脅威に当たって
薄暗い和室。
外に夜の気配がまだまだ色濃い時間帯に、けたたましい目覚ましの音が鳴り響く。
それを布団の内から飛び出した日焼け色の手が一叩きに止める。
「くぁ、あぁあ……」
大きなあくびと伸び。そうして掛け布団を押し退けて出てきたのは黒髪小麦肌の少女、宇津峰悠華。
「ふぁ……ぁふ」
「みそらぁめん」とプリントされたTシャツ姿の悠華は、寝ぼけ眼を擦りながら、あふれ出た眠気を噛み潰す。
そうして体を挟んで包んでいた布団から抜け出すと、よろつきながら畳敷きの床の上に立ち上がる。
「あぁーあ……せっかくの日曜だけんども、朝稽古に出ないと婆ちゃんに引きずり出されっからねぇ……」
自分を納得させるように一人呟いて、悠華はまだ温もりの残る布団を畳んで部屋の隅に除ける。
布団をまとめたその傍ら。座布団の上ではそれを寝床にしたテラが寝息を立てている。
獅子のたてがみを模した宝石に似た甲殻。それを始めとして子猫大の全身を覆うのは体毛でなく褐色の甲殻と鱗。
そんな硬質な肌を持つ小さなライオンもどきは、部屋の中の動きにまるで反応することなく丸まっている。
「やれやれ。ま、稽古しなきゃなんないのはアタシだけだしね」
寝息を乱さずのん気に眠るパートナーに、悠華は軽く肩をすくめる。
そしてオレンジの髪ゴムを片手に、襖をあけて部屋を後にする。
暗さの強い廊下を、悠華は右即頭部に髪をまとめながら歩を進める。
いつもの右サイドポニーを作った悠華は、あくびをさらにもう一つ。肩を回して体に残った眠気を解きほぐす。
そして庭に面した雨戸を滑らせて開き、日の出を待つ空の下に出ていく。
「すぅぅ……はぁぁ……」
サンダルを足につっかけて庭に立った悠華は、深く息を吸って、吐く。
肺で大気から。
足で大地から。
それぞれにエネルギーを吸い集めるような呼吸。
繰り返す深く静かな呼吸。悠華はそうして寄り集めた二つを身の内で練り上げつつ、腰を落とす。
右足で弧を描くように地を擦り、後に引いて半身に。同時に右拳を腰に添えて溜め。逆の左は刃の形に固め、緩やかに空を割って前に。
「ヤァッ!」
いつもの構えからの溌気。
そしてそれを引き金に小麦色の拳を腰の捻りに乗せて放つ。
「ハッ、アァアッ!!」
そこから立て続けに拳を引いて盾の様にしながらのローキック。そしてすかさず体全体を押し込むように肘鉄。
空気を打ち抜く打撃。さらに下段蹴りを繰り出しながら後退。両腕を回し振ってこの場に無い敵の攻撃を払い、牽制。
この場にいない何者かはその腕の動きに踏み込みを躊躇い足踏み。
その幻影へ向けて悠華は鋭い呼気と共に左拳を打ち出す。
だが幻影はその一打を払い流し跳躍。頭上を取る。
「リャ、アアッ!」
上を抜けて背後へ向かった敵へ、悠華は腕を上にかざしつつ振り返りざまの回し蹴りを見舞う。
だが今悠華の見ている幻影は振るった足を叩きさらに跳躍。
そして幻の敵は空中で身を翻しながら、小さな刃物を投げ放つ。
雨の様に降る幻のナイフ。悠華はその軌道からとっさに跳び退き逃れる。
着地したその場で構え直し、幻影の敵と対峙する悠華。
明確な仮想敵として悠華の目に浮かぶ青白い顔のレディピエロ。
その嘲笑と真っ向から向き合いながら、悠華は呼吸を整える。
直進、フェイント。どう挑んでもかわされ、あしらわれ、返り討ちにあう未来しか見えなず、悠華は冷や汗交じりに眉をひそめる。
「……ったく、こぉないだは良く切り抜けられたもんだぁね」
自分でイメージしたものながらまるで攻略の糸口の見えぬ相手に、悠華はぼやきながら拳を固める。
「おはよう早くから頑張ってるわね、宇津峰さん」
そこで不意に投げかけられる声。それに振り向けば、そこには長く艶やかな黒髪を結びまとめた、黒タートルネックにジーンズ姿の担任教師、大室いおりの姿があった。
「およ? おはようッスいおりちゃんセンセ。いやあ、昔っからやってるただの健康法ッスよぉー」
稽古で作っていた張り詰めた空気を解いて、悠華はいつもの軽く砕けた顔と口調でいおりに応える。
「準備運動みたいなものでそこまでやってるなら。朝ご飯が終わったら私の練習にも付き合ってもらおうかしら」
「うぇええ……いおりちゃんセンセの相手とか勘弁してくださいッスよぉ」
探るように教え子を見やるいおり。対して悠華はへらりと崩れた笑みで降参と言うように両手を挙げて見せる。
「やれやれ、もう少し熱心になってくれてもいいと思うのだけれど」
