水底の謀(はかりごと)
「あんな、あんな形で出し抜かれるなんて……」
青と白を基調とした部屋の中に広がる忌々しげな声。
そんな部屋の一角を占める、賞状や表彰楯の数多く並ぶ棚に挟まれた勉強机。
青いシャツに白いベストとロングスカートと言った姿の部屋の主、永淵梨穂は机の天板に握りしめた手を置いて、うつむいている。
「それも寄りにも寄って、あの宇津峰悠華になんてぇ……」
顔を蔽い隠す長い黒髪のカーテン。その奥から悔しさに滲んだ声が絞られ出る。
その背後、椅子の背もたれを避けて弧を描く水の球。その上に乗ったマーレは長い首をもたげてくねらせる。
『まあ、過ぎた事だ。たしかに初戦に黒星はついたが、ただの泥だ。気にするほどのものでも無いだろう』
「何をのん気な……!」
のんびりとした相棒の言葉に、梨穂は弾かれたように振り返る。その流れる長い髪の隙間から、右耳を飾る青い宝石のイヤリングが覗く。
「あんなやつらにしてやられて、しかも倒すまでもないと無視されて……こんな屈辱が気にするほどのものでもないと……?」
怒気に砥がれた冷たく鋭い眼光。努めて抑えた、しかし鋭利な憤りを秘めた声と合わせて、梨穂は契約相手へ浴びせる。
しかし冷気すら帯びたそれに、マーレはただ球形の水の上で前ビレを上下させる。
『オレたちが出遅れてるのは最初からだ。師匠付きの経験者、それも二組。それを相手に立ち回りで上を行かれるのは何もおかしくは無いさ』
そこでマーレは言葉を切ると、水の球ごと梨穂へ近づいて顔を覗きこむ。
『冷静になって考えろ。先に勢い付こうが最後に負けては意味が無い。最終的に追い抜けばいいだろう? ん?』
教え諭すようなマーレの言葉。それに梨穂は不承不承といった風ではあるが、目に帯びていた怒りの矛を収める。
「けれど、屈辱は屈辱よ……」
『結構なことだ。それも含めて、後で利子で膨らませて返してやればいい。そのプライドの質はオレの見込んでいた以上だ』
しぶしぶとしかし敗北の苦みを呑み下す梨穂。その様子にマーレは繰り返し頷き、長く広い口の端を深く吊り上げる。
「ここでおだててくれなくても結構よ。それで、これからどうするつもり? いまから経験を積んでも遅れていて、数の不利も抱えている。これは確かよ?」
高くなっていた鼻柱をへし折られたことから頭を切り替えた梨穂は、まるで余裕の態度を崩さないマーレへ問いかける。
相手の優位を、そして自身の不利を認めた上での整然とした質問。それを投げかけてきた契約者に水竜はその笑みを深めて頷く。
『ああ。オレも言ったが、確かに現状ではどちらも致命的な問題だ。だが数の不利はすぐに解決するさ』
「どう言う意味……」
その相棒の言葉にいぶかしむ梨穂。
だがその説明を求める言葉を半ばから遮って、部屋の中空につむじ風が生まれる。
不意に巻き起こり、しかし部屋の何物も揺らさぬまま渦巻く風。
梨穂の黒髪。薄水色のカーテン。それらも微動だにしない中、うねる風を内から破るようにして小さな緑色が翼を広げて現れる。
『来たか、ウェント』
『おー。やっと話も落ち着いたみたいだし?』
「鳥? いえ、翼竜?」
そんな飄々とした口調で現れた緑色。それを梨穂は見た印象のままに評する。
緑色の羽毛に包まれた翼と、長い尾羽根は確かに鳥。
しかし柔らかな羽毛の間にあるその体は、まるで毛の無い丸裸。だがしなやかな緑色の鱗が覆っており、細身ながら貧相な印象はない。
細く長い首。その先にある鋭い三角の鋭角を鼻先と伸ばした頭には、二本の飾り羽の目立つ羽毛が、鬣のように生え揃っている。
その全体を通してのシルエットは、翼竜や鳥と言うよりは、飛竜と呼ぶべきものである。
緑の飛竜ウェントは、そのまま軽く羽ばたきホバリング。海のように青い布団の上にそのトカゲに似た足を降ろす。
『へえ。この娘がマーレ兄貴の契約者? ボクは竜の兄弟の三番目、風のウェント。よろしくお嬢さん』
