24:冷たい雨(2)
恋敵は、弱い自分自身。
それが分かったからといって、状況は何も変わらない。そんなに急に人は変われないし、強くもなれない――。
その後もフェリクスが顔を出さない日が続き、気付けば一ヶ月ほどの時が過ぎていた。
ここまで来ると、舞踏会の日に言われた「諦めない」というフェリクスの言葉も、リーニャの記憶違いだったのかもしれないと思えてきた。
(このまま、全部なかったことになるのでしょうか……)
店が休みの日の朝、リーニャはぼんやりと屋敷の窓から空を見ていた。
せっかくの休日だというのに、天気はあまり良くない。雨は降っていないけれど、濃い灰色の雲が空いっぱいに広がっている。
外は強い風が吹いているようで、窓ガラスがガタガタと鳴る。リーニャの自室の窓は、こういう時はいつも騒がしくて、ちょっと困ってしまう。
(今日は少しだけ、外に出てみましょうか。王都警邏隊の詰め所を遠くからこっそり見るくらいなら、誰にも迷惑をかけませんよね……)
運が良かったら、フェリクスの姿が見られるはずだ。遠くから一目だけでも見ることができたら、それで良い。元気でいる姿を確認できたら、それだけで充分。
「……よし、ちょっとだけ、勇気を出してみるのです!」
リーニャはクローゼットの中からもふもふのコートを出して、それを着込んだ。そして、兄妹にも気付かれないようにしながら、外に出る。
王都警邏隊の詰め所までは、かなり距離がある。馬車があれば良かったのだけど、まあ歩いていけないこともない。時間はあるし、今日は歩いていくことにしよう。
リーニャは冷たい風にぷるぷると小さく震えながら、最初の一歩を踏み出した。
ようやく詰め所に辿り着いた時には、もうお昼過ぎになっていた。
たくさん歩いたので、お腹もすいた。ぐう、と間抜けな音がお腹から聞こえてくる。
(詰め所をのぞく前に、やっぱり腹ごしらえをした方が良いですよね!)
なんとなくフェリクスとの初デートを思い出す。あの時もリーニャのお腹がぐうと鳴っていた。それで、フェリクスに思いきり笑われてしまったのだった。
あれは恥ずかしかった、とリーニャは熱くなった頬を手で覆う。
とはいえ、リーニャがこうしてひとりで王都の街をふらふらするのは初めてのこと。一体どこで腹ごしらえをしたら良いのか、さっぱり分からない。
相変わらずこの辺りは人が多くて、なんだか疲れてきてしまった。
(とりあえず、軽い食べ物を売っているお店を探して……)
どこかのお店にひとりで入って食事をするのは、緊張するので無理だ。何か持ち帰り可能な食べ物を買って、外で食べよう。温かな飲み物があれば、きっと寒くてもなんとかなる。
リーニャはひとまず詰め所をあとにして、大通りを歩き始めた。
それにしても、人が恐いとずっと怯えてきたリーニャが、ひとりでお出掛けできる日が来るなんて。自分でもちょっと驚いた。
これもきっと、フェリクスのおかげ。フェリクスが何度もリーニャの手を引いて、一緒に歩いてくれたから。
少し嬉しくなって、へにゃりと頬を緩める。
こんな風にひとつひとつできることを増やしていったら、自分にもっと自信が持てるようになる気がする。
まずは一歩。震えながらでも踏み出してみて良かった。
どんよりとした寒空の下でも、王都の街は賑やかだ。香ばしい匂いに誘われて、リーニャは大通りを軽い足取りで進んでいく。
この調子なら、フェリクスにだって会いに行けるかも。会って、ほんの少しでも言葉が交わせたら嬉しい。
リーニャはくすくすと笑うと、また前を向き、一歩を踏み出した。
と、その時、視界の端に映ったのは。
柔らかそうな金色の髪。
後ろ姿でもすぐに分かる、リーニャの想い人。
(フェリクス様です!)
こんな大通りで会えるとは思ってなかった。リーニャはぱあっと顔を輝かせ、フェリクスの名を呼ぼうとした。
けれど。
そのフェリクスの隣に立つ少女に気付いて、はたと立ち止まる。その少女は、薄紅色の髪を可愛らしく編み込み、キラキラした髪飾りをつけている。彼女が身にまとっているのは、とても上品な、それでいて可愛らしい華やかさのあるドレス。
フェリクスの隣に寄り添うようにして、楽しそうに笑っているその少女は――侯爵家のご令嬢、ルアンナだった。
(嘘……)
冷たいトゲが刺さったみたいに、胸がズキリとひどく痛む。さあっと全身の血の気が引いていく。
(嘘、ですよね……)
ルアンナがフェリクスの腕に触れる。すると、フェリクスがほんの少し頬を赤らめ、嬉しそうに笑った。
それは、天使みたいな柔らかな笑顔だった。
二人の姿はどう見ても仲の良い恋人同士にしか見えなくて、リーニャはがたがたと震え始める。
フェリクスが、この一ヶ月会いに来てくれなかったのは。
もしかして、ルアンナと一緒にいたからなのか。
フェリクスの気持ちは、とっくの前にリーニャから離れていたのか。
ルアンナが何かをフェリクスに囁く。すると、フェリクスが照れ臭そうに微笑んだ。
これ以上、その二人の姿を見ていることなんてできなかった。
リーニャは震えながら走りだす。何度も人にぶつかって、そのたびに小さく謝った。
ごめんなさい、ごめんなさい。
大通りを抜け、細い小道に出た時に、リーニャはようやく足を止めた。
すると、それを見計らったかのように、ぽつぽつと雨が降り始めた。頬に冷たい雫が当たっては滑り落ちていく。
「……フェリクス、さま」
この世界は、よくある恋愛劇のような世界ではない。
待っているだけで幸せになれるわけがないし、一度手放したものは簡単には返ってこない。
こんな風に惨めに失恋したところで慰めてくれる人なんて現れないし、ましてやそれ以上の出逢いが待っているなんてこともない。
ルアンナはきっと、フェリクスの花嫁になるために頑張ってアピールしたのだろう。
そして、フェリクスはそれに応えた。
それは、当然のなりゆきだ。
自分から何も動こうとせず、ただ口説かれるのを待っていただけのリーニャとは違う。
世界は、ちゃんと前向きに頑張る人の味方なのだ。
雨はどんどん強くなる。リーニャの空色の髪はすぐにぐっしょりと濡れ、毛先からはぽたぽたと雫が落ち続けた。コートも徐々に湿り、中の方までじっとりと濡れていく。
「ごめんなさい」
リーニャは小さく呟いた。
それはフェリクスにだったかもしれないし、応援し続けてくれた兄妹にだったかもしれなかった。
小さな謝罪の言葉は雨音にかき消され、あとには何も残らない。
そうして、ずぶ濡れになって屋敷に戻ったその日から。
リーニャの世界は、前よりももっと、閉ざされた。




