好感触、悪感触
「おはようさぁ……あふぁ、んむ……」
あくび交じりにあいさつをしながら、悠華が二―Bの教室に入る。
「おはよう、悠華ちゃん」
「おっす、宇津峰」
悠華はあいさつを返してくるクラスメートらに手を振って、自身に宛がわれた席へ向かう。
「おはよ、悠ちゃん。今朝も眠そうだね」
「はよっす、みずきっちゃん。昨日あれからいろいろ大変だったのに、朝の稽古勘弁してくれなくてさぁ。およよ……」
そうして隣の席に座る瑞希に向かって、わざとらしく目元を拭って見せながら席に着く。
「あれ? その指輪、どうしたの?」
そこで瑞希は悠華の右手を飾る契約の法具を見つける。
「ああこれ? 家にあったのをはめてみたら外れなくなっちゃってさ、デンデロデンデーンってな感じで」
悠華は瑞希の好奇の視線に、指輪が見やすいよう示しながら説明する。
『なんか失礼な擬音じゃない?』
繋がりを緩めていなかったため、聞き咎めた相棒の声が悠華の頭に響く。
だが悠華はそれを聞き流して、瑞希の前でブラックメタルの指輪を外そうと試みて見せる。
「この通りビクともしなくてさ、指切らなきゃ外せそうにないから仕方無しにね」
そして微動だにしない中指の指輪から手を離し、気だるげに肩を竦める。
「そうなんだ。じゃあ大室先生に話しておいた方がいいんじゃない? 授業のたびに先生から注意されるかもしれないし」
「おお、それもそうだね。さっすがみずきっちゃん!」
友達の出した提案を頷き称える悠華。
もしも担任の大室いおりが十年前の戦士その人ならばあっさりと話は通るだろう。それでなくとも指輪について話を通すことで面倒はいくらか省けるはずである。
まさしく一挙両得の案を出した瑞希に、悠華は笑顔で喝采を送る。
「あら、宇津峰さん。アクセサリつけて登校なんて、浮つきすぎなんじゃない?」
そこへ挟み込まれた声に振り向けば、長く真っ直ぐな黒髪を掻き上げる女生徒が一人立っている。
切れ長の目を始めとした筋の通った顔立ちは、愛らしさよりも美しいという言葉が似合う
自信に満ちた整った顔と相まって、出るところの出た発育の良い体型は、同年代の少女から一歩抜き出た雰囲気を漂わせる。
スカートから伸びるすらりとした白い足を肩幅に広げて堂々と立つ少女。
その姿に悠華は渋く顔を歪める。
「うげ、委員長……」
悠華が口にした通り、ロングストレートの黒髪を持つ美少女、永淵梨穂は二―Bの学級委員長であった。
「うげ。だなんて、随分なごあいさつじゃない、宇津峰さん?」
まずい奴に見つかったとありありと語る渋面と口を衝いて出た言葉とを咎めて、切れ長の目を流し送る梨穂。
それに悠華は両手を降参だと示すように上げて、顔に浮かんでいた渋みもひっこめる。
「ごめんごめん。ただこれホォントに外れないんだってぇ。壊して外すわぁけにもいかないしさぁー」
悠華は妙なところを伸ばした軽い声で事情を語る。
しかし梨穂は悠華の口に探るような視線を送る。
「ふぅん、そう。でも怪しいものね」
「怪しいなんて、そんな……」
言葉を割り入れる瑞希。しかし梨穂はそんな瑞希の言葉を手のひらで制する。
「人の良い明松さんは疑う気にもならないだろうけど、宇津峰さんの言うことは話し半分、いえ四分の一くらいで考えた方がいいのよ」
「いやぁ照れますなぁー」
しかし梨穂の疑いの目などどこ吹く風と、悠華は頬を緩める。
「今のをどう聞いたらそうなるのよ、アナタは……!」
言葉をサラリと受け流された事に、痛みを堪えるようにこめかみに指をそえる梨穂。
その口の端は微かに震えて、呆れの奥に隠れた苛立ちを滲ませている。
悠華と梨穂。
両者の間で密やかに、しかし確実に空気が緊張する。
しかしそんな空気の中、ホームルームを告げるチャイムが教室に響く。
「……ま、いいわ。せいぜい先生にいい加減な方便でも並べればいいのよ」
終了のゴングに梨穂は軽く鼻を鳴らしてそう言うと、長い髪を翻して自身の席へ向かう。
収まった鉾にだれともなく安堵の息が漏れる。
だが悠華は梨穂の背中を横目に見やり、軽く舌を出す。
「おはよう皆、ホームルームが始まるぞ。うろついている者は席に着け」
