あの人がまさか
宙に浮かぶ水球。
そこに浮かぶ黒い鎧の闘士の像。
山吹色の棍を振るい、敵を打ちのめす雄姿。
それとその隣に立つ小さなライオンもどきに、水球を眺める者から舌打ちが一つ。
『……フンッ、せっかくのお膳立てが無駄になったか』
声の主は忌々しげに呟いて、水球の映像を眺める。
『それにしてもテラめ……人間と契約を結ぶとはな、契約者と共に神話をなぞって点数を稼ごうという心算か!』
吐き捨てた邪推に続き、黒い闘士の像を映す水球が弾ける。
飛び散る水滴は遠見の力を失い、苛立つ主の姿をその内に宿す。
ザラザラとした青い肌。
ヤスリに似た質感のそれに包まれた長い首。
しなやかに伸びる首の先。ヒレに飾られた頭は鼻先へ向かって先細りになったトカゲのものだ。
長首を挟んだその逆側、胴体はお椀を逆さにしたような山なり形。
剣の様な背ビレを頂点としたそれからは、四方に肉ビレが伸びる。
大型水生爬虫類である首長竜を思わせる姿をした青い竜。それは苛立ちのままに扇型のヒレを持つ尾を振り、周囲の飛沫を散らす。
そして軽く鼻を鳴らすと、その黒い瞳に冷え冷えとした光を灯す。
『……だがまあ、どうとでもやりようはあるか』
呟いて、青い竜はその長い首を巡らせる。
『手始めにアイツを差し向けるか。アイツはテラにご執心だからな、この件なら多少話を作っても疑いもせず突っ込んでいくだろうさ……ククッ』
青い竜はそう言って、歪んだ口の端から含み笑いを溢す。
※ ※ ※
東から山端を通して差し込む陽光。
明け方の未だ冷たい夜気を残した空気を、風切る音色が貫き透る。
リズムに乗って繰り返されるその出処は一軒の道場。「宇津峰流闘技塾」と看板を掲げたその庭で振るわれる小麦色の拳と脚であった。
オレンジのゴムで留められた黒いサイドテールを揺らして道着姿の悠華が踏み込み、拳を突き出す。
ジワリと浮かんだ汗がその度に宙を舞い、陽光の中に溶けて消える。
「セェアッ!」
そして鋭い気迫と共に放った上段回し蹴りで空を切り、深く腰を落とした残心の構えを取る。
「スゥー……ハァー……」
悠華は構えたまま深く息を吸って、吐く。すると緩やかに構えを解いて背を伸ばし、合掌。見えざる組手相手に頭を下げる。
『やあ悠華。お疲れ様』
そこへタオルを咥えたテラが縁側から庭に下りて歩み寄ってくる。
「ああ。おはよ、テラ」
悠華は相棒から差し出されたタオルを受け取って、汗に濡れた肌に押し当てる。
『これ、毎朝やってるの?』
「まぁあねぇ。でも単なる型稽古だし、ちょっとした体操みたいなもんだよ。健やかな成長のための健康法ってヤぁツよぉ」
見上げてくるテラに、悠華は汗を拭き取りながら事も無げな軽い調子で答える。
するとそこへシャンとした背筋の老女、日南子が道場の縁側に姿を現す。
「今朝の型稽古は終わったみたいだね。さ、着替えたら朝食にしようじゃないか」
そして柔和な笑みを浮かべると、床板を鳴らすことなく家の方へ姿を消す。
「……いつもああならアタシも気が楽なんだけどねえ」
人の良い穏やかな老女の見本のような祖母を見やり、悠華は苦笑混じりに肩をすくめる。
『じゃあ叱られるようなことしなきゃいいじゃないか』
「いやいや。婆ちゃんはアタシに道場継げる力つけたいみたいだけど、別にアタシ道場継ぎたい訳じゃないし」
呆れたように言うテラに、悠華は首を左右に振り振り返す。
そうして庭から上がり、居間に向かって悠華が歩き出す。
するとそれを追いかけて、テラも縁の床板に上がる。
