17:魔法のキス(5)
リーニャは、フェリクスの花嫁として立候補することに決めた。
自信なんてやっぱりないけれど、フェリクスを他の女性に取られるのは絶対に寂しいと思うから。
今まで散々「花嫁候補になるつもりはない」と言ってきたというのに。
自分でも自分の心の変化に戸惑ってしまう。
(あのキスに、魔法でもかけてあったのかも……)
フェリクスは優秀な魔術師だというし、それくらいできてもおかしくない。花嫁が欲しいばかりに、彼はリーニャに恋の魔法をかけたのではないだろうか。
いや、でもそんなことをして、フェリクスに何のメリットがあるのだろう。どうせならリーニャではなく、もっと素敵な女性にその魔法をかけた方が良いのでは。というか、そんな魔法が使えるのなら、そもそも「僕の花嫁になってくれる女の子と出逢わせて!」なんて願いを持つわけがない。
ということは、あのキスに魔法は関係ないのか。
それはつまり、ただ単に、リーニャが頬にキスされたことでフェリクスを意識するようになっただけ、ということに他ならない。
「ひゃああ……恥ずかしいです……!」
両手でばっと顔を覆ってジタバタするリーニャに、兄が冷静に声をかけてくる。
「ああ、もう九時だ。店を開けるぞ、リーニャ」
「わわ、ちょっと待ってください! イザーク兄様のハーブティー、まだ飲み終わってないんです!」
「なら、早く飲め。俺はサーシャを呼んでくる」
「はい! お願いします!」
こくこくと兄の入れてくれたハーブティーを飲み、開店準備を始める。
今日もきっと、フェリクスは店に来てくれるはず。だから、少しでも綺麗にしておかないと。
リーニャはいつもより念入りにテーブルを拭き、ティーポットやティーカップの位置を整えた。
ほどなくして、兄が妹を連れて店内に戻ってきた。さあ、準備完了だ。
リーニャは店の看板をくるりと回して、店を開けた。
その日、フェリクスが店を訪れたのは、午後四時半頃のことだった。
もうすぐ閉店しようかという時間。窓からは夕日が差し込んでいた。
ちりりん、と明るいドアベルの音とともに、金髪の天使フェリクスが顔を覗かせる。彼は、王都警邏隊の制服を身にまとっていた。今日は仕事帰りにここへ寄ってくれたらしい。
「い、いらっしゃいませ、フェリクス様! 今日もお仕事、お疲れさまです!」
このところずっと恥ずかしくて、フェリクスの目を見て話をできていなかったリーニャだけど。
今日はちょっと頑張って、自分から声をかけてみた。
人見知りだからって言い訳をして、逃げたりなんかしたくない。
リーニャだって、やればできるということを証明したいのだ。
もちろん少しくらい頑張ったところで、フェリクスの花嫁候補になれるかどうかは分からないけれど。
でも、少しずつ頑張って、花嫁にふさわしい人間に成長しなくては。
リーニャはドキドキしながらも、フェリクスをカウンター席へと導く。
フェリクスはリーニャの様子が昨日までと違うことに気付いたのか、翠の瞳をぱちぱちと瞬かせた。
そしてすぐに、ふにゃりと破顔する。
「リーニャと目が合うの、久しぶり」
どきりと心臓が跳ね、顔に熱が集まってきた。美少年の笑顔は、やっぱり反則的に可愛い。しかも、それが自分だけに向けられているのだから、心の中がお祭り騒ぎになってしまうのも仕方のないことだった。
でも、今は仕事中。あまり浮かれた姿を見せるわけにもいかない。
リーニャは胸を押さえて深呼吸をした後、できるだけ冷静に口を開く。
「えっと、今日は何のハーブティーになさいましゅか」
噛んだ。全然冷静になんてなれていなかったらしい。
あまりの恥ずかしさに、リーニャは涙目で逃げる体勢をとった。
「ちょっとリーニャ、なんでそこで逃げようとするの?」
「だって私、噛んじゃいました! 恥ずかしいです!」
「ああ……さっきの『なさいましゅか』ってやつ? ふ……くくっ」
笑われた。もうこれは本気で逃げるしかない。
リーニャはくるりと踵を返し、全力で駆けだそうとした。けれど、そんなリーニャの足に、金色の光がまとわりつく。
「逃げないで、リーニャ」
リーニャの足は、フェリクスの魔法で動きを止められてしまった。思うように動けなくなったリーニャは、本気で泣きそうになる。
ああ、リーニャにも魔法が使えたら良かったのに。
悔しさに唇を噛むと、フェリクスが慌てて駆け寄ってきた。
「ごめん、今魔法を解くから、そんな顔しないで! ……今日は大事な話があったから、その、逃げられたら困ると思って、つい捕まえちゃったんだ。許して?」
ふっと足が自由になり少しよろめいたリーニャの体を、フェリクスが支えてくれる。
「笑っちゃったのも、ごめん。リーニャが、その、可愛かったから」
フェリクスは眉を下げ、謝罪してくる。
なんだ、この天使。可愛いのはそっちの方ではないか。なんだかずるい。
リーニャは頬を膨らませて、ふいっと視線をそらしてしまう。
すると、フェリクスがぎゅっとリーニャを抱き寄せた。ふわりと春の花のような香りが鼻をくすぐってくる。それはフェリクスの優しい香りだった。
「本当に、ごめん。だから、逃げないで」
耳元で囁かれて、リーニャは顔から火が出そうになった。フェリクスの吐息を間近に感じ、心臓が馬鹿みたいに暴れ始める。
やっぱり、ずるい。本気で、ずるい。
「ううう、分かりました! 許します、許しますから! は、離してください!」
「……もう、逃げない?」
「逃げません! ちゃんとフェリクス様のお話を聞きます!」
半ば叫ぶようにして言うと、フェリクスは小さく頷き、体を離してくれた。そして、カウンター席に戻って、改めてリーニャに微笑みかけてくる。
その笑顔がとても眩しくて、リーニャは思わず両手で顔を覆いそうになった。
駄目だ、ドキドキが止まらない。
フェリクスのことを意識しているのを自覚してしまったせいなのか、もうフェリクスがそういう対象にしか見えなくなってきた。
(あああ! こんなにドキドキしていたらフェリクス様に恋してるって、本人にばれてしまいます! は、恥ずかしすぎますー!)
リーニャは全身を熱く火照らせながら、視線を下に落とした。
でも、ここでふと思い出す。花嫁候補の女性たちの情報が入った封筒を渡した時のことを。
あの中にリーニャの情報が入っていて嬉しかった、とフェリクスは手紙に書いていたのではなかったか。
(今気付きましたけど、あれって私を花嫁にしても良いってことですよね? はっ! もしかして大事な話って、求婚、とか……?)
どうしよう。なんか幸せな発想しか出てこない。
「あ、あの! だ、大事な話って……?」
リーニャはついつい頬が緩みそうになるのを必死で抑えながら、あくまで普通の声で尋ねてみた。
「ああ、実はね。今度、お城で開かれる舞踏会に行くことになったんだけど、僕にはまだパートナーがいなくて。だから、リーニャを誘いに来た」
舞踏会。パートナー。
全く予想していない展開に、リーニャはきょとんとしてしまう。
「リーニャ。僕と一緒に、舞踏会に行こう?」
フェリクスが優しく微笑みながら、手を差し伸べてくる。
華やかな世界への、突然のお誘い。
リーニャはぱちぱちと目を瞬かせ、そして――さあっと青ざめた。




