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「この落書きみたら、流石に思い出すでしょ?」


 りんこはなぞる。

 俺とりんこがはじめて出会った時に書いた落書きを。

 ところどころ掠れて読みにくくはなっているけれど、確かにそこにある。


「あの時から、あっくんは宣言通りずっとそばにいてくれた」

「……そばにいたって、ただ遊んでただけだろ。出会った時も、特別なことなんて何もしてない」


 物語の主人公のように、俺はりんこを救ったわけじゃない。

 ただ何もせず、そばにいただけなのだ。

 出会って以降、両親に関する悩みを聞くだけで、何もしてやれなかった。

 俺が動けばどうにかなる問題であれば、いくらでも動くけれど、現実はそう甘くない。


 子供の俺が何をしたって、りんこの状況を悪くするだけだった。


「たしかにそうかもしれない。けどそれだけでよかったし、それがよかったんだよ」


 だんだんと強くなっていく雨。

 りんこの声は小さかったけれど、何故か雨音にかき消されず、俺の鼓膜に届いた。


「私みたいなめんどくさい女の子の隣にいてくれる。否定するでもなく、肯定するでもなく、ただ隣にいてくれる。それが本当に嬉しかった」


 彼女は賢い。

 初めて出会った時でさえ、その言動や振る舞いを見てそう思い、その後の付き合いで、その推測に確信を得た。


 賢い故に、自分が直面した問題に対しても、何をすべきか理解できる。

 いや、理解できてしまうと言った方が正しいかもしれない。


 彼女は、辛いことがあっても、悲しいことがあっても、愚痴を吐いたり陰口を言ったりしてストレスを発散しない。


 愚痴を吐いても意味はないことは知っているし、陰口をいっても問題の解決にならないことを知っているからだ。


 冷静で正確。だから分かり合えない。


 普通の人間は、俺を含め、りんこほど冷静ではないし正確でもない。

 子供のりんこに指摘をしたり、生き方を指南したところで、彼女にとってそれは穴だらけの妄言に過ぎない。

 だから俺は、聞くことしか出来なかった。


 それだけなのだ。


「……お前ほど、気の合う友達もいなかったからな」


 実際りんことは趣味があったし、会話も楽しい。

 親友と呼べるくらいには仲が良いつもりだ。


「この状況で友達宣言なんて、あっくんひどくない?」


 少し笑ってそう言う彼女。

 雨音がさらに強くなる。

 ドームの亀裂から雫がたれてきて、頬にあたる。

 少しの静寂を経て、俺はようやくりんこの言葉の意味を理解した。


「いや……別にそういう意味じゃ」


 自分のことを好いてくれている相手に対して、恋仲になりたいと願う女の子に対して、俺は今友達宣言してしまったのだ。


 女子が男子を振るときに使う、友達だと思ってた。という定型文だ。

 意図して発した言葉じゃない。


 そう伝えようとした瞬間、りんこはゆっくりと口を開く。


「私がか弱い女の子だったら泣いてるよ。雨の中駆け出しちゃうかもしれない」


 りんこは雨に濡れた手を、俺の頬にゆっくりあてる。


「あっくんみたいに」

「……っ」


 大好きな人に拒絶される。

 その痛みを俺はよく知っていた。


 先ほどその痛みに耐えきれず、泣きそうになりながら雨の中駆け出してここにいるのに、それと同じことを俺はりんこにしてしまったのだ。


「ご、ごめん……俺……」


 情けない気持ちと、申し訳ない気持ちで心が埋め尽くされる。

 うつむいていると、突然、右肩が強く押された。


「ちょっ! りんこ!?」


 俺はりんこに押し倒された。


 雨で濡れていた背中に、乾いた砂を押しつけられる。

 りんこの細い髪の毛を伝って、顔や首筋に、温かい雫が伝った。


 顔が近い。


 濡れた腰と腰が当たる。

 すぐさま体を起こそうとするけれど、びくともしない。

 りんこの左手が、優しくみぞおちを抑えている。

 体の軸を釘で押さえつけられたみたいだった。


「あっくんはたくさん私にひどいことしたよね。でもいいの。ぜんぶ私がそうなるようにしたから」


 吐息が顔にあたる。

 甘い香りで、頭がクラクラする。


「私の大好きな優しいあっくんは、私のことを捨てられない。利用してる今もなお、傷つけている私を無視できない。そうでしょ?」


 りんこは、押し倒されている俺に体を預ける。

 狭いドームの中、雨に濡れた二人が密着している。


 りんこの大きな胸が、俺の薄い胸板に押し付けられ、水風船のようにくにゅりと形を変えていた。

 今の俺たちを何も知らない人が見れば、野外で情事にふけるカップルにしか見えないだろう。

 

 でも、そんなことを冷静に考えられないくらい、俺は心を乱されていた。


「雫ちゃんを好きでい続けるかぎり、あなたは自分の良心の叱責で苦しみ続ける」


 耳元でささやかれる。

 唇が、みみたぶにあたった。


「……っ……りんこ、ごめん……俺……どうしたら……」


 催眠術をかけているはずなのに、催眠をかけられているみたいだ。

 りんこの一言一言は、それほどまでに俺の心に絡みつき、感情を揺さぶった。


「私が許しても、あっくんがあっくんを許さない。もし仮に、雫ちゃんと結ばれたとしても、百点満点のハッピーエンドにはならない。絶対に心に刺さったトゲは抜けない。あっくんのことを愛してやまない私に催眠術をかけて、恋敵である雫ちゃんのために働かせたという最低な行為は消えない。ずっと、ジンジンと痛むの。絶対に忘れられないし、忘れさせない」


