夢の終わりに
クラレットは生きている。
夢で見た自分が死んだ日、彼女は自分の代わりとしてアルミアをあの場所へ向かわせた。
夢の中とは異なり、こちらのアルミアはクラレットに虐められている、なんて噂を流すような事はしていなかったから、クラレットが近づく事はそこまで不自然ではない。カミルもクラレットにアルミアを虐めていないかと問い質すような事もなかった。
夢との違いは思い返せばいくつもあった。
カミルはアルミアと恋人のような距離感でなど接していないし、アルミアがクラレットの悪評を流すような事もしていない。
……ただ、どうやら過去に会った時に何らかの気に食わない事を言ってしまったらしく、クラレットの事を苦手だと言ってはいるようだけど。
生憎クラレットの記憶にはないし、心当たりのないうちに謝るつもりはなかった。
アルミアが勝手に苦手に思っただけで、その発言が他からすればなんて事のないものである可能性もある。
アルミア本人から恨み言のように言われたならば、まぁ、もしかしたら申し訳なかったな、と思うかもしれないけれどそうまでされてはいないので、クラレットは恐らく性格が合わないだけではないかと思っている。
謝罪を要求されたなら一考の余地はあるけれど、そうじゃないうちからクラレットがアルミアに謝罪するつもりはない。
そんなスタンスだというのに、こちらの頼みごとを聞き入れたというあたりから、多分苦手に思ってはいても死ぬほど嫌われてるとかではないのかしら……? とクラレットは思っている。
仮にアルミアがクラレットの事を嫌っていなかったとしても、クラレットはアルミアを嫌っている自覚があるのだが。
夢の中の出来事を思い出すと、好きになれる要素がない。
あれは夢だと思っても、心当たりのない過去の事で苦手だと言うような相手だ。
仲良くなれる要素があるか……となるとまた別の話。親戚というのもあって付き合いは最低限、というのがクラレットの正直な気持ちである。
クラレットの代わりにカミルのところへ向かわせたアルミアがもし死んだのであれば、クラレットももしかしたら後悔したかもしれないし、心を痛めたかもしれない。
けれどもアルミアは死んだ、とは言われていない。
ただ、カミルの従者と駆け落ちしたという噂が流れた。
アルミアは帰ってこなかった。
クラレットの代理で行かせたのだから、戻って来たならどういう用事だったか、だとか代わりに殿下と一緒に出掛けてきた、とか。
そういう話を聞く事になるかもしれない、とは思っていたけれど、アルミアは戻ってこなかった。
学園が休みの日だ。
授業が始まる前に、とか放課後とかではない。
アルミアが帰ってきていない、という話を聞いたのはクラレットが夢の中で死んだ日の翌日である。
昨日の時点で帰ってこないアルミアは、もしかしたら誘拐されたのではないか、と言われていた。
捜索もされているようではあるが、そこで、どうやらカミルの従者と駆け落ちしたと言う話が出たらしいのだ。
何が起きたのかクラレットにはわからなかった。
事前に打ち合わせをしていたとか、そういう事は断じてないだろう。
駆け落ちをするにしても、あまりにも突発的。
ロクな準備もしないままどこぞへ消えた二人。行方は杳としてしれない。
朝に警備隊から連絡が来て、アルミアについて聞かれたけれどクラレットが答えられる事はほとんどなかった。
準備を終えて学園に行く予定だったけれど、何が起きているのかわからず不安でクラレットはその日思わず休む事にした。
もしカミルが夢の中と同じようにクラレットの事を殺そうとしていたのなら、アルミアが来た事で計画が台無しになったと思うかもしれない。
どうしてこなかったのか、と問い詰められるのも恐ろしい。
だからこそ、アルミアに代理を頼んだ後クラレットはカミルの所に手紙を届けるように使用人に頼んでおいた。
体調が優れず行けそうにない。申し訳ない、というような内容である。
アルミアよりも先に手紙が届けばカミルも計画を変更するかもしれない……なんて思ったから、その手紙が届くのは待ち合わせの時刻から少し遅れた頃だったが、体調不良で手紙を出すのが遅れてしまったとか後から言い訳ができる範囲だ。
