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さまよう煩悩


 シャワーの水滴がタイルを叩く音が生々しい。


 汗かいちゃった、との言葉で衣服を脱いでギン係長は身体を清めている。


 俺はギン係長の目が届かない隙を狙い、十五帖はあるただっ広いリビングでシャドーボクシングをしていた。大人しく座っていろといわれたが、そんなことはできない。俺にできることは汗をかき、疲労することで煩悩を打ち砕くことだ。


 全身全霊の拳が空気を切り裂いて風音を鳴らす。いいぞ直介、その調子だ。戻すときも同じスピードで引っ込めるんだ。脇を締め、腰を回して筋肉を酷使しろ。踏み込みが命だ! もっと身体を揺らすんだ! そんなんじゃすぐつかまっちまうぞ!


「しっ! しっ! まだだ直介! お前はそんなものか?! もっと速くなれるだろ! もっと頑張れるだろ! もっとやれるだろ! もっとお米食えよ!」


 自分を鼓舞しながらステップを加速させる。汗だくになった俺の足先が覚醒し、踊るような流麗な足運びへと変化した。次第に俺の意識は集中の極みへと達し、自分の世界へと没入していった。


 見える――見えてきたぞ。四角形のリングが。俺を応援する観客の声援が聞こえてきた。そうだ。俺はボクサーだ。フェラディルファで生まれた俺はずっと金の取り立てをして生きていた。そんな中、世界戦の機会が舞い込んできた。アメリカンドリームの演出する当て馬として。ああ、わかってるよポーリー。賭けボクシングしかやってなかった俺がギン係長と――王者(チャンプ)とやるのは自殺行為だって。だけど、俺がただのゴロツキじゃないってことを証明しなきゃいけないんだ。逃げ出せないよ。これがラストチャンスなんだ。学生時代には女の子と手すら繋ぐことすらできなかった。俺は意気地なしだったんだ。だから、自分と決着をつけるためにやるよ。


「……トランクス一枚で何してるの?」


 後ろから聞こえた透き通った可憐な声。戸惑いの色が強かった。


 ハッと我に返った。いつの間にか俺はスーツとシャツを脱ぎ捨て、全身汗まみれでパンツ一丁になっていた。フローリングにぼたぼたと落ちた汗の黒いシミができまくっている。道理で涼しいと思ったがこの状況はまずい。誰がどう見てもまずすぎる。


 くそっ、やばい――気分が昂ぶり過ぎた。人様の家で自然に脱衣するほど俺は極まってしまったのか。


「いえ……どうも酔っちゃったみたいでして。ここが風呂かと」


 我ながら苦しい。ギン係長は俺が酒を一滴も飲んでいないことを覚えていないのか、熱に浮かされたふわふわとした顔でうなずいた。


「そうなの。まあ直介も入ったら?」


「ええ、入りますよ。ところでギン係長」


「何よ」


「なんでバスタオル一枚なんですか?」


「寝るときは大抵こうよ」


 頭にもタオル巻き、大きなバスタオルに身を包んだギン係長が露出しているのは素足と肩口だけだ。


 桜色に染まった肌を見ると俺の心拍数は増加していく。どくんどくんと血流の音が聞こえてきた。


 まとわつく何かを振り払うように俺も浴室に向かった。ボウル型の洗面台に頭を突っ込み、急いで冷水に浸す。落ち着けよ直介! 今日が人生で一番落ち着かなければならない日だぞ! やっていいことと、やっちゃいけないことの違いはわかってるよな。いくらお前の存在自体がアドベンチャーだからといってそっち方面にアドベンチャーしたらどえらいことになるからな!


