不穏な気配
弾む音を響かせて宙を舞うサッカーボール。
太陽と重なったそれは刹那の静止の後、重力に引かれて落ちる。
「え、あ、え?」
その落下地点近くにいた白ビブスの瑞希は、ボールがグラウンドに弾んで跳ね転がり出したところで慌ててそれを追いかけ始める。
瑞希はどうにか足を伸ばして転がる白黒の球を捕まえてキープ。
そこからパスすべきか自分でも運ぶべきかで逡巡。
「もらった!」
「あう!?」
その迷いが命取りとなり、パスする相手を探した時には赤ビブスの女子にボールが奪われる。
「ところがインタラプッとぉ」
「な!?」
赤ビブスの前に割り込む、ハーフパンツの体操着から伸びる日に焼けた足。刈り取るような鋭いそれがボールを瞬く間に奪い返す。
取り返したボールをドリブルしながら、白ビブスの悠華がゴールに向かって走る。
それを止めようと集まってくる相手チームの二人。
敵も味方も積極的に動いているのは運動に自信のある三、四人ばかり。他は怪我や接触やらを嫌がってか、適当に距離をとって流し走っている。
積極的なものとそうでないもの。フィールドに散らばる面々の配置を悠華はドリブルのまま見回す。
その間にもボールを奪おうと迫る相手チーム。
「ヘイパァスっとぉ」
だが悠華は突破を試みる素振りすら見せずロングパス。赤ビブス達の頭上を抜いてボールをゴール前に向けて蹴り放る。
放物線を描く白黒の球。その先に長い黒髪を縛り纏めた梨穂が滑り込み、足側面でトラップ。
足でボールをしっかりと捉えると、素早く身を翻してゴールへ。
マークに着いていた相手チームの女子を抜き去り、そのままボールを相手のゴールへシュート。
「オゥ! エキサイティンッ!」
梨穂に蹴り出されたボールを受けて揺れるゴールネット。それを遠目に眺めながら悠華は感嘆の声を上げる。
その一方でゴールシュートを決めた梨穂は、シュートを放ったその場で身を翻し、誇らしげに豊かな胸を張る。
髪をまとめていなければ、その自慢の鴉塗れ羽の髪を存分に煌めかせているでいるであろう梨穂。
そんな誇らしげにポーズを決める委員長の姿を眺めて、悠華は軽く肩をすくめてスタートポジションへ向かう。
「悠ちゃんごめんね」
左隣へ歩み寄り、申し訳なさそうに俯く瑞希。悠華はあまりに深刻に詫びる友だちの肩に手を乗せて、軽く弾ませる。
「なんのなぁんの、気ぃにしなさんなってぇ。友だちのフォローは当然っしょお?」
そんな軽い言葉と共に、悠華はニッと瑞希へ笑いかける。その悠華の笑みに釣られるように瑞希も唇を緩ませて頷く。
「うん、そうだね。じゃあ今度は私が悠ちゃんをカバーしないと!」
「そうそう。アタシをゆっくり休ませてちょうだいな?」
「頑張るけど、悠ちゃんが立ったまま寝られるほどはムリだからね?」
「ガボーンッ!? なんかみずきっちゃんの中で、アタシがスゴい器用な存在になってはるぅ!?」
気を取り直した瑞希と悠華は冗談を交わし、笑い合う。
そうして互いの手のひらを重ね合わせると、程近いポジションに陣取る。
中央に戻ったボールを中心に、梨穂を含む両チームの積極組が集まる。
無論悠華はその類では無いので、ボールを奪い合おうと身構えている面々を遠くに眺めてあくびを一つ。
そこで不意に襲ってきた粘ついた気配に、悠華はあくびを呑みこんで辺りを見回す。
「……また? なぁんだってのかねぇ」
警戒の視線をグラウンドへ巡らせる悠華。
だがやはりその目に映るのはサッカーの授業を受ける女子たち。そして遠くにソフトボールの授業を受ける男子たちのみ。怪しい視線の出所らしいモノは何も見つからなかった。
「ちぃとばかし過敏になってるのかねぇ」
空振りに終わった探知に悠華は気だるげに首をひねる。
「どうしたの悠ちゃん?」
そこへ瑞希が心配そうに歩み寄る。その気づかう質問に、悠華は軽く肩をすくめる。
「んー……なんか妙な視線を感じてさ、こう、ねっとりとしていてしつこい感じの……」
「それってまさか」
悠華の感じた異常を聞いて、瑞希は眼鏡奥の鋭い目を一方へ。
その先には白球を投げ、打ち、追いかける男子たちの姿があった。
「ああ無い無い。それは無いってぇ。それにどっちかってぇと、敵意? みたいな感じだし」
