16:魔法のキス(4)
頬にキスされた。
言ってみれば、ただそれだけのことなのだけど。
リーニャにとっては、天と地がひっくり返るのではないかというくらい、衝撃的なことだった。
あれから何日か経ち、もうすっかり十二月。
王都の街に並んでいる木々もほとんど葉を落とし、辺りは冬の景色に変わっている。朝や晩も冷え込むようになり、体を温めるハーブティーが人気になる季節になっていた。
リーニャは店で冷え性に効くハーブのブレンドを準備しようと思っていたのだけど、なぜかぼんやりしてしまい、すぐに手を止めてしまう。
そして、その手をそっと頬に当てた。
(まだ、ドキドキしてしまうのです……)
キスされた時からもうかなり時間が経ったはずなのに、リーニャはその頬に触れられた感触を忘れることができず、何度も何度も思い出してしまっていた。
思い出すたびに胸の奥がむずむずして困るのに、どうにも止められない。
「リーニャ、また顔が赤くなってるぞ」
「ひゃあ!」
カウンターの向こうから、兄イザークが声をかけてきた。椅子に腰掛け、頬杖をついて、こちらを心配そうに見ている。
「もうすぐ開店時間だっていうのに、大丈夫か? ハーブのブレンド、俺が手伝ってやろうか?」
「だだだ、大丈夫です! これは私の仕事ですし、ちゃんとやれます!」
「本当に? まだ顔が真っ赤だけど?」
「こここ、これは……そう! ちょっと風邪気味なだけです!」
キスについては、兄にも妹にも報告はしていない。恥ずかしすぎて、どうしても言えなかった。
熱を持った頬に手でぱたぱたと風を送り、リーニャはなんとか冷静になろうとする。
兄は片眉を上げて、リーニャの様子を窺ってきた。
「リーニャ、とりあえずそこに座れ。風邪に効くハーブティーを俺が入れてやるから」
「え、でも」
「良いから。ほら、俺が入れたハーブティーは嫌いか?」
「いえ、イザーク兄様のハーブティーは大好きです!」
リーニャが答えると、兄はふわりと笑ってリーニャの頭を撫でてくれた。
そもそもリーニャがハーブティーを好きになるきっかけをくれたのは、この兄だった。
昔から、兄が入れてくれるハーブティーは温かくておいしかった。飲むといつも心がぽかぽかになった。リーニャはこんな素敵な飲み物があるんだと感動して、気付けば大好きになっていたのだ。
ちなみに、ハーブティーに使っているハーブは全て、母の実家である侯爵家の領地で扱われているものだったりする。他よりもかなり品質の良いものを格安で譲ってもらっているのだ。
ハーブティーのお店で利益を出せているのも、母の実家の協力があってこそ。本当にありがたい。
兄は風邪に効くハーブの小瓶を棚から出した。エキナセア、リコリス、ローズヒップをブレンドした小瓶だ。熱を下げる効果が期待できるエルダーフラワーと、体力回復の効果があるシベリアンジンセンを加えた特別バージョン。
ガラス製のティーカップに黄色く透き通ったハーブティーが注がれ、ふわりと草木や花を思わせる香りが広がった。
「ほら、リーニャ。これ飲んで、早く元気になれ」
「……ありがとうございます、イザーク兄様」
香りを楽しみつつ、そっとティーカップに口をつける。リコリスの優しい甘さを感じて、リーニャはふにゃりと笑った。
「おいしいです!」
「それは良かった。……ところで」
兄は手際良くティーポットを片付けながら、こちらに意味ありげな目線を向ける。
「フェリクス様は、今日も来るかな?」
「ぶふっ?」
危ない。もう少しで口からお茶を噴出するところだった。これでも一応、貴族令嬢と言われる立場なので、さすがにそういうのはまずい。
「な、な、なんでそんなことをイザーク兄様が気にするんですか!」
「え? だって、デートの練習とやらをした日から、フェリクス様は毎日店に顔を出してくれるようになったじゃないか。これはリーニャが上手くやったんだなって、俺もサーシャも感心しているところなんだぞ?」
「ぐっ、偶然です! 私は何も上手くなんてやってません!」
そう、あの日からフェリクスは毎日リーニャに会いに来てくれる。前のデートの時とは全く正反対の行動だ。
なんというか、彼のやることは極端すぎて困る。
「でも、やっぱりフェリクス様はリーニャのことを気に入ってるんだと思うぞ? 日を増すごとに、リーニャを見る目に熱がこもってきてるし」
「そそ、そんなことないです! 私とフェリクス様は、ただのお友だちです! 確かに、一緒にいると楽しいですし、ドキドキもしますけど……でもそれは、結婚とかそういうのとは全くの別問題で」
「リーニャ」
兄の手がリーニャの肩にぽんとのせられた。リーニャは顔を火照らせながら、兄を見上げる。
すると、兄は困ったような笑みを浮かべ、リーニャを見つめてきた。
「フェリクス様の花嫁候補になるの、やっぱり嫌か? どうしても嫌だというなら、俺も無理強いする気はない。リーニャの幸せが一番だからな。でも、考えてもみろ。フェリクス様が他の女性と仲良くデートしていたら? リーニャは悔しくないのか?」
「悔しくなんて、なるわけないです……」
でも、胸の奥がちょっとだけ痛む。悔しいというより、寂しくて。
しょんぼりとうつむいてしまったリーニャの頭を、兄が優しく撫でてくれる。
「リーニャにその気がないなら、期待させず、早く断るべきだ。その方がフェリクス様のためになる。……リーニャが断りにくいなら、俺が代わりに断ってやろうか?」
「それは駄目です!」
考えるより先に、言葉が飛び出した。
「断ったりなんか、したくないです! だって、だって、私は……」
リーニャはそっと頬に手を添えた。あの日、フェリクスにキスされた頬に。
「私は、フェリクス様のこと……」
顔に熱が集まる。胸がびっくりするくらい、ドキドキと大きな音を立てる。
この気持ちは何だろう。初めて感じるこの気持ちは、もしかして。
真っ赤になって戸惑うリーニャに、兄は優しく語りかけてきた。
「俺はリーニャの味方だ。リーニャの意思を尊重する。さあ、これからどうしたい?」
リーニャは貧乏令嬢だし、極度の人見知りだ。
見た目だって、フェリクスほど整っているわけではない。
きっと、釣り合わない。伯爵家の嫡男の花嫁になんて、ふさわしくない。
そう、思うのだけど。
フェリクスの、あの温かな手の感触を思い出す。
リーニャを外の世界に連れ出してくれる、あの優しい手を。
甘く胸が締めつけられ、リーニャは少し泣きそうになった。
(私、いつの間にか、フェリクス様のことを……)
もっと、もっと、彼と一緒にいたい。
花嫁にふさわしくないというなら、これから頑張って、ふさわしい人間になってみせるから。
そう、この気持ちはきっと、「恋」。
リーニャは顔を上げ、瞳に強い光を宿す。そして、はっきりと宣言した。
「私、フェリクス様の花嫁さんになりたいです! だから、頑張ってみたいです……!」
風邪に効くハーブのひとつ、エキナセア。和名はムラサキバレンギク。
このお花はとっても綺麗で、見るだけでも楽しめます♪
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