 俺はりんこに催眠術をかけた。

 俺のために生きろ。と。

 言うことを聞かせるためにかけた催眠術なのに、りんこは俺の思いと反して行動している。

 りんこにとって、今している行為がまさにそれなのだ。

 俺のために生きようとした結果が、この状況。


 雫と結ばれるよりも、りんこ自身と結ばれた方が、俺のためになると、そう信じ切っているのだ。


「もう諦めて、私のことを好きになっちゃいなよ」


 りんこの足が、俺の股間を押さえつける。

 左手でみぞおちを押さえ、右手で俺の頭を撫でながら、体重をそのままあずけて、耳元で囁いている。


 両腕を動かしてりんこを攻撃すれば、この甘い拘束から抜け出すことも可能だろう。

 けどそんなことできないし、する気もない。


 親友だといっても過言ではないくらいの相手を、殴るなんてことは俺にはできない。

 おそらく、りんこはそれすらも計算づくなのだろう。


「私の隣にずっといてくれたってことは、私のことを多少なりは好きでいてくれてるんでしょ?」

「うっ……あっ……っ」


 耳を、柔らかくて熱い何かが這う。

 ぬぬめったそれは、おそらくりんこの舌だろう。

 甘言と共に、舌が耳穴に入ってくる。


「あっくん……捨てないで……っ、はぁっ……」


 ぐじゅぐじゅと、水音がした。

 りんこのやわらかな胸の奥から、トクントクンと鼓動が伝わってくる。


「俺は……っ」

「あっくんの望むこと、何だってしてあげるよ? 恥ずかしいことだって、何だってしてあげるんだよ?」


 吐息が荒い。

 これだけ感情をあらわにしたりんこを見たのは、雫にキスをされた喫茶店以来だ。


 暗がりに目が慣れて、りんこの顔が見える。


 頬は真っ赤になり、目はトロンと濡れて、少し汗ばんでいた。


 雨で濡れた髪の毛から落ちてくる雫は熱い。

 体が密着したせいで彼女は興奮しているのだ。


「りんこ、お前はなんでそこまで俺を……好きになる理由だって……そんなに大きな出来事は何も……」

「あっくんが雫ちゃんを好きなのと同じだよ。一目見た時から、この人しかいないって、思っちゃったんだよ」


 痛いほどわかる。

 人を好きになる気持ちも。

 それが叶わないと分かった時の絶望も。

 間違いない。りんこは俺を堕としにきている。


 俺が理解できる感情を、やるせない気持ちを甘言によって引き出して、共感させて、堕とそうとしている。


 現に、俺の心は揺れ動いていた。

 りんこは言うまでもなく魅力的だ。

 可愛くて、賢くて、献身的で、胸も大きくて、俺が望むことならなんだってしてくれるだろう。

 男の理想を詰め込んだ女性。


 それがりんこといってもいいくらい、彼女は魅力的なのだ。

 このまま首を縦に振れば、りんこは俺を幸せにしてくれるだろう。


