりお冠状態のパリアーの声に「いやぁー、すまん」と苦笑する兵士。
誤魔化すように頬を掻こうとしたようだが、固定された体を動かせるわけもなく、肩を揺するだけとなってしまった。
「あ、危なっ――!」
そんな問答を黙って聞いてやる義理もないサリー・ウィーパは、すかさず爪を少女に向かって振り下ろすが、二歩ステップを踏んだ彼女に届くことは無かった。
「こんな力任せの脳筋に真っ向から勝負してどうするんッスか! 戦闘中に油断とか・・・あんた、後で隊長にお仕置きされるッスよ!?」
「マジかぁ・・・まぁ、そーなるよなぁ・・・」
「まったく、もう!」
(すみません・・・真っ向勝負になったのは俺を庇った所為ッス・・・)
叱咤されるビッケルと呼ばれた兵士に、心中、謝罪した。
叶うことならば、その「隊長のお仕置き」が実践されないよう、後で事情を説明する機会を貰いたいと切に願った。
そんなやり取りの間にもサリー・ウィーパは何度も爪を振るうが、一度も彼女の肌に触れることはできなかった。
見とれてしまう程、その体捌きは美しかった。
最小限の動きで相手の攻撃を躱し、踵と爪先による重心移動だけで完全にサリー・ウィーパを翻弄している。
(す、すごい・・・!)
他の二人の兵士もすぐに順応し、サリー・ウィーパが噴き出す液体に注意を払いつつ、上手く立ち回っているようだ。
カリーを庇うためにサリー・ウィーパと真っ向勝負になり、初見となる体液に対処する暇がなかったビッケルは仕方が無いにしろ、全員が戦い慣れしているのが素人目にも分かりやすく映った。
「ふっ――」
何度目になるか分からない回避行動の末、刹那だけサリー・ウィーパの爪による攻撃の初動が遅れた隙に、パリアーはショートソードを逆手に取り、懐に体を滑り込ませて、下から首に向かってその刃を突き刺した。
そして素早く剣を抜くと、そこから噴き出る体液に身を汚さないよう、間髪入れずにその場を飛びのいた。
「浅かったッスかね」
小さく呟いた言葉の通りに、サリー・ウィーパは絶命に至らず、顎を忙しく動かしながらも戦闘態勢を解かずにいた。
「なーんで隊長の投げククリが一発で、あたしの剣が一発じゃないのか・・・不服ッスねぇ」
舌打ちしつつも、傷を負ったサリー・ウィーパの様子を冷静に見下ろす。
まだ多少の動きは出来そうだが、先刻までの連続攻撃を行えるほどの俊敏さは失われている。
一気にトドメを。
そういう気持ちが湧き立つ場面ではあるが、パリアーは自分から不用意に踏み込むような真似はしなかった。
優勢側が形勢逆転を迎える転機は、いつだって「焦り」や「油断」である。
この場合、勝利を焦って踏み込めば、思わず一撃を喰らい、逆転を通り越して死を迎い入れる可能性だってある。
そんなリスクを、この場面で負う必要は一切ない。
パリアーは初めての砂漠、魔獣との数少ない戦闘においても冷静さを保ち続けていた。
「ようやく足場にも慣れてきたッス。来なよ、相手してあげるからさ」
「ギギギィ・・・」
睨みあう二つの存在。
見る者に緊張感を与える、その空間に不意に異物が入り込んだ。
「あ」
間の抜けた声はパリアーのものだ。
その理由は、どこからか飛来してきた一本のククリが、サリー・ウィーパの頸部に深々と突き刺さったからだ。
小刻みに震えたサリー・ウィーパはやがて力を失い、そのまま砂上に体を横たわらせる。
「ちょ、ちょ! なに割り込んでるんスか、隊長!」
いい具合に心地よい緊張感をまとっていたパリアーは、突然の横やりに慌ててククリを投げつけた女性を睨みつける。
遠くで「ごめんね~」とでも言っているかのように、左手を少し上げて舌を出している隊長に対し、パリアーは「ぐぬぬ・・・」と悔しそうに歯ぎしりするしかなかった。
「さ、さては・・・あたしに休暇を与えないつもりッスね!」
「なあパリアー、この固まったの何とかなんねぇ?」
「うっさいな! あーもう、このやり場のない怒りをあんたにぶつけるッス!」
そう言って、パリアーはビッケルの部分部分を包むように固まっている液体ごと鎧をはがそうとするが、如何せん、力自体は非力なものだ。
