表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/38

25:冷たい雨(3)

 頭の中が、ずっともやがかかっているかのように不明瞭だった。何かを考えようとしてもうまくまとまらず、ぼんやりとしているうちに消えてしまう。


 あの日。

 ずぶ濡れで帰ってきたリーニャを見て兄妹は仰天し、慌ててタオルで拭いたり、風邪予防のハーブティーを飲ませてくれたりした。そのおかげで風邪は引かずに済んだのだけど、心の傷までは治らなかった。


「リーニャはしばらく店に出なくても良いぞ」


 ベッドの上でぼんやりしていたリーニャの頭を撫でながら、兄が優しい声で言った。

 妹サーシャもその隣でうんうん頷き、どんと胸を叩いてみせる。


「私とイザーク兄様で店の方はなんとかしますから、心配はいりませんわ! 早く元気になってくださいませ、リーニャ姉様!」


 リーニャは兄妹の顔を見て、こてりと首を傾げる。


「私、元気ですよ……? 店にだって、出られます……」

「もちろんリーニャが店に出てくれると助かるが、今は無理してほしくないんだ。どうしてもというなら……そうだ、雑貨屋に置くポプリのふたに使う布の刺しゅうを頼む。そろそろストックがなくなってきたし、あれはリーニャが一番上手だから」

「そう、ですか……?」

「そうだ。だから今日は、屋敷で良い子にしていてくれな」

「……はい」


 リーニャがこくりと頷くのを見て、兄妹は揃ってほっと息を吐いた。


(変なイザーク兄様。変なサーシャ。私は大丈夫ですのに……)


 そんな風に考えるリーニャの頭の中は、やっぱりもやがかかったままなのだけど。

 リーニャはそのことにさえ、気付けてはいなかった。




 店を休み、屋敷で刺しゅうをする日が何日か続いたある日のこと。

 何の予告もなく、田舎の領地にいたはずの両親が屋敷にやって来た。


「久しぶりね、リーニャ! 会いたかったわ……あら、リーニャったらとても綺麗になったわね。母様の若い頃にそっくりよ! ああ、可愛い、可愛すぎるわ! もう、ぎゅっとしちゃう! ぎゅっ! ぎゅっ!」

「……母様?」


 黙々と刺しゅうに没頭していたリーニャは、急に現れた母に目を瞬かせた。

 母はリーニャを見るなり抱き着いてきて、大興奮しながら愛でてくる。


「このふんわりとした空色の髪も、大きなぱっちりとした紫の瞳も、とっても綺麗で美しいわね……。リーニャは本当に美人さんに育ってくれたわ。母様は嬉しくて嬉しくて……ああ、もう一度ぎゅっとさせて!」

「ちょっと母様……ふきゅっ」


 力いっぱい抱き締められて、リーニャは目を白黒させた。でも、だんだん苦しくなってきて、思わず手をバタバタさせてしまう。

 すると、苦笑いした父が母を引き剥がしてくれた。


「あ、ありがとうございます、父様……」

「リーニャ、本当に久しぶりだな。会えて嬉しいよ」

「私も、父様と母様に会えて、とっても嬉しいです……」


 父と母にこうして会うのは、約半年ぶり。年末年始も忙しくて会えなかったので、顔が見られてすごく嬉しい。

 なんだか照れ臭くなって、リーニャは少し視線を逸らした。


「父様、母様、なんで急にこちらに来てくれたんですか? 冬の間は領地の方にいると思ってました。雪も積もって大変だって聞いてましたし……」

「あら、可愛い娘に会いたくなったからに決まってるじゃない。雪なんて何てことないわ。この可愛い可愛いリーニャに会うためならば、どんな困難もぶち破ってさしあげてよ?」

「ぶち破るのですか……」

「ああ、その困った顔もとってもキュートで愛らしいわね! リーニャはどんな顔をしていても最高に可愛いわ……どうしましょう、母様は世界中の全ての人に、リーニャを自慢したくなってきたわ!」


