ずっと一緒にいたかった
ファデルの母は、とある貴族の娘だった。
貴族ではあるが家は貧乏でいつ没落してもおかしくはない、という状況だったと言う。
他人事のようであるのは、ファデルが生まれた時、彼の身分は貴族でもなんでもなかったからだ。
母はかつて城で働いていた、と言っていた。
幼いファデルには最低限の礼儀作法を教えてくれた。
同時に、貴族とは関わらない方がいいとも。
かつて貴族であった母がそうまで言うのなら、きっと何かあったのだろうと幼くともファデルが察するには充分すぎる程で。けれども明確に何があったのかを聞くには当時のファデルは幼すぎたし、母もそれを語るには早いと思っていたのかもしれない。
いつか、もう少し大きくなってから。
分別のつく年齢にでもなれば教えるつもりではいたのだと思う。
けれども母はそれより先に死んでしまった。
母の生家は金がなく、故に母を嫁がせるための持参金を持たせる事もできなかった。
それもあって母は自分で稼ぐ事を決めたのだと……なんて事のないように言っていた。
けれども母はその後職を辞し、都会から離れた田舎に身を寄せた。
家に帰る事もなく、ただ一人で。
……いや、身籠っていたので生まれる前のファデルも一緒ではあったのだけれど。
ファデルを産み育て、城で働いていた時よりも少ない稼ぎで彼女はそれでも懸命に生きていた。
幼いファデルにできる事はあまりにも少なく、当時は早く大きくなりたい……なんて常に思っていたような気がする。
城で働いていた事実を母は誰かに話したわけではなかったが、それでも所作に何か滲み出るものがあったのか、領主様のお屋敷で働いてみないか、という誘いを受けた母は、最初思い切り警戒していたけれどしかし背に腹は代えられないと思ったのか、ファデルを家に置いて働きに行ってしまった。
近所の人に助けを求めていたので幼いファデルは完全に放置されていたわけではないけれど、それでもやはり寂しかったのだと思う。
近所の人たちが面倒を見てくれたし、同年代の子もいたから気がまぎれはするけれどまだまだ母親が恋しい年齢だったので。
そんなある日、母に領主様のお屋敷に連れていかれた。
領主様のお屋敷にもファデルと同じ年の子がいて、けれども病弱で臥せっているからせめて話し相手になれないか、と領主様に言われての事だったらしい。
母の働きぶりが領主様の目に留まったのと、ファデルの話を聞いて礼儀を弁えていそうだと思ったのだろう。
その子は病弱で、ベッドからあまり出る事ができないようだった。
本当は元気いっぱい庭を駆けまわったりしたいのだ、と言っていたが、しかしそれも難しいらしくやって来たファデルには外の話を強請った。
そうはいってもファデルとてまだまだ幼い。外といっても限られた範囲でしかないし、お嬢様が楽しめそうな話題はほとんどないといってもいい。
けれどもファデルは、それでも精一杯お嬢様に楽しんでもらえるよう努力はした。そうしたら自分も母の役に立てるのではないか、と思ったから。
楽しいかと聞かれたら、きっと楽しくなかったかもしれない。けれどもお嬢様は途中でファデルを追い出すような事もなく最後まで話を聞いていたし、元気になったら一緒に遊びましょう、なんて言ってくれたから。
そんな風に言って精一杯の笑みを浮かべたお嬢様に、ファデルはきっとこの時恋をしたのだと思う。
今にして思えば……というやつで、当時はそれが恋だなんて気付きもしなかったけれど。
ファデルが領主様のお屋敷に足を運んだのは、後にも先にもこの時だけであった。
お嬢様の容体があまり優れなくて、とても人と会える状態ではない……と母は言っていた。