「永淵梨穂よ」
そして探るように梨穂を眺めて自己紹介。その品定めするような視線に、梨穂は内心を顔に出さずに名乗り返す。
自己紹介を交わす二人。それをマーレが宙に浮かぶ水球から見下ろして、口を開く。
『わざわざ出を計っていたと言うことは、すでに契約は済ませて来たのか?』
その質問の内容に、梨穂の片眉がピクリと跳ね上がる。
『まーだだよ』
だが水竜を見上げてのウェントの言葉に、冷ややかになりかけた部屋の空気がぐるりとかき混ぜられる。
『どういうコトだウェント? オレが薦めたのは……』
水球を崩して危うく沈み掛けたマーレが、浮上しながら問い詰める。
『だって兄貴のオススメしてきた隣町の伊吹なんちゃらって娘? 風の相性は確かに一家揃って抜群だったけど、みんな眩しすぎてボク好みじゃ無いんだよねー。どっちかって言うと父ちゃん向け?』
だが問われたウェントは翼を広げると、首を傾げて兄のマーレに向けて口の端を深く引いて見せる。
『そうか。なら自分で目星を付けたのがもういるんだな?』
そうして喉を鳴らし、堪えきれぬとばかりに含み笑いを溢すウェント。だが対するマーレはそんな弟の態度に落ち着きを取り戻した声で確かめるように問う。
好みだけで推薦を蹴ったことに対する淡白な反応。それにウェントは退屈そうに鼻を鳴らしてから頷く。
『まーね。いい感じに面白くなってくれそうな匂いがするのを見つけてあるよ』
『そうか、ならいい。任せたぞ』
ウェントの答えに満足気に頷くマーレ。対するウェントは鼻息を重ねて顔を背ける。
『ボク自身の契約だ。言われなくたって任されるさ』
つまらなさそうな声音で一言。それを後に、ウェントは出てきた時の逆回しに、その身を緑の旋風に包む。
逆巻いた風が集い縮む中に消える緑の飛竜。
それを見送ってマーレは深いため息を一つ。
『やれやれ……相変わらず気まぐれで困るが、やる気がある分は良しとしようか』
自由な弟の扱いに、前ビレで頭を抑えるマーレ。
「アレで使えるの?」
その水竜の背ビレへ、梨穂の冷ややかな問いが投げかけられる。だがマーレは長い首をくねらせ振り返ると、ニヤリと口を笑みに歪めて頷いて見せる。
『梨穂の言うとおり、べったりと肩を並べて連携するには問題はある。が、それだけが共闘の形と言うわけでもないだろう?』
含み笑うままに言うマーレ。それに釣られるように梨穂も形のいい唇に笑みを作り、頷く。
「なるほどそう言うこと……あっちのコンビを好きに暴れさせておいて、混乱した隙を利用して私たちで、と?」
『利用だなどと……酷いことを言うものだな。弟を使いつぶしてくれるつもりか?』
「それが発案者の言う事?」
梨穂とマーレ、それぞれの顔で同時に深まる笑み。水組の一人と一匹はそれと合わせて冗談と含み笑いを交わしていく。
『とりあえずはウェントとその契約者には好きに行動させて、我々は独自に、あるいはテラたちの漁夫の利をさらって戦闘経験と実績を重ねていく。これを基本とするつもりだ』
「要するに、あの子たちに宇津峰たちの目を向けさせたり、敵を削らせたりすると?」
『嫌だな。ウェント達の事は危なくなったら助けに入るさ。ただ使い捨てになんてもったいないだろ?』
そう言って梨穂とマーレの水組は、同時に笑みを浮かべる。
だが梨穂は含み笑いを切って、ため息を一つ。腰かけている椅子の背もたれに寄りかかる。
「けれど、気に入らないわね。竜族と契約を結ぶ者が増えるなんて……気に入らない」
むっつりと眉をひそめての一言。それにマーレは軽く鼻を鳴らして長い首を深く縦に振る。
『分かっている。オレだって現状のままを良しとするつもりは無い』
「へえ?」
反感を肯定するマーレ。その同調に梨穂は片眉を上げ、視線で先を促す。
『はっきりとオレの下に入るなら良しとして、そうでないならウェントとフラムも排除する。だがテラのヤツは別だ。確実に……片付ける』