実際その日の夜にカミルからの手紙が届けられた。
無理はしないでゆっくり休むように――端的に言えばそういった内容だった。
決して来なかったことを問い詰められるようなものではなかった。
ただ、手紙にはそんな当たり障りのない事しか書かれていなかったので、カミルのところにアルミアが行った後の事などは記されていなかった。
そして翌朝に警備隊がやって来たので、クラレットとしては何が起きているのかわかるはずもない。
夢の中でクラレットは殺されたけど、同じ日に代理でアルミアを向かわせたらカミルに仕えている従者と駆け落ちしたらしい、なんて言われたのだ。
一体何があったのかという話だ。
死なずに済んだとはいえ、あの夢は自分が死んだところで終わっている。故にこの先何が起きるかは当然知る由もない。
何がなんだかわからないまま、クラレットは結局三日程学園を休んだ。
そして四日目に登校してみれば、カミルも欠席しているらしく会う事はなかった。
アルミアが駆け落ちしたと言われている相手がカミルの従者なので、情報を集めるにしてもクラレットよりはカミルの方に話を聞く比重が傾くのは当然であろう。
アルミアと従者――名前は確か……ファデル、だったか――二人が親密であったか、というのもそもそも周囲は知らなかった。
アルミアがカミルと楽しそうに話をしている光景を見たことがある者はいると思うが、従者とアルミアが話をしているのを見たことがあると答えられる者はいないはずだ。クラレットも記憶にない。
荷物もロクに持たずにいなくなっている事で、事件性も疑われたがしかし何者かが二人を攫ったと考えるのも難しい。
ファデルがカミルに間違われてアルミアと共に誘拐されるはずだった、というのならまだしもそういった物騒な出来事にカミルは遭遇していない。遭遇していたらそもそも行けなかった事に対する謝罪の手紙に呑気に返信などできるはずがないからだ。
アルミアがあの場所に行った後で、一体何があったのか。
鍵はそこにあるような気もしたけれど、もしその時は何事もなくお互いがそれぞれ城や屋敷に戻ろうとしていたのなら。
アルミアとファデルがその後一度戻ってから駆け落ちした、という事になる。
アルミアは戻らずにどこかで待ち合わせていた可能性もあるけれど、カミルは城に戻る直前でファデルが用があると言って離れたと証言したらしい。
既に城に入る直前であった事から他の者たちの目があったのでそこでファデルがカミルと別れてもカミルが危険にさらされる事はないと判断して離れたのだろう。
既に噂が流れていて、どれが本当なのかわからない内容が密かに飛び交っていた。
友人たちからクラレットにも聞かれたけれど、クラレットとて知ってる内容はほとんどない。なので困ったように曖昧に首を傾げるので精一杯だった。
クラレットが学園を休んでいた三日間、カミルは学園に通っていたようだけど、クラレットと入れ替わるように今度はカミルが学園を休んだ。
侯爵令嬢と王子の従者との駆け落ちらしいので、他に何か情報がないか、ファデルと最後にいたであろうカミルから話を聞くというのは当然の流れと言える。
最初の三日間は恐らく他の可能性も考えられていたのだとは思うけれど、誘拐であるなら身代金を要求する連絡が来るだろうし、けれどもそんなものはどこにも届かなかった。
ファデルとアルミアがひそやかに逢瀬をしていたとして、ならず者に襲われたと仮定したとしても、カミルの護衛も兼ねているのがファデルだ。
そう簡単にやられるとも考えにくい。
目ぼしい情報は学園で出る事もなく、周囲は様々な噂をしていたけれど。
真相は闇の中だ。
そうしてあっという間に次の休みの日がやって来た。
先触れもなくカミルがやって来た、と報せを持ってきた侍女に急いで支度をして迎えますと返す。
先触れを出す事すら忘れてしまう程の状況だったのか、それとも事件に何らかの進展があったのか……
いや、そもそもクラレットが体調を崩したという連絡から既に一週間が経過したのだ。