恋と自覚していなくても好意を持った相手だ。ファデルはお嬢様が一日でも早く良くなりますように、とそれから毎晩眠る前に祈るようになったが、母の口からお嬢様についての話はほとんど出てこなかった。
もしかしたら「また今度」は社交辞令で、その今度は一生こないものなのかもしれない……と思うまでにはならなかった。当時のファデルにはまだ社交辞令なんてものがわからなかったからだ。
ファデルが六歳になった時、ようやく色々な手伝いができるようになってきたからこそ、ファデルも簡単な雑用などで少しでも稼いで母に楽をさせたい、と思っていたのだがファデルを産む以前から一人で無理をしてきた母は、いよいよ無理がたたったのか倒れて、あっという間に亡くなってしまった。
一人になったファデルが生きていける手段など、ほぼ無いに等しい。
母以外の家族はなく、今までは近所の人に助けてもらっていたけれど、それだって母が生きていたから請け負う事ができていたようなもの。
母のいなくなったファデルの面倒を見るとなると、そこまでの余裕は流石にない。
人が一人生きていくだけと言えど、相当な金がかかるので。
できる範囲での手助けならまだしも、家族でもない他人の面倒をきちんと見て育てるとなれば話は別だった。
それもあってファデルは孤児院へを身を寄せる事となった。最後に一目お嬢様を見てから行きたいなぁ、と思ってもそれすら叶わなかったが文句を言える立場でもない。
孤児院へ身を寄せたファデルであったが、孤児院の滞在期間は驚く程短かった。
ファデルを見て気に入ったのだと、貴族が引き取ると言い出したのだ。
母から貴族には気をつけろと言われていたが、ここで行きたくないなどと言える立場でもない事もわかっていた。だから、まだ孤児院の他の子たちの名前も全員憶えていないうちからファデルは馬車に揺られて、ファデルを引き取った相手の家に行く事になったのだが。
その貴族はとんだ変態野郎だった。
ファデルの見目の良さを気に入って、なおかつ孤児ともなれば好きにできると踏んで引き取ったらしい変態は、ファデルに逃げ場などないと確信した上で欲望の捌け口にしようと試みた。
けれどもファデルは最初から貴族を信用していなかったので、隙を突いて逃げ出したのである。ロクな抵抗もできないと侮っていた貴族はファデルの一撃をモロに急所にくらって悶絶し、その隙にファデルは窓から屋敷の外へと逃げ出す事に成功したのだ。
部屋は上の階だったから下手をすれば大怪我をする可能性もあったけれど、木に飛び移って下りる事ができたのが救いだった。
逃げ切る事ができたのは、運が良かったのだと思う。
けれど、ここでファデルは完全に行き場を失ってしまった。
孤児院に戻ろうにも、戻った場合あの貴族が何らかの報復にでる恐れがある。
そうでなくともあの孤児院はここから随分遠い。歩いて戻るとなればどれだけの時間がかかるかもわからなかった。
変態がいる街にいつまでもいるわけにもいかない。見つかれば連れ戻されて、今度は逃げられないようにされた上で酷い目に遭わされるだろうから。
とにかく変態から逃げなければ、という意識が先走ってファデルはそのまま街を出て、とにかく他の町を目指した。
途中、木に生っていた実や川の水で飢えを凌ぎ、ふらふらになりながらもやって来たのは貴族たちが多くいる王都だったのは幸か不幸か。
人が多く暮らすとはいえ、浮浪児にしか見えないファデルに手を差し伸べるような者はいなかった。
汚れたファデルを野良犬を追い払うようにしっしと手で払う大人たちから遠ざかるように進んだ先は路地裏で、そこでファデルは力尽きて倒れてしまった。
あの街から王都まで、ロクに道もわかっていないまま進んできたのもあって数日が経過していた。食べる物は現地調達、寝るのだって寝具なんてない、地面か木に寄りかかってである。