『じゃあ他に夢とか、やりたいことあるの?』
「うんにゃ。ただキツイ稽古するよりは遊びたい」
きっぱりと建前一つ立てずに言いきる悠華。これにはテラも肩透かしを食らって躓く。
『それを堂々と言う?』
「嘘を堂々とつくよりはマシっしょ?」
悠華は口元を吊り上げて相棒に返すと、身支度を整えるために別れる。
そうして汗を流して制服に袖を通した悠華は、祖母と朝食の待つ居間の襖を開ける。
「おっ待たせぇい」
悠華は軽い調子でちゃぶ台についていた日南子に声をかける。そして畳の上を進んで自分の座布団へ腰を下ろす。
「はいはい。で、テラくんや、テラくんは床に大皿で構わなかったかね?」
『あ、はい。お構い無く。オイラこんななりですし。それに悠華の心命力があれば餓えませんし』
「おや、そうなのかい? でも悠華じゃテラくんを養えるほど気力を出しちゃくれないだろう? ほらこの子たまにしかやる気見せないから」
『あはは……』
悠華を置いて親しげに言葉を交わす日南子とテラ。
それを前に悠華は空々しい鼻歌交じりに炊飯器から湯気の立つ白飯をよそう。
そうして白飯をちゃぶ台に乗せて、鶏と芋の煮物。湯気の立つ油あげとワカメの味噌汁。キュウリの漬物といった朝食に向かい合う。
だがいざ食事にかかろうと手を合わせたところで、悠華は眉を潜めて、ちゃぶ台を挟んだ向こう岸に目を向ける。
「ちょい待ち」
「なんだい?」
『どうしたの?』
悠華の挟んだ言葉に、日南子とテラが揃って顔を向ける。
「いや、何で二人ともそんなフレンドリー? 何でそんな馴染んでるワケ?」
感じた違和感をそのままに、悠華は正面の二人に投げかける。
だが二人は同時に首を捻り、そして怪訝な色を乗せた顔を見合わせる。
「何でって言われても、ねえ」
『昨日悠華が道場の罰掃除してる間にキチンと挨拶はしたから……』
そう言って日南子とテラは、再び不思議そうに首を捻って顔を見合わせる。
まるで訳が分からないと言わんばかりの二人に、悠華は立てた手のひらを左右に扇がせる。
「いやいやいや、おかしいから。婆ちゃん何でテラを見て何の疑問も無いワケ? ライオンっぽいけど肌かっちかちだよ? 喋るんだよ?」
「まあ言われてみりゃ確かに珍しいかねぇ……」
孫の指摘にようやく納得したのか、日南子は頷きテラを眺める。
「えぇ……今その段階って、マジでぇ……?」
そんな祖母の反応に、呆れを通り越して引いてすらいる顔を見せる悠華。
「でもまああたしゃあお前ぐらいの年の頃に、妖怪殴り飛ばしてるし、テラくんくらいなら驚くほどでもないさね」
「はぁあッ!?」
『えぇッ!? 妖怪って幻想種をッ!?』
だがもう一つ頷いた日南子の口から出た言葉は、悠華とテラに胆を抜くほどの衝撃を与えた。
驚きの発言に目を剥く二人。対する発言者の日南子はしれっと首を縦に振って肯定する。
「ああそうさ。猿の頭に虎の手足、尻尾は蛇の化物だったねえ。テラくんと違って人を化かして脅かす奴だったから、泣きべそかくまでぶん殴ってやったっけねえ。いや懐かしいもんだよ」
日南子は感慨深げにそう言うと、腕を組みつつ天井を仰いで、遠い過去へ想いを向ける。
「けどまあ、あたしもあれを最初見たときは驚いたけどね。イタズラしてる人間をとっちめに行ったつもりが、本物の妖怪退治になるとはねえ……まさかってモンだよ。はっはっは!」
豪快な笑いで思い出話を締めくくる日南子。
そんな祖母を前に、悠華はテラへ手招き。