それにいおりは肩をすくめて、宇津峰流の道場家屋へ改めて足を向ける。
悠華はそれに手を振って、改めて拳を握り、構える。
「ん? いおりちゃんッ!?」
だがそこで襲ってきた違和感に、悠華は構えを放りだして振り返る。
「なんでッ!? いおりちゃんなんでぇッ!?」
いるはずの無い時間に道場を訪れた担任教師に、悠華は大口を開けて取り乱す。
「言わなかった? この前入門したのよ?」
「はぁああッ!?」
いおりの口からさらりと告げられた言葉。その衝撃の内容に、悠華はただ目を剥くばかりであった。
それから悠華は朝稽古を終えて汗を流すと、朝食の香りが漏れ出る居間への襖に手をかける。
「はよーごぜます、皆の衆。そして朝メシ」
挨拶同様勢い良く襖を滑らせる悠華。
「ああ、おはよう悠華」
『おはよう』
「ええ、朝食の準備は出来てるわよ」
居間で頷き迎える祖母の日南子。続いてテラといおりも笑みで悠華に答える。
「ところで婆ちゃんさぁ、なんでいおりちゃんセンセがこんな時間からウチにいるの」
朝の膳。今朝は厚揚げ豆腐。シジミとワカメの味噌汁に、根菜の漬物といった内容である。
それらの並ぶ席に着きながら、悠華は祖母に疑問をぶつける。
「先生に向かってその呼び方はなんだバカ者め!」
「あいたぁッ!?」
だが返って来たのは、言葉つかいを叱る言葉と拳骨一発。
ちゃぶ台を回り込んでのそれに、悠華は堪らず目じりに涙を滲ませて、鈍い音を響かせた頭を抱える。
「まぁまぁ、宇津峰先生。悠華さんが私を親しんでくれての呼び方ですし、これくらいで……」
「いけません! 大室先生の厚意はありがたいですが、それに甘えては孫は目上の方への最低限の礼すらないがしろにします!」
宥めに入ったいおりの言葉。それを日南子は真っ向から甘いと切り捨てる。
今まで許していた事さえ甘いと責めるような日南子に、いおりは続ける言葉も無くうなづくように頭を下げる。
「……それで、いお……じゃなくて、大室先生がこんな早くからどうして?」
叱られた呼び方を口に出しかけたところで日南子からの一睨み。
それを受けて悠華は首をすくめ、言葉半ばに飲み込み言い直す。
そうして改めた質問に、日南子は軽く鼻を鳴らして首を振る。
「お前には言ってなかったが、大室先生がウチに入門したからだ」
「いやいやいや!? おかしいじゃん! 他の門下生は誰も、森上師範代でも朝メシからウチに来てたことないじゃん!?」
他の門弟を引き合いに出して妙だと主張する悠華。そんな孫娘に、日南子は呆れたように鼻息を出す。
「悠華、分からんか?」
「いや、分かんないから聞いてんだけど」
顔を覗き込んでくる祖母に、悠華は首を竦めつつ答える。
「まったくアホ孫めが……」
すると日南子はため息を吐きつつ首を左右に。
「前の火曜日に起きた事と、今日これからの予定は?」
「は? いや火曜ってえとアイツとやり合って……」
ヒントとばかりにそれだけの言葉を残して、日南子は自分の朝食を並べた席へ戻る。
悠華はそれを目で追いながら、頭を抑えたまま首を捻る。
「で、今日はこれからみずきっちゃんも来て……ってまさか!?」
そこである閃きを得た悠華は、いおりの方へ顔を向ける。
「ええ。朝食が終わったら明松さんが来るまで、私の訓練も兼ねて鍛え合うわよ。まずはイメージトレーニングから」
「あ、あぁははぁ……」
嫌な予感が当たったとばかりに引きつった笑みを浮かべる悠華。
それをよそに、日南子といおりはそれぞれに箸を取る。
「さて、冷める前にいただくとしよう。しかし申し訳ありませんな、朝食の支度を手伝っていただいて」
「いえ、毎週ではないとはいえ、子どもたちと同じくお世話になり通しでは心苦しいですから」
そう言って頭を下げあう祖母と担任。そんな二人を前に、悠華は半ば呆然と目の前の食事に手を合わせた。
※ ※ ※
それから昼に近づき、日も高くなった頃。
白い道着姿の悠華は、畳敷の床に大の字に寝転んだ状態で、呼び鈴の音を聞く。
「みずきっちゃんかな? じゃ、アタシちょっくら行って来ますんで」
門からの呼び声に飛び起きた悠華は、これ幸いと自分から応対を買ってでる。
「分かったわ、いってらっしゃい」
同じく道着姿で汗を拭っていたいおりは、返事を聞く前から歩き出していた教え子に苦笑を浮かべてうなづく。
対する悠華は大の字に倒れていた疲労もどこへやら、つかの間の休息に足取りも軽く道場を出る。