単なる様子見なのかもしれない。
もしくは……あの夢のように自分を殺すつもりがまだカミルにあるのかも、なんて物騒で最悪な想像を浮かべてみる。
もっとも、ここでカミルがクラレットを殺すというのは可能性としてはとても低い。
何かあれば使用人たちが大勢いる状態なのだから、カミルがそんな凶行に及べばすぐさま取り押さえられる事になる。致命傷さえ受けなければ……そこまで考えてクラレットはそっと恐ろしい想像を頭を軽く振る事で振り払った。
そうしてカミルを出迎えてみれば、彼はどこか憔悴した様子であった。
あの従者は孤児であったとクラレットも聞いてはいる。だが王子の従者として、護衛として傍に控えるのであれば、と形だけでもと伯爵家に養子として迎えられていたはずだ。
跡取りにはなれない、ただ名前だけを借りているようなもの。
それが、侯爵令嬢アルミアと駆け落ちをしたとなれば。
伯爵家にすべての責任が降りかかるはずもないが、しかしそれでも一切責任を取らないわけにもいかないのだろう。それに恐らくはカミルにも何らかの責を問われたはずだ。
責、というよりはやはり見た目が多少似ているといえど、孤児など従者に据えるべきではなかったなどの今更すぎる説教というのが正しい表現かもしれない。
カミルも予想していなかったのか、少し見ない間に随分と疲れ果てた様子だった。
室内に使用人はいない。けれどもドアは開けている。部屋の外で待機している使用人たちの事をカミルは把握できているのかも微妙に思えてくる。
顔色が悪い。
わざわざそんな状態で来なくても……と思ってしまったクラレットは、ともあれ何の用で訪れたのかを聞こうとした。
「クラレット……」
だがそれより先にカミルの方が口を開く。消え入りそうな声で名を呼ばれ、クラレットは本当に自分の名が呼ばれたのか自信がなかった。名前を呼ばれたはずだけど、別の言葉を紡いだ可能性もある。それくらい、聞き取りにくい小声だった。
「カミル様? 本日は一体……えっ!?」
「すまない……すまなかったクラレット……」
とりあえずそちらにおかけになって、なんて言う前にカミルはクラレットへ近づいて、そうして抱き着いた。
抱き着かれた、と言うが実際は縋りつかれたという方が正しい。
クラレットにしがみつく前にバランスを崩して倒れそうになったカミルは、そのまま抱き着いた事でクラレットの腹のあたりに顔を埋めるようにしてただひらすらに謝罪の言葉を繰り返している。
本来ならば抱きしめられたならカミルの方が背が高いので、むしろ自分の顔がカミルの胸のあたりにくるのだが膝立ち状態で抱き着いてきているためクラレットとしてもどうしたものかと困惑する。
婚約者というよりは、迷子になった幼子がやっと見つけた母親に縋るような……といった風なのでとりあえずクラレットはどうしたらいいのかしら……などと思いながらも、とりあえずカミルの頭を優しく撫でた。
そうする事でますますカミルの懺悔のような言葉が出てくるのだけれど、だからといって「お黙りなさいませ」なんて言って叩くわけにもいかない。
大声を出して助けを求めれば、部屋の外にいる使用人が駆けつけてくる事はわかっている。
けれども、そうするとこの状態のカミルを目撃する事になる。
使用人も困るだろう。一体どういう状況なのかさっぱりわからないわけだし。
あと多分見られたらそれはそれで後々気恥ずかしいとか困るかもしれないわ……と思ってしまったのある。
カミルの手が不自然に動いて本来触れてはならぬ場所を触り始めるだとか、隠し持っている武器を取り出すだとかしたのならクラレットも遠慮も何もなく抵抗できるのだが、カミルはひたすらクラレットにしがみつくように抱き着いたまま懺悔を繰り返している。
時折零れる言葉を拾い上げて内容をまとめると、クラレットが見た夢の内容と重なる部分がいくつもあった。
殺した事を後悔しているとか、本当に愛していたのはきみだけだった、とか。
アルミアを信じた自分が愚かだったのだと、いつの間にやら泣いた状態で言われて、クラレットはますます困惑する。
(えぇ? だってあれ、夢よね?