王都にやってきた時点でのファデルは、風呂など当然入っていないし、空腹と疲労とでふらふらで、いつ倒れてもおかしくはなかったのだ。
倒れた場所が、ちょうど表通りからギリギリ見える場所だったのは、ファデルにとっての幸運だったと言えよう。
行き倒れ寸前になっていたファデルを救ったのは、市井の様子を見たいと護衛を伴ったカミルであった。
幼いカミルの我侭に付き合わされた護衛が、更なる我侭により薄汚れたファデルを拾い上げ、そうして連れていかれた先が城だった。
目覚めたファデルは、気を失っている間にすっかり身綺麗にされていて、何がなんだかわからなかった。
面白いものを拾ったとばかりのカミルは目を輝かせてファデルにあれこれと質問をして、拾った以上はお前は僕の物だからな! なんて言われてしまって。
本当に何が何だかわからないまま、気付けばカミルの従者としての教育が始まっていたのだ。
幼い頃に母に礼儀作法は躾けられていたのが功を奏したのか、周囲の大人たちの反応はそこまで悪いものではなかった。髪と目の色が少しだけカミルに似ているのと、顔立ちもよく見れば似ていない事もないような……といったところから、彼はカミルの影武者として育てられる事が決まったらしい。
従者としてカミルに付き従い、危険が迫れば護衛としてカミルを守り、そしていざとなったらカミルの代わりとなり命を捨てる。
逆らえるはずもなかった。逆らったところで、他に何があるでもない。
生きていくだけの力も無ければ、生きていくための目標もないのだ。
だからこそ、ファデルは言われるままに従順に。
カミルの傍にいるために、と厳しい教育を施される事となった。
成長するにつれて、ファデルは様々な物ごとを知るようになっていった。
母がかつて城で働いていたというのが嘘ではなかったという事と、どうして母が職を辞したのかという事も。
決してファデルの口からそれらを出したわけではない。母が城から何もかもを捨てて逃げ出したというのは、薄々気付いている。何か、不都合なものを見聞きした可能性も考えられるし、その母の関係者だと知られて情報を吐けと言われてもファデルは何も知らないのだから、そうなる可能性を考えれば黙するしかない。
ファデルが知った真実は、単なる使用人たちの話からだ。
成長してもなおカミルと似通った外見のファデルに、もしかして父親が同じだったりしてな、なんて万一噂として広まればとんでもなく恐れ多い事をのたまったのが切っ掛けだった。
可能性としてはゼロじゃないんじゃないか? だって陛下、確か一度ほら、侍女に手をつけただろ。
あぁ、そういやあったなそんな事が。
彼女あれからどうしたんだっけ?
王妃様に睨まれる前に逃げるように辞めたはずだぞ。
へえ、まぁ、賢明な判断だな。
あれのせいで陛下は王妃様にすっかり頭が上がらなくなったんだったな。
ハハハハハ……
そう言って笑う彼らに、ファデルは何も言わなかった。
陛下が一度の遊びか気の迷いか本気だったのかはさておき、ともあれ妻以外の女性に手を出したというのは事実らしい。そしてその手を付けられた侍女はその後逃げるように城を出ていっている。
もしかしたらその時に子を宿したのかもしれない、という噂も完全に否定できるものではない、と無責任に盛り上がる使用人たちは、知っていて言っているわけではないのだ。
そのかつての侍女の事をファデルはそれとなく聞き出してみた。
なんだっけな? 確か名前は――
母の、名前だった。
何も知らない子供のままでいられたら、うっかりそこで口に出してしまっていたかもしれない。
けれども、かつて貴族だったらしい母がどうして貴族と関わるなと言っていたのかを、ファデルはここで理解したのだ。
