三十八話 スノーグローブ
「げぶっ」
うろついていた狂人を爪ではらう。さほど力を入れた一撃ではなかったが、ソイツはヒキガエルのような声をあげると、ピクリとも動かなくなった。
じき死ぬだろう。手足の関節はあらぬ方へと曲がり、弱まっていく呼吸には血が混じる。
まったく、コイツラはどこからともなく湧いてきやがる。
さらにもう二人、狂人がでてきた。
すぐさま距離をつめると、ひとりは爪で裂き、もうひとりは頭部を噛み砕いた。
これで終わりか?
音もなければ気配もない。後方で警戒につとめていたシュタイナーを呼んだ。
「さすがに強いな。どうせ動物になるんだったら、俺もネズミじゃなくてそっちがよかったよ」
フン、軽口を。露払いしてもらってご満悦か?
まあよい。コイツには使い道がある。いまはせいぜい特別待遇を満喫すればいいさ。
しかし、シュタイナーとはこんな性格だったか。観察記録の文面から受けていたイメージとは少々ことなる。
外見どおりジョシュアと会話している気分にさせられる。
まさか、ほかの誰かと入れ替わってはなかろうな?
「あの触手が追ってくる気配はなさそうだ。ひとまず安心といったところか。しかしアンタ大丈夫か? 後ろ足、ひきずってないか?」
触手に噛まれた後ろ足のことだ。
確かに痛い。あの歯でやられれば当然だろう。
だが、問題ない。いずれ捨てる体だ。いま動ければそれでよい。
それより背中だ。なんだか、やけにうずきやがる。
あまり悠長に構えている暇はなさそうだ。ベン・カフスマンの私室を目指し足を速めた。
頭が痛い。
それになんだか喉が渇く。
コイツはマズイぞ。予想以上の進行速度だ。
やがてひとつの扉が見えてきた。
ベン・カフスマンの私室の扉だ。すべてはここから始まった。
いそげ、あまり時間は残されていない。
開閉ボタンを押して中へと入る。ツンとタバコの匂いが鼻をついた。
誰かがいたワケではない。染みついた壁と天井の黄ばみが、いつまでも残り香を放っているのだ。
シュタイナーと手分けして探っていく。机、棚、考えられる場所はすべて。
だが、みつからない。
それも当たり前だ。カギが何なのかわからない。
分らぬものを見つけようなど、どだい無理な話なのだ。
しかも、見えにくい。
ゴミでも入ったか、視界に浮いたいくつかの糸くずが邪魔でしかたがない。
なにかヒントがないか。
よく考えろ。
ベンはどうやってここから脱出したのか?
そして、わたしはどうやってここに来た?
――クソッ、頭がボーっとしやがる。
考えがまとまらない。こんなことは初めてだ。
かかったモヤを振り払うように頭を振る。
「どうした? 大丈夫か? ケガが痛むのか?」
こちらの顔を覗き込むシュタイナー。
うるさい。いいからカギを探せ。間に合わなければ真っ先に死ぬのはお前なんだ。
「そんなおっかない顔するなよ。オーケイ、頑張って探すよ。……なんか不思議だな。アンタの言いたいことが何故だか分かるよ」
そりゃあよかった。以心伝心、ここにきて新たな力に目覚め始めたってか?
だがそれもカギを見つけなきゃ無駄でしかない。
飢えて死ぬよりもっと愉快な未来が待っているに違いない。
そんなのはゴメンだ。バケモノとルームシェアなんざ考えたくもない。
……いっそシュタイナーに乗り移るか?
いや、だめだ。それじゃこの体の持ち主がシュタイナーになっちまう。
脱出どころかわたしの命があぶない。
サイコダイバー同士なんだ、入れ替わりに注意しなきゃならん。
……まてよ。
入れ替わり……そうか! 入れ替わりだ。
わたしがベンになったからここに来られた。サイコダイバーになったベンも同様、わたしになって外へでたんだ。
――いや、そんなことはとうに分かっていることだ。
分かっているからこそベンの死体をわざわざ運んだんじゃないか。
クソッ、本当に頭が回ってやがらねえ。
重要なのはカギを隠す暇なんてないってことだ。
棚になんかあるはずがない。カギはベンの体の近くにあったに違いない。
思い出せ。
あのとき、ベンになったとき、わたしはどこにいた?
……
そうして、おのれが椅子に座っていたことを思い出すと、卓上にあるひとつの品物に目をつけた。蓄音機。
見た目はいたって普通の蓄音機。ゼンマイをまくと音を奏でる、ただの古びた機械だ。
手に取って確かめようとする。
が、やはりわたしには小さすぎる。針を動かすタメのゼンマイですら巻くことができない。
すぐさまシュタイナーに合図をおくる。すると彼は蓄音機を手にし、ゼンマイをまいた。
どこか懐かしいメロディーが流れる。しかし、それだけ。それ以上のことなどなにも起こらない。
違うのか?