 顔を上げ、鏡台に映る自分の血走った目を見つめる。


「鎮まれ、鎮まるんだ俺のダークドラゴンよ……彼女はお前のエサではないのだ」


 純粋にして無垢なる童貞(フェアリー)だからこそ、いけないダークドラゴンを操れるのだ。穢れなき心を失ってはならない。俺が暗黒面に落ちたら一体誰が世界を救うというんだ? 使命を思い出せ。お前は童貞王になって偉大なる航路を旅しなければならないのだ。七つの玉を集めて王国を救うのだ。


 曇り戸をずらし、コックをひねってシャワーを浴びた。頭皮の脂分が湯に流される快感が押し寄せてくる。


 壁に手をつき改めて見回すと浴室は驚くほど幅広く余裕があり、成人男性の俺ですら足を伸ばし切れるバスタブにはなみなみと湯が張られ、甘い柑橘系の匂いが漂っている。


「ギン係長はお風呂に入ったのか……そうか、残り湯か」


 つまり俺は直接飲むか、入れ物であるガラス瓶かペットボトル容器を持ってくる必要が――違うっ! 違うぞ直介! お前のすることはそんなことじゃない! いくら本体に手が出せないからといって別のアプローチを模索してどうするんだ! いつからお前は薄汚い盗人になったんだ。もらうならきちんと本人に了解が取れてからにしろっ! それならいいはずだ!


「いやいやいや、よ、よくないだろ……なんだろう、この沸きあがってくる期待感は。あくまで、上司の好意でその家に泊まるだけの話じゃないか。それに俺は年端のいかない少女に何をするつもりだ。馬鹿げてるぞ」


 されどヤマタノオロチに食われる前の巫女のように時間をかけて念入りに全身を洗った。濡れた身体をふき、湯気に包まれながらカッターシャツを素肌にまとう。トランクスとズボンも前のままだが衣服に替えがないので仕方ない。


 スリッパを履いてバスルームから出る。廊下を歩いて移動する。バルコニーのある寝室のドアは半開きになっていた。ギン係長はヘッドボードに背を預けながら羽毛布団を身に寄せ、テレビを見ている。


 既に時刻は十時半。夜闇は窓を黒く塗り潰している。ほぼ無音の高層階ではバラエティーの笑い声の演出が空々しく聞こえた。


「俺はリビングのソファーで寝ますよ」


「いいから」


 何がいいから、なのかわからなかったが手招きされた。俺は左右に素早く視線を飛ばしながら挙動不審気味におずおずと入室した。どっきりが仕掛けられている可能性を疑ってしまう。疑心暗鬼にならない方がおかしい。


 セミダブルのベッドと衣装タンス、液晶テレビとブルーレイレコーダー。アンティーク風パソコンディスクと漫画本がぎっしり詰め込まれた書棚。ポーズを決めてウィンクするふわふわんのポスター。花柄の円型絨毯。天井からぶら下げられた太陽と月と地球の天体。棚の上で並ぶ動物ぬいぐるみ群。


 ――マジカル変身キット。壁際に飾られた偽物の衣装。俺が造ったステッキもある。本物に比べて小ぶりで味気ないのはもう知っているが少し嬉しい。


「っと」


 近寄ったものの所在なく立っていた俺のカッターシャツの裾がつかまれた。かと思えば、いきなり引き寄せられる。バランスを崩してベッドに手をついた。目を白黒させていると視界が塞がれた。接近した顔と優しく触れた唇の感触。


 ――時間が止まったような気がした。


 ギン係長はつぶらな目を閉じている。今までになかった距離感――茫然としているとギン係長はカっと目が開き、バサッと布団がめくれあがって俺はなすすべもなく押し倒された。カッターシャツの襟元が握られたまま主導権を奪われて。


 頭に巻かれたタオルが外され、銀髪がふさぁとテーブルクロスのように広がる。不機嫌さを表すように口角と目が吊り上がっている。


 俺の腰にまたがって乗っかっている。彼女は上半身は裸。下腹部は怖くて確認できない。しかし、まっことあわれもないでござるよ。


「お水ともチューした?」


「してません。水原部長とは特にそんな関係ではないです」


「なーんだ。ちぇ、心配しちゃった」


 嫉妬心からきた行動なのか。疑惑がかけられていたようだ。するりと手が離される。物思いに耽るように唇に指が当てられ、明後日の方に目玉が向く。


 一方で俺は驚きから回復しようとしていた。改めて眺めればなだらかな丸い肩からきゅっとしぼられたウェスト。上気したきめ細かい白肌と上向き加減についた二つの果実はぷるぷるとしてとても柔らかそうだ。