 どんな手を使ってでも。


「私、あっくんと結ばれなきゃ、この先の人生、何があっても不幸だよ。そう思えるくらい、大好きなの」


 舌がはう。

 耳から首筋へと。


「うっ……っ」


 左手はみぞおちから、俺の上着の中へと入り、そして脇腹を撫でる。

 りんこの触ったところは熱くなり、下っ腹の奥から、なにか込み上げてくるような、そんな感覚になる。


「ねぇキスしよ……お願い……」


 俺が少し顔をあげれば、唇があたる。

 そんな距離で、りんこはそう言った。


「いっぱいキスしよ……なんならここでしたって……私はいいよ……?」

「り……んこ……」


 下腹部に熱がこもる。

 鼻からりんこの香りが入ってきて、脳みそが犯される。

 このままキスすれば、楽になれる。

 雫とは、もう結ばれることはない。

 そう割り切って、このままりんこに溺れれば、どれだけ楽だろう。


「……んぁ」


 何もしない俺を見て、りんこはしびれを切らしたのか、舌をちろりと出して、頬を舐める。


 甘い香りが、どんどん口元に近づいてくる。


 もうどうにかなってしまいそうだった。



「あっくん……私を……ひとりにしないで……」



 理性が崩壊しかけ、りんこに顔を近づけようとした瞬間。


 すがるように、しぼりだすように、りんこはそう言った。


「りんこ……」


 もし俺が、雫に拒絶されたら。

 もし俺が、雫に、本当に嫌われきってしまったら。

 りんこと同じような気持ちになるだろう。



「悪い……りんこ、お前の気持ちには答えられない」



 だからこそ言い切った。


 一切の淀みなく。


 俺は覚悟を決めたはずだ。


 雫のために、りんこを利用すると。


 その覚悟が鈍るようなことがあっては絶対にいけない。


 さっきの悲しそうな声を聞いて、ようやく理解した。


 りんこは完全無欠の人間ではない。

 ただの優しい女の子なのだ。

 ずっとひとりで、だからさみしくてたまらない、どこにでもいる女の子なのだ。


 俺は雫を笑顔にしたい。


 そのためだけに、そんな優しい女の子を騙した。

 そう決めた限り、もう、それしか掴めない。掴もうとしてはいけない。


 ここでりんこを心を許せば、りんこは満足するけれど、俺は一生嘘をつき続けることになる。

 本当に好きな人がいるのに、りんこのことを世界で一番大好きだと、嘘をつかなければいけない。

 誰よりも優しいりんこを、また、騙さなければいけないのだ。


 それも、一生。


「ここまでして、自分の気持ちを曲げることはできない。本当に、ごめん。だけど……気持ちを偽わる嘘は、つきたくないんだ……」


 火照ったりんこの頭を撫でて。


 ゆっくり、告げる。

 