あらゆる方法で力を入れるが、ビクともせず。
鎧のパーツを繋ぐ留め金にもサリー・ウィーパの体液がかかっていたため、正攻法でこの鎧を外すことは出来なさそうだった。
仕舞いにはショートソードで斬ろうとしたため、それはビッケルの必至の訴えで中断された。
「カッチコチじゃないッスか、これ! もうビッケルは放っておいて、別のところに行くッス! あたし、五体は倒さないと行けないんだから!」
「いやいや、ほら。俺のおかげで、他の皆もアイツらが噴き出す変な液に注意しつつ戦っているだろ? 他に隠し玉がなけりゃ、無理に助太刀に行かなくても大丈夫だって! せめて動けるように手伝ってくれ!」
「相変わらず図太い性格してるッスねー・・・はぁ。仕方ないッスね、少し我慢するッスよ?」
やれやれ、と首を振ってパリアーはビッケルに忠告する。
「は? 我慢って――、おいおい、なに俺の体に登って・・・、ぎゃあああぁあっ!?」
ボキ、と折れたのではないかと思える音がビッケルの体から響く。
大柄な部類のビッケルが、小柄なパリアーにスルスルと体を絡められたかと思うと、ビッケルは突然の痛みに情けなくも大声を上げてしまった。
「お、おまっ、関節を――っ!?」
「そーしないと抜けないで、しょ、っと!」
「ぐっ、ぬぅ!」
どうやら初撃で右肩を外されたようで、次は左肩も外されたようだ。
今度は予め宣言されたためか、ビッケルも歯を食いしばって痛みに耐える。が、耐えたところで痛いものは痛い。悲痛に耐える姿を見ていると、こちらもその苦しみが伝染するようで、カリーは無意識に両腕をさすった。
周囲では剣とサリー・ウィーパの爪がぶつかり合う音が響き渡っている。
東門に近い場所での戦闘だ。
もしかしたら、門付近に住んでいる国民には、この音が届いているかもしれない。
今回の訓練は隊員の話などを聞いていると突発的なものだったようで、すぐに西門に集合したところを見ると、国民には何も情報を公開していない状態での「訓練」だったと予想される。
(門の向こう側・・・不安に感じてないといいけど)
サリー・ウィーパの断末魔がまた一つ上がる。
どうやら誰かが、また一体の息の根を止めたようだ。
(すごい・・・みんな本当に強いんだ。砂漠の魔獣との戦いなんて、ほとんど経験していないハズなのに・・・)
ビッケルが受けた体液による攻撃は想定外だったにしろ、瞬く間にその情報は戦闘行為の中で各自の判断による口頭で伝達され、今では隊員全員がいつ体液を吹きかけられても対処できる距離で戦いを行っている。
足場は最悪。
相手は地中からの攻撃も可能。
完全に地の利はあちらにあるにも関わらず、それを感じさせない適応力と技術、そして戦力がそこには光っていた。
「あだだだだっ!」
「お、もう少しで抜けそうッスね! 隙間だらけの鎧で助かったッスね」
肩が外れ、余分な力抜けたために出来た隙間を利用して、左右に振ったり、前後に揺らしたりして、硬質化した鎧と服を彼から引きはがそうと試みる。
「お、おお・・・な、なぁ・・・これ、戻るんだよな?」
「肩? 外れるんだから、戻ることもできるでしょ」
「なんか他人事みたいな言い方だな・・・お、お前がキチンと直してくれるんだよな?」
「あたし、外すのは得意だけど、入れるのは苦手ッス」
「おおおい!」
何とも緊張感のないやり取りに、思わずカリーは周囲を見渡してしまう。
幸い、サリー・ウィーパがこちらに向かってくる様子はなさそうだが、この状態でサリー・ウィーパに襲われでもしたら、下手をすれば三人とも殺される危険性だってありそうだ。
「えぇーっと、そーいえばキチンとあんたの名前、呼んでなかったッスね。カリーだっけ? ちゃんと周囲の警戒はしているから、そんなに過剰に心配しなくてもいいッスよ。地中からの攻撃だって、ほら・・・ビッケルが足裏でちゃんと振動をチェックして――・・・してるッスよね?」
「・・・、・・・・・・お、おう」
目を逸らしてどもるビッケルに、背中に乗っかったままのパリアーは驚くほど眉間に皺を寄せた。
今にも誰かを殺しかねない、すごい形相だ。