 背徳と暴虐を司る俺のダークドラゴンが勇ましく雄叫びを上げようとしている。飼い主である俺すらも恐れる邪悪なパワーを吐き出そうとしている。赤い瞳をらんらんと輝かせ、鋭利な牙をがちゃがちゃと噛み合わせている。


 いけない、理性(ジェントル)の鎖(ジャッジメント)が外されたら――未来は闇に吞み込まれてしまう。


 拳を握りしめた。固く強く狂おしく。ありったけの自制心を奮起しなければならなかった。ギン係長はやっと俺の釘付けの目線に気付いたのか、羞恥心を思い出して片腕で胸元を覆って隠した。


「エロ介」


 ふふん、と勝ち誇ったようなドヤ顔。残った酒と自分の魅力に酔っている。上司というよりも子供扱いしていることもきっと見抜かれている。だからやり返せて楽しいのかもしれない。


「もう寝ましょうよ。明日も俺は仕事なんです」


「寝るー? もう眠いの? もっとチューしたくないの?」


「安易にしちゃダメですよ。驚きました」


「しょうがないわね」


 雑音の奏でていたテレビの電源が切られる。枕元の百合(ゆり)の形をした照明のスイッチが押される。連動しているのか入れ替わるように天井のLEDが消えて室内は薄い暗闇に染まる。放射されているのは花弁からの微弱な淡い光のみ。


 ギン係長は倒れ込むように伸し掛かってきた。重なる人肌と人肌。ぴったり絡みついてくる足と太ももの弾力、細くて華奢な身体は体温を伝えてくる。小柄な彼女の重量は気にならなくむしろ心地よい。


「なんか変な気持ちになるわ。いけないことをしているような気がする」


 ぽつりと魅惑の台詞。


 こぼれ落ちてくる髪が俺の首筋をくすぐってくる。僅かでも身じろぎすると否応なしに肌に接してしまう。シャンプーの香しい匂いが鼻腔から脳髄へ侵入してくる。欲望が俺のガラスの心を壁ドンしてまくっている。


 俺の荒れ狂う感情を知ってか知らずか、ギン係長は猫が自分の所有物に臭い付けをするようにしつように頬を俺の胸板に擦りつけてくる。「んんー」という鼻歌交じりに。


 甘えられてることは間違いはない。なのでお望み通り――俺のギリギリの妥協ラインとして背中に手を回すことにした。こういうときは父性を前面に出していこう。そう、ダンディなパパのように振る舞うべきなのだ。


「んっ」


 急に動きを止めたギン係長はぴくんと震えたかと思えば俯き、顎先に丸めた手を持っていく。


 瞳が揺れ動き、落ち着きがなくなった。


 あ、あれれれ? 俺はどうしてギン係長のお尻に手を伸ばしてるんだ。伸ばそうとしたのは背中だよね? お、お、おかしいぞ。ちょ、ま、違うっ! い、いい訳をさせてくれ。違うんだ。ミスなんだ。パパから痴漢にジョブチェンジしたんじゃない! こっち方面がオーケーかどうか確かめようとしたわけじゃないんだ! 同意が取れてるか念のためにやったわけじゃない。俺はそんなしたたかで用意周到な男じゃないよ! 


