後編:魅入られた者の後悔(終)
ゆらゆらと、あいまいな世界。
そこにいる限り、私は誰かを傷つけることも、誰かに傷つけられることもなかった。
時折、わけもわからぬ悲しみが襲いかかってきたけれど、すぐに溶けて消えていった。
「母さん、今日は良い天気だよ。ぼくと散歩に行こう」
「母さん、赤ちゃんのお名前、どうしよっか」
どこからか可愛い声が聞こえるたびに、ゆっくりと浮かび上がる。
ふと。私はなんで、こんなところにいるのだろう。
「ほぎゃーほぎゃー」
身を切り裂かれるような痛みに、薄ぼんやりとした世界が弾けた。
この腕に抱き抱えた小さな赤ちゃんは、「ここにいる!」と力強く泣いている。
そして、そんな赤ちゃんに、泣きながら優しく笑いかけるルイ。
(この子のこんな顔、初めてみたわ……)
記憶よりも、少し身長が伸び、一層マルクに似てきたルイに気づく。
私はお母さんなのに、今まで何をしていたのだろう。
これ以上、この子たちを見逃していたくない!
再びゆらぎ出す世界から抜け出そうと、私は足掻いていた。
◇
ちくちく。
ひと針ひと針、丁寧に縫っていく。
針仕事をしていると、無心になれた。
ちくちく。
賢く、頼りになるルイは、わずか11歳ながらどんどんと自分で考え、決断し、突き進んでいく。
そんなルイを、ポリーヌさんは可愛がっている。
ルイも、ポリーヌさんを頼りにしているし、慕っているようだった。
ちくちく。
ルイが、リュカのために考えたという、粉ミルクや哺乳瓶、おむつ。
いつの間にか雇っていた、シッターのエミリー。
誰が教えたのか、気がつくとルイは料理までできるようになっていた。
だから、私は授乳をしたり、育児を手伝ったりしても、余裕があった。……母親なのに。
(……できた)
完成したのは、リュカとお揃いの、榛色のふわふわとしたくまの人形。
瞳の色と合わせて、青のリボンを首に結ぶ。
(喜んでくれるかしら)
こんなことくらいしか、今はできないけれど。
私は祈るように、リュカと同じ大きさの人形を、ぎゅっと抱きしめた。
◇
結婚してから、妊娠・出産と間が空くことはあったが、時どき、工房から内職仕事を受けていた。
最近は、調子が良いこともあって、簡単な仕事をもらう。
いただくお給金で、リュカの洋服でも買おうか。
それとも、甘いものを買って、ルイと二人で分けようか。
そう考えると、久しぶりに気分が浮き立つようだった。
しばらくすると、寡婦の私を気遣って、工房長がまたここで働かないかと言ってくれた。
嬉しかった。
けれど、母親の私が外で働いても許されるのだろうか。
そんな風に迷っていた私の背中を、ルイは押してくれた。
この子達のためにも、頑張ろう。
そうして、私は再び工房で働き始めた。
工房の仕事は昔と何一つ変わらなかったので、早々に慣れることができた。
顔見知りも少なからず残っていたが、新しい顔ぶれもたくさんいた。
私はそのうちの一人であるローラと、よく話すようになった。
ローラはいかにも訳ありな私に臆することなく、気さくに話しかけ、お茶やランチに誘ってくれる。
思えば、孤児院を出てから、年の近い同性の友達ができたのは、初めてのことかもしれない。
お互いのことや、悩みを打ち明けるのは、そう遅くはなかった。
「そうだっ!もしよかったら、今度の休日に、私がよく行っている教会のミサやボランティアに参加してみない?」
「ミサにボランティア?……でも、私、子どもがいるもの」
「家でみてくれている人がいるんでしょ?それなら、少しくらいいいじゃない。ねっ。私たちと同じ年くらいの人たちも多いから楽しいわよ。母親にだって息抜きくらい必要だわ」
「そうかもしれないけど……」
初めてできた友人に誘われると、強くは断れなかった。
嫌われたくない。
それならば、一度でも参加すれば、彼女の気も済むと思ったのだ。
◇
ローラとともに訪れた教会の聖堂には、女性が多くいた。
(何でこんな女性ばかり…)
教会と言えば、誰にでも広く門戸を開けていて、休日ともなれば老若男女が祈りを捧げに訪れる場所だと思っていた。
違和感を感じていると、司祭様がやってきて壇に上がり、話し始めた。
ああ、女性たちの目当ては、この人かとぴんときた。