母の体験と、この噂がほぼ事実であるのなら自分は――自分の父親は国王陛下という事になってしまう。
それはつまり、己が仕えるべき主であるカミルと、異母兄弟という事になる。
考えなしの子供であったなら、自分も王子様だ! なんて言えたかもしれないが、ファデルはそれを冗談でも言ってはいけないと理解していた。言えば間違いなく邪魔者として処分される。殺されなくとも、今以上に問題のある立場になるだろう。であれば、こうして何も知らないまま、カミルの従者として生きていく方がマシだった。
カミルにとってのファデルは自分の所有物であり、従者であり、友人でもあるらしかった。
生まれも育ちも違うのにどこか似た雰囲気を持つ平民。
それがカミルにとってのファデルだ。
父親が同じだなんて思いもしていない。
もし父親が同じである事が知られたとして、カミルはファデルを殺そうとはしないだろう。
けれども彼の母親――王妃様はどうだろうか。
カミルの王への道を阻む可能性がある以上、ファデルの存在を決して許してはくれないだろう。
城から逃げるにしても、行くアテなどどこにもない。どこに行ってもいい、ともとれるが、しかしファデルはまだ一人で生きていくには足りないものがあまりにも多すぎた。
それに逃げたからといって、無事でいられるかもわからない。
むしろ逃げた事で王家の何らかの秘密を知って、それを他国に売り渡そうとしている、なんて思われる可能性の方が余程高いのだ。
ファデルにとってここは最も危険な場所であるけれど、同時にここにいる限りは少なくともすぐに殺されるようなわけでもなかった。
ひたすら従順に。
ただ己の存在はカミルのためだけにあるというように。
そうしていれば、少なくとも今はまだ生きる事を許される。
幼い頃に母が語ってくれた話のうち、当時は理解できなかったものも今ならわかる。
確かに関わるべきではなかった。自分よりも身分が高く権力を持つ相手に目をつけられたなら、それだけで厄介なのだから。
いざという時カミルの影武者としても立ち回るために、ファデルの教育はカミル以上に厳しかったと言ってもいい。もし不出来であると早々に判断されていたら、別の役割を与えられていたかもしれないが、ファデルはそんな甘い万が一を考えなかった。むしろ不要と判断されたら殺される可能性の方が高いのだ。
それ故に、ファデルの近くにはいつだって『死』が在った。
誰かを殺したとか、そういう意味ではないけれど。
それでもファデルにとって死は身近なものになりつつあった。
だから、だろうか。
好きになった人。好きだった人。
初恋のお嬢様は病弱で、死んでもおかしくなかったと思う。
母は死んでしまった。
ファデル自身も、いつ何があって死んでもおかしくはないのだ。
死が近しいものであるが故か、いつしか彼は生きている存在よりも死んでいるものへ興味を抱くようになっていった。
そうはいっても死体などそうそうお目にかかるわけではない。……本来ならば。
カミルのために自ら汚れ仕事を買って出る事があった。
変装して市井に行く事もあった。王都にも治安の悪い場所は存在していて、そういった場所では死体が転がっている事もあった。
いつからだろうか。
生きている人間よりも死んでしまったものを慈しむようになっていったのだ。
死体を綺麗に保存できないだろうか、と試行錯誤した事もある。
大半は失敗してしまったけれど、それでもあまり大きなものでなければ多少は長持ちさせる事もできるようになっていた。
悪趣味の一言で済まないものも、しかしカミルは特に咎めるでもなかったから。
ファデルにとって唯一、自分自身が持つことを許された自由なのだと一層のめり込んだ。