 落ち着け――落ち着くのだ。深呼吸して、現在を理解しろ直介。


 手の平の感触からして――ギン係長は紐の下着を装着している――だからセーフだ。危なかった。ほんと、間一髪だった。ほとんどTバックなのでぷにっとした生尻に触れる面積の方が大きいけどなんとかなっただろ。


「どこ触ってんのよ……えっち」


 こもった声での小さな怒り。


「いえ……その……これ、俺がデザインした下着だなぁと思って。全然これっぽっちもまるでやましい気持ちはなかったんですよ。はい」


「べ、別に……頼まれたら、仕事だから穿いてるだけよ。満足? 嬉しいでしょ? セクシーでしょ」


 指摘が照れ臭いのか半ばヤケになりながらもギン係長は引きつった顔で笑う。


 よし、矛先をずらさいて誤魔化したぞ。いいか。もう次はないぞ。わかってるよな直介。崩落しかねない危ない橋を渡るのはこれで最後だぞ。冒険は終わりだ。


「ええ、直接この目で下着姿を見たくなってきましたよ」


 直介ぇえええええええええ! 落ち着けといっただろう。何を口走っているんだ。心と体が一致していないぞ。完全に分離しちまってるぞ。


 なんてこった――どうやら俺はダークドラゴンに操られているようだ。知らぬ間に常闇の力が俺に忍び寄ってきやがったのか。ああ、天が割れる。光の時代が終わってしまう。いい感じだったのに侮蔑されてしまう。


 ギン係長は目をぱちくりさせ、ずぃっと身を乗り出した。


 耳許にふりかかる吐息交じりのささやき。


「そういうことはいつか、ね」


 顔を横に向ける。真意を探るために見つめ合うことは適わなかった。


 それっきり、ギン係長は目を閉じてしまった。すやすやとした寝息が聞こえてくる。


 取り残された俺は悶々としながらアンタッチャブルな悪戯に挑戦すべきか悩みに悩んでる内に睡魔に負けた。


 いつかはいつか訪れるのだろうか。願わくば合法になったときにしてくれ。そうでないと、俺は自分が信じられない。




 ☆ ★





 窓辺で羽をたたんだ雀の鳴き声。


 起床するとベッドはがらんとしていた。ギン係長の寝ていたシーツのくぼみには体温が残っていた。リビングの方からフライパンで何かを焼くジュージューという音。焦げた玉ねぎと肉の匂いがした。


 つられてふらふらと歩くと、オープンキッチンでエプロン姿のギン係長。斜陽に浴びて惜しみない光沢を放つ銀髪を振ってせっせと朝食を準備している。ポニーテールの若妻といった具合。


 調理しているのは分量からして二人分。味見して指を咥える顔つきは明るく可愛らしい。


 不思議な夢を見ているような気分になった。幸せそうな顔を見るとそれが永遠に続けばいいと思ってしまう。


 だが、俺は彼女を利用して飯を食っている。


 立場を思い出すと針に刺されように胸がうずいた。苦々しい倦怠感が俺の両肩をずしりと重くした。苦しみから逃れる術として最良なのは真実を告げるべきなのだろう。


 貴女が傷ついたバトルはすべて見せかけで、なんの意味もなく、一部の人を私腹を肥やしているだけであり、俺はその手先なっているのですと。


 心臓の位置を握りしめた。いいたいが、いいたくない。仮初とはいえ夢を打ち砕いてしまうことは罪悪感を伴う。


 気配に気づいて顔がこちらが向いた。(ほころ)んだ顔。やましさからか、俺は微笑から逃れたくなっている。


「おはよう。ご飯食べましょう」


「おはようございます。手伝いますよ」


「ありがと」


 胡麻サラダの盛り合わせとベーコンエッグと白米。味噌汁の具材は豆腐のみ。和洋が混成しているが悪くない。出汁も利いていてうまい。


「直介、あのさ」


「なんでしょうか」


 応じ、味噌汁をすすりながら壁時計を見た。出社時刻を計算する。恐らく間に合うがやる気が起きなかった。俺は玩具作りをしに行くわけではない。与えられた義務の中にある時間を守りに行くだけなのだ。


「あたしと一緒に暮らさない?」



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