虚空に長兄を幻視してか、壁を射抜くように睨むマーレ。その険しい目と唸り声の帯びた剣呑な意思に、梨穂は唇を薄く開く。
「それは私にも好都合ね。宇津峰とその契約者は打ち倒す……望むところよ」
『ああ。父上らに兄だと定められただけで、まとめ役を気取ってきたアイツだけは許さん』
そうして殺意さえ帯びた水組の少女と竜は、どちらからともなく頷き合う。
『しかしオレが言うのもなんだが、随分とテラの契約者を嫌っているじゃないか、同志梨穂?』
マーレは憎しみのままに育つ企てに笑みを浮かべ、その片棒を担う梨穂を見やる。
その暗い親しみを帯びた目に、梨穂は湧いてでた記憶に表情を険しく鋭利なものにする。
「ええ、大嫌いよ。いつもふざけて怠けてばかりのクセに、場を盛り上げては人の好意を集めて……」
左手を包むようにして手を組み、うつむき呟く梨穂。その口が動く度に左手にかかる圧力は増して、元々白い肌から痛々しいほどに血の気を追い出す。
「何の努力もしていないクセに、気まぐれで動いてるだけのクセに、なんであんなのが信頼されて、「特別」なのよ……」
下唇を噛みしめて、体を丸めるようにする梨穂。
そこから机を叩くと同時に、解き放たれたゴムさながらに身を起こして顔を上げる。
「しかも宇津峰は! アイツはッ! 私よりも早く契約して戦っていて……ッ!」
机の上で拳へと握り固まって行く手。それは心の内に生まれた波に揺られるように震えている。
「アイツは幻想界を知らずにいた私に隠れて、特別な使命を楽しんで! しかもそんなアイツに、助けられていて……こんな屈辱、許せるわけないッ!」
以前に悠華、いおりと共に幻想界へ迷い込んでしまった時の事。マーレに聞かされたその詳細に、梨穂は偏見と悪意とで飾った邪推を重ねる。
悪意ある推測の為に、再び荒波を立てる梨穂の心の海。
傷つけられた誇りから溢れだした憎悪の激流を露わにする相方を眺めて、水竜は前のヒレをすくめるように上下させる。
『おいおい。昂ぶった心は確かに我々の力の源だが、戦闘中でも無しに無暗に暴発させるな』
「……分かっているわよ」
相棒の言葉に梨穂は深い呼吸を一つ。今にも振り回しかねない右の拳を左手で包んで抑え直す。
そんな梨穂の様子を、水竜はもう一度満足気に首肯する。
激しい嵐か吹雪の如き感情と、それを理と利に合わせて抑える計算高さ。そうした梨穂の性質をマーレは好んでいた。
『とにかく……テラとフラム。その契約者たちは爆発力こそ侮れないものはあるが、総合力と安定性ではこちらの方が勝る。それは試してみて分かった確かなことだ。つまり……』
そして先日の戦いで分析した内容を語るマーレ。
「油断はできないけれど、勝ち筋は充分。一対一ならば問題無く倒せる、ということね」
梨穂はそんなパートナーに先回りして結論を被せる。
まさにどんぴしゃりと言わんとしていたことを言い当てる契約者に、マーレは唇を深く引いて再び頷く。
『ああその通りだ梨穂。奴らは少し状況を整えさえすればいつでも倒せる。今はせいぜい利用してやるとしよう』
「そうね。私たちが打ち倒すその時まではしっかりと働いてもらいましょう」
そう言って梨穂は長い髪を掻き上げ、パートナーの思い描く方針に同意する。
『今日の戦いで奴らもこちらを警戒した事は間違いないだろう。こちらに目を向けている内はウェントらを乱入させて、かく乱していけばいい。そして……』
「そして風のチームに目が向いた隙をついて私たちが動くと言うわけね」
再び先回りしての結論。それにマーレはにやりと笑い返して頷く。
『ああ。お前と契約を結ぶまでに、ヴォルスについてオレは独自に調べを進めている。こちらだけが握っているこの情報は、遅れを取った分を補って余りある成果をオレたちに与えてくれるだろう』
「へえ、それは楽しみね」
『ああ、テラとその契約者の吠え面も思うと余計にな……』
そう言って二人は、どちらからともなく含み笑いを溢し合う。