カミルの婚約者が決まり、二人が交流する際ファデルは目立たないようひっそりと、他の使用人と同じようにカミルの背後に控えていた。
初恋のお嬢様にどこか似た女性。けれども彼女は生に満ち溢れていた。
やがてカミルが学園に通うようになり、ファデルもまた従者としてついていく事が決まった。
カミルがクラレットと間違えて声をかけたのはアルミアで、危うくファデルはその時驚いて声を上げそうになっていた。
お嬢様。
かつてベッドの上から中々動けなかったお嬢様が、元気になって動いている。
元気になってしまったお嬢様に、もしかしたら自分の興味は失ってしまうのではないかと思っていたがしかしそんな事はなかった。
長年焦がれていた相手。
けれどアルミアは――
彼女は、カミルを選んだ。
カミルもまたアルミアに惹かれているようだった。
幼い頃に一度だけ出会った相手の事などアルミアは憶えていないのか、ファデルの存在は視界に入っていないようだったが、ファデルの役割としてはそういうものなので目立たない事に安堵を覚えた。
もし憶えられていたとしても、既にアルミアはカミルへ想いを寄せているようだったし、であれば自分の事を思い出されても自分の想いが伝わるはずもない。
カミルが望んで、アルミアもまた望んだからこそ、ファデルはそっと二人の仲を取り持つ事に決めたのである。
自分にできる事などたかが知れているけれど、それでも従者としての務めと、初恋相手が幸せになってほしいから。
だから、邪魔な婚約者を排除すると言うカミルの企みを止めようとも思わなかった。
クラレットとの婚約を解消しようとしたところで、そう簡単にいくものではない。仮に婚約を解消できたとしても、カミルとアルミアが必ず結ばれるかはわからない。他の令嬢をねじ込まれる可能性も存在していたからだ。
そうでなくともカミルが有責であると思われた時点で、彼の未来に陰りが生じる。そうなればアルミアと結ばれても、彼女の未来まで苦労するとなれば。
クラレットには不幸な事故で消えてもらう必要があった。
カミルが刃物で刺したとはいえ、それだけでは致命傷に至らない。
だからこそファデルはしっかりと首を絞めて呼吸ができないようにして殺したのだ。
……まさかカミルがファデルの趣味を見越した上で、死体になるべく傷をつけないように……と配慮していたとは思わなかったが。
初恋のお嬢様に似た、けれどお嬢様ではないもの。
それでも少しの間、己の心の慰めになるかと思い死体はそっと誰の目にも触れない場所へと隠した。
クラレットと似た死体の用意なんて、それこそスラムへ行けばどうとでもできた。
良心の呵責など、とうになかった。
背格好と髪の色さえ似ていれば、顔は判別ができないようにして、他にも特徴がありそうな場所も損壊させてしまえば身内が確認したところで、あまりにもいたましい状態だ。じっくり観察などできる余裕もない程のそれは疑われもしなかった。身に着けていた服もズタズタにされていても、それでも身に着けていたとわかるようにしておけば、クラレットの服を他人が奪って着ていた、とは思われにくい。
そうしてクラレットが死んだ後、アルミアは彼女が願ったようにカミルと結ばれる事となったのだ。
その幸せに陰りが出始めたのは、いつだろう。
クラレットと比べられて、彼女よりも劣ると周囲の評判は芳しくない。努力しているのは知っている。決して諦めたりはしていないし、怠けたりもしていない。
それでも、かつての素晴らしい婚約者だったクラレットとの比較は止まる事がない。
死んでしまった相手だ。思い出が美化されているからか余計にアルミアの不出来さが目立つのかもしれない。
お嬢様の代わりとして保管してあった死体を見て、忌々しいとすら思うようになるのに時間はそうかからなかった。
