1.春の国カサリア
偽名ばかりを使って生きていると、自分自身がいったいどこの誰かわからなくなる時がある。
アイオス王子。令嬢リーゼロッテ。男好きのする気弱なメイド。金貸し。戦場の兵士。裏切った近衛兵。これまでどれだけの人間に化けたか数え切れない。
「ねぇ、ニック。ニックってばっ!」
「ああ、すまん。カサリアの景色に気を取られていた」
今の俺は学者のニックだ。シルヴァランドの英雄ドゥではない。
「そうっ! ねぇニック、ニックはどこからきたのかしら?」
そう俺に言葉を投げかけるのは、グリーンネップのナンと名乗る町娘だ。
俺たちはホロのない乗り合い馬車に向かい合って腰掛けて、御者を抜けばたった1人の旅仲間と、さっきまでずっと何気ない世間話を交わしていた。
髪は褐色だが、少し……オデットに雰囲気が似ている。
明るくて、人に壁を作らないところが特にだ……。
「俺は中原のリステン王国の出身だ」
「聞いたことないわ」
「そりゃそうだ。数え切れないほどの国境を越えて、さらにそのまた先にある国だ」
簡潔に現在事情を説明するとこうだ。盗賊ドゥ――いや、勇者ドゥはあまりに有名になり過ぎた。だから俺は学者のニック・ジョンソンにならなければらなかった。
「でもあたし、勇者ドゥ様の故郷のクロイツェルシュタインなら知ってるわ!」
「……そ、そうか」
「ドゥ様って素敵よね……」
「いや、そうか……?」
「そうよ! 人狼が本当に存在していることを証明して、それをやっつけて見せたのよっ!? 知恵と勇気と大胆さをかね揃えた英雄! みんながそう言ってるわっ!」
「…………そう、らしいな」
人狼の実在。それは人々にとって日常を破壊する震撼そのものだった。
今でも人々は、隣人が人狼なのではないかと胸の中で疑心暗鬼を膨らませている。現在はそういう世界になってしまっていた。
「なーに? もしかして嫉妬しちゃった?」
「噂をあまり真に受けない方がいい。もしかしたら、そいつは英雄どころかとんだ大悪党かもしれないぞ」
「おいおい黙って聞いてりゃ、お客さん知らないのかいっ!? 新たな勇者様は、昔は義賊様だったって話だぜ!?」
御者のおっさんが口を挟むと、ナンが少しムッとした様子で彼に渋い顔を向けた。これから同じことを俺に言ってやるつもりだったんだろうな……。
「盗賊で勇者だなんて、そんなの矛盾してるだろ……」
「別にいいじゃない! 悪いやつをやっつけてくれるなら、なんだっていいじゃないのっ!」
「本当にそう思うか……?」
「当然よ! 立場だとか法律だとか言って、ちっとも助けてくれない人よりもずっと、義賊ドゥ様の方がいいわ!」
それが欺瞞の混じる言葉であろうとも、ナンの言葉が嬉しかった。
だが魔将バエルを討った後は、北方からはもう去った方がいいだろう。
己の名声が広まれば普通の人間は喜ぶところだろうが、盗賊ドゥにとっては仕事がやりにくくなるだけだ。
風の噂が盗賊ドゥの活躍を人の耳に運び、アベルやローザ、開拓地のオデットに届くならば、無事の知らせにもなるのかもしれないが……。
「ねぇニック、単刀直入に言うけど……グリーンネップに付いたら一緒に一杯どう?」
「おおいいねぇ、おじさんも混ぜてよ~?」
「おじさんには言ってないっ、あたしはニックに言ってるの! ねぇ、一晩だけ付き合ってよ~?」
「逆ナンかい!? わぁぁ、羨ましいねぇ~!」
オデットに似ていると言ったが、あくまでそれは雰囲気だけだ。
ナンの方はかなり開放的だった。きっと俺みたいに少し小柄で童顔な男が彼女の好みなのだろう。
「ねぇ、いいでしょ、ニック……?」
「飲みだけなら付き合おう」
「やったぁっ! なら決まりねっ、やっぱり嫌なんて言わせないよっ!」
「おっ、ならせっかくだしおじさんも――」
「おじさんは遠慮して。ニックも2人だけで飲みたいって顔だから」
強引なナンに御者のおっさんと俺は目を合わせて、互いに苦笑した。
それから俺はまた彼方に目を向けた。
ここはカサリア王国。シルヴァランドからさらに北へと進んだ最果ての地だ。
しかしこちらの方がずっと過ごしやすい。
シルヴァランドの空と言えば一面の鈍色だったが、カサリアでは高い青空がある。暖かな日差しが降り注ぎ、それが大地を色鮮やかに照らしている。
平原には背の低い草木が淡く輝き、北方らしい小さな花々までちらほらと見て取れた。
「シルヴァランドとは大違いだ。なんでこの国はこんなに天気がいいんだ?」
「逆逆! それは――」
「それはあっちの天気が悪いだけでしょ。あそこは雪が――」
「おじさんっ、あたしらの会話に口を挟まないでって言ってるでしょ!!」
「ケチ言うなよ、ナンちゃん……」
空気はシンと冷たく、しかし太陽は麗らかで温かい。カサリアは不思議な国だった。
ちなみにモモゾウは熟睡中だ。さっきまでナンにチーズの残りを貰って、今は袋の中でライ麦を抱えて眠っている。
平和で商売しにくい国だなと、この時だけはそう思っていた。
・
グリーンネップの町に着くと、辺りはもう夕刻だった。
日差しがなくなると途端に寒くなってきて、俺は運び込まれるようにナンの行き付けの酒場へと引っ張られた。
御者のおっさんは寂しそうだった。
混ぜてやってもよかっただろうに、ナンという女性は強引で男好きだった。
「乾杯っ!!」
「乾杯」
「わーいっ、ラズベリーだーっ!」
モモゾウはベリーの盛り合わせにダイブして、小さな口でそれをかじりだした。
ナンと俺は素朴な木製ジョッキをぶつけ合って、ぬるくて薄いペールエールを喉の奥に流し込んだ。
「かぁぁーっっ、この水で薄めたようなお酒の味! まさに帰ってきたって感じ!」
「おい、そんなこと言うと追い出されるぞ……」
「ベリーはおいちいよーっ! はい、ドゥにもあげる!」
小さな手からブルーベリーを貰った。酒の苦みと果物の甘みがよく合った。
それから俺はナンと言葉を交わして何度もペールエールを飲み交わした。また何度も、彼女とオデットと重ねて見てしまった。
ナンもまたオデットと同じ、盗賊ドゥとは対極の存在だからだろう。だからまぶしく見える。
しばらく、彼女との楽しい時間を過ごした。
きっと俺は彼女のように、真っ直ぐで明るくまぶしい女性が好みなのだろう。ナンとのひとときはとても楽しかった。