そして歩み寄って来た相棒に耳打ちする。
「アンタらみたいな力の塊を人間が体一つで倒すなんてホントにできんの?」
『相手と状況によるけど絶対無理ってワケじゃないよ』
「マぁジでぇ?」
テラの答えに、あからさまなまでに疑いの眼差しを向ける悠華。それにテラはライオンに似た顔に苦笑を浮かべて説明を続ける。
『オイラたち幻想種は、基本的に物質界じゃかなり力が制限されるんだ。それにオイラたちを揺さぶりたいなら機械的に引き金を引いた鉄砲より、勇気を振り絞った子どもの棒きれってね。要は気合だよ』
「気合ねえ……」
悠華はちゃぶ台に頬杖をつき、軽く鼻を鳴らす。
「ならいっそ婆ちゃんか、十年前の「ユウカ」さんともう一人を訪ねて契約し直した方がいいんでない?」
冗談めかした軽々しさで言う悠華。
だが次の瞬間。悠華は悪寒が走ったようにその身を震わせ、弛めていた顔を強張らせる。
「悠華……一度請けた事を放り出す気か……?」
「やは……冗談だよ」
底冷えのするような日南子の低い声。それに悠華は引きつった笑い顔で返す。
そして誤魔化すように目の前の膳に一礼して白飯を掻きこむように食べ始める。
「……よく噛みなよ」
箸を急がせる孫娘に、日南子は呆れたように息を吐いて湯気の立つ湯呑を出す。
まるでタイミングを計ったように喉に詰まらせた悠華は、慌てて出された湯呑を掴んで口をつける。
「おぅぐぅ……!?」
だが喉に流しこんだ熱さに、まるで毒でも盛られたかのように悶え呻く。
「そそっかしいねえ、この子は」
『落ち着きなよ悠華』
苦悶を訴える悠華の姿に日南子とテラが呆れの色を乗せた笑みを深める。
そうして日南子の怒気で凍りかけた空気が緩み、柔らかな食卓のそれに戻る。
僅かに剣呑とした雰囲気になったものの、朝食を終えた悠華は、昨日祖母に投げつけた鞄を片手に通学路へ出る。
自宅を兼ねる道場を後に、悠華は黒いサイドテールを揺らして朝の歩道を歩く。
「ふあぁ……あふ」
隠すつもりが微塵も無い大口開けてのあくび。
その左手側を向かいから走ってきた車が通り過ぎる。
あくびで滲みでた涙を拭う右手。その中指を飾る黒の土台にオレンジの宝石を収めた指輪が輝く。
『大きいあくびだね。眠いの?』
そして悠華の頭に苦笑気味の言葉が響く。
耳を介さず脳に届いた契約相手の声に、悠華は右手に輝く契約の法具を見やる。
『まあね。体動かしてから腹を満たせば眠い眠い。だから学校で眠るのだ』
『ちゃんと起きて授業受けなよ』
声に出さずに送り出した返事に、呆れ交じりの小言が返る。
『へえ。これが昨夜寝ぼけながら聞いてた念話ってヤツね。口使わないで話すってやっぱ変な感じだわ』
『いやいや。ちゃんと説明は聞いててよ』
『いいじゃん別に。実際に使えるくらいには聞いてるんだし』
追いかけ合う小学生が右手側を追い抜いていく中、悠華は念話を交わしながらゆったりと歩みを進める。
そうしてまた湧きあがったあくびをかみ殺して、眠たげな眼を改めて右手の指輪に向ける。
『そう言えば聞いてなかったんだけどさ。十年前の神話? って奴で、アタシと同じ名前の人ともう一人居たんだよね? どんな名前で、今どこにいるか知らないの? 二人とも生きてんでしょ?』
『生きてるだろうし、名前くらいは知ってるけど……今どこにいるかまでは知らない。最後の戦いで二人と契約してたオイラの両親は体を無くして、契約で生まれた繋がりも無くなってるから』
『親が体無くしたって……じゃあどうやってアンタ生まれたワケ?』