え? 夢じゃない? やっぱり時間を遡ったとかそういう……?
でもどうやって? 心当たりなんてないもの、未来を夢で見たとか言われた方が納得できるわ。でもカミル様がわざわざ嘘を言うためにやって来るとは思えないし……
え、じゃあやっぱりあれは実際にあった出来事?
まぁ、じゃあ殺されたのね。わたくし)
予知夢を見たのだと思っていた。だからいずれ殺される未来を回避しようと思っていた。
回避して生き延びたクラレットは、だからあれは悪い夢だったのだと思う事にして今後の事を考えていたのに。
カミルの言葉が嘘だとは思えないし、王家の秘宝がどうだとか言っていたところから、時を遡った方法はなんとなく理解できた。
秘宝を使った時にクラレットはとっくに死んだ後だったのでむしろどうして自分にまで以前の記憶が残されているのか、さっぱりだが。
考えても仕方のない事は早々に放り投げて、カミルの言葉に相槌を打って先を促す。
アルミアにまんまと絆されてクラレットを殺した事を懺悔しているというのは理解できた。
夢だと思っていたのが夢じゃなかったという事に驚くけれど。
「カミル様」
「クラレット……」
「怖い夢を見たのですね。大丈夫ですよ。わたくしはちゃんとここにおりますわ」
優しく、宥めるように頭を撫でる。
そうして安心させるように言えば、カミルは何を言われたのかわからない、とばかりにクラレットを見上げ瞳を瞬かせた。
夢なんかじゃ……と否定しかけたカミルに、クラレットは殊更ゆっくりとした口調で穏やかに、それこそ本当に幼子を宥めるかのように言葉を紡いでいく。
大丈夫。
大丈夫ですからね。
悪い夢です。
なんにも問題なんてないんですよ。
だって今そんな事は起きていないでしょう?
そんな風にとにかく夢であると言い聞かせ続けた。
実際クラレットからすれば時を遡ったという実感はない。悪い夢を見たという方が近いしそう思っている。
確かにあまりにもリアルな夢だったからあんな事になるならなんとか回避しなければ……と思っていたけれど、実際夢の内容と同じように誰も行動していなかった。
当然だ。
あの夢が時間を巻き戻す前にあった事ならば、失敗を繰り返さないよう皆が皆違う行動を取る。
カミルはクラレットとの仲をより親密に築き上げていこうとしていたし、アルミアは意欲的に学んでいた。
そしてクラレットもまた、自身を大切に扱おうとしてくるカミルと以前よりもじっくりと関わっていた。
大きな変化を誰もがしたわけではない。どれも些細な変化だ。
だがその変化がいくつも発生した事で大きく結末が異なった。
クラレットはそう認識している。
カミルが時を遡った事を懺悔しているのは、夢の中でクラレットが殺された日の誘いをクラレットが回避したから、それでクラレットにも前回の記憶があると理解したからか、とクラレットは内心で納得した。
確かに憶えている。アルミアの嘘を信じてクラレットを信じてくれなくなってしまったカミルの事をクラレットは悲しく思っていたけれど、今は裏切っていないのだ。
もっと、生々しいくらいにくっきりはっきり夢だと思っていた内容がクラレットの中で根付いていたのであったなら、夢であっても許すまじ……! となったかもしれない。
だが、夢だと思っていたから前回の事と言われてもすぐに「はいそうですか」とは言えないのだ。
だからこそクラレットは前回の記憶が自分にもあるだなんてカミルに告げるつもりはなかった。
何を言われているかはわからないけれど、たまたま行かなかっただけですよ、とばかりに振舞う事にしたのである。
「前の、と言われてもわたくしにはよくわからないのですが……
その、季節の変わり目でちょっとだけ体調を崩してしまって。無理をして行って、もしカミル様に風邪をうつしてしまうような事になれば……と思ったからこそ代理としてアルミアに頼んだだけですのよ……?」
雨水が大地に染みこむように優しく宥めた結果、カミルはどこか呆けたようにクラレットを見上げたままで。
「風邪……?」
と、まるで何か知らない言葉を告げられたみたいにその言葉を口の中で転がした。
前回の事を思い返す。
確かに以前はアルミアと結ばれたくて、そしてクラレットがアルミアを幼い頃から虐げるような性格の悪い女だと思い込まされて、邪魔に思っていた。排除しようと目論んで呼び出して、その時のクラレットの様子はどうだっただろうか……?