司祭様は女性が放っておかなさそうな、身なりと品が良い男性だったからだ。
(それでも、マルクの方が良い男だわ)
そう一人ごちて、もうここに来ることは二度とないだろう、と。
そうだ、この時はそう思ったはずだった。
司祭様が聖書を開き、説法を話し始める。
私は指を組み、祈りのために目を閉じながら、それを聴いていた。
司祭様の穏やかで低く、深みのある声が響く。
話しに合わせて、チリーンチリーンと鈴の音が鳴った。
途端に、甘いような、何か薬草を煎じたような、そんな濃厚な匂いが充満する。
(……?司祭様が、振り香炉を振っているのかしら)
チリーンチリーン
──あなたが辛く、悲しいのは、あなたのせいではありません。あなたの価値に気付かず、蔑ろにし、軽く扱っても構わない存在だと、親・伴侶・子・恋人・友人があなたを低く思っているからなのです。
チリーンチリーン
漂う匂いに、吐きそうになる。
司祭様の声が、遠くに近くに、二重に三重に、反響して揺さぶるようだった。
……私のことを母親だと、ルイは思っているのだろうか
……私がいなくても、ルイは困らない。リュカも、私の手なんかなくても、すくすくと育っている
……むしろ、いない方が頭を悩ますことがなくなって、清々するとでも思うかしら
これまでの寂しかったこと、辛かったこと、様々なことがなぜか走馬灯のように駆け巡った。
──あなたたちの悲しさ、寂しさ、苦しさ、怒り…。すべて私が背負いましょう。すべて私が贖いましょう。私はあなたたちを許し、認め、与え、愛します。
チリーンチリーン
立っていらなくなった私は、床に膝をつく。
すると、コツコツと靴音がして、高級そうな黒の革靴がすぐ近くで止まった。
おもむろに、司祭様が私の顎に手をかけ……そして、目があった。
そのすべてを飲み込むような、闇色の瞳に魅入られ、視線を外す、こと、がで、き、な
「つかまえた」
私が覚えているのは、そこまでだ。
◇
そうして、私は今ここにいる。
ローメン国聖リリー女子修道院。
男子禁制で、外出も面会も、手紙さえも厳重に制限された、女性のための牢獄。
朝夕、毎食の祈りに、冷たい質素な食事。
掃除や洗濯を済ませ、聖書の写本や裁縫、糸紡ぎなどの労働に精を出す。
夜は使える蝋燭も限られているので、簡単な聖書をほんの数ページだけ読んでから眠りにつく。それが唯一の娯楽だった。
単調な日々の繰り返しだ。
ここに来た当初は、また灰色の場所に戻って来てしまったと嘆いた。
けれど、少しずつ霧が晴れ、落ち着いた今となっては、ここに連れて来られて良かったとさえ思っていた。
ここには、ベルナールはいない。
私が、ルイとリュカを傷つけてしまうこともない。
ベルナールといた頃の私は、ひどく朧げで、ただ彼から与えられる言葉にひどく満たされていた。
それは危険だと、頭の奥でチカチカする何かを無視して。
「サラ、院長室にいらっしゃい」
「…はい。シスター・マリア」
院長のシスター・マリアに声をかけられる。
彼女の背中を追って、静かに歩き、部屋に入る。
促され、椅子に座った私の目の前に、手紙が差し出された。
「息子さんからの手紙が、届いているわ」
「……」
封は切られている。きっと院長が中を検めたのだろう。
ルイから、今回を含めて、二度ほど手紙が届いていた。
前の手紙も、私はまだ読めずにいた。
あの子たちにとって、私は、ひどい母親だっただろう。
自分の寂しさばかりにかまけて、あんな男に、ベルナールに心酔なんかして。
そうして、何よりも大切なルイとリュカを……。
もう一生分泣いて、枯れたと思った涙が勝手に溢れてくる。
最後に、ルイを抱きしめたのは、いつかもわからない。
別れ際の、リュカの小さな手を思い出す。
何度、やり直したいと思っただろう。
何度、過去に戻りたいと願っただろう。
「っ、……私は……もうあの子たちの…母親だなんて……」
「……サラ、もう二度とあなたに会いたくないと思っていたら、そんな手紙なんて書いてこないと、わたくしは思うわ」
「……」
「優しい、息子さんね」
院長の声に励まされるように、震える手を伸ばす。
そうして、私はゆっくりと、ルイからの手紙を開いた──
※ このお話はフィクションです。次回は4章本編に戻ります。