「してないんッスか! 今、地中から襲われたら、あたしも巻き込まれるじゃないッスか! 嫌っすよ、こんなオッサンの背中に跨ったまま死ぬなんて!」
「大丈夫だ! 今こうして生きているだろ! 結果オーライ!」
「開きなおんな、アホ!」
じゃれ合う親子のような図に思わず笑ってしまいそうになるが、ここは戦場。
慌てて口元を引き締め、カリーは背筋を伸ばした。
「タセットの下はどーやら例の液体の被害はなさそうッスね。良かった・・・下手したら、あんたのズボンまで裂かないと剥せないところだったッス・・・」
タセット――いわゆる「草摺」と呼ばれる、鎧の胴部から大腿部にかけて垂れるように伸びている、鎧の一部品のことだ。
サリー・ウィーパの体液はどうやらタセットまではかかっているものの、その下の大腿から脛まではかかり切っていなかったようだ。
と言っても、足元は当然ながら体液の被害に合っており、砂と共に固まってしまった革靴は脱いでいくしかなさそうであった。
「あー、そいつぁ俺もゴメンだな・・・さすがに公衆の面前を下無しで歩く自信はねーぜ。っつ・・・しっかし脱臼、ってのはアレだな・・・めったくそ痛ぇーもんなんだな! つつ・・・! ぅおっ、し、神経からくる痛みみてーのが・・・!」
「はいはい、文句なら後で聞くッスよ。ここをこーして、そんでちょいちょい切れば・・・インナーも固まってないとこを切ってっと・・・、あれ? んー・・・あれぇ?」
順調そうに行っていたかと思われた雰囲気を吹き飛ばす、間の抜けた声が実に不安を煽る。
「お、おい・・・?」
ビッケルは恐る恐る背中に乗る彼女に声をかけた。
「・・・・・・」
無言のまま目が泳ぎ始めたパリアーは、どういう表情を浮かべたら良いのか自分でも分からなかったのだろう。
口の端を上げつつ、額には冷や汗。
瞳は反復横跳びよろしく、忙しなく左右に揺れていた。
静かに砂の上に足をおろし、彼女はゆっくりと膝を曲げ、体液で砂と共に固められた革靴の様子を確認し始める。そして一つ頷き、持っていた短剣で固まっていないズボンの裾を一周、ぐるりと切り取る。
そのまま彼女が両手でビッケルの足を持ち上げると、踵が革靴に引っ掛かりはしたものの、そこまで大きな抵抗もなく革靴から足が抜けた。
「・・・・・・おい」
その様子を口元をひくつかせながら見下ろしていたビッケルが再度声をかける。
しかし聞こえないフリを続ける彼女は、もう片方の足も同じ処置を行い、革靴から脱がせることに成功する。
裸足で砂の上に降り立つビッケルに満足したように、パリアーは立ち上がり、ふぅと額の汗を拭う。
拭っても、下から止まることなく冷や汗が出てくるのだが、とにかく平静を保つために拭った。
そして、できるだけの笑顔を保って、
「ほら、取れたッスよ」
と明るく振る舞ったが、当然、それで終わる訳もなく。
「いやいやいや、待てや! 肩! 肩外した意味は!? ていうか、上半身固まったままじゃねーか!」
「え、ええーっと・・・そのぅ・・・」
(おお、人って極度に動揺すると、あそこまで挙動不審になるんだ・・・)
指を無意味に絡めたり、何もない空を見上げたり、足元のサリー・ウィーパの亡骸を蹴ったり・・・そんな様子を見てカリーはしみじみと今起きたであろう「結末」を理解した。
「と、とりあえずビッケルはそんな状態じゃ戦えないだろうから、ね? 今の戦況を城に戻って総隊長に報告してきてよ。隊長にはあたしから言っておくから・・・ねっ、ねっ?」
「おまっ――」
ビッケルが何か言おうとした瞬間、少し離れた位置で再び新たなサリー・ウィーパが顔を出す音が聞こえた。
幸いにして、数はこちらが優勢。
サリー・ウィーパ一体に対し、二人以上で対応できる状態のため、地上に姿を見せたサリー・ウィーパの脅威はそれほど感じられないが、地中を自由に行き来できる魔獣を相手に、油断だけは決してしてはいけない。
足が自由になったとはいえ、上半身の大半が樹脂のようなものに包まれ、固まったままのビッケルは正直、この場では足手まといでしかない。ビッケルもそれは重々理解しているため、サリー・ウィーパと戦う仲間を遠目に見て、大きく肺に溜まっていた息を吐き出した。