言われてみれば、あまり調子が良いようには見えなかったかもしれない……
あの時のカミルとクラレットの仲はお世辞でも良好とは言えないものだった。
クラレットもカミルとの仲をなんとかしようと考えていたと考えられる。
であれば、普段は遠ざけようとしていたカミルが珍しくクラレットと会おうとしていたのだ。
体調が多少悪くてもこの機会を逃してはならない、と思って少しばかりの無理をしても、あの場所に現れたのだとしたら……?
優しく微笑むクラレットを見上げたまま、カミルはそんな風に考え始めていた。
(そうか、だからあの時ロクな抵抗もできずに……)
もっと体調が良ければあの時だってもう少し抵抗をしていたかもしれない。
(そう、だったのか……)
実際は違う。
普通に現状をどうにかしようとしたからこそクラレットはあの場に呼び出されて行ったに過ぎない。
今回行かなかった理由の体調不良など、取ってつけたものでしかない。行けなくなったとアルミアに語った嘘がもしカミルに伝えられていたのなら、と思ったがこの反応からするとカミルは知らないのだろう。
だからカミルはそんなクラレットの嘘に気づく事なくすんなりと信じてしまった。
前回の事を夢として認識しているクラレットもまた、確かにカミルとの仲があまりよろしくない状況下なら、話し合える機会を逃す事はしないだろうと思う。
多少の体調不良でその機会をなくすよりかは……と考えて、行動に移るだろう。
けれども別に今回に限ってクラレットは体調不良になどなってはいなかった。
あくまでも方便である。
元気いっぱい何にも問題がないのにカミルの呼び出しを断ったとなれば二人の仲に亀裂が生じかねない。だから体調不良なんてのは、口から出まかせである。
その体調不良が嘘ではないとばかりに学園を休んだりもして説得力を持たせはしたが。
だからこそクラレットの嘘をカミルは見抜けなかったのかもしれない。
それでなくとも前回の事がカミルの中で大きな罪悪感として存在している。であればその罪悪感で、クラレットの些細な嘘など見抜く事ができなくても。
カミルにとっては仕方のない事だった。
クラレットの体調不良の言葉を信じる事が、カミルにとって精神を摩耗しない唯一の選択肢であったとも言える。
前の記憶がありながらクラレットがカミルの言葉をただの夢、と慰めたのであれば、その理由がカミルには理解できない。愛、なんて優しいものではないだろう。であれば自分の今後はどうなるのか……そう、一瞬の間によぎってしまったのだ。
だからこそカミルはそこから目を逸らすように、ただ優しく慰めてくるクラレットに縋るしかなかった。
「とはいえ、その後アルミアが駆け落ちをするとはわたくしも予想外で驚いておりますの」
「あ、あぁ……」
かすかに視線を逸らそうとした事を、クラレットは気付いただろうか。
そんな風に後ろめたさを覚えながら、カミルはそれでも何とか声を出した。
アルミアは駆け落ちしたわけじゃない事は、カミルが一番わかっている。
死体の処理は従者であるファデルに任せるつもりだった。
それこそ前回のクラレットのように。
だが、まさか彼が従者の立場を辞してアルミアと共に心中すると言い出すなど思ってもいなかった。
