水の少女の帰還
「アタシは、いいんちょを見下してなんか……」
突きつけられた刃と同じく、冷たく鋭い言葉を悠華は小さく首振り否定する。
だがさらに突き出された刃が、悠華の頬を突き刺す。
「痛ッ!?」
浅く皮膚が破られ、そこから溢れ出す赤い雫。
内からの熱を運び出したそれに悠華は顔をしかめる。
「意識せずにやっているから余計に悪いのよ! 私との勝負で手抜き通しで……」
梨穂はそう唸るように呟きながら、悠華の頬を刺した剣をそのままにずらす。
「う、ぐぅ……」
傷口が広げられ、頬を伝う血の帯がその幅を増す。
「あの時のクラス委員長選挙でも! お前が私に入れた一票の差で勝ちを譲って!!」
そして剣を横一閃。赤い雫の尾を残して頬から引き抜く。
「ぐふ?!」
さらに続けて、蹴りを悠華の胸へ打ち込み、壁へ踏みつぶすように押しつける。
「お前にとって、私は真剣に戦う価値すらない相手だと言うのだろうッ!!」
「う、うぅ……」
あばらをへし折るギリギリの圧力の中、悠華は呻き歯を食いしばる。
梨穂の言葉を否定するように、悶え混じりに首を振る悠華。
苦しげに振るその横に、右の直刀が突きささる。
「否定するなら、一度でも本気で私に立ち向かってからにしてみろッ!!」
そして柳眉を釣り上げ、さらに踏みつけを強める梨穂。
「どうした!? いつものようにのらりくらりと適当に流してみたらどう!? 出来るものならねぇッ!?」
梨穂はさらに蹴り足を押し込みながら、挑発の言葉を浴びせかける。
「うぐ、うぅ……」
それに悠華は歯を食いしばり、胸へ打ち込まれる足を掴む。
「……なに!?」
「ふん、ぬぅぁあああああああッ!!」
足首を掴む手に戸惑う梨穂。その隙に、悠華は渾身の力を込めて自身を踏みつけていた相手の体を投げ飛ばす。
「む、くぅッ!?」
受け身、転がるようにして身を起こす梨穂。その間に悠華は胸を抑え、咳こみながらも立ち上がる。
「……そっちがお望みなら、本気でやってやろうじゃないの……ッ!」
そう言って悠華は痛む胸から手を離し、頬の血を拭う。
そうして深く、静かに息を整えながら拳を構える。
「……最初からそうしていればよかったのよ」
左拳を前に、右拳を腰だめにして身を深くして構える悠華。
対する梨穂は左右の刃をそれぞれの手首の返しで回転。直刀を先に、湾刀を奥に控えた構えをとる。
互いに血を流した生身の姿のまま、息を整え対峙する両者。
そうして悠華と梨穂は一定の距離を保ち、互いに相手を正面に収めながら左右に滑るように歩みを進める。
一歩、また一歩と足が動く度に、両者の間の空気が張り詰めていく。
勝負は一瞬。
互いに身を守る魔法の鎧、装束は無い。
加えて戦いや剥奪によって余力を失っている。
さらに悠華は徒手空拳。梨穂は得物があるとはいえ、その負荷のために大きく負傷。
この上互いに必勝の覚悟を以て仕掛ける以上、火蓋を切れば瞬く間に勝敗は決する。
にらみ合う悠華と梨穂。そんな二人の少女の間には、荒れた波の音が抜けるのみ。
やがて幾度目かの波が、一際強く壁を叩く。
「シャアアァァッ!」
仕掛けたのは梨穂だ。
黒髪と血の雫を後に、滑るように悠華へと迫る。
そして間合いへ収めるや否や、右直刀を斜め一閃。
が、それを悠華は左へ半歩。身を沈めて鋭刃の軌跡から逃れる。
刃にふれた纏め髪の一部。黒髪の数条が潮風に舞う。
そこへ梨穂は立て続けにと、腰を返して左右の剣を振りかぶる。
しかし悠華もまた、沈めた体全体を跳ね上げるようにして踏み込む。
「エェヤハァッ!」
鋭い気と踏み込み。その残響も色濃く、剣の軌道の内側へと割り入る悠華。
「うっぐ!?」
柄や肘。それらに打たれるのも構わずに突き出した拳は、梨穂の右肩。その付け根を強打。
そして怯んだ隙を逃さず、悠華は息も吸わずに梨穂の右腕を絡めとる。
絞り上げるように凶器を奪い、その勢いのまま、もろとも一塊に丸め込むようにして投げる。
そして湾刀を持つ左手へ素早くスイッチ。高く極め伸ばし、握力を奪って黒い刃を手放させる。
「くぅッ!?!」
果たして、梨穂が声を上げた頃には、悠華が両腕を固めた上で上から押さえ込む形に極っていた。
「剣道三倍段」とは聞いたことのある人もいるだろう。
剣道の有段者と空手の有段者が戦う時、空手側には剣道側の三倍の段位。初段相手なら三段に相当する実力が必要だという言葉である。
具体性はともかく、武器のリーチによって発生する有利不利をはっきりと表した言葉である。