そこで教卓側の出入口が横滑りに開き、堂々たるあいさつと共に若い女教師が姿を現す。
首後ろから一括りにして垂らした艶のある長い黒髪。
大きな瞳の収まったつり目の双眸。それが収まる顔は美しく締まり、整っている。
黒いパンツタイプのレディーススーツに包まれた肢体もまたすらりと細く、しなやかである。
「起立、礼」
凛とした細身の美教師、大室いおりが教壇に立つのに続いて、日直から号令が上がる。
それに合わせて、教室の生徒一同が一斉に立ち上がり、頭を下げる。
「着席」
締めの号令が行き渡るのに続いて、生徒全員が椅子に腰を下ろす。
いおり教諭は教室を一回り見回して頷き、出席簿を広げる。
「うん。では出席を取るぞ……」
そうして始まった朝のホームルームは、出席、連絡事項と滞りなく進んでいく。
「……連絡する事は以上だ。今日も一日健康無事に学んでおくれ」
軽く微笑んでホームルームを締めくくったいおりは、入ってきたときと同じ教卓側の出入り口から教室を出る。
それを追いかけて、悠華も教室を出ていく。
「おぉい。いおりちゃぁんッ」
悠華は廊下を小走りに進みながら、黒いスーツの背中に声を投げかける。
「宇津峰さん。いおりちゃんは止めてくれないって、前から言ってるでしょう」
呼び止める声に苦笑交じりに振り返るいおり。その前に立ち止まって、悠華は白い歯を見せて笑う。
「じゃ、いおりちゃん先生」
その笑顔から飛び出した呼び方に、いおりは呆れ顔のまま軽く吹き出す。
「……まあいいわ。それで、用事は何?」
苦笑を浮かべて小首を傾げるいおり。
「実は、これなんですけど……」
本題を待つ担任に、悠華は自身の右手中指を飾るブラックメタルの土台にオレンジの宝石が収まる指輪を見せる。
「指輪? まさか、その指輪は……!?」
悠華の日焼けした手に輝く指輪に、いおりは眉をひそめる。が、すぐにその本質に思い至ってか、黒目がちなつり目を見開く。
その反応に、悠華は自身の予感が正しかったことを確信する。
「やっぱり見覚えあるんスか? 実はこの指輪、いおりちゃん先生のお友達の息子からの贈り物なんスよぉー」
暗号めかしてぼやかして、背後関係をいおりに伝える。
するといおりは悠華の左肩に手を置き、そっと顔の側面に口を近づける。
「……放課後、ホームルームが終わったら職員室に」
その耳打ちに悠華が首を縦に振る。
「……ノードゥスは隠しておきなさい。辺りからの認識をずらすようにすれば大丈夫。出来なければ相方に……」
するといおりは続けて囁き、悠華から体を離す。
そして悠華が返事をしかけたところで、微笑を浮かべて口を開く。
「その子にもよろしくね。会って話がしたいと伝えておいて」
「あ、はい」
戸惑いを色濃く残しながらも頷く悠華。するといおりは踵を返し、心なしか軽い足取りで廊下を進んでいく。
悠華はそんないおりの背中を見送ると、指輪のはまった右手を顔に寄せる。
『なんか、大当たりだったわ』
『うん。世界って案外狭いもんだね』
そして頭の中で、テラと呆けた念を交わす。
『そういやさ、いおりちゃんが言ってた隠し方ってどうやんの?』
悠華はいおりのアドバイスに従って、改めてテラへ尋ねる。
『え? ああそうだった。悠華は身体強化特化型だからそういうのは苦手だったか』
『おぉい……』
今になってようやくそれを思い付いたと言わんばかりの相方。
それには悠華もさすがに苦笑混じりに思念を送るばかりであった。
時間は流れ、その日の昼休み。給食棟から食事を終えた悠華と瑞希が並び出てくる。
「いやあ、食べた食べたぁ。余は満足じゃ」
「今日は好きなものが多くて嬉しかったな」
唇を舐めながら満たされた腹をさする悠華。その横顔を見上げて瑞希が頬笑み歩く。
二人の背後。山端中学に在籍する生徒、教員の昼食を供する給食棟。
八年前にこの施設が増築されたことで、山端中学でも給食が開始された。
卒業の時期と重なった生徒の保護者からは、「なぜもっと早くしてくれなかったのか」といった愚痴が多少上がったようだ。だが、多くの保護者達からは歓迎の声を持って迎えられた。
「そうだねえ。ハンバーグの余りが出たらもう一つ行っちゃってもよかったかも?」