『正確に言うと幻想界そのもの……と言うか、核であり外殻になるモノに二人の体を使ったって話だから、幻想界の全部が父と母って事になる、かな』
『はぁ……何かハッチャメチャ過ぎて予想の斜め上だわ』
テラの生まれを聞いて、悠華はこめかみに指をそえて頭を振る。
『この国の神話で例えるなら、イザナギとイザナミで考えてくれたら分かりやすいかな。オイラの親は死別も離縁もしてないけど』
『なるほど。大体分かった』
テラの出した例え話に、イメージが固まったのか悠華は頷く。
『そっちの話はまあ分かった。で、話を戻すけど、アンタの父ちゃん母ちゃんに手を貸した二人ってのはやっぱり今のアタシと同じ年ごろだったワケ?』
『そうだね。父さんたちの話では十四歳の女の子だって聞いてる』
横道にそれた話を戻しての質問にすかさず返ってくる肯定の念話。
『ふぅん……なら今は二十四歳の女の人かぁ』
悠華はテラから得た情報を繰り返し、左目をつむって考え込む。
『心当たりがあるのかい?』
『うんにゃ、全く。爪の切れ端ほどにも』
期待の色を帯びた相棒の声を、悠華はサラリとかわす。
食らわせた肩透かしに言葉にならない苦い思念が返って来るのを感じて、悠華は笑みを浮かべる。
『いやいや、たかが町道場の孫娘の中学生に、社会人かその予備軍の知り合いがそうそういるわけないし』
悠華がいたずらの成功に弾んだ思念を送る。
『そういうものかも知れないけどさぁ……』
対して返って来る苦々しい念。
しかしそれは続く事無く途切れてしまう。
『……おーい? どしたの?』
不意に訪れた神妙な沈黙。それに悠華は、中指の指輪を親指で小突きながら軽い調子で応答を求める。
『……やっぱり、あんなのと何度も戦うなんて嫌だよね?』
『ほわっつ?』
予想を越えて神妙な念に、悠華は平坦かつぼやけた調子で訪ね返す。
だがテラからの念は帯びた重みを減らすことなく続く。
『だって緊急の一回ならともかく、ホントは関係ないはずの悠華が何度も戦うなんてやっぱりおかしいや。だから経験者の事を……』
『いや、先輩からコツとか聞きたいなって思っただけだし』
『へ?』
テラの念を遮り被せる形での悠華の返事。それにテラは呆けた思念を溢す。
『いや、聞けるもんなら聞いときたいじゃん? 一から手探りでやるより絶対楽だし』
『いや、うん。それは、そうだけど』
悠華の考えを聞いても、テラは戸惑いの拭いきれない返事を返す。
それに悠華は、再び指輪を小突きながら念を送る。
『確かに戦うとか嫌だよ。痛かったしめんどくさいし、正直やめれるならやめたいっすわ』
軽い調子で送るオブラートゼロの本音。
『でもまあ、あの時アンタと手を取り合って、それを今更無しって本気で言えるほど薄情にはなれないな』
そして弾むような調子のまま、本心のもう一面を相棒に伝える。
『悠華……』
『ていうか、そんな事したら婆ちゃんに殺されてまうよアタシ』
だが良い話で終わりそうな雰囲気を真剣な怯えがぶち壊しにする。
『かっこつかないなあ、もう……』
絞まりきらない念話で締めくくる悠華にテラは苦笑交じりの思念を返す。
『でも、母さんもパートナーの大室いおりとの苦労話をする割には楽しそうだったし、こんな感じだったのかな?』
そこでテラの挙げた名前に、悠華は足を止める。
『悠華? どうした?』
気づかい問うテラ。それに悠華は、頬にひきつり笑いを浮かべて口を開く。
「大室いおりって……アタシの担任の名前だよ」