 いや、それはさすがに。と、言う間もなく、リーニャは母にぐいぐいと引っぱられた。そして、拒否権もないまま、外に連れ出され、馬車に乗せられる。


「え、母様、この馬車は一体……」

「借りたのよ! だって街へ行くのに必要でしょう? うふふ、リーニャと二人でお出掛けなんていつぶりかしら……ワクワクするわね! 母様ね、リーニャと一緒にお出掛けするの、楽しみにしてたのよ。うふふ、うふふ!」


 ああ、母の浪費癖はやっぱり直ってないらしい。馬車を借りるなんて、かなりお金がかかるはずだ。

 これはお出掛けどころではないと思って、父に助けを求めようとすると。


「行ってらっしゃい、リーニャ」


 父が爽やかな顔をして、ひらひらと手を振った。どうやらこの出費は、父も許可しているということらしい。


「さあ、リーニャ。母様と一緒に思いきり弾けましょう! 甘いお菓子を食べて、可愛いドレスも見て……そうだわ、リーニャはハーブが好きだったわね。植物園にも行ってみましょうね! きっと楽しいわ!」

「え、植物園は……ふきゅっ」


 植物園にはなんとなく行きたくなくて、拒否しようと思ったのだけど。

 大興奮している母に、また力いっぱい抱き締められてしまい、最後まで言えなかった。


 まったく、とんでもない母だ。でも、これがリーニャの母の通常モード。

 とっても明るくて前向きで、家族のことをこれでもかと愛してくれる。


 そういう母が、リーニャは大好きだった。


「もう、母様ったら」


 リーニャは母の腕の中で、そっと目を閉じた。こうなったら仕方ない。

 父が反対する様子もないし、今日は母の好きなようにさせてあげることにしよう。




 母はまるで少女のようにはしゃいで、王都の街を練り歩いた。

 おしゃれなカフェで甘いお菓子を食べ、貴族に人気の店でアクセサリーを眺め、洋服店で値段とにらめっこしながらリーニャのワンピースを選んだ。


 どこに行っても目をキラキラさせて楽しむ母と一緒にいると、全く退屈しない。

 リーニャはあわあわしながら、母についていった。けれど、植物園の前に来た時、ふっと表情を消して立ち止まる。


「あら、どうしたのリーニャ? 行くわよ、ハーブを見るんでしょう?」

「……ごめんなさい、母様。私、ここには行きたくありません」


 母は何かを探るように、リーニャの顔をじっと見つめてくる。リーニャはその視線に戸惑い、おろおろしながらうつむいた。


「……分かったわ。リーニャがそう言うなら、行くのは止めておきましょうね。でも、どうして行きたくないのか、教えてくれるかしら?」

「ここは、忘れてしまいたい場所だから……」


 そう、ここはリーニャの大好きなハーブ園がある場所。

 良い香りのするバラが咲いていて、アーチがあって、とても落ち着く――特別な場所。

 けれど、ここでの出来事を思い出すと、胸に刺さったままの冷たいトゲがうずいてしまう。


 母はリーニャをそっと抱き締め、優しい声で聞いてくる。


「リーニャはここに、大切な人と来たことがあるのね?」

「……はい」

「その大切な人のこと、母様に聞かせて?」


 母の声は穏やかで、温かかった。でも、胸のトゲがやっぱり痛くて、リーニャはふるふると首を振った。


 柔らかそうな金色の髪。輝く翠の瞳。

 とても綺麗で可愛らしい、天使のような微笑み。

 澄んだ声。温かい手のひら。春の花のような、優しい香り。


 思い出したくない。全部、忘れたい。


 また頭の中に、もやがかかりそうになる。リーニャは唇を噛み、拳を握り締めた。

 いくら大好きな母でも、これ以上は踏み込んでほしくない。


 冬の冷たい風が、母娘の傍を吹き抜けていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