つまり、一方的に武器を持った有利を頼りに攻めかかった梨穂を逆に地に沈めた今の状況は、リーチによる戦力差を覆した上での勝利ということになる。
「……ま、負けた……」
悠華のその下。腕の自由が利かぬ姿勢で組み敷かれた梨穂が、震える声で呟く。
「あー……いいんちょ?」
悔しげに声を絞る梨穂を押さえ込んだまま、悠華はかける言葉を探して、視線をさまよわせる。
しかし負傷や消耗の差などの理由はあれど、負けを認め、その苦みを噛み締める者へ、勝者が声をかけるのは重ねて鞭を打つようなもの。
そのように感じられてか、悠華は逡巡のまま視線を泳がせ続ける。
「やっぱり、本当に特別な……生まれついての特別な存在には、勝てないってことなの……」
やがて梨穂の口から漏れ出す途切れ途切れの声。
「生まれつき特別って……アタシのドコがぁッ?!」
鼻と涙混じりのしゃくりあげ。それに悠華は、技をかける手をたまらず緩めて目を見開く。
「そうでしょうがッ! 生まれは道場! 大した努力もなく人の中心に! そして私たちの中で一番早くに竜の契約者に選ばれて! これで特別でなければ、誰が特別だとッ?!」
涙を振り散らすようにしてにらみ、ぶつけるように声を張り上げる。
しかし腕を解放されながらも、はね除けようというような抵抗は無い。
「んーなこと言われても……」
だが言葉を叩きつけられた悠華としては、戸惑い言葉に詰まらせるしかない。
悠華としてはやりたくもない訓練を強要される、河童のように選べるのなら避けたかった生まれ。
人の中心にいるのは、ただやりたい放題に行事中に仲間を煽ッているだけ。
そして最初にテラに出会い、その契約者に選ばれたのもただの偶然に過ぎない。
本当に悠華自身は何一つ意識せずにやっていることで、それを特別と言われても困ることしかできない。
しかしそれを言葉にして告げたところで、それこそ特別な証だと余計に泣かれる未来しか見えない。
そんな困り顔の悠華の下で、涙目で見上げ続ける梨穂。
悠華はそれを真正面から見返して、苦笑交じりにため息を一つ。
「まあ……物理的に見下ろしながらな今の状態で言うのもなんだけどさ……」
そう前置きして、悠華は苦笑のまま肩をすくめて見せる。
「アタシがいいんちょに勝てるのって、その辺と、あとは格闘くらいだぁーしねぇー」
「だからそれを、私がどれだけ望んで……ッ!」
普段通りの、おどけ交じりの言葉。
それに梨穂が歯を剥き、噛みつくように口を挟む。
が、悠華はそれに苦笑のまま、あせらないあせらない。と言わんばかりに頭を振る。
「そーれはそれとしてさぁーあ。アタシはいいんちょにはおつむの出来じゃー敵わんわけだぁーしね」
「それがどうしたと言うのッ! 勉強なんて時間をかければ誰でもできるじゃないのッ!?」
またも割り込む梨穂。悠華はそれに平手を前に出して左右に振る。
「そーいつはべんきょーの才能の持ち主の暴言ってもんぜよいいんちょ。現にアタシは出来ない」
「……何が言いたいの?」
悠華の堂々とした宣言。それに梨穂はいくらか落ち着きを取り戻し、挟む声の量を抑える。
核心部分を促す梨穂の目と声。悠華はそれに笑みを深めて口を開く。
「アタシはアタシで、いいんちょをスゲーって思ってるってコト」
あっけらかんと放った言葉。その内容と口調に、梨穂は僅かに眉をひそめる。
が、悠華はそれを待ったと軽く手で制して遮る。そうして言葉の続きを口に出す。
「いいんちょはアタシと違っておつむも優秀で、上を目指す意識も強い。クラスの仕事もめんどくさがらずに真面目にやるしね。アタシにゃーとーてい出来ない事をいいんちょなら出来るって信じてるから、あの時も票を入れて任せたんよ、オッケー?」
そうして梨穂へウィンクを一つ。その上から退く。
だが梨穂は抑えつける悠華の身が退いた後もその場で起き上がることなく、呆然と瞬き。
「……そんな、まさか……うそよ……」
「ウソだなんてひっでーのー。大マジだって、いいんちょに格闘でなら勝てるアタシが、信用してんだってばさ」
寝そべるまま半信半疑に頭を左右にする梨穂。
それに悠華は苦笑を深め、念を押すように言葉を重ねる。
「……負けた……完全に負けた」
すると梨穂は完敗の実感を口に、溢れるままに流れた涙を隠すように両手で顔を覆う。
「もー……なーにも泣くこと無いんでなーい?」
そう言って悠華は、顔を隠して泣く梨穂へ手を。
梨穂は涙を手で拭うと、悠華のさしのべた手を取ろうとする。