「俺は雫が好きだ」



 自分が最低なのは理解している。

 けれど、最低にも最低なりに、通さなきゃいけない道理がある。

 自分を肯定するつもりもないし、責められれば受け入れる。

 けど、雫を好きだと言う気持ちだけは、どうしたって偽れなかった。


「そう、そっか」


 乾いた返事。

 りんこの茶色い瞳は、暗く淀んで、そして。


「へ……?」


 赤く濁った。


「うっ!」


 瞬間。目の前に火花が散った。

 ゴン! ガン! と、衝撃が顔面に走る。

 なんとかまぶたをあけて、状況を確認する。


「ばかっ! ばか! あほ! 私のなのに! 私のッ! なのにッ!」


 りんこは泣きながら、手をグーにして、俺を叩いていた。


「りんこっ! ごめんっ!」

「謝るくらいならキスしてよ! 私を選んでよ! なんでダメなのよ! なんであんなクソガキがいいの!?」

「あぶっ! あがっ!」


 両足で俺を拘束し、火が出るほど俺を殴るりんこ。


 ちょっと待ってマジで痛い……!

 こいつこんなに力強かったの……!?


 喉の奥から血の味がした。

 どうやら鼻血がでたようだ。

 けれど、殴られるのを止めようとは思わなかった。


 俺ために生きろと言われたのに、りんこが信じる俺の幸せを、他でもない俺自身に拒絶されたのだ。


 怒らない方がおかしい。


「まだ、足りないんだね。痛みが。期待してるんだね。雫ちゃんとの関係が元通りになるって……!」

「…………」


 期待していないといえば、嘘になる。

 けれど、関係が戻るのは、絶望的だというのは理解しているつもりだ。


「えっ! ちょっ!」


 俺の襟を掴んで、無理やり顔を引き寄せる。

 鼻血を垂らして、無様に顔を腫らす俺の唇に、りんこは無理やりキスをした。


「もういいよ、あっくん。これでも私のにならないんだったらもういい」


 意識が朦朧とする俺に、りんこは口づけを繰り返す。


「言っておくけど、私催眠術になんてかかってないから」

「…………え?」

「あの催眠術は本物だよ。かけられそうになった時、どうしたって抗えないような力を感じた。けど、その後のあっくんの命令があるでしょ? 覚えてる?」


 俺はりんこに催眠術をかけた。


『俺のために生きろ』と。


「私、元々あっくんのために生きてるようなものだから。かかんなかったみたいだよ。予想通りね」


 不敵に笑う幼馴染。


 りんこが、催眠術にかかっていない?


「催眠術の正体がばれたのも、ぜーんぶ私の仕業。速水くんみたいなゲスは扱いが簡単だからさ、簡単だったよ。雫ちゃんのカバンを漁らせることなんてね。あっくんに催眠術の本を渡したとき、雫ちゃんは催眠術の本を机の上に置いておいたって私教えたよね? あれも嘘なんだ。本当の場所は机の中。私に催眠術をかけた後、あっくんが机の上に催眠術の本を戻せば、雫ちゃんは隠し場所から別の場所に動いていることに焦って常に催眠術の本を持ち歩くと思ったんだよ」


 その時、全てがつながる。


 俺を罪悪感で縛るために、おそらくすべてりんこは計画していたのだ。

 催眠術の正体をにぎり、俺に催眠術をかけさせ、本の在処の偽情報を教えて俺に別の場所に本を置かせて、雫を疑心暗鬼にさせて本を持ち歩かせ、そして速水を利用し催眠術という魔法をバラす。


 りんこは催眠術にかかっているため、多少の誤差はあったとしても、決定的に俺の不利になるようなことはできない。そうしてアリバイを作った。


 りんこにとって催眠術が本物だったと言うこと、罪悪感に俺が屈せず……いや、俺がりんこの責任をとらないようなクズ人間だったことを除けば、すべて彼女の計画通りだったのだ。


「あっくんがもう少し、弱い人間だったら穏便にすんだんだけどね。もういいよ」


 胸ぐらを離し、俺を地べたに下ろすりんこ。


「絶対に壊してやる。そうして、今度こそ、私のものにする」


 何も言い返すことはできなかった。

 毎日好き好き言ってくる幼馴染は、俺のことを親の仇のようににらんで、また胸ぐらを掴み、そしてキスを繰り返す。


 意識が朦朧とする中、俺はされるがまま、乾いた砂地に横たわっていた。







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