苛立ちをぶつけるように綺麗に保存してあったその姿をズタズタにしてやろうかとも思ったが、後始末を考えると面倒になって、結局実行はしなかった。けれども少し前まで丁寧に飾っていたものがおざなりになったのは否定しない。
扱いが雑になったとはいえ、すぐに処分しようとは思えなかった。
どれだけ努力しても報われないアルミア。
クラレットに虐められていた、なんて嘘でカミルの気を引いていたのがカミルにもバレたらしく、二人の仲は冷え込むようであった。アルミアは嘘がバレたとは気付いていない。
そもそも最初の時点でファデルはアルミアの嘘に気付いていた。けれどもそれをカミルに言わなかったのは、どうでも良かったからではない。その程度の嘘なら可愛いものだとファデル自身が思っていたからである。
カミルがそれを受け入れられなくなっても、ファデルは受け入れていた。
むしろそういう嘘が吐けるまでになったのか……とかつてのお嬢様の姿を思えば、成長したのだなと思う程で。
ファデルがアルミアと結ばれる未来はない。それをわかった上で彼は見守り続ける事を選んだに過ぎない。
見守るだけで、率先して彼女のために何かしようとまではしていないのは、己の恋心を守るためでもあったのかもしれない。
どちらにしても歪んでしまった想いでしかないのだが。
クラレットと比べられ続けて心が壊れつつあっても、ファデルは見ているだけだった。
カミルとの仲を取り持つまではしたくない。
カミルはアルミアとの事を後悔しているらしかった。
けれどいらなくなったなら自分にくれとは言えるはずもない。
だからどのような結末を迎えようとも二人を見守るだけに留めて――
カミルが王家に伝わる秘宝を使おうとしていたのは知っている。宝物庫までアルミアを連れていくのをファデルはそっと見ていたし、他の者に見咎められる前にそれとなくそういった相手は別の場所に呼び出したり注意を引いて、二人が何事もなくたどり着けるように手引きしたのだから。
もっともファデルが手引きをしたという自覚はあの二人にはないかもしれないが。
秘宝についてファデルとしては半信半疑だった。だからきっとあと少ししたら、何も起こらずに絶望した二人が宝物庫から出てくるに違いないとすら思っていたのに。
気付けば、自分に与えられた城の一室でファデルは立ち尽くしていた。
何が起きたかわからずに咄嗟に周囲を確認する。
結果、時が戻っている事を知った。
時を遡った、なんて。すぐには信じられなかったが、しかし実際にそうなっている。
奇跡だ、と思うにしても、だがこの先どうするべきか。ファデルには思いつかなかったのである。
前回の事を憶えている。
カミルやアルミアも憶えているのだろうか?
確認しようにも、憶えているかなんて聞けるはずもない。
慎重に調べるしかなかったが、恐らく憶えている、とファデルが結論を下すのはすぐだった。
前回クラレットに虐められていたと嘯いていたアルミアは、昔の件で苦手なの、と言葉を濁し、カミルも積極的にアルミアとは会う事をせずクラレットとの仲を深めた。
前回の後悔を払拭するように。
カミルがクラレットを殺そうとして実行に移らなければ彼女が死ぬ事はない。
アルミアはカミルがクラレットを殺そうとした事を知らない。だからこそ、彼女はいずれ邪魔者が消えると思っている。
もしそうじゃなくなれば、またアルミアはクラレットを排除しようとするだろうか。
悪評を流したところで、カミルとクラレットの仲が深まっていくようならアルミアが何を言ったところで悪くなるのはアルミアの立場だけだ。むしろカミルにとって邪魔なのはアルミアである。
いずれカミルはアルミアを排そうとする、と伝えたところで、果たして彼女がその言葉を信じてくれるだろうか?
