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18:魔法のキス(6)

「ごめんなさい」


 リーニャの口からこぼれたのは、そんな一言だけだった。


「……どうして?」


 フェリクスが差し出していた手を下ろしながら問う。その翠の瞳は悲しそうに揺れていた。

 リーニャの胸がちくりと痛み、少し視界が歪む。


 本当は、フェリクスと一緒に舞踏会に行きたい。

 きっと盛装したフェリクスは目の保養になると思うし、その隣にいるだけでとても楽しい時間を過ごせるだろう。その上、フェリクスと一緒にダンスができたら、ものすごく幸せな気持ちになるに違いない。


 だから、誘ってもらえたことはすごく嬉しかった。


 だけど。


「私……舞踏会に着ていけるようなドレス、持ってないんです……」


 涙声になりながらも、リーニャは声を絞り出した。

 そう、リーニャは貧乏令嬢。ドレスなんて高価なもの、持っているわけがなかった。

 そんなリーニャがフェリクスのパートナーになるなんて、絶対に無理だ。


 重い沈黙。

 店の中に他のお客様の姿はなく、兄イザークと妹サーシャが心配そうな顔でこちらを窺っているだけだ。しんとした静寂が辛くて、リーニャはしょんぼりとうつむいた。


「理由は、それだけ?」


 フェリクスの声が、静かな店内に響く。少しだけ目線を上げてみると、彼は真剣な顔でリーニャを見つめていた。


「ドレスがあれば、僕と一緒に舞踏会へ行ってくれるの?」

「……はい」

「人がたくさんいそうで恐いとか、ダンスなんて踊れないとか、そういうことは?」

「それは大丈夫です! フェリクス様が傍にいてくださるのなら……」


 フェリクスと一緒にいれば人込みだって恐くない、というのはデートをした時に判明している。

 ダンスだって、これでも一応子爵令嬢だから、幼い頃に習っている。すごく上手というわけではないけれど、最低限は踊れると思う。


 でも、ドレスやアクセサリーといったもので外見を着飾ることは、どうしてもできない。

 だって、本当にお金がないから。それに、ドレスを買うお金があるなら、リーニャでなくサーシャに買ってあげたい。あの子には、そういうのが似合うから。


「……はあ……」


 金色の柔らかそうな髪をかき上げ、フェリクスが大きく息を吐いた。呆れられてしまったのか、とリーニャはびくりと体を震わせる。

 どうしよう、嫌われてしまったかもしれない。さあっと血の気が引いていく。


 けれど、リーニャの心配とは裏腹に、フェリクスはくすくすと笑い始めた。


「なんだ、良かった。大丈夫、リーニャのドレスは、僕が贈るよ」

「……へ?」


 思わずぽかんと口を開けてフェリクスを凝視すると、フェリクスはにこりと笑みを浮かべた。


「もともとリーニャの衣装に関しては、うちの馴染みの仕立て屋に頼むつもりだったんだ。だから、心配しなくても良いよ。リーニャは僕の隣で舞踏会を楽しんでくれれば、それで良いんだ」

「え、でも」

「僕はリーニャと一緒に行きたいんだ。他の誰でもなく」


 胸の奥がぽっと温かくなる。とても嬉しくて、幸せで、頬が緩みそうになる。

 でも、本当にここでフェリクスに甘えても良いのだろうか。今までもずっと、年下の彼に甘えてばかりだというのに。


 リーニャは戸惑い、口をつぐんだ。


「リーニャ?」


 迷いを見せるリーニャに、フェリクスが諦めることなく、更に畳みかけてくる。


「ね、お願い」


 へにょりと眉を下げ、翠の瞳を潤ませるフェリクス。その美少年のおねだり姿を目の当たりにした瞬間、リーニャの迷いはあっさりと吹き飛んだ。


 こんな可愛らしい天使のような美少年を悲しませるなんて、絶対にできない。


「分かりました、行きます! 私、頑張ります!」

「やったあ!」


 ぱあっと顔を輝かせたフェリクスは、やっぱりとんでもなく天使だった。リーニャも釣られて、ふにゃりと笑ってしまう。

 二人の様子を見守っていた兄妹が、揃って安堵の息を漏らした。


 閉店間際の店内は、こうして落ち着きを取り戻したのだった。




 数日後、店が休みの日の朝。

 リーニャの住む屋敷にドレスの仕立て屋さんがやって来た。舞踏会で身に着けるドレスを作るため、フェリクスが寄越してくれた人だ。


 その仕立て屋さんにキラキラふわふわした高級な布地をたくさん見せてもらって、リーニャは震えあがる。


(こ、こんな素敵な布でドレスを作ってもらえるのですか! ひゃああ、緊張しちゃいます!)


 どんなドレスになるのか、布地を見て想像するだけでも楽しい。とはいえ、あまり高いものを選ぶのは気が引けた。

 リーニャは自然と控えめなお値段の布地へと手を伸ばす。


「駄目ですわよ、リーニャ姉様」


 ぬっとリーニャの後ろから現れたのは、妹サーシャだった。


「ツンツン魔術師は、あれでも伯爵家の嫡男ですわ。その隣にふさわしいドレスにしなくては」

「で、でも、あんまり高価なものを着ると緊張しますし」

「中途半端なものを着る方が、居心地が悪いと思いますわよ?」


 サーシャの目は本気だった。紫水晶のような美しい瞳が、ギラギラと輝いている。

 愛らしい妹は、まるで狩人のように高級な布地と向き合った。


「リーニャ姉様のお可愛らしさを考慮すると、やっぱりこう、ふわっとした感じが良いですわね。色は明るいライムグリーンとかどうかしら? 空色の髪に合う、とっても素敵なドレスになりそうですわ!」

「あわわ、サーシャ?」

「舞踏会ですものね。くるりと回ると、こう、スカートの裾がふわっと広がる……そんなドレスを着れば、華やかになりますわ! きっと、あのツンツン魔術師もデレデレになりますわよ!」

「デ、デレデレ……?」


 つまり、それはフェリクスがリーニャともっと仲良くしてくれるようになるということか。

 花嫁候補になるのも夢ではないということか。

 上手くいけば、また、魔法のキスをしてもらえるかもしれないということか。


 リーニャはそっと頬に手を添えた。フェリクスのあの柔らかな唇の感触を、また思い出してしまう。

 どうしよう、思い出すたびに恥ずかしくて仕方ないのだけど。


 耐えきれず、ぶわっと顔が熱くなっていく。


「あの、本当にフェリクス様が、そんな感じになりますか……?」

「なりますわ。というか、あのツンツン魔術師は既にリーニャ姉様にデレデレな気もしますけれど。ええ、それ以上にデレデレになるはずですわ。もう、リーニャ姉様だけに夢中になるでしょうね!」


 妹はとても賢い。だから、妹の言う通りにすれば、きっとフェリクスはリーニャに夢中になってくれるのだろう。


(着飾るの、苦手ですけど……フェリクス様が見てくださるのなら!)


「わ、私、フェリクス様に似合う女性になりたいです! サーシャ、力を貸してください!」

「その意気ですわ! 素敵なドレスを着て、ツンツン魔術師を落としますわよ!」

「はい! 頑張ります!」


 姉妹は手と手を取り合い、こくりと頷き合った。


 舞踏会の日は、十二月の終わり頃。

 その日までにいろいろ準備して、全力で挑もうとリーニャは拳を握る。


 すべては、フェリクスの花嫁候補として、ふさわしい人間になるために――。

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