26:冷たい雨(4)
リーニャは、暗く沈みこんだ顔のまま目を伏せた。
と、その瞬間、ほっぺたがむにっとつままれる。
「駄目よ、リーニャ。母様は、リーニャの大切な人のことが知りたいの。話してちょうだい」
母はぷくっと頬を膨らませ、リーニャのほっぺたをむにむにする。簡単には引いてくれなさそうな母の様子に、リーニャは困惑した。
「かあひゃま」
「聞きたい、聞きたい! 可愛い娘の恋の話、ものすごく聞きたい! ああ、もう! 世界一可愛いリーニャにこんな顔させるなんて、一体どんな男なの? イケメン? イケメンなの?」
「か、かあひゃま」
「人見知りのリーニャが心を開くくらいですものね。きっと、とても頼りがいのある男に違いないわ。こう、筋肉が美しい、がっしりとした熊のような人なのでしょう? 目つきも鋭くて、ワイルドなイケメンなのでしょう?」
残念ながら、全然違う。
「ひとりで修行、とか言いながら山奥に入って、イノシシを素手で倒したり、石を投げて山鳥を仕留めたりするのよね。滝に打たれつつ、精神統一とかしていそうだわ……」
そんなこと、絶対していないと思う。
「服もこう、ワイルドにはだけさせて、色気たっぷりに迫ってくるイケメン……やだ、リーニャったらそんな男が好みだったのね!」
「いや、全然違いますから! フェリクス様は、可愛らしい天使みたいな方ですから!」
「あら、そうなの?」
「そうです! すごく優しくて、それなのにとっても強い魔術師さんなのです!」
と、ここまで言ってしまってから、リーニャははっと口を押さえた。まずい。あまりにも違いすぎる母の妄想に耐えきれなくなって、つい口を挟んでしまった。
気まずく思いながら、ちらりと母の顔を見ると、母は満足そうに笑っていた。
「話して、リーニャ。リーニャがこれから前向きに生きていくためにも」
王都の街から屋敷へと戻る馬車の中で、リーニャはフェリクスと過ごした日々のことを話した。母は何度も頷きながら、リーニャの話を聞いてくれる。
否定することなく、全てを受け入れてくれる母。リーニャは何もかもをさらけ出す。
兄妹にさえ言えなかった、頬にキスされた時のことも。
舞踏会で、キス寸前までいったことも。
全部、全部、母に聞いてもらう。
そうして最後に話すのは、フェリクスがルアンナと一緒に笑い合っていたのを見た時のこと。
あの冷たい雨の日の話。
また胸に刺さったトゲがひどく痛んで、リーニャはとうとうこらえきれずに泣きだした。
それ以上何も言えなくなったリーニャは、母にしがみついて号泣する。
母はリーニャを抱き寄せて、ぽんぽんと優しく背中を叩いた。
「なるほどね。それでリーニャは失恋したと思ったのね」
「はい……」
「でも、リーニャ。フェリクス様は直接リーニャのことを振ったわけではないのよね? なら、まだ望みはあるんじゃない?」
「へ……?」
きょとんとするリーニャの目にたまった涙を、母がハンカチでそっとぬぐう。
「フェリクス様がルアンナ様に心奪われた、というのも、リーニャの勘違いかもしれないし。たとえ本当にそうだったとしても、それならそれで、奪い返せば良いだけでしょう。リーニャは世界一可愛いもの、できるわよ」
「で、でも」
「こんなに泣くほど好きなんでしょう、彼のことが」
リーニャは目を見開き、一瞬動きをぴたりと止め、それからゆっくりと頷いた。
母がリーニャの頭を撫でて、にこりと笑う。
「母様もね、父様のことが大好きで大好きでたまらなくて、結婚が決まるまでは何度も何度も泣いたのよ?」
「ええっ?」
いつも明るい母が涙する姿なんて想像できない。リーニャはぽかんと口を開けてしまう。
母は笑いながら、語り始めた。
今から二十年ほど前の話。
父が子爵令息、母が侯爵令嬢だった頃。母はある夜会で出会った父に一目惚れをした。
身分の差があるせいで、母の恋は周囲から反対され続けた。子爵令息が侯爵令嬢を幸せにすることなど不可能だから、と。
親や友人からも諦めるように、と何度も諭された。
「父様には、何度も振られたのよ。『君にはもっとふさわしい人がいるはずだ』って。そのたびに泣いた。でも、やっぱり父様のことが好きだったから、頑張ったの。そして、粘り勝ちしたのよ」
「……母様、すごいです……」
父と母はとても仲が良い。それに、すごく幸せそうだ。
父が母を何度も振っただなんて、信じられないくらいに。
「ねえ、リーニャ。フェリクス様はルアンナ様と結婚した方が幸せになれる、なんて、誰が言ったの? もちろん身分とかお金とか、いろいろあるとは思うけれど、本当にそういうものだけが幸せになる条件だと思う?」
リーニャはふるふると首を振った。身分やお金は大事だけれど、幸せになるために必要なのは、それだけではないはずだ。
だって、目の前で幸せそうに笑うこの母こそが、それを証明しているではないか。
リーニャも母のように、幸せを自分の手で掴める人間になりたい。
大好きな人と一緒に生きる、そんな未来が欲しい。
弱い自分自身に、負けたりなんかしたくない。
リーニャは小さく拳を握った。そして、母そっくりの瞳に、強い光を宿す。
「私、今度こそ逃げたりなんかしません! 頑張ります!」
たとえ振られたとしても、それで終わりではない。もう待っているだけの消極的な自分とはさよならだ。後悔しないように、やれるだけのことをやらなくては。
尊敬する、この母を見習って。
「母様! 母様はどうやって父様の心を手に入れたのですか?」
リーニャは、はりきって聞いてみる。すると母は安心したように目を細め、それからくすくすと笑った。
「ふふ、父様はね、色仕掛けで落ちたのよ」
「イロジカケ?」
「そうそう、単純よねえ」
「なるほどです! 私もイロジカケでフェリクス様を……って、母様。イロジカケって何をどうしたら良いんですか?」
ぷっと母が噴き出した。リーニャは真剣に聞いているというのに、なんて失礼な。
ぷくっと頬を膨らませると、母はにこにこしながら膨れた頬を撫でてくる。
「もう、本当にリーニャは素直な子ね。小さな頃からそうだったけど……あ、そもそもリーニャが人見知りの恥ずかしがりやさんになったのも、その素直さが原因だったわ」
「え?」
「うふふ、リーニャは小さい頃ね、知らないお客様を見るたびに顔を赤くして、物陰に隠れていたのよ。それが可愛くて可愛くてたまらなくて、母様は『どうかこのまま大きくなってね』と言ってしまったの。そうしたら、本当に人見知りのまま、リーニャは大きくなっちゃった!」
「えええ!」
いや、さすがにそこまで素直、というか単純ではないと思いたい。でも、その話が本当なら、ちょっと悔しい。
膨れっ面を更に膨れさせ、リーニャはぷんぷん怒った。
けれど、ぷんぷん怒るリーニャも可愛い、と母は絶賛して、きゃっきゃっとはしゃぐ。
あまりにも楽しそうに母が笑うものだから、だんだんリーニャもおかしくなってきてしまった。
そうしてリーニャは久しぶりに、笑うことを思い出したのだった。