「じゃあ」
悠華が瑞希の早とちりを止めると、赤縁の眼鏡の奥の目はサッカーフィールドの中心、悠華へ度々食ってかかる梨穂へ向ける。
「……違う、よね」
だが悠華に注意を払う隙間もなく、授業で追うべきボールに集中している梨穂。その姿に瑞希はそう結論付けて、悠華もそれを首肯する。
「睨んだらかかってくるからねぇいいんちょは」
肩をすくめ、冗談めかして言う悠華。
するとフィールドの中央でホイッスルの音が響く。
そして再び瑞希をめがけて飛んでくるボール。
「わ、わわっ、またっ!?」
不意に飛んできたボールに反応できず、弾んでいくそれを追いかけて瑞希が走る。
ボールを追う瑞希を追いかけて、悠華もまた友のフォローに入る為にその足を踏み出す。
唇の綻んだその顔からは、不審な気配への警戒はすっかり抜け落ちていた。
そうして怪しい気配を気のせいと意識外へ追いやり、授業を終えて放課後。
校門を出た悠華は瑞希と連れたって街を歩いていた。
「今日も一日疲れた疲れたぁ」
カバンを持つ手ごと肩にかけ、首を捻る悠華。
その気だるげなセリフに、左隣に並んだ瑞希が唇を小さく緩める。
「それって寝過ぎなんじゃないの?」
「そんなバカな!? まだ寝たいのに朝稽古で起こされて寝不足なくらいですだよ!?」
授業のほとんどを自称睡眠学習で流した事への突っ込みに、悠華は大きくのけ反って見せる。
わざとらしく大げさな身ぶり。
そんないつものおふざけ調子に瑞希は小さく声を出して笑う。
「あ、みずきっちゃん冗談だと思ってるっしょッ? 昨日は特にへとへとになるまでしごかれて疲れてたんよ!? 気持ち的には」
「あはは、それじゃあ体は元気って事になるじゃない」
「し、しまった! ……ああ、いやいや病は気からと言うようにだね?」
おどけ調子に談笑しながら歩く悠華と瑞希。
「ふふふ、しかし今日はアタシも夕方の稽古は休み。というわけでちょいと寄ってこうか?」
「うん。そうしよう」
やがて二人は小さな喫茶店の前に差し掛かると、「サテライトリンク」と店名の綴られた白いドアを開ける。
「いらっしゃいませ」
透明感のあるドアベル。来客を告げるそれを受けて、カウンターから低い女性の声が続く。
「どもっす。ハルさん」
「こんにちは」
バレーボール選手としても通じる背丈のウェイタースーツの女性。そのショートヘアの似合うシャープな顔立ちへ悠華と瑞希は朗らかに挨拶する。
「ん、いらっしゃい」
カウンターの女性、高月遥は言葉短く悠華たちを迎える。
そうして遥がおしぼりとお冷やを出そうと動くと、二人は空いている二人がけのテーブルに向かう。
窓際のテーブルに向かい合って座る悠華たち。二人が席に腰を下ろすと、僅かな間を置いて遥がおしぼりとお冷やを持ってくる。
「注文は?」
またも短く、しかし決して冷たくはない声音。そんなどこか気安さのある注文取りに、悠華と瑞希はゆったりと遥の顔を見上げる。
「アタシはバナナパンケーキとレモンティーね」
「フルーツクレープとミルクティーをお願いします」
「分かった。待ってて」
遥は二人の注文を書き留め頷くと、カウンター奥へ戻っていく。
「いやあカァッコいいよね、ハルさんって」
「あこがれちゃうよね」
颯爽と歩くウェイタースタイルの長身を眺めて、二人は口を揃えて感嘆の息を吐く。
無愛想とも取られかねない程口数は少ないが、逆にそれがいいと評判のサテライトリンクの奥さん。その背中は悠華たちの憧憬の目を浴びながらカウンター奥に消える。
「学校帰りに若い夫婦が切り盛りする喫茶店で一休み。婆ちゃんの稽古も無くて今日の放課後は最高だあねえ」
背もたれに体重を預けて、だらりと緩む悠華。
そんな悠華の思いきり寛いだ様子に、瑞希は溢れる笑みを手で抑える。
「日南子さんから逃げてきた時にも似たような事言ってなかった? 勝利の褒美とかなんとかって」
「やっははん。それはそれで、今日は今日で、ってぇヤツですたい。逃げんでいい堂々とした解放感はたまらんぜよ」
言いながら悠華は椅子に深くもたれかかって、後ろ頭に手を組む。
その正面で瑞希は微笑を抑える手を外す。
「日南子さんとの追いかけっこなら試合みたいなものだし、分かる気がする」