その様子にマイペースが目立つパリアーも気まずそうに眉を下げた。
「ご、ごめん・・・肩外せば抜けると思ったんッスけど・・・」
「だぁーっ! 遡れば俺が不用意に魔獣のきったねー液ぶっかけられたのが原因だしな・・・別にいーよ。ただし! いいと言っても、こりゃ『貸し』だかんな! すっげー痛ぇーんだよ、肩・・・だからこの痛みの分だけ『貸し』といてやる。いつか払えよ!」
「う、うん・・・分かったッス」
「とりあえず報告の件については了解だ。しかし・・・さすがに歩けても、この腕じゃ戦えねーな・・・」
「そうッスね・・・・・・カリー」
「は、はいっ!?」
気まずい雰囲気の中、手持無沙汰になっていたところを名指しで呼ばれたため、声が裏返ってしまった。ちょっと気恥ずかしかったが、今はそんな場合でないためか、誰も気にする者はいなかった。
「とりあえず、今日あんたに見せたかった『戦場』は見せられたッス。まあ本当は戦場と言うより訓練の雰囲気を見てもらいたかったんだけど・・・本当の戦いの場ってのは訓練以上に得られるものも多いから、そういう意味ではいい経験になったでしょ。ただこれ以上ここに残って他の兵士の戦い方を見続けても、今のあんたじゃ基本の技量が足りてないから、盗める技術も無いと思う。だから、今日のところはこれでおしまい。ビッケルを連れて城まで戻ること。いい?」
「えっ・・・でも、途中でもし魔獣に襲われたら――」
「そうだぜ、パリアー。さすがに今の俺じゃカリーを庇いながら戦うのは無理だ。逃げの一手に集中したとしてもな」
「そのぐらい分かってるッス。ビッケルは気づかなかった?」
パリアーはそう言って、親指を立てた手を後方に向ける。
後方には依然、隊長を先頭とした一般兵の者たちが地中から沸いて出てくる魔獣と戦いを続けている。
「あん?」
言葉の意味が分からず、ビッケルは短く疑問の声を返した。
「人数。出発時より少ないでしょ? ここに来る途中に等間隔で何人か置いてきたんッスよ」
「そ、そうなんですか?」
カリーの問いかけにビッケルは「むー」と唸り、「そーいや、ベルとか見当たらねーな・・・」と呟いた。
「い、一緒に歩いていたのに気付かなかったんですけど・・・」
そんな指示を歩きながらしていれば、すぐ隣にいた自分も気づくはずなものだが・・・。
「あー、ハンドシグナルね。てか、俺も気づかんかったわ・・・」
「あからさまにしてると、まだ意味を知らないカリーがまた無駄に不安がるでしょ。だからバレないように指示しただけッスよ」
「抜け目ねーなぁ・・・何故その慎重さを俺の肩の時に発揮せず、そのカリーへの配慮を俺の肩にしなかったのか甚だ疑問ではあるがな」
「ぅ・・・とにかく! 負傷者が出た際の退路は予め作っておいたってこと! もし万が一に魔獣に遭遇するようなら、近くの待機兵のところまで全力で走ること。だいたい500メートルごとに配置したから、障害物のない外壁なら目で見えるはずッスよ」
「分かった。そこまでお膳が立ってんなら問題ねぇな。すぐに行動しよう。行こうぜ、カリー」
「は、はいっ!」
疑問が解消されるや否やビッケルは踵を返し、カリーも慌ててその背中を追う。
しばしその二人を見送っていたパリアーだが、その姿が砂煙の向こうに消えて行ったことを確認すると、おずおずと自分の両手を見る。
「・・・」
すぐに戦場に戻るべきなのだが、どうしても自分の中で気になっている点があった。
パリアーは「んー」と唸りつつ、その時の感覚を思い出す。
「久しぶりだったからうろ覚えだけど・・・」
パリアーは思い出す。
ビッケルの肩を外した時の感触を。
「肩外すのって、あんな感触だったっけ・・・? 音も変だったし」
一抹の不安を帯びた言葉は、戦場の風が吹き飛ばし、誰の耳にも届かずに消えていく。
城に無事戻ったビッケルがギリシアに報告後、医師に両肩を診察してもらった際に「これ、骨折してるね。全治二カ月ぐらいかな」と笑顔で宣告されたのは、また別の話である。