道場部分の玄関を出て正面。庭を横切った砂利道の先にある門。それに向けて悠華はゆるゆるとした足取りで歩を進める。
そして門の横。そこにある小振りなドアを引いて、顔を出す。
「はいなぁ」
「こんにちは、悠ちゃん」
そこに立っていたのは予定通り、赤い眼鏡をかけた契約者仲間、明松瑞希であった。
癖のある黒髪を流して、運動を妨げないようにとしてか珍しいパンツスタイルの友人を、悠華は満面の笑みで迎える。
「いらっしゃぁい。テラやんといおりちゃんと待ってたよん」
そう言って悠華が瑞希を門の内側に通す。
すると突然に瑞希のかけた眼鏡が輝く。
『あ、に、さ、まぁああああッ!』
「うきゃぁああ!?」
歓喜の声と共に、レーザーの如く飛び出した赤。瑞希の眼鏡をゲートに現れたこの翼と角を持つ赤い子犬こそ、瑞希と契約を結んだ火竜フラムである。
「おおう、ハイテンションだねフラちん。最高にハイだねぇ」
赤い翼を広げて舞い上がったフラムを見上げて笑みをこぼす悠華。
「で、大丈夫みずきっちゃん?」
そして円を描いて飛びまわるフラムから視線を落とすと、庭に尻もちをついた瑞希へ手を差し伸べる。
「あ、ありがとう、悠ちゃん」
瑞希はレンズの奥で目を瞬かせながら手を取り、悠華の助けを受けて立ち上がる。
「しっかしメガネが法具ってのも不便だよね。さっきみたいなこともあるし、外れないし」
助け起こした瑞希へ、悠華は笑いながら自分の右手中指の指輪を外す真似をしてみせる。
不思議と指輪の下が汚れたりする事は無いが、風呂の時も寝る時も外れない契約の証。それは今も根を張っているかのように微動だにしない。
だが同じ状況に見舞われているはずの瑞希は尻を払いながら目をぱちくり。不思議そうに首を傾げる。
「え? 私の眼鏡、外せるよ?」
「え?」
その瑞希の一言に、今度は悠華が呆け面で首を傾けた。
「ほら、ね?」
そんな悠華の目の前で、瑞希は左から右へ顔を一撫で。手の過った後の顔には法具のはずの眼鏡は影も形も無かった。
「うえぇ!? ちょ、マぁジで!? どうやったの?」
素顔になった瑞希へ食いつくように詰め寄る悠華。
すると瑞希はその大きな目を戸惑いがちに瞬きして僅かに身を逃がす。
「えっと、私の場合はなんでか外せるようになってて。でも飛んでも跳ねても勝手に外れたりずれたりしないの。それにちょっと念じれば……」
その言葉の後で瑞希は僅かに息を止めて集中。すると赤い光が顔の前に二つの輪を中心にしたフレームを形作り、瞬く間に赤い眼鏡が装着される。
「こんな感じで、顔に直接呼び出せるようになってるの。レンズも汚れないし、眼鏡に関してはむしろいいことづくめ?」
「えぇーずぅるういぃー。外せて無くなりようがなくて手入れが要らないなんてずーるーいー!」
「そ、そんなこと言われてもぉ……」
ふざけ調子全開で友人の法具事情を羨む悠華。
それに瑞希はただ困り顔で返す言葉を探している。
「で、でも悠ちゃんそもそも眼鏡いらないよね? 私と同じ眼鏡型でも意味無いんじゃない?」
「あ、それもそっか」
そう瑞希の指摘した通り、自分にとって旨みが無い事に悠華は軽く額を叩く。
眼鏡を必要としない視力である悠華にとっては、着脱自在な伊達眼鏡が付くだけで、瑞希の場合と違ってまるで利点が無い。外れないとはいえ装着感の無い指輪の方がまだマシとさえ言える。
それに大きく頷いた悠華は、瑞希に寄せていた身を離すと、改めて道場の屋根を、その上を旋回するフラムを見上げる。
「さて、ランドドラゴンかもーん!」
『のわぁあああッ!?』
空を駆け巡る赤い点めがけて拳を突き出し、相方を召喚。小さなライオンもどきが弾ける橙の輝きを後に打ち上がる。
『兄様ぁああああッ!?』
『グワァーッ!?』
上昇するテラを見つけるや否やフラムが歓喜の声を上げて急降下。
その勢いのまま逃げ場ないテラの横腹を直撃。捕らえたその身ごと道場の庭にある茂みへ突っ込む。
「ほんじゃフラちん。心行くまでテラやんとの触れ合いを楽しんでくれ給へ」
「えっと……ほどほどにね、フラム」
茂みへ突っ込んだ相方へ向けて、悠華は軽く手を上げ、いおりの待つ道場へ。それを追いかけて瑞希も、冷や汗交じりに自制を求める言葉を残して歩き出す。
『兄様ッ! 兄様ぁッ!』
『ちょ、ま、アッー!?』
後に残された茂みからは、激しく兄を求める声と、抗いきれずに押し負けての叫びが上がった。