「でしょお? ま、上乗せ抜きにしても、ココのお茶と料理はおいしゅうございますがねぇ」
「ありがとう」
談笑する二人に割って入る、礼の言葉とバンケーキとクレープ。
菓子を出す手と少年のような声に目を向けると、そこには白いコックスーツを着た小柄な男がいた。
サテライトリンクの調理担当である高月忍。瑞希とほぼ同じ背丈と幼げな顔だち。そこからは十人が十人想像もできないだろうが、歳は二十七。遥の夫である。
「ドモですおシノさん」
「ありがとうございます」
作った本人自身の配膳に、悠華たちは座ったままながら頭を下げる。
「それじゃ二人とも、ゆっくりしていってよ」
商売というよりは親しいお兄さんといった人好きのする笑みを浮かべて、忍は奥の厨房へ戻って行く。
悠華と瑞希はそれを手を振り見送ると、銀色に輝くナイフとフォークに手を付ける。
「さて、ほんじゃいただくとしましょうか」
「だね」
クリームのかかったパンケーキと、何種ものフルーツを包んだクレープ。それぞれの前に並んだ菓子料理に、二人は同時にナイフを入れて口に運ぶ。
「ほふぅ……美味美味ぃ」
「おいしい」
口の中に広がる果物の風味を帯びた甘味に、悠華と瑞希は揃って頬をとろけさせる。
「いおりちゃんの手作り和菓子も良かったけど、プロのおシノさんの料理はやっぱええわあ」
そう言って二口目を含み、とろけて落ちかけた頬を抑える悠華。
「先生の? 悠ちゃん、先生とそんなに仲良しだったの?」
口の中のクレープを飲み込んでからの質問。それに悠華もまた口を満たす甘味を飲み込んで頷く。
「まあね。ちょいと授業以外で教わることがあってさ」
「ふぅん……」
不意に面白くなさそうに唇を尖らせて目を伏せる瑞希。しかしすぐに何かを思い出したように顔を上げる。
「ねえ。先生って、何か変わった生き物飼ってたりしなかった?」
「ほむ? 変わった生き物って?」
「なんて言うか……とにかく普通じゃないような、そんな感じの……」
肝心要の所の曖昧な要領を得ない説明。
悠華はそれに傾げる首を深くする。
「んー……生き物って言っても、いおりちゃんの家アパートだったから飼えないと思うけど」
「そうなんだ」
答えを返すと、瑞希は小さくため息を吐く。
悠華はそれを眺めながら、バナナ果肉混じりのパンケーキを一切れ口に運ぶ。
「なに? みずきっちゃんヘビとか鵜とか拾ったりしたん?」
「いや、そういうのじゃ無いんだけど……」
やはり歯切れが悪い瑞希の返事。
だが悠華はそれを流して、また切り分けたパンケーキを口に入れる。
「なんだか分からんけど、アタシに相談する気になったら言ってよ」
話しにくい、話せない理由があるらしいと察してか、悠華はこの場で深く追及せずに話を切る。
「うん、大丈夫。だけど、ありがとう」
「別にまぁだなんもしてないけどねぇ。ま、出来ればアタシがどうにもできなくなる前にしてちょおよぉー?」
真面目に礼を言う瑞希に対し、悠華はふざけ調子に言葉を返す。
そんないつも通りの悠華に瑞希は堪え切れない笑みを溢す。
「うん。そうする」
そうして和やかな雰囲気に戻った二人は、談笑を交わしながらお茶を進める。
やがてそれぞれの注文した菓子を平らげてお茶を飲み干した二人は、会計の為にレジ前に立つ。
「いやあ、今日もおいしかったッスわぁ」
「ホントに。ごちそうさまでした」
代金を払いながら、口を幸せにしてくれた一品とそれを振る舞ってくれた店への礼を口にする二人。
「ありがとう」
「またいつでもおいでよ」
釣りを出しながらの遥と、奥から顔をのぞかせる忍。
「婆ちゃんに捕獲されなければもっと来たいんスけどね」
笑顔の高月夫妻に手を振りながら笑い返す悠華。その隣で瑞希が頷くと、正面で遥が笑みを深める。
「ほんじゃ、ごちそうさんした」
悠華は改めて店主夫婦へ会釈をすると、出口へ足を向ける。
同時に響くドアベル。
「あ、いらっしゃいませ」
遥が迎えの声を投げかけた先。開いたドアの傍に一人の男が立っている。
中肉中背の、くたびれた服を着た男。
ドアを開けただけでその先に踏み出そうとしないその妙な様子に、悠華は眉をひそめて首を捻る。
すると男の口が横へ裂けるように拡がり、その端から赤い炎がちらつき覗いた。




