25:冷たい雨(3)
頭の中が、ずっともやがかかっているかのように不明瞭だった。何かを考えようとしてもうまくまとまらず、ぼんやりとしているうちに消えてしまう。
あの日。
ずぶ濡れで帰ってきたリーニャを見て兄妹は仰天し、慌ててタオルで拭いたり、風邪予防のハーブティーを飲ませてくれたりした。そのおかげで風邪は引かずに済んだのだけど、心の傷までは治らなかった。
「リーニャはしばらく店に出なくても良いぞ」
ベッドの上でぼんやりしていたリーニャの頭を撫でながら、兄が優しい声で言った。
妹サーシャもその隣でうんうん頷き、どんと胸を叩いてみせる。
「私とイザーク兄様で店の方はなんとかしますから、心配はいりませんわ! 早く元気になってくださいませ、リーニャ姉様!」
リーニャは兄妹の顔を見て、こてりと首を傾げる。
「私、元気ですよ……? 店にだって、出られます……」
「もちろんリーニャが店に出てくれると助かるが、今は無理してほしくないんだ。どうしてもというなら……そうだ、雑貨屋に置くポプリのふたに使う布の刺しゅうを頼む。そろそろストックがなくなってきたし、あれはリーニャが一番上手だから」
「そう、ですか……?」
「そうだ。だから今日は、屋敷で良い子にしていてくれな」
「……はい」
リーニャがこくりと頷くのを見て、兄妹は揃ってほっと息を吐いた。
(変なイザーク兄様。変なサーシャ。私は大丈夫ですのに……)
そんな風に考えるリーニャの頭の中は、やっぱりもやがかかったままなのだけど。
リーニャはそのことにさえ、気付けてはいなかった。
店を休み、屋敷で刺しゅうをする日が何日か続いたある日のこと。
何の予告もなく、田舎の領地にいたはずの両親が屋敷にやって来た。
「久しぶりね、リーニャ! 会いたかったわ……あら、リーニャったらとても綺麗になったわね。母様の若い頃にそっくりよ! ああ、可愛い、可愛すぎるわ! もう、ぎゅっとしちゃう! ぎゅっ! ぎゅっ!」
「……母様?」
黙々と刺しゅうに没頭していたリーニャは、急に現れた母に目を瞬かせた。
母はリーニャを見るなり抱き着いてきて、大興奮しながら愛でてくる。
「このふんわりとした空色の髪も、大きなぱっちりとした紫の瞳も、とっても綺麗で美しいわね……。リーニャは本当に美人さんに育ってくれたわ。母様は嬉しくて嬉しくて……ああ、もう一度ぎゅっとさせて!」
「ちょっと母様……ふきゅっ」
力いっぱい抱き締められて、リーニャは目を白黒させた。でも、だんだん苦しくなってきて、思わず手をバタバタさせてしまう。
すると、苦笑いした父が母を引き剥がしてくれた。
「あ、ありがとうございます、父様……」
「リーニャ、本当に久しぶりだな。会えて嬉しいよ」
「私も、父様と母様に会えて、とっても嬉しいです……」
父と母にこうして会うのは、約半年ぶり。年末年始も忙しくて会えなかったので、顔が見られてすごく嬉しい。
なんだか照れ臭くなって、リーニャは少し視線を逸らした。
「父様、母様、なんで急にこちらに来てくれたんですか? 冬の間は領地の方にいると思ってました。雪も積もって大変だって聞いてましたし……」
「あら、可愛い娘に会いたくなったからに決まってるじゃない。雪なんて何てことないわ。この可愛い可愛いリーニャに会うためならば、どんな困難もぶち破ってさしあげてよ?」
「ぶち破るのですか……」
「ああ、その困った顔もとってもキュートで愛らしいわね! リーニャはどんな顔をしていても最高に可愛いわ……どうしましょう、母様は世界中の全ての人に、リーニャを自慢したくなってきたわ!」
いや、それはさすがに。と、言う間もなく、リーニャは母にぐいぐいと引っぱられた。そして、拒否権もないまま、外に連れ出され、馬車に乗せられる。
「え、母様、この馬車は一体……」
「借りたのよ! だって街へ行くのに必要でしょう? うふふ、リーニャと二人でお出掛けなんていつぶりかしら……ワクワクするわね! 母様ね、リーニャと一緒にお出掛けするの、楽しみにしてたのよ。うふふ、うふふ!」
ああ、母の浪費癖はやっぱり直ってないらしい。馬車を借りるなんて、かなりお金がかかるはずだ。
これはお出掛けどころではないと思って、父に助けを求めようとすると。
「行ってらっしゃい、リーニャ」
父が爽やかな顔をして、ひらひらと手を振った。どうやらこの出費は、父も許可しているということらしい。
「さあ、リーニャ。母様と一緒に思いきり弾けましょう! 甘いお菓子を食べて、可愛いドレスも見て……そうだわ、リーニャはハーブが好きだったわね。植物園にも行ってみましょうね! きっと楽しいわ!」
「え、植物園は……ふきゅっ」
植物園にはなんとなく行きたくなくて、拒否しようと思ったのだけど。
大興奮している母に、また力いっぱい抱き締められてしまい、最後まで言えなかった。
まったく、とんでもない母だ。でも、これがリーニャの母の通常モード。
とっても明るくて前向きで、家族のことをこれでもかと愛してくれる。
そういう母が、リーニャは大好きだった。
「もう、母様ったら」
リーニャは母の腕の中で、そっと目を閉じた。こうなったら仕方ない。
父が反対する様子もないし、今日は母の好きなようにさせてあげることにしよう。
母はまるで少女のようにはしゃいで、王都の街を練り歩いた。
おしゃれなカフェで甘いお菓子を食べ、貴族に人気の店でアクセサリーを眺め、洋服店で値段とにらめっこしながらリーニャのワンピースを選んだ。
どこに行っても目をキラキラさせて楽しむ母と一緒にいると、全く退屈しない。
リーニャはあわあわしながら、母についていった。けれど、植物園の前に来た時、ふっと表情を消して立ち止まる。
「あら、どうしたのリーニャ? 行くわよ、ハーブを見るんでしょう?」
「……ごめんなさい、母様。私、ここには行きたくありません」
母は何かを探るように、リーニャの顔をじっと見つめてくる。リーニャはその視線に戸惑い、おろおろしながらうつむいた。
「……分かったわ。リーニャがそう言うなら、行くのは止めておきましょうね。でも、どうして行きたくないのか、教えてくれるかしら?」
「ここは、忘れてしまいたい場所だから……」
そう、ここはリーニャの大好きなハーブ園がある場所。
良い香りのするバラが咲いていて、アーチがあって、とても落ち着く――特別な場所。
けれど、ここでの出来事を思い出すと、胸に刺さったままの冷たいトゲがうずいてしまう。
母はリーニャをそっと抱き締め、優しい声で聞いてくる。
「リーニャはここに、大切な人と来たことがあるのね?」
「……はい」
「その大切な人のこと、母様に聞かせて?」
母の声は穏やかで、温かかった。でも、胸のトゲがやっぱり痛くて、リーニャはふるふると首を振った。
柔らかそうな金色の髪。輝く翠の瞳。
とても綺麗で可愛らしい、天使のような微笑み。
澄んだ声。温かい手のひら。春の花のような、優しい香り。
思い出したくない。全部、忘れたい。
また頭の中に、もやがかかりそうになる。リーニャは唇を噛み、拳を握り締めた。
いくら大好きな母でも、これ以上は踏み込んでほしくない。
冬の冷たい風が、母娘の傍を吹き抜けていった。