いや、わたしの勘はこれが怪しいと告げている。
シュタイナーも引っかかりを覚えたのか、蓄音機のすみずみまで探っていく。
やがて彼は金属製の突起に目をつけた。
一見ただの留め金にしか見えない突起。しかしどうやらレバーになっていたようで、押し上げるとカチリと何かが切り替わる音がした。
ザ、ザザザ。
音を伝えるホーンから聞こえるのは単なるノイズ。
しかし、それに混じって違うなにかが聞こえた気がした。
耳をすます。
「……残念だが、……抜け殻だよ。アメリカ……そこにはいない」
今度は確実に聞こえた。断片的ではあるが人の声のようなものが。
録音か?
メロディーと同じく録音した会話を垂れ流しているだけなのか?
ふたたび声が聞こえる。
「ベリック捜査官。いかに彼を捕まえたい気持ちが強かろうが話しかけてはいけない。サイコダイバーとは会話した相手の脳へと入り込むのだ」
ベリック捜査官! この名前には聞き覚えがある。
そうだ、わたしをしつこく追ってきたFBI捜査官だ!!
間違いない。これは、今まさに外で繰り広げられている会話に違いない!!!
会話はさらに続く。
「しかし不思議ですね。記憶や思考というものは脳がつかさどっているものですよね。脳と意識は同一のものだと思うのですが」
「うん? ああ、彼の能力のことかね。そうだ、本来ありえないことなのだ。相手を意のままに操るならともかく、人格を移し変えるなど……」
光だ。わずかな隙間から外への光が差し込んでいる。
閉じてしまう前になんとか脱出しなければならない。
一刻も早くやつらと会話を成立させるんだ。
おい! シュタイナー。やつらに呼びかけ……
――いや、待て待て。
ダメだ。わたしは何を考えているんだ。
シュタイナーが呼びかけて反応があれば、彼が外にでてしまう。
その後わたしが脱出できる保証なんてどこにもない。それどころか彼が妨害をすることだって考えられる。
わたしにとってワクチンの製造方法を知っている彼は必要だが、彼にとってわたしは必ずしも必要ではない。むしろ邪魔。わたしが彼なら自分の身を脅かすものなど生かしておかない。
シュタイナーの首に爪をかける。警告だ。声を発したらオマエを殺すと。
よし、ここからが正念場。この蓄音機を使ってわたしは外に出てみせる。
だが、果たしてこちらの声は外に聞こえるのか?
聞こえたとして、話せない獣のわたしが彼らと意思疎通できるのか?
答えはイエスだ。
やり方は知っている。ネズミとシュタイナーが教えてくれた。
トン、ツー、トン。
爪で台座を叩き音を出す。
モールス信号だ。
呼びかける言葉はもちろん『こんにちは』
やがて蓄音機から声が聞こえる。
小さな声だがはっきりと。
「こんにちは」
――――――
深く閉じた瞳をゆっくり開く。
目に飛び込んできたのは青の壁と洗面台、そして、備え付けの鏡だ。
中をのぞく。
一人の男の姿がうつった。
短く刈りこんだ黒い髪、アンバー色の鋭いまなざし。
覚えている。あの捜査官だ。
ハハッ! わたしはついに帰ってきた!!
「どうかしたのかね?」
不意に声をかけられた。
見れば白衣を羽織った老年の男で、ほんの少し心配げな表情でこちらを見ている。
さて、シュタイナーにぴったりの乗り移り先がいるワケだが……
目を下に落とすと、おのれの手に握りこんだスノーグローブが見える。
――狂人化ウィルスにワクチン、ベン・カフスマンにシュタイナー。いま世界のすべてがわたしの手の中に。
果たして面白いのはどっちだ?
しばし考え、わたしは満面の笑みで答えた。
「いえ、なんでもありません。ところでこのスノーグローブなんですけど、面白い機能がついているようです」
「面白い機能?」
「ええ、どうやら明日の天気を占ってくれるらしいんです」
「ほう、天気ね」
「ちょっと呼びかけてみてください。明日の天気はどうだ? って」
そう言ってスノーグローブを老年の男に向けた。
「天気予報などニュースで十分なんだが……あー、明日は晴れかね?」
すぐに返事が返ってきた。もちろんシュタイナーから。
「ああ、快晴だよ」と。
バッジを背広の内ポケットにしまう。
記載されていた内容によると、いまから俺はベリック・エルホーン捜査官だそうだ。
ハハッ! この俺がFBIか。
だが、おあつらえ向きだ。これからベン・カフスマンを追わねばならない。
ヤツがどんなクズ野郎かは知ったこっちゃない。
しかし、ここは俺の世界、俺の遊び場だ。ウィルスなんぞバラまかれてたまるものか。
そうさなあ……ついでに全部の罪をかぶってもらおうか。
俺のやったこと、これからすること、一切合切。
ベン、今からお前がアダムだ。
これから俺は捜査官としてお前を死刑台に送り込んでやろう。
ハハハッ!
面白くなってきやがった!!
ほんの一瞬、この施設の責任者となったシュタイナーに視線を送ると、踵を返して建物を後にした。
殺人鬼アダムと狂人都市
~~Fin~~