あの時はクラレットもまた前の記憶を持っていると思ったからこそカミルはその事実を恐れた。やり直してアルミアとの距離感を間違えず、クラレットと今度こそは間違えないように関係を築いていこうと思っていても、それはクラレットが前の事を憶えていない事が前提だった。
だが憶えているのなら、裏切った挙句自分を殺した相手とやり直せるはずもない。
そう考えて恐怖し、焦っていたところでファデルがアルミアとの心中を言い出したのだ。既にアルミアは死んでいる。心中とは少し違うかもしれないが、しかしファデルはアルミアと共に在る事を望んだ。
ファデルがアルミアを想っていた事などカミルは知らなかった。アルミアがもう少しファデルに対して何らかの反応をしていたのならカミルも気付けたかもしれないが、アルミアの態度を見る限りファデルの一方的な想いだったのかもしれない。
聞こうにも既に当事者はいない。
心中した、と言えないのは知っていたのなら何故言わなかったのか、と追及される事を恐れてだ。
前とは別の罪を抱える形になってしまったが、それでももうやり直しはできない。
あの秘宝に力が復活するまでにどれほどの時間がかかるかもわからないのだ。であれば秘宝に期待はもうできない。
前とは違う展開。
次のやり直しはもう不可能。
であれば、ここから先はひたすらに進むしかない。
物憂げにアルミアの事を心配しているらしいクラレットに、だからこそカミルも、
「私もファデルがまさか……と驚いているんだ……」
そう言うので精一杯だった。
「カミル様。カミル様が先程言っていた前、でもあの二人はそのような関係だったのですか?」
「い、いや。違った。むしろそんな様子も何もなかったよ」
「そうですの……」
そうだ。前回はただひたすらにアルミアは王子妃として相応しくなろうと励んでいた。
けれども実力が足りず、周囲からクラレットと比較され続ける日々に心が折れていた。
そんな中でファデルが密かに支えていた、というわけでもなかった。
カミルと結ばれるはずのアルミアだからこそ、ファデルが手を出さないようにしていた、と考えてもけれどやり直しを決めた時には既にカミルの心はアルミアから離れていた。
(……いや、けれどアルミアの心が自分から離れていたわけではなかった)
だから、ファデルは何もできなかった……?
考えたところでやはり答えはわかりそうにない。
真実を知りたくともアルミアは死に、ファデルもまた死を選んだ。
「では、やはり悪い夢だったのでしょうね。きっとお疲れなのでしょう。難しいかもしれませんが、ゆっくり休む事をお勧めいたしますわ」
膝立ちのままクラレットに縋りついていたが、クラレットに促されてカミルはのろのろと立ち上がった。
その結果、カミルを見下ろしていたクラレットが今度は見上げる形となる。
「カミル様」
「あ、あぁ。すまない。みっともないところを見せた」
「いいえ、いいのですよ。今はわたくし以外誰も見ていませんもの。
最近は忙しかったし、悪い夢のせいでお疲れだったのでしょう」
「そう、かもしれない……」
夢などではなく本当にあったのだ、とは言えなかった。
クラレットの言葉に甘えるように、カミルは力なく頷いた。
「大丈夫ですよ。カミル様。
夢の中でわたくしを裏切ったと後悔なさっているのなら、現実で裏切る事もないのでしょう?