「あはは。それはちょっと食べすぎじゃない?」
給食棟と校舎をつなぐ渡り廊下を、悠華と瑞希は談笑を重ねてゆったりと歩く。
食事を終えて先に出た男子生徒らが、ボールやらを引っ張り出して思い思いに体を動かしている。
渡り廊下から見えるその光景を横目に眺めながら、悠華は口の端を緩めて肩をすくめる。
「忙しないよねえ。もぉうチョイゆっくり食事を味わって楽しんでもいいのにねぇー」
悠華は後ろ頭に手を組んで、だらだらと間延びした調子で呟く。
そんな友達のコメントに、瑞希は頷き笑う。
「それは言えてるけど、まあその辺りは人の好き好きだし」
「まあねえー確かに。外野っからなんやかんや言うのは野暮ってモンだよねぇ」
悠華は水分過多の粥の様に緩んだ顔で、瑞希への同意を口にする。
「……それはつまり、私をその野暮の極みと言いたいのかしら、宇津峰さん?」
そこで思いがけず響いた声に視線を向け直せば、渡り廊下を終えたところに長い黒髪を掻き上げる女子生徒、梨穂が立っていた。
「うぅわ、委員長……」
今朝も突っかかってきた相手の登場。それには悠華の満足げな緩みもどこへやら。げんなりと書いてあるような顔を梨穂へ向ける。
「また随分とあからさまな態度ね」
梨穂は軽く鼻を鳴らすと、掻き上げた髪を揺らして歩み寄ってくる。
それに悠華は渋面のままため息をついて歩きだす。
そのまま瑞希を連れて、近づいてくる梨穂を避けて先へ進む。
「待ちなさいよ……!」
眼中にないと言わんばかりのその態度に、梨穂はきつく眉根を寄せて悠華の背を追いかける。
だが悠華はため息を重ねると、歩みを緩めずに階段へと足をかける。
「え、えっと……」
瑞希は眼鏡の奥の目を瞬かせながら、隣の悠華と、追いかけてくる梨穂とを見比べる。
困ったような顔を見せる友達に、悠華は軽く首を横に振る。
そして二年生に宛がわれた階まで上がったところで、瑞希へ離れるように手で示す。
「みずきっちゃん。先に教室に戻っててよ」
「……で、でも……」
躊躇う瑞希に対し、悠華は上に向かう階段の前で足を止める。
「いいから、委員長だって午後の授業に遅れるつもりはないだろうし。そんなに長引かないって」
そう言って、へらりと顔を緩める悠華。すると瑞希は未だに戸惑いの色を残しながらも頷き、一歩、二歩と後退りする。
離れた瑞希の姿を確かめて悠華は頷き、上階へ向かう足を再び動かす。
「……まるで私が悪者みたいじゃないの」
梨穂はその後に続いて階段を昇りながら、低く抑えた声を投げかけてくる。
悠華は追いかけてくるを梨穂を肩越しに見下ろすと、ため息交じりに肩をすくめる。
「……噛ぁみつくねぇ……アタシのなぁにがそんなに気に入らないんだか……」
「そうね。そのだらけた態度も、誠意のない軽い言葉も、いい加減さを恥としないところが腹に据えかねるわね」
梨穂の口から放たれた、包み隠すもののない丸裸でダイレクトな批判。
この剥き出しの敵意には、悠華も苦笑交じりに前へ向き直るしかなかった。
「ふざけてるだけにしか見えないあなたが、周りからいくらかでも信頼を得ていることも信じられない」
「……そんなに気に食わないなら、アタシのことなんかほっといてくれりゃいいのに……なんでわざわざぶつかってくるかね、めんどくさい……」
階段を昇りながら次々と背中にぶつけられる難癖に、悠華はため息と共に疲れたような声をこぼす。
悠華としては梨穂がなぜか自分にぶつけてくる不満を、ガス抜きとして適当に受けるだけのつもりであった。だがこの思いがけぬ梨穂の勢いには、流石に疲れと後悔の色が抑えきれない。
「何の努力もなしに……ただだらけているだけのあなたが、どうして……」
「知ったこっちゃないよ。それこそ委員長が仰る通り、意識してることなんてなぁんもないし」
特別教室の並ぶ最上階。
そこまで登ったところで徐々に勢いを失い、悔しさの色をにじませた梨穂の声。それに悠華は後ろを振り返ることなく、肩をすくめて返す。
「なんですって……!」
それが癇に障ったのか、後ろの床を踏む音が大きく強まる。
足音に振り返る悠華。その目には梨穂の背後から自分もろとも覆いかぶさるように、拡がった闇の色が飛びこんでくる。