『ああ……つまらないわね』
そこへ響く冷たい声。
おぞましいまでの冷気を帯びたそれに、悠華と梨穂の肌が揃って粟立つ。
「……ッ!! いけないッ!」
そして梨穂はある一点を見上げて目を見開き、悠華の腰へタックル。その身を押し倒す。
直後、鳴り響く風斬りの音。
倒されながら宙を見上げた悠華。その視線の先で血の滴を散らして黒い刃が横切る。
「うッ……いいんちょッ!?」
ぶつけた背中に滲む痛み。悠華はそれを堪えながら、自分を庇った梨穂を呼んでその安否を問う。
「……だ、大丈夫、少し傷を広げられただけ……それより!」
それに梨穂は新たな傷の増えた左肩を一瞥。そして苦痛を噛み殺し、重ねて警告。
右肩から倒れるように転がり退く梨穂。合わせて悠華も逆方向へ横転。直後、二人の寝ていた場所を降ってきた黒い刃が突き刺す。
転がる勢いに乗せて、ほぼ同時に片膝立ちに起き上がる悠華と梨穂。
『……下らない友情物語でショーを台無しにしてくれて……本当につまらないマネをしてくれたわね』
そんな二人の間に響く声。
冷たく抑揚の無いその声の主、サイコ・サーカスは仮面のような表情のまま、地を穿つ直剣へ向けて歩み寄る。
そのまま突き刺した剣を逆手に掴むと、まるで麺料理をすするかのように握った手に吸い込む。
『ホントに興ざめだわ……この落とし前、どう付けてもらおうか?』
そして霧にも似た暗黒剣の残滓を掌から舐めとって、悠華と梨穂とに交互に目をやる。
その目に悠華と梨穂は、揃って息を殺して後退り。
二人の少女を見るピエロの目。そこにはいつもの嘲りの色さえも無い。否、むしろ憎しみと殺意、濃すぎる悪意とで混じり合い、濁った「黒」としか認識出来ないのかもしれない。混ぜ込み、混沌とさせた絵の具がそうであるように。
新月の無明。
あるいは濃すぎる濁り。
そのような目で悠華たちを眺めながら、サイコ・サーカスは手元に飛んできたシャムシールを掌で食らう。
悠華は深呼吸を繰り返しながら、サイコ・サーカス越しに梨穂と目配せ。
すると強敵を挟んだ戦友も、呼吸を整えて手を右耳へ。
青い宝玉の煌めく契約の法具に手をかけうなづく梨穂。
それを受けて悠華もまた、幻想の大地と繋がった指輪をはめた手を拳と固める。
しかしその間もサイコ・サーカスは視線を巡らせ、不気味な沈黙を保ち続けている。
「変身ッ!!」
悠華と梨穂は揃って吸い込んだ息を解き放ち、踏み込む。
オレンジと青。それぞれの光で身を包みながら、少女二人はサイコ・サーカスへ挟み撃ちに突撃する。
が、サイコ・サーカスは二方向から迫る光に対し、軽く身を捩り、回転。
「うあッ!?」
「あぐッ!?」
本当に軽い、ゴムをほんの少しねじって作った程度の勢い。
そんな程度で振り回された手足に、光の塊は揃って弾かれ、跳ね返されてしまった。
身に纏った力を剥がされ、その名残で軌跡を描きながら吹き飛ぶ二人。
そして突撃を上回る勢いのまま、背中で地面を強かに叩く。
「ぐうッ!?」
「……なーんのまっだまだぁッ!」
しかしそこは竜の契約者。悠華と梨穂は背を打った痛みを噛み殺し、後ろ転がりに回って起き上がる。
「今度は変身してからよッ!」
「イエースッ!!」
そして再び、今度は開いた距離を保ったまま少女二人はそれぞれの法具を構える。
しかしサイコ・サーカスはそんな二人へ一瞥もくれず、無言で左右の手それぞれに何物かを摘まみ持つ。
黒い、ビー玉ほどの小さな玉。サイコ・サーカスはそれを挟む人差し指と親指に少しだけ力を込める。
瞬間、ビキリと空を伝う衝撃。
「おぐッ?!」
「ぎあッ!?」
それに悠華と梨穂は揃って身を跳ねさせる。
「……お……うぁッ?!」
「あ……おぅ……?」
苦悶に声を絞り出し、同時に膝から崩れ落ちる二人。
だが悠華と梨穂はこの不可解な苦痛に呻き、腕も支えに使いながらも、懸命に顔を上げ続ける。
そんな二人の視線が集い交わる一点。サイコ・サーカスの両手にはいつの間にか掌サイズにまで膨らんだ黒い玉がある。
「そん、な……ッ!?」
「まさかッ!?」
その玉。正確にはその内で丸まったモノの姿に、少女二人は揃って絶句する。
その玉の中にはテラとマーレが、二人のパートナーがまるで孵化を待つかのように身を屈めていた。
『どうした? 変身しないの?』
そんな窮屈そうな竜たちを手に、サイコ・サーカスは悠華と梨穂を交互に見やる。
今回もありがとうございました。
次回は8月7日18時に更新します。