ファデルの存在はアルミアにとってどこまでもカミルの従者でしかない。
幼い頃に一度会った事すらも、きっと憶えていないのだろう。
ファデルの存在など他の使用人と同じ扱い。アルミアの目にファデルの存在が映ったとしても、そこには何の感情もなかった。
アルミアはカミルを愛したままだ。
であれば、何を言ったところで自分の邪魔をする相手としかこちらを見ないだろう。
学園の中でそっとアルミアの動向を確認してみたが、いずれ王子妃教育で必要になりそうな事に関しては意欲的に学んでいるようだったので。
カミルにとっては順調なやり直し。
アルミアにとっても未来のためのやり直しは上手くいっているのだろう。
ファデルから見た二人は、間違いなく未来への希望に満ちていた。
次はあんな風にはならない。
そんな声が聞こえてきそうだった。
カミルがアルミアよりクラレットを大切にしている事から、前回と違いクラレットもカミルに対してより心を寄せているようではあった。
このままなら、かつて彼女を殺した日に誰も殺さずに済みそうだ。
そう思っていたのに。
万が一の事を考えて、アルミアを始末しておこうと思う。
そうカミルに告げられたのは、直後の事だ。
確かにクラレットが死んだとならなければ、アルミアにとって彼女の存在は排除しなければならないものだ。
彼女がいずれ死ぬと思っていたからこそ、過去虐められていたなんて嘘を流す必要もないとしていただろうから。けれど死なずに生きているのなら、何らかの手段でクラレットの存在を排さなければならない。
カミルとしてもその可能性を懸念して、アルミアが邪魔になるとなったのだろう。
いずれ、折を見て――
そう言われても、ファデルは特に何もしなかった。
アルミアにカミルが貴方を殺そうとしていますよ、なんて伝えたところで信じてもらえないのは明白だからだ。
むしろそんな事を言い出した自分をアルミアはカミルへ伝え、カミルもまたそれを裏切りととれば自分の命はない。
遅かれ早かれ死ぬのならいっそ――
前回と同じように、カミルはクラレットを呼び出す事にしたらしい。
だが、殺すわけではない。折角だから、静かな場所でゆったりと逢瀬をしたい、というのが今回の目的であったようだ。
しかしそこにやって来たのはクラレットではなくアルミアだった。
カミルの表情が困惑に彩られたのは一瞬で、直後、何かに気付いたように小さな声で呟いて。
そうしてカミルは、ファデルへ合図を送った。
いずれ折を見てアルミアを殺す――
そう、いつかそのうち、くらいの詳細も決まらぬうちのものだったそれが、今急遽訪れたのだ。
そう理解したのは間違いではなかったらしい。
前回クラレットの首を絞めたのが、今回はアルミアへと変わった。
本当だったら、殺したくはない。
けれど既にカミルがアルミアの腹にナイフを突き刺してしまった時点で手遅れなのだ。
今から彼女を逃がしたところで、どこに行くというのだ。
実家に戻ったところでカミルに殺されかけた事を黙っておけるはずもない。侯爵家は王家へどういう事かと問い質すだろう。カミルの返答如何によっては、彼からは王位継承権を取り上げられかねない。廃嫡まではいかなかったとしても、自身の未来に陰りをもたらしたアルミアの存在をカミルは赦さないだろうし、であればいかなる手段を用いてでも復讐を果たそうとするだろう。
それが復讐ではなく八つ当たりや逆恨みであったとしても。
また秘宝を使って時を遡る、という方法が使えるのかはファデルにはわからない。
けれども、奇跡はそう何度も起きないから奇跡なのだ。過分な期待はしない方がいいだろう。
せめて苦しむ時間が短くて済むように、とファデルは一気にアルミアの命を奪った。動かなくなったアルミアを前に、ファデルは考える。
以前のようにアルミアの死体を回収して、以前のようにクラレット同様の死因にして家を欺く事は可能だろう。
けれども、たとえ偽りであっても彼女が治安の悪い場所へ足を運び、ならず者に弄ばれたかのように思われるのはイヤだった。
死体を綺麗にして長期保存できるようにしても、いずれは朽ちる。それも、なんだかイヤだった。
家族以外で生まれて初めて好きになった人。
決して想いが通じない相手。
「――カミル様」
だからこそ。
ファデルは小さな声で彼の名を呼んだ。
どこか呆然とした今のカミルならきっと冷静な判断を下せないだろうと確信して。
カミルを城へ戻した後の事はファデルにとって知らないし、知る必要も既にない。
人目に触れないようにしておいたアルミアの亡骸を抱えて、あとはもう湖に入るだけだったので。
簡単に浮かんでこないように、二人が決して離れる事のないように。
準備を終えたファデルは、躊躇う事なく湖へ身を投げた。