大丈夫、わたくしはカミル様の婚約者として、後の伴侶として、支え、共に国を導いていく所存ですわ」
今はまだ、頼りないかもしれませんが。
なんて少しおどけて言うクラレットに、
「そんなことはない」
と、咄嗟に否定する。
カミルのその言葉にクラレットは頬を染めて嬉しそうに笑った。
「どうなのかしらねぇ……」
カミルが帰っていった後、クラレットは自室でふとそんな風に呟いた。
次こそはクラレットを裏切る事のないように、そして失望されないよう、立派な王になるため努力する、勿論努力だけではなく結果を出せればいいと思っている……というような事を言って帰っていったカミルの事を思い出す。
クラレットが見た夢は、自分が死んだところで終わっている。
だからカミルの口から語られたその後の話は、なんというかまぁ、確かにありえそうではあった。
アルミアの成績が悪いままであったならクラレットと比較されるのは言うまでもないだろうし、いつまでたっても成長の兆しもなければ周囲の目はどんどん冷ややかになるだろう事だって想像がつく。
努力しても報われる未来が見えなければ、いずれ心が折れるかもしれない。
幸せになれると信じていたはずが、結局そうはなれなかった。
言ってしまえばただそれだけの話だ。
「わたくし、別にそこまで清廉潔白、無垢な存在というわけでもないのですが」
カミルが夢の中で心変わりをしたのは確かだ。
カミルが時を遡る前の話として語られた理由は、クラレットが自分の知らない黒い部分を持っていた事に失望した、というものだったか。そう思い込んで、しかし結局それはアルミアの嘘だった。
(カミル様ったら、わたくしだって人間ですもの。醜い感情の一つや二つ普通にありますのにね……?
だからアルミアを代理で向かわせたわけですし)
アルミアとカミルが親しくしていた時、確かにクラレットの心の中には不快感があった。
ただそれを表に出そうとしなかっただけ。出したところで自分にとっていい事はないとわかっていたから。
けれども、夢の中のそういった行動がカミルにとってはクラレットがより取り繕っているとでも思ったのかもしれない。カミルの前では良い顔をして裏では他者を平気で虐げる。そのくせカミルの前では自分はそんな汚いことをした事がないと言わんばかりに……となれば、嫌悪感を持つのも仕方がない事なのかもしれない。
良い人だと思っていたのに実際は違った、となれば裏切られたような気持ちになるのかもしれない。
ただ、カミルが裏切られたと感じたクラレットは別にカミルを裏切ったわけでもないし、そもそもの話カミルを裏切ったクラレットというのはカミルの頭の中で作り上げられた所謂偶像である。そして裏切られたと思った気持ちは本物のクラレットへ向く事となった。
クラレットからすれば知りませんわよそんな事と言いたくなるし、実際危うくカミルを宥めていた時にうっかり口から出そうにもなった。
けれどもあえて口を噤めばカミルは勝手にいいように解釈したようで。
クラレットを裏切ったという罪悪感。
故に、この先彼がクラレットを裏切るような行いをするとは考えにくい。
もしする事になったのであれば、その時は他者に陥れられたかした時だろう。誰かに唆される可能性は、既にカミルの言う前でアルミアにやられた事だ。同じ過ちを繰り返すとは考えにくい。
それでも同じ過ちを繰り返したのであれば、その時はきっとクラレットも見限ると思う。
カミル曰くの前はクラレットにとってあくまでも夢の話である。
夢の中だから許したけれど、今は現実。そこでまた同じ過ちを繰り返すのであれば、見限る事に関しても致し方ないだろう。
カミルはクラレットを裏切らない。そしてクラレットもカミルが自分に対して誠意も何もない行いをしさえしなければ、見限ろうとは思わない。
愛などではない。
カミルにとっては罪悪感。クラレットにとっては――
「夢は所詮夢ですもの。悪夢だって起きて目覚めてしまえばなんて事はありません」
もう、あの悪夢を見る事はない。
悪夢をなぞらないようにした事でクラレットが得たものは、カミルからの罪悪感込みの愛と、アルミアというクラレットにとって邪魔だった存在の消失。
「おかしなものね。やり直したという彼らは一体何を得たのかしら?」
得たものよりも失ったものの方が大きいのではないかしら。
そんな風に呟きながら、クラレットはうっそりと嗤うのであった。




