32:諦めたくない(5)
フェリクスはリーニャとミロスラフの間に強引に割り込み、ますます不機嫌そうな顔をする。ミロスラフはすねている後輩に、やれやれと肩をすくめた。
「上への報告はきちんと済ませてきたのか?」
「済ませたに決まってるでしょ。ほら、リーニャからは僕が話を聞くんだから、先輩はあっちで休憩でもしてきてよ」
「いや、俺はまだ休憩しなくても……って、こらこら、背中を押すなよー」
フェリクスは膨れっ面でミロスラフの背を押し、彼をリーニャから遠ざけた。そのまま店の壁際まで押しやって、そこからフェリクスがひとりだけ急いで戻ってくる。
「リーニャ、お待たせ」
先程までの不機嫌さが嘘だったかのように、フェリクスがへにゃりと柔らかな笑みを浮かべた。
「というわけで、話を聞かせて。ああ、ここじゃ落ち着かないよね。店の奥の方を使っても良い?」
「へ? あ、はい、大丈夫ですけど……」
そう答えながら、リーニャはちらりと遠ざけられたミロスラフへと視線を向けた。ミロスラフはうんうんと頷いて、「行って良いよ」と手を振る。
リーニャはほっと息を吐いて、ミロスラフにぺこりと小さく頭を下げた。
店の奥には、いつも兄が事務作業をするのに使っている小さな部屋がある。リーニャはそこにフェリクスを案内した。
小さなこの部屋には、机と椅子があるのみ。机の上には、兄の几帳面な字が並ぶ帳簿が置いてあった。
小さめの窓がひとつしかないので、部屋の中は少し薄暗い。リーニャは部屋の明かりをつけ、フェリクスを振り返った。
「えっと、さっきのことを話せば良いんですよね。あの男の人が店に来たのは……」
「ああ、その話は後で聞くよ。それよりも、もっと大事な話をさせて?」
フェリクスはそう言うと、やけに真剣な表情でリーニャを見つめてくる。
「だ、大事な話、ですか?」
「そう。とても大事な話だよ」
リーニャはぴんと来た。
これから始まるのは、フェリクスの花嫁探しについての話なのだと。
だって、他に大事なことなんて、何も思い当たらないから。
フェリクスは、まだリーニャのことを好きなのか。
ルアンナとの関係は――。
リーニャはごくりと喉を鳴らした。
いろいろ曖昧だったことが、ようやくはっきりする。
やっと、フェリクスの口から真実を聞くことができるのだ。
ドキドキする胸を押さえながら、フェリクスに小さく頷いてみせる。すると、フェリクスは少し戸惑うように視線を彷徨わせた後、ぐっと拳を握り締め、がばっと勢いよく頭を下げた。
「リーニャ、ごめん!」
一瞬、フェリクスの言葉が理解できなくて、リーニャはぴしりと固まった。
ごめんって、どういうことなのか。
でも、じわじわと理解が追いついてきて、ズキリと胸が痛んだ。
これはきっと、リーニャを口説くというあの約束を守れないことに対する謝罪に違いない。
そう、リーニャは今から振られるのだ。
フェリクスは頭を下げたまま、震える声で続ける。
「本当にごめん、僕はリーニャのこと」
「あ、謝らないでください! フェリクス様は悪くないです!」
リーニャは慌ててフェリクスの言葉を遮った。
「私が、私が悪いんです。私がもっと強かったら、こんなことには」
「何言ってるの、リーニャは被害者でしょ」
被害者と言われるなんて心外だ。そんなの、リーニャが失恋すること確定みたいな言い方ではないか。
納得できなくて、リーニャはふるふると首を振る。
(たとえ振られても諦めないって決めたんです!)
もちろん、あの脱獄犯のように、相手の気持ちを無視したやり方はしないように気をつける。そんな強引なことをして、フェリクスに嫌われたら本末転倒だから。
でも、幸せを掴んだ母のように、簡単には引き下がらない。
鼻の奥がツンとして、目が熱く潤んでくる。
(泣いたら駄目です! 今はめげたりくじけたりしている場合ではありません!)
リーニャは必死になって、この状況を打破するために考えを巡らせる。今を逃せば、次にフェリクスと話ができるのがいつのことになるか分からない。ここで何か手を打たなければ、本当に失恋確定になってもおかしくないのだ。
(えっと、えっと……あ! そういえば、母様が……)
何度も振られた母が、最終的に父を落とした手段。それを今、リーニャは思い出した。
イロジカケ。
残念ながらその詳しい方法は全く分からないけれど、とりあえずそれっぽいことをしてみなくては。
「フェリクス様!」
リーニャはフェリクスに近付き、勢いよく抱き着いた。少し勢いが良すぎたせいで、フェリクスがよろめく。
「ちょ、リーニャ?」
焦ったようなフェリクスの声。
それでもリーニャは止まらない。止まってなんていられない。押して押して、押しまくる。
「も、もっと、私をちゃんと見てください、フェリクス様!」
「え? 何言ってるの、リーニャ……って、うわあ!」
「きゃあ!」
ぐいぐい押しすぎたせいで、フェリクスがしりもちをついた。ついでにリーニャもバランスを崩して、思いきりフェリクスにしがみついてしまう。
「うわ、うわ、リーニャ、近いよ、近すぎるよこれ! ちょっと離れて!」
「嫌です! 私はフェリクス様のことが好きなので、離れたくないです! フェリクス様に『ごめん』と言われたからって、簡単には諦められないんです!」
なんとなくこれはイロジカケとは程遠いような気がしてきたけれど、もうどうしようもない。
なるようになれ、だ。
とにかく今は、フェリクスにもう一度リーニャを好きになってもらうために、できることは何でもやってみるのだ。
(はっ! そういえば、私はほっぺたにキスされて、フェリクス様を意識するようになったのです! ということは!)
フェリクスの頬にキスをしてみると良いかもしれない。
いや、でもリーニャにキスされてフェリクスは喜ぶだろうか。彼の気持ちを無視してしまうと、あの脱獄犯と同じになってしまう。それは駄目だ。
仕方ない。ここはフェリクスにきちんとお伺いを立ててからにしよう。
「フェリクス様、頬にキスしてみても良いですか?」
「えええ! ちょ、ちょっと待って! いきなり何なの、わけが分からないよ!」
「お嫌ですか?」
「嫌じゃないけど! むしろ嬉しいくらいだけど!」
よし、許可が出た。
リーニャは改めてフェリクスと向き合うと、その頬に一気に唇を寄せる。
(あ、思ったより柔らかいし、温かいです)
フェリクスの頬に触れた瞬間、ふわりと春の花のようなフェリクスの香りがした。
良かった、ちゃんとキスできた。リーニャだってやればできるのだ。
ちょっとだけ、リーニャは得意げになる。
一方、リーニャに振り回されるだけ振り回されたフェリクスは、真っ赤な顔をしてうつむいた。
「もう、本当、なにこれ……恥ずかしい